第七話「ゲンドウ不倫する?」

公認錬金術師、碇ゲンドウの朝は遅い。目を覚ますと、息子の居候の小娘は中学校に行ったあとだし、妻のユイは自分の部屋にしている納戸の中で薬草をこね回している。
彼は、のそのそと台所へ行き、食パンを一切れオーブントースターに放り込むと五の目盛りまでダイヤルを回し、食卓につく。そんなに焼くと黒こげのトーストになってしまうのだが、ゲンドウは焦げたトーストにたっぷりと安いマーガリンを塗って食べるのが好きなのだった。
しかし、息子が「魔法使い」であることが判明してからこっち、状況が変わってしまった。息子とあの小娘の「朝練」の声がやかましくて、目が覚めてしまうのだ。
そんなこともできないの? あんた、ばかぁ、とか、そんなこといったって、しかたないじゃないか、とか、あんたわ宇宙一ものおぼえの悪い人間だわ、とか、朝の六時半から庭でわいわいやられるのだからたまらない。
文句を言おうとしたら妻のユイにたしなめられるし、好きでやってるんじゃないわ、オジサマなどと、いけ好かない小娘に反論されるので、辛抱することにした。
おかげで、新聞の朝刊を隅から隅まで読む習慣がついてしまった。碇家は新聞を二紙取っている。『毎朝新聞(笑)』と『日本魔法新聞』であった。『日本魔法新聞(以下「日魔」と略す)』は、日本魔法協会発行の日刊紙で、ユイと結婚してからずっと購読している。しかし、ゲンドウは紙面の隅っこに追いやられている「錬金術」関連の記事に大きく載っている「本日の金相場」しか読まない。「錬金術」は完成されたものなので、もう二○○年も新しいニュースは無いのだ。
で、ゲンドウは「毎朝新聞」を主に読む。最近、気に入っているのは週刊誌の広告だった。「女性自○」とか「女性セ○ン」とかの凄(すご)そうな見出しを見ながら、きっと凄(すご)い事が書いてあるのであろうな……ふ、などと思うのだった。

「金髪巨乳娘大胆ショット」。
ヘアヌードと大相撲の八百長スクープ報道で有名な、「週刊ポテト」の見出しにそんなのを見つけた。ゲンドウは粒子の粗い小さな写真を食い入るように見つめた。なかなかの美人だった。ふむ。「大胆ショット」。
「あなた、何か載ってるの?」
不意にユイが台所に入ってくる。
「いや(ばさばさ)、なんだ(ばさばさ)、名神高速で養豚業者のトラックが横転して豚が二○○頭、高速道路を暴走したらしい」ゲンドウは言った。
「そう、すごいわね」どうせ、写真週刊誌の見出しでも見てたんだわ、ユイは思った。

二人の子供たちが中学に行ったあと、一時間もかけて朝食を済ませると、今度は座敷を改造した「実験室」にこもる。
「錬金術師」といっても、毎日「金」を作っているわけではない。たいていは「実験室」の隅に置いてある机で、怪しげな本を斜め読みして、怪しげな事を思いつき怪しげな実験をして一日を過ごす。それらが収入に結びつくことはまず無い。むしろ薬品代の支出を増やすだけである。
妻のユイがそんな生活を苦々しく思っているのは承知していた。
しかし、わしら(錬金術師)は、むしろ勤勉であってはいかんのだ。ゲンドウはそう思うことにしている。少なくなったとはいえ、日本に数千人いる錬金術師がせっせと仕事をし、毎日何グラムもの金を生産したとしよう。それでどうなる? 金の価格は一気に暴落し、錬金術業の損益分岐点を下回ることになるだけなのだ。
わしは仕事の一環として、こうやって、ぼーっと本を読んでおるのだ、ゲンドウはそう思いながら、大好きな「半七捕物帖(とりものちょう)」を読んでいた。

今日はなぜかそわそわする。台所に行き、新聞を何度も広げてみる。「大胆ポーズ」。
うむ。

「かあさん、ちょっと出かけてくるよ」ゲンドウは薬草をこねている妻の背中に声をかけた。
「どこへいらっしゃるの?」
「ひさしぶりに『文月(ふみづき)堂』に行ってくる」ゲンドウはなじみの古本屋の名を口にした。
「そう」ユイはそっけなく言う。

ゲンドウは、変速機の付いていない黒い自転車に乗って、自宅のある高台から街の商店街へ向かって坂道をくだっている。風がゲンドウのいつも来ている黒っぽいマントのようなスモックをはたはたとはためかせる。遠目にはまるで外国の裁判官の着る繻子(しゅす)の衣装のように見える。
「あ、バットマンだ」坂道を歩いている親子連れの子供の方が、彼を指さして言う。なにが、「バットマン」だ、バカモノ。子供嫌いのゲンドウは思う。

賢明なる読者諸兄には、とうにお気づきのことと思うが、碇ゲンドウ氏は極端な「出不精」である。用事がなければめったに外出をしない。用事があっても外出をしたがらない。息子のシンジの父親参観日へもあれこれと理屈を付けて行った事がない。もちろん運転免許も持っていない。
たまに外出すると言えば、こうやって本を買いに行くときぐらいだった。本人は認めたがらないと思うが、外に出なくていいのと勤勉でなくてよいという点で「錬金術師」という職業を、あんがい気に入っているのだった。

