第九話「ヴァンパイア・ハンター」

商店街の一角にある、冬月コウゾウの古書店の営業時間は、朝一○時から夜の七時までである。十四年前に開業してから、定休日の月曜日を除く毎日、休むことなく営業している。店主としてのコウゾウはいつも居眠りしてばかり、売り上げもたいしたことはない。それでも、彼は商売を止めない。もうからなくてもいいのだ。雨露がしのげれば、今日のねぐらを探すために町から町へわたり歩くのに比べれば、この生活は天国といっていい。
が、しかし、今日の彼は、地獄のような喉の渇きに苦しめられていた。
閉店間際、彼は定期的に店を訪れる若い女性が来なかった事に落胆していた。
──もう来るな、といいながら、この渇きを癒やしてくれるあの女性をあてにしている自分が情けなかった。

のろのろとシャッターを下ろした。鍵をかけた。冬月は、古書店の奥にある六畳ほどの和室に置いてあるタンスから古ぼけたコートを出してきて、それを羽織った。
外へ出て気を紛らわせよう、そう思った。裏道から、夜の町に出た。暖かい夜だった。コートは要らなかったかもしれない。しかし、彼はさもしげな自分の顔を隠すために襟を立てた。

大通りには大勢の男女が歩いている。若い者、年老いたもの、男、女。むせ返るような人いきれ。冬月は歩いた。通り過ぎる人の表情に一べつをくれながら。
みなそれぞれの悩み、それぞれの喜びを抱いているのだった。そして俺は独り、まるで生クリームの山の中にだだ一匹見つかったアリのように、食い物の山の中で腹を空(す)かせて歩き回っているのだ。

彼は、夜の公園を横切る。カップルだらけだった。彼らは睦(むつ)み合い契りあい、子孫を残す。彼らを創りたもうたものの言いつけを忠実に守っているのだ。産めよ増やせよ、地に満ちよ。海の魚、空の鳥、地の草、獣、これらは皆、彼らの糧なのだ。
……そして、俺の糧は彼らなのだ、コウゾウは自嘲した。

気がつくと、あの、伊吹マヤの勤め先の近くに来ていた。彼は自分を呪った。この恥知らず! この恥知らず!
彼は、マヤの白く美しい裸身を思い出した。性欲など感じない。そのような衝動は、三○年以上前に枯れ果てていた。あるのは食欲。焼けつくような喉の渇き。彼は彼女の脇の下の動脈に、目立たぬように口を付ける。
いったい誰が、『処女の生き血』などという迷信を、マヤに吹き込んだのだろうか。コウゾウは思った。この女性は、それを忠実に守っているのだった。
このあいだ、恋人がいると言った。マヤのような、優しく美しい女性を恋人に得て、君は幸運なのだろうか、不運なのだろうか。君はマヤが私と同じ『刻印』を持っている事を知っても、なお彼女を愛し続ける事が出来るだろうか。

コウゾウはあわてて、その場を離れる。もうマヤに頼るわけにはいかない。彼女は彼女の幸せをつかむべきなのだ。また、この町を離れようか、コウゾウは思った。そしてどこか別の町で、誰かを不幸にするのか。

冬月コウゾウが生まれたのは、一九○五年、明治三十八年の事である。したがって、『悪魔』との『契約』によって、ハリー彗星(すいせい)が訪れた時には五歳だったことになる。
彼は、その人類史上最大の事件から、おおかた一○○年たった今でも、その時の事をありありと思い出せる。
彼の家族は当時、淡路島南部の漁村に住んでいた。日本でも『来訪』の事は知れ渡っており、彗星の尾が地球を包み込む時刻に、日本の町々で子供たちが土蔵や、奥座敷に隠された。彗星の尾に、人間を悪魔に変えてしまう有毒ガスが含まれているというデマが流れ、桶(おけ)に水を張り、息を止める練習すら行われた地方すらあるくらいだから、その程度は当たり前の事であった。