『文月堂』は、十四、五年前に出来た商店街のはずれにある小さな古本屋で、主人は冬月コウゾウという初老の男やもめ。ゲンドウはここで錬金術関係の本や科学書などを買うことにしている。
店に入ると、古本独特の干乾びた匂いがする。漫画や雑誌などはまったく置いていない。難しげな専門書が並んでいる。
ゲンドウはここで他の客に会ったことがない。いったい、これで儲(もう)けになるんだろうかと思う。今日も彼が入って行くと、薄暗い店内の奥で、店主の冬月はほおづえをついて居眠りをしていた。
ゲンドウはゆっくりと本を選び、一九五六年発行の、『魔法天文学で証明する地球空洞説』全一巻を見つけた。前からなんとなく気にとめていた本なので、手に持ち、レジの奥で寝ている冬月の方へ歩いていく。しかし、見事な白髪頭の初老の古本屋店主は目覚めない。
「おーい、起きんと万引きするぞぉ」ゲンドウは冗談めかして大声で言った。
「ふ、ふあっ。……あ。ゲンちゃんか」碇ゲンドウを『ゲンちゃん』などと呼ぶのは冬月くらいのもんである。

さて、そのころ、この町の官庁街にあたる通りの一角では、大変な事が起きていた。場所は『社団法人 日本時空研究所』という、ご大層な名前が付いた鉄筋コンクリート造り平屋建ての建物の中。
白衣を着て眼鏡をかけた青年、日向(ひゆうが)マコトは、目の前をゆっくりと泳ぎ去る、奇怪な魚を呆然(ぼうぜん)と見ていた。目をこらすと、その魚の向こう側に立っている女性の姿が透けて見える。
「触ってみてくれる? マコトくん」赤(あか)木(ぎ)リツコは言った。
「いやですよ。こんなの。いくら博士の命令でも。この歯を見ましたか?」
「見てるわよ」赤木リツコは恐ろしく似合わない鼈甲(べっこう)ぶちの眼鏡を人差し指ですっとあげながら言った。寝癖のついた黒く長い髪を、どこで探してきたのか、おばあちゃんがつけるような地味なリボンで止めている。ぺたんこのヒールの靴。灰色の長いスカート、へたくそな手編みのセーター(それもグレー)の上に、皺(しわ)だらけの白衣を無造作にひっかけている。

「それはホログラフィーにすぎないわ。非科学的なことを言わないの」
「はいはい」日向は手を伸ばした。醜悪な異世界の魚が手のひらをすうっと通り抜けていく時、彼は思わず目を閉じた。
「……なんともありません、博士」日向マコトは言った。
「でしょうね」リツコは素っ気なく言うと、白衣の胸ポケットにさしているボールペンで、手帳に何か書き込む。
結果がわかってるんなら、自分ですりゃいいのに。マコトは思った。
「じゃ、反応器の様子を見ておきましょう」リツコはすたすたと地階に降りて行く。マコトはあわてて後をついて行く。

研究所の地階には、おそろしく大きな機械があった。遠目に見ると目玉にも見えるそれは、膨大な電力で維持されている『実験用小宇宙』なのだった。
実験室の壁には、痩せた外国人の写真が掛けられていた。赤木博士はこの部屋に入る度にその写真の前でこう誓うのだった。
もうすぐですわ、フェッセンデン博士。あなたという尊い犠牲によって、「科学」はあの非科学的な、うさんくさい「魔法」とやらに完全に勝利するのです。
リツコとマコトは計器をチェックしていった。問題なし。おそらく、夕刻には臨界点に達するだろう。
実験室の隅には、蠅(はえ)と蛙(かえる)が入り交じったような醜悪なET(地球外生命体)のホログラフィーがうずくまっていた。タイムスケールの調節によって、実験用小宇宙の惑星から進化した生き物なのだ。リツコはそれの頭(?)をなでた。しかし、手はその怪物の身体をすっと貫いてしまう。
リツコは時計を見た。まだだいぶある。
「あ、日向くん、お昼はどうするの?」リツコは言った。
「……えと、ぼくは、帰ります。用事があるもんで。すみません」
「なんで謝るの? ……そうね、コンビニでお弁当でも買おうかな」

碇ゲンドウは、今回の外出の本当の目的地であるコンビニで、『週刊ポテト』を買っていた。ちょっとだけページを開いてみた。『大胆ポーズ』。けれどちっとも大胆でないポーズのページが開いた。ふむ。ここから大胆になってゆくのだな、と彼は思った。
週刊誌だけ買って帰るのもミエミエなので、何か買おうと、店内をうろうろしてみる。ところがあまり間食をしないゲンドウにはコンビニという場所はたいして魅力的なところではない。とりあえずウーロン茶のペットボトルを手に持った。そして、すたすたとレジへ向かって歩き始める。
一メートル八○センチの、大男であるゲンドウが取りえる軌道と交差するような軌道を取って、いま黒い髪を無造作に束ね、しわしわの白衣を着た地味な女性が歩いていた。
どちらもあまり注意深い人間ではなかったし、歩きながらでも自分の研究の事やあれこれを考えるタイプだったので、前を見ていなかった。二人の軌道は二秒後に交差する。これは、赤木リツコと碇ゲンドウの人生の交差点でも──、
どん。「わ」「きゃっ」
と、説明している間に二人はぶつかってしまった。ゲンドウはペットボトルと古本と「週刊ポテト」を落とし、リツコの方は、手に持っていた書類入れとを落とし、鼈甲ぶちの眼鏡ははじき飛んで、尻餅をついた。その弾みで「週刊ポテト」のグラビアページが「わら」という感じで開いた。
ゲンドウは我に返り、そのぶつかった女性が、彼の買った雑誌の「金髪巨乳娘の大胆ショット」をくいいるように見つめているのに気がついて、慄然とした。
「……あ。あああ。これは失礼をした」などと、もごもご言いながら、ゲンドウは立ち上がろうとする女性に手を貸し、急いで週刊誌をたたみ、本とウーロン茶のペットボトルを拾う。
「お嬢さん、お怪我(けが)は?」『お嬢さん』という年齢では無かったかもしれないが、
化粧っ気のまったくない顔や、まるで大学生のような風体を見てついそう言ってしまった。彼にしてはひどく狼狽(ろうばい)していたのだ。
「いえ、あの、大丈夫です」女性は、なにやら数式の書いた書類と本とを書類入れに入れて立ち上がった。ゲンドウは床に転がった趣味の悪い眼鏡を拾ってやった。
「すみませんね。ぼーっとしてまして」ゲンドウは言った。
「いえ、わたしの方も考えごとをしてましたから」女性は眼鏡を掛けながら言う。よく見ると端正な顔立ちなのだが、眼鏡を掛けたとたんに、漫画に出てくるオールドミスの女教師みたいになるなとゲンドウは思った。

二人は、そのまま分かれて店を出ていった。リツコはサンドイッチと牛乳を買い、近くの公園に歩いて行った。ゲンドウは自宅に至る長い坂道を自転車で上りながら、なんでよりにもよってペットボトル入りのウーロン茶なんぞを買ってしまったのだろうと後悔していた。

リツコは公園のベンチに腰掛けて、サンドイッチの包みを開けた。
いい天気だった。平日なので、近くにあるオフィス街からやってきたОLたちが楽しそうに歩いている。
ふと気がつくと、部下の日向マコトが歩いているのに気がついた。手を振ろうと、片手を上げたのだが、すぐにおろしてしまった。彼は若い女の子をつれていたからだった。近くの会社のОLだろうか? 淡いピンクの制服に白いカーディガンを羽織っている。ショートカットが清潔そうなかわいい娘だった。
「日向君たら、いつのまに……」リツコはそうっとベンチを離れ、遊歩道からは影になって見えない木陰にハンカチを敷いて座った。なぜか、顔を合わせたくなかったのだ。

「……そしたらね、課長がね『伊吹くん、悪かったなあ』って。あの課長がよ」
日向は、たあいのない会社の出来事をしゃべり続ける伊吹マヤの言葉に相づちをうちながら、彼女のうなじを見下ろしていた。彼はマヤの白く綺麗(きれい)なうなじが好きだった。こんなかわいい娘が、ぼくとつきあってくれているなんて信じられないな、と思った。
「聞いてるの?」マヤはマコトを見上げながら言う。
「あ、うん。聞いてるよ」マコトはあわてた。
二人はベンチに座った。マヤは、手に持った紙袋から二人分の弁当箱を取り出した。
「うまく出来てるかな……」マヤは、包みを開けて手作りの弁当を食べ始めたマコトに向かって言う。
「おいしい! 上手だね。とてもおいしい」
「よかった。ちょっと不安だったのよ」
──ぼくのために、毎日料理してくれないかな? マコトはプロポーズの言葉をそれにしようと思っていた。もう何ヶ月も前から。しかしその言葉を発したことは一度もなかった。不安だったのだ。マコトは一人でアパートに帰り、マヤの事を考えるたびに不安になるのだった。ぼくたちは「つきあってる」よな……? たぶん。でもマヤが自分のことを結婚してもいいと思えるほど愛しているかどうか、まったく自信がないのだった。単に仲のいい友達だと思っているだけかも。いや、そうじゃないよな。キスは、……何度もした。車で出かけて、そんな雰囲気になったことだって何度もある。でも、肝心なところで、はぐらかされてしまうのだ。そうだ。それが目的じゃない。なにをおれは考えているんだ。マコトはアパートの暗闇のなかで自分を恥じる。が、しかし。
マコトは、食べ終わると、なんとなくマヤの肩を抱いて引き寄せた。マヤは何も言わずに、彼に寄り添ってくれた。
「今日、とても大事な実験があるんだ」マコトはささやいた。
「……そう」
「きっと、成功すると思うんだ。で。もし成功したら、お祝いしたいんだ。きみと……。ぼくの部屋で」マコトは思い切って、言ってみた。
腕の中のか細い肩が緊張で力が入るのがわかる。
「だめ! ……あ。ごめんなさい。どこかへ食事に行きましょう? ……ね。わたしいいレストラン聞いてきたのよ」マヤはどこかあわてていた。
「うん……。そうだね。じゃ、電話するよ」マコトはやさしく言った。

そのころ、碇ゲンドウ氏はぜえぜえいいながら坂を上りきって、家に入ると「週刊ポテト」と本を机の引き出しにしまい込み、ペットボトルだけ持って台所へ行き昼食を作っているユイに、「ウーロン茶が切れてたから古本屋のかえりに買ってきたよ」と言いながら冷蔵庫を開けた。ところがアスカが大のウーロン茶好きなので、買い置きが四本もところせましと並んでいる。
「どこが、切れてるの?」ユイは面白そうに言う。
「いや。……うむ。勘違いだったか」とゲンドウは言うと、研究室に引きこもった。
ユイはコンビニのビニール袋をひょいとつまむと、中にレシートを見つけ、見てみる。「ウーロン茶一八五円、雑誌二五〇円」。
あれで、わたしをだましたつもりなんだわ、ユイは思わず笑いそうになる。

いっぽう、赤木リツコはアツアツに見える恋人たちに気づかれぬように公園を後にして、研究所に帰った。
──ったく、本を読む暇もなかったわ。リツコは思った。時計を見ると十二時四十五分。まだお昼休み。リツコは書類入れから本を取り出す。彼女の好きな「猫」の本である。
「えーっと、なになに、地球は空洞であり、内部には伝説の大陸レムリアが─って、なによこれ!」
表紙をよく見る。
何気ない装丁のその本の題名はこうだった。
『魔法天文学で証明する地球空洞説』