幼児だった彼もまた、五人の兄弟姉妹とともに、よしと言うまでここにいろ、と親に言われて村の集会所に閉じこめられた。子供たち、それも『悪魔』などというキリスト教的なものなぞにまったく馴染(なじ)みのない日本の、田舎の子供たちにとって、それは、なんだかわくわくするような面白いお祭りとしか思えなかった。
日本の親たちにしても、パニック、暴動、ポグロム(ユダヤ人への暴力行為)の嵐が吹き荒れた欧米と違って、どこか本気になれなかったのは同じであった。彼らの多くは普通通り、通勤し、野良仕事にせいを出していたのだ。
どのみち、どこにいようが同じだった。どこに隠れていようが、働いていようが、「悪魔の兄弟」として、罪もない無抵抗の、ユダヤ人の商店主を殴りつけていようが、同じだった。
人類は、人類の遺伝子は、変質し、もとには戻らなかった。いや訂正しよう。人類は、人類の創造の本来の目的に沿って、本来あるべき姿に戻ったと言うべきだ。
コウゾウは、その時に感じた感覚を今でも思い出せる。世界の色が変わっていく感じ。光が妙にまぶしく感じられるようになり、身体の奥底から、暗い奔流のような衝動があふれ出る感じを。
彼は六歳にして、妹の血を吸っているところを発見され、両親に捨てられた。

あれから長い時間が流れたな、コウゾウは思った。いまのコウゾウには、両親を恨む気持ちは、これっぽっちも残っていなかった。いまはもう、泣き叫ぶ彼を小さな今にも沈みそうな小舟に乗せて沖へ沖へと曳(ひ)いて行った時の父と母の暗い顔ではなく、優しく彼をあやしてくれる顔ばかり浮かんでくるのだった。

コウゾウは、ゆうに一○○才を越えていたが、身体の方はいっこうに老いる気配がなかった。彼は日常、大変な努力をして初老の男のふりをしていた。黒々とした髪を脱色し、白髪に見せかけた。二本の犬歯を残してすべての歯を抜き、入れ歯にした。リューマチで足が悪いことにして、ゆっくりと引きずるようにして歩く練習をした。
そしていま、彼はそのようにして、夜の町を徘徊(はいかい)している。空には糸のような細い月がかかり、どこかで犬の遠(とお)吠(ぼ)えがする町を、道行く人の誰かれかまわず捕まえて、首筋の動脈に牙を突き立てたいという衝動をこらえながら。

彼は、まるで蛾(が)が電灯に引き寄せられるように、町の中でもとりわけ明るい、とりわけ清潔な場所、ハンバーガー・ショップの前に立っていた。中に入る。若い娘の店員が、お客様ご注文は、とほほえみかけてくれる。
君の血を少し。コウゾウは思った。
「コーヒーを」冬月は言った。
「お二階でお召し上がりでしょうか」
「ああ」
紙コップ一つのトレイを持って、二階の座席へ。通りを歩く人々がよく見える窓際の席に座る。コーヒーなどでは俺の渇きは癒やせないのだ。コウゾウはけれどコーヒーに口をつける。とたんに気分が悪くなる。まるでニンニクをかみしめたような思いがする。両手で顔を押さえた。
「……あの、どうかなさいましたか?」
気がつくと、若い女性の店員が、彼を心配そうにのぞき込んでいる。冬月は充血し、赤くなった目を見られまいと、彼女の目をそらす。きれいで、清潔そうな喉元だった。マヤのようだ。
「いや、なんでもないんです。ちょっと花粉症がひどくてね」彼は言った。
店員は心配そうな視線を彼に投げかけながら、去った。
コウゾウは、その後ろ姿、ポニーテイルにした娘のうなじを見つめていた。
なんでもないんだ、君がほんの少し、自分の血を分けてさえくれれば。
再び顔を押さえた。心の中で誰かが彼を、こう、ののしっている。
このケダモノめ!
このケダモノめ!

冬月はひとけのない鉄道の高架下を歩いている。足音がコツコツと響いていた。誰かが見ていた。誰かが彼を見ている。コウゾウにはわかった。むき出しのコンクリートの暗い影の中に、誰か立って彼を見ていた。
コウゾウは目を凝らす。普通の人間の何倍も光に敏感な目が、彼らの腕時計やアクセサリの反射をとらえた。彼らは四人。

「よお、おじいちゃんよ、お金貸してくれよ」一番大柄な、毛糸の帽子をかぶった少年が言った。冬月は立ち止まり、その少年の鈍い目を見据える。その間に、残りの三人の少年は、彼を取り囲んでいた。
「残念ながら、金はあまり持っていないよ」冬月はとぼけたように言う。
その口調にリーダー格の少年は怒り出す。「おい、なにふざけてるんだよ