ゲンドウは、妻に隠れて雑誌をパラパラめくっていた。肝心のグラビアはいざゆっくりと見ると今一つ、記事も広告に偽りありで、肩すかし。
うう。つまらん。ゲンドウは思った。彼は昼食のあと、ずっと研究室にこもって珍しく金を作っていた。なんとなく妻のユイの視線が気になったからだった。
夕方、数グラムほど作ったあとに、ゲンドウは休憩するために、椅子に座って机の引き出しから、『文月堂』で買った青い装丁の本を取り出して、パラパラとページをめくる。
「ふむふむ……。牡(おす)猫(ねこ)の発情期対策――ってなんだこりゃ!」ゲンドウはあわてて書名をよく見てみる。
『ヒマラヤンの飼育と交配』

むむむ。コンビニだな。あの女性とぶつかったときに入れ替わったのだ。
なんと、ご都合主義なドラマみたいな事が起きるものだ、ゲンドウは思った。本をよく調べてみる。奥付の横に『日本時空研究所之蔵書』というでかいスタンプが押されていた。
捕物帖が好きなゲンドウはすぐに推理出来た。あの女性は白衣を着ていた。
そしてこれは研究所の蔵書。しかし、どうせなら、もっと若い、ぷりぷりのおねーちゃんだったら、などと贅沢(ぜいたく)なことを思いながら、ゲンドウは、妻に古本屋に忘れ物をした、と言って自転車に乗った。

その研究所はすぐにわかった。何度もその前を通ったのだが、気にも止めていなかったのだ。ゲンドウは大げさな作りの玄関まで自転車を乗り付けると、インターホンのスイッチを押した。
「……はい、どなたですか?」若い男の声がした。
「碇ゲンドウというものだが、ここの蔵書とワシの本が入れ違ったみたいなのだ。この研究所に眼鏡をかけた女性はいるかね?」
インターホンの向こうから、もにょもにょと話をする声が聞こえる。しばらくして、「どうぞ、玄関のドアを開けますから入ってください」と答えた。
ゲンドウは研究所の中に入った。
いきなり、小さな緑色の醜い生き物が、二足歩行で、研究所の奥へと続く暗い廊下を走り去るのが見えた。ゲンドウは反射的に身構えた。
足音がした。振り返る。地階へと続く階段から、あの女性がしかめっ面して上ってくるのだった。
「どうも、わざわざすみません。眼鏡を落としていて、つい、うっかり書類入れに入れてしまったみたいですね」その女性は、ゲンドウの買った本を彼に向かって突き出した。ゲンドウは、なんでこの女から敵意みたいなものを感じるのだろう、と思いながら猫の本と交換する。
「ここで何をやっているのですか?」ゲンドウは聞いてみた。
「とても『科学的』なことですわ」その女は挑発するように言う。……ははん。『来訪』以降の科学者によくあるタイプだな、とゲンドウは思う。そんな人間と出会った時は、まず、あえて自己紹介をする事にしていた。
「わたしは、『公認錬金術師』碇ゲンドウといいます」ゲンドウは、錬金術にわざとアクセントを付けて言い、にやりと笑った。案の定、その女性は身を固くする。
「ここの研究所長の赤木リツコともうします。『あなたのような職業』の方でも、ここの研究に興味があるんですか?」
「ええ、とても面白いものを見ましてね。さしつかえなければ、教えていただけませんか」ゲンドウは言った。
「かまいませんよ。そうですね、口で説明するよりも実験室そのものにご案内しましょう」
リツコは、意地悪な期待を感じていた。『非科学』の最たるもの、錬金術師の目の前で、『科学』が『魔法』に勝利するところを見せつけてやるのも悪くないわ、彼女は思った。
二人は地下室へと、おりて行った。重い鉄で出来たドアが、かすかなモーターの音をたてて開いた。髪を短く刈りこんで、眼鏡をかけた若者が振り返って、ゲンドウを不思議そうに見ながら軽く会釈した。
広い地下室の真ん中には、目玉を思わせる巨大な機械が、ぶんぶんと唸(うな)っていた。部屋の隅に何か、うずくまっていた。醜悪な怪物だった。ゲンドウはそれを凝視した。
「ご心配なく、それは単なるホログラフィーですわ」リツコは勝ち誇ったように言う。しかしゲンドウは答えない。
「なにも思われないの?」リツコはいらいらして言った。どうしてもっと驚くとか、あたしを質問責めにしないの?
「いや、おもしろいですよ」ゲンドウは、あっさりと言う。その一言はリツコを怒らせた。
「これは、強力な磁場を作り出す機械なんです。この球体の中に何が入っていると思いますか?」
「なんでしょうか?」ゲンドウは相変わらず冷静である。
「『宇宙』なんです。極小の宇宙がこの球体の中に生まれてるんです! これが何を意味するか、わかりますか?」
こんな大声でしゃべる赤木博士を見たことがないな、日向マコトは思った。
「ふむ……説明していただけますか?」
「われわれは、この世界の一秒がこの『極小宇宙』の一○○年に相当するようなタイムスケールの操作で、極小の、さらに極小の太陽を回る惑星の一つに生命が誕生しているのを確認しました。あの隅にいるのはその惑星の生物を特殊な方法で拡大して投影してるんです。……しかし、それはこの実験のほんの側面にすぎません! われわれはこの『極小宇宙』から、任意の大きさで、任意の量の物質、エネルギーを取り出す実験をしているんです! これが何を意味するかわかりますか?」
「はて?」ゲンドウはまた、にやりと笑った。リツコは今にも髪を振り乱してわめきださんばかりの勢いで言う。
「わからないんですか! 人類はほぼ無限といっていいエネルギーや資源を手にするんですよ! これだけ言ってもおわかりにならないの?」
「はあ……。あなたばかりがしゃべるのもなんですから、わたしにもしゃべらせてくれませんか」中年の錬金術師はいんぎんに言う。
「ど、どうぞ」

「わたしは、推理ものが好きでしてね、名探偵にあこがれていたんですよ」突然ゲンドウは妙な事を言い出した。なにを言い出すやら、このおやじは、リツコは思った。
「で、名探偵みたいに、推理を披露したいんですよ……。まず、あんたの研究は、政府やいろんな企業に持ち込んでみたけれど、相手にされなかった……」ゲンドウはそう言ってリツコを見つめた。
リツコは思わず、うっと詰まってしまう。図星だったからだ。
「図星みたいだな。……それと、この機械じたいのアイデアは、アメリカのフェッセンデンという学者から得たものだ」
「なんで、その名を……? し、写真を見たのね!」リツコは壁に掛かっている写真を見た。
「いや、あんたの話でわかった」ゲンドウは、機械に向かってつかつかと歩き始める。リツコはその長身の姿を見ながら、この男の得体の知れなさに呆然(ぼうぜん)としていた。
「冗談は終わりだ。悪いことは言わない、すぐにこの機械のスイッチを切るんだな」錬金術師は言った。
「な、なにをおっしゃるの! もうすぐ実体をこの世界に呼び寄せる事が出来るのに!」
「それがいかんのだ、バカモノ」ゲンドウは振り返った。
「あ、あなたみたいな非科学的な人間に馬鹿呼ばわりされるいわれは」
「そいつはET(地球外生命体)じゃない」ゲンドウは、リツコの言葉をさえぎり、地下室の隅にうずくまる生き物を指さした。
「また、世界に混沌(こんとん)と恐怖をまきちらしたいのか? そいつはわれわれ人類が古くから知ってる昔なじみだよ。神をまとも信じない人間でも、そいつの存在は恐れるっていうシロモンだ」
リツコは、彼が何の事を言っているのか分からなかった。しかし部下の日向は、真っ青な顔をして、言った。
「まさか……、まさか……それって」日向は言った。
「お若いの、その、『それ』だよ」
「しかし、そんな馬鹿な事が……」マコトは首を振る。
「あんたたちのようなタイプの科学者は、『来訪』の事を勉強しないようにしよう、という協定でも結んでるのかね? ……本当に何も知らないのか?」
「一九一○年の『ハリー彗星(すいせい)』接近が引き起こした騒ぎなら、単なる集団ヒステリーにすぎないわ!」リツコはヒステリックに叫んだ。
「いやいや、そうじゃない。ハリー彗星(すいせい)の接近は、仕上げに過ぎんのだ。事の発端というか、この世の始まりにして終わりは十九世紀末に起こったのだ。……もっと聞きたいかね?」
リツコはぷいっとむこうを向いてしまった。代わりに日向マコトが、「どうか聞かせてください」と言った。
ゲンドウは久しぶりにシロウト相手にウンチクを傾けるチャンスを得たのがうれしくて、舌なめずりせんばかりであった。

「事の発端は、発明家の『トーマス・エジソン』だ」ゲンドウは意外な事を口にする。
「彼は、十九世紀後半、電球や蓄音機の発明で成功した後、神秘主義にとりつかれたのだ。彼は科学の力で『霊界』と通信できると考えた」
「もちろん、それは失敗した。どうやっても空間を飛び交う電磁波の雑音しか拾えなかったんだな。彼はよほどその概念にとりつかれていたんだろうな。誇り高い彼はあえて膝を屈してライバルとも言えるもう一人の天才に協力を要請したのだ」
「『ニコラ・テスラ』、彼がいなければその研究は完成しなかったろうな……。かつて家庭用電源を直流にするか交流にするかで袂(たもと)を分かった二人が協力してこの奇怪な発明に取り組んだのだ。そして数年後それは完成した。そのラジオから聞こえてきたのは以前よりもずっと明瞭な『声』だった」
日向は、生唾を飲み込んだ。気のせいか実験室の温度が下がったような気がした。リツコは計器を点検するふりをしてゲンドウの声に耳を傾けていた。
「しかし、その『声』が何を言っているのか、さっぱり分からなかったのだ。テスラとエジソンは一応そのラジオを発表したけれども、一部の人間に注目されただけで、世間からは黙殺されたと言っていい」
「意外にもそれに注目したのは、はるか極東のこの地、日本に駐在していたドイツ大使『カール・ハウスホッファー』だ。彼はゲルマン民族の絶対的優位を信じるオカルティストだった。彼は私財でその『霊界ラジオ』を手に入れた。それが自分の信じる神秘思想の証明になるという直感を持っていたんだ。彼は日本のドイツ大使館の中で一日中その機械をいじっていた」
「皮肉にもそれを解決したのが、エジソンの発明した『蓄音機』だ。かれはそのラジオの音を録音し、早く回したり逆に回したりしてみた。するとそのわけのわからぬ『声』は、言葉となった。この霊界の声の主は、なんと古代アラム語で、こう言っていたのだ。『我は汝(なんじ)らをふたたび見つけたり』と」
「もーっ結構です! お引き取りください! 何かと思えば怪談ばなしじゃありませんか! そんな非科学的な話、信じろと言う方がむちゃですわ!」リツコはゲンドウを外へ追い立てようとした。
「待ってください! 赤木博士! 気がつきませんか? さっきからこの部屋の温度が下がっています! それに、なにか急にホログラフィーが」日向は不安げにあたりを見回している。青年の言うとおりだった。暖房を効かせているのに、リツコは肌寒さを感じていた。それに部屋の中の電灯の明かりが届かない暗がりで、何か小さい、無数の生物がうごめいているような気配がした。
「そんなことはないわ! 実験を続行します。誰がなんと言おうと。科学は魔法に勝利するんです」
「まだわからんのか、バカモノ。パリの万国博覧会が象徴するような十九世紀の科学万能主義が『来訪』を招いたのだ。……ハウスホッファーは、いわゆる鹿鳴館(ろくめいかん)のパーティで、あるアメリカ人に会った。実業家『パーシヴァル・ローエル』だ。彼はその『霊界ラジオ』の声の主の正体に気がつき、急遽(きゅうきょ)アメリカに帰国して、アリゾナに研究所を建てた。あんたの機械は、その研究所で開発されたやつのコピーにすぎんのだ」
「ちがいます! これはフェッセンデン博士の成果を発展させたもので」
「『フェッセンデン』は、『来訪』の真の意味に気がつかなかった愚か者にすぎない。彼はローエルの実験をむりやり科学の枠に押し込めようとして、命を落としたのだ。いいかね、あんたが作ったのは『極小宇宙』ではない。『回廊』なのだ。『魔界』へと続く『回廊』なのだ。ローエルはその『回廊』から呼び寄せたのだ。あんなやつを」ゲンドウは部屋の暗がりでゆっくりと立ち上がっている、コウモリのような翼が生えた、痩せた山羊(やぎ)のような怪物を指さした。
「『悪魔』ですね……」日向はぽつりと言った。
「日向くんまで馬鹿なことを言わないで! サイズの問題はどうなるの? タイムスケールのことは?」
「それは見かけの問題にすぎん。『古きものども』の住む宇宙は、われわれの宇宙とは根本的に違った物理法則に支配されておる。まるで万華鏡をのぞいたように、われわれの宇宙からみた彼らの宇宙はさまざまな形をとるのだ」
「それで、ローエルはどうなったんですか?」日向は言う。
「彼はアメリカ大統領に警告を発した。確か『クリーヴランド大統領』だったかな? もちろん最初は誰も信じなかった。が、世紀末の地球に次々と異変が起き始め、それをローエルがことごとく予言したものだから、政府としても黙っているわけにはいかなくなった。そして、アメリカ政府代表は、この場合は人類代表と言ってもいいかもしれんが、ローエル研究所で『悪魔』と接見し、『契約』をかわしたのだ……。これが世に言う『来訪』だ」
「ハリー彗星(すいせい)は、この『契約』に基づき、一九一○年にその彗星(すいせい)の尾で地球を包み込んだ。……おおぜいの聖職者が神に祈り、あるものは地下に隠れた。あるものは自殺した。その地獄のような混乱のありさまを、イギリスの若い小説家『コナン・ドイル』が小説にしている。『地球新生の日』だ。面白い本だから読んでみたまえ。こんなふうに、この世界の新生を告げる彗星(すいせい)は地球にやってきて、我々を変えてしまったのだ」
「どのようにですか?」マコトは言った。
「『魔法』が使えるようにだよ。彗星(すいせい)以降に生まれた子供たちの何パーセントかは生まれつき『魔女』か『魔法使い』だったのだ」ゲンドウは言った。
そしてその副作用とも言うべきことだが、さらに○.○一パーセントの人々の遺伝子は根本から変わってしまった。彼らの身には恐ろしい災厄が降りかかったといっていい。彗星の尾に巻き込まれた人々、『インヴォルヴド・ピープル』の誕生だ。しかしゲンドウはそれを言わなかった。あえてこの二人に言うべき事ではない。
「その『契約』とは……?」
「いい加減にしなさい日向くん、こんなくだらない」リツコは言葉を最後まで言い終える事が出来なかった。

ぼんっ。大きな音がして、機械の前にまばゆい光を放つ火の玉が出現したからだ。

「あんたが電源を切らんから、現れちまったぞ」ゲンドウはリツコに向かって言った。
「何を言うんです。たとえ『悪魔』であってもわたしは怖くありません」リツコは強がった。
「……ワタシノ ネムリヲ サマシタノハ ダレカ?」その火の玉は徐々に形を変えて、人型になっていた。そしてのこぎりが震えるような声でそう言った。ゲンドウは眉をひそめた。ワシの読んだ本と違うぞ。ローエルが呼び寄せたやつは……。
後ろで見ていた日向マコトはふいにぶるっとふるえた。心を何かに探られたような気がした。
「あー。あー。コホン。……こんばんは、ミス・アカギ」それは相変わらずぎらぎらと光っていたが、今度はもっと明瞭な日本語で言った。そして左手をさっと前に出した。まるで握手を求めるかのように。
「……どうして私の名前を?」リツコはつぶやいた。
ゲンドウは必死で記憶の糸をたぐっている。どうみてもこいつは下っ端じゃない。もしかすると……?
リツコはまるで吸い込まれるように、ふらふらとその異世界からの来訪者に近づいてゆく。
碇ゲンドウが次にとった行動は、自分自身ですら理解できないものだった。後で傷が痛むたびにそのことを後悔するのだが、今の彼はそんなことを知る由もなかった。彼は、リツコと『それ』の間に割って入り、こう言ったのだ。
「これは、『プリンス』、お目にかかれて光栄でございます」
「やあ、ミスタ・イカリ」『それ』は快活に言うと、再び手を差し出した。

ゲンドウはその光に包まれた手を握った。たちまちジュっという音がして、握手したゲンドウの手から煙が立ちのぼった。
「──く」ゲンドウは、あわてて手を引っ込めた。
「きゃあ!」焼けたゲンドウの手から昇った肉の焦げる匂いで、リツコは我に返った。彼女はあわてて計器板に向かって走って行き、全システムの電源を切った。
「これはすまないことをした。大丈夫か?」『プリンス』と呼ばれた魔界のものは白々しく言った。
「……いえいえ。なんともありません、殿下」ゲンドウは激痛に顔をしかめながら言った。
「あの女科学者は私に消えてもらいたいようだが?」
「めっそうもございません。つまらぬ世界ですが、ぜひごゆっくり御滞在くださいますよう、殿下」ゲンドウは言う。
「せっかくだが、そうもしておられぬのだ。じつに面白い発見をしたのだが、また今度の機会にゆっくりと来よう……。では失礼する」『プリンス』はそう言うが早いか再び火の玉になって、ふっとかき消えた。同時に、実験室のいたるところでうごめいていた魔物たちの幻も消えた。

「大丈夫ですか!?」リツコは、左手を押さえて、思わずうずくまってしまったゲンドウに駆け寄った。
「ててててて」ゲンドウはうめいた。なんであんな馬鹿な事をしちまったんだろう、彼は叫びながら走り回りたかった。
「水をくれ……。バケツに水を入れて持ってきてくれ」ゲンドウは言った。
「日向くん、お願い!」リツコは叫んだ。

「やつらにとっては単なる悪ふざけなのだ」ゲンドウは、椅子に座って、リツコに包帯を巻いてもらいながら言った。近くでよく見ると、泣きぼくろがあるな、ゲンドウはリツコの意外に端正な顔を見下ろしながら思った。軽く化粧ぐらいすればよいのに。
「悪ふざけでこんなひどいやけどを……」リツコは言った。
「フェッセンデン博士よりましだ」ゲンドウは言った。その言葉でリツコは顔を上げた。趣味の悪い鼈(べつ)甲(こう)ぶちの眼鏡の奥の目と、ゲンドウの薄い色の付いた眼鏡の奥のギョロ目が合った。
「彼の死についてこんな噂(うわさ)がある。彼は実験中に機械の中に落ちて死んだことになっているが、実は悪魔に上半身ごと囓(かじ)られたという……」
「え! それも、……悪ふざけ、ですか?」
「うむ。怖がらせる気はないが、やつらにとって人間の命なぞ、その程度なのだ。おまけにやつはどうも『プリンス・オブ・ダークネス』だったらしい」
「『プリンス・オブ・ダークネス』?」
「大物中の大物ってことだ。今日の事は忘れて、べつの事を研究するんだな」ゲンドウは言った。リツコは答えなかった。

「あんたは、ひどい人だわ、碇ゲンドウ」リツコは日本酒をあおりながら言った。完全に酔っていた。ここは商店街のはずれにある赤ちょうちん。研究所を出て家へ帰ろうとするゲンドウをリツコが呼び止めたのだ。
「あんな実験だめならだめって、最初に言ってくれなきゃ」リツコは赤い目をして言うのだった。
「お前さんのお守り役の若い衆はどこへ行った?」酒の飲めないゲンドウは、おでんをつつきながら、ほうじ茶を飲んでいた。
「日向くんなら、デ・エ・ト。かわいいОLの女の子とね」
「ほう。そりゃ結構」
「あたしは、結構じゃないわ……。この年になるまで、フェッセンデン博士の研究を完成させようとすべてをささげて来たのに……」リツコは言った。
「忘れるんだな。悪い夢でも見てたのだ。……ワシはもう帰らねばならん」
「……奥さんが心配するの? それとも奥さんが怖いの?」リツコはカウンターにつっぷしながら言う。
いくらなんでも、酔いつぶれた女性をほっぽって帰るわけにはいかない。ゲンドウはリツコに肩を貸してやると、ろれつの回らない彼女の言うままに、住んでいるマンションを探した。
やっとの事でそれを見つけて、部屋の中に運び込んだ時には十一時を回っていた。ゲンドウは、猫の小物で飾られた意外に少女趣味な居間のソファに、リツコを横たえた。
「じゃ、な。ワシは帰るぞ」ゲンドウが立ち去ろうとすると、不意にリツコが彼に抱きついて来た。胸のあたりに柔らかい感触がある。ゲンドウは焦った。
「ごめんなさい! ごめんなさい! あたしのためにそんなやけどを……。なのにあたしは失礼な事ばかり言って」
「酔ってたのだ。しょうがない」ゲンドウは言う。
「違う。……違います。ホントはそれほど酔ってないんです。わたし……わたし急に……心細くなって、怖くて。とても怖くて。わたし、もう今年で三○なんです。……科学を信じて、ずっとずっと同じ研究ばかりに打ち込んできたのに……。目の前に砂漠が広がっているみたいな気がするんです」リツコは涙ぐんでいた。
ゲンドウは困ってしまった。胸の中で女性に泣かれた事なんてあったろうか、彼は考えた。こんな時なにをどうすればいいのか、見当もつかないのだった。

ふいにリツコは彼から離れ、恥ずかしそうに言った。
「すみません。今日初めてお会いしたあなたに。なんとおわびしていいのか分かりません。もう大丈夫です」
「ふむ」ゲンドウはほっとした。彼は立ち上がり、じゃ、ワシは帰ると言って、ドアに向かおうとした。
「待ってください」リツコはゲンドウを見上げながら言った。
「うん?」
「……いえ、あの、おやすみなさい」リツコはぎこちなくほほえんだ。

リツコはそのままソファに横になり、眠ってしまった。
明け方に目が覚めた。頭が重い。寒気がする。暗闇があるとまだあの恐ろしい姿をした悪魔が潜んでいるような気がして、全ての部屋の電気を点(つ)けた。
彼女はお風呂に入った。湯船の中で、今日起きた事を思い出す。不安が湧いてくる。
バスタオルを巻き、鏡台の前に座った。眼鏡をかけずにいると、自分の顔の眉毛だけがいやに黒く太く見える。
わたしは、わたしの顔がきらい。赤木リツコは思った。
どうして、お父さん似に生まれてきたのだろう、彼女は思った。どうして母さんみたいな女らしい顔じゃないんだろう。小学校に入る前から自分の顔が、まるで痩せた犬のように見えて、いやだった。母さんがかわいいワンピースを着せてくれても、うれしくなかった。
リツコは、なりふり構わぬ猛勉強に励みだした中学生の頃を思い出す。ごわごわした黒いセーラー服を着たやせっぽちの、男みたいな顔をした女の子。高校に入ってから、物理学に出会った。そしてフェッセンデン博士の事を知った。きっとその本を書いた人も、わたしと同じ誤解をしていたのだろう。そして一生を棒に振ったに違いない。
デートなんか、したこともなかった。男の子はみなおろかで、女の子とベッドに入ることしか考えていないのだと思っていた。
リツコは、あのゲンドウという中年男を思い出した。あんな、変わった男の人は初めてだった。近くに寄った時に、かすかに化学薬品の臭いがした。あれが錬金術師の臭いというものだろうか?
リツコはコンビニで出会ってから、夜に別れるまでを何度も何度も思い出してみた。雑誌のグラビアが開いた時の、あの慌てようといったら、リツコはおかしかった。あの人は、あんな女が好みなのだろうか。
リツコは、バスタオルから伸びる、自分の足を見た。あたしの足もまんざらじゃない、リツコは思った。頭に巻いたタオルを取ってみる。髪を両手で上にかき上げてみた。唇をとがらせ、前に突き出して見る。

髪を切ろう。リツコは思った。

「で、なにが悲しくて、おでん屋で煮立ったおでんの鍋に手を突っ込まなければならないの」包帯を巻いた左手をかばいながら、目玉焼きを食べているゲンドウに向かって、ユイは言った。
「あんまりジャガイモが旨(うま)そうだったからだ」ゲンドウは言った。
「ふうん」ユイは言った。この、うそつき。

日向マコトは赤木博士が三日も研究所に来ないので、心配になってきた。まさか……ね。彼は三日かけて、あの実験の後かたづけをしていた。これから一体この研究所はどうなるんだろう? ……ぼくは給料もらえるんだろうか? マコトは恋人の伊吹マヤの事を考える。失業したらますますプロポーズから遠ざかってしまうぞ。彼は思った。
もともとこの研究所は、科学技術庁の官僚をしていた赤木博士の父親の天下り先として作られた財団法人のものだった。行政改革で無くなる可能性も十分にあった。

「おはよう」突然、目の覚めるような金髪の女が研究所に入って来た。胸の線がはっきりと出ているぴったりとしたセーターに、レザーのミニスカート。そしてなぜか、そんな格好の上に白衣を羽織っているのだった。「に、似合わない?」その女は日向の方をはにかんだように見る。マコトはその女の顔をしげしげと見た。目の下に、小さな泣きぼくろがあった。
「あ、赤木博士? 赤木博士なんですか?」
「……そうよ。あ、ちょっとヘアースタイルを変えてみたのよ」彼女は言った。
なにが『ちょっとヘアースタイルを』だ、日向は思った。
リツコは日向の隣の椅子に座って、長い足を組んだ。マコトの視線はくぎ付けになってしまった。
「マコトくん」リツコは言った。
「は、はい」マコトはあわてて顔を上げる。
「今日から新しい研究を始めるわ……。『魔法』と『科学』の融合を目指すのよ!」リツコは力強く言った。
「へ?」マコトは間抜けな声を出した。

シンジは台所のテーブルにほおづえをついて、うとうとしていた。アスカの地獄のような『特訓』で疲れ切っていた。そこへゲンドウがやってきた。彼はシンジの顔をのぞき込むと、ひょい、とほおづえをついている手をつまんでみる。ごちん。「て、てててて」シンジは鼻を押さえて目を覚ました。振り返ると父親のゲンドウが研究室へ向かって歩いて行く。

それから、何日かたったある日。古本屋『文月堂』の閉店間際にその客はやってきた。
その客はいつも閉店間際にやって来るのだった。ほぼ一月おきにやってくるのだった。店主の冬月は、苦虫をかみつぶしたような顔をして、その客を見ていた。
「君はいくつになるんだね?」冬月は言った。
「二十五になります」その客は答えた。
「恋人はいるのかね?」
「え、……ええ。います」
「その人を愛しているのかね?」
「……はい」
「ならば、帰ってくれ。そしてもう二度と来るな。君には幸せな結婚をする権利がある」冬月は言った。
「わたしたちには、助け合う義務がありますわ」伊吹マヤは言った。
冬月は、両手で顔を押さえた。
しばらくして彼は、ゆっくりと立ち上がった。そしてのろのろと店の入り口まで歩いて行き、シャッターをがちゃんと閉めた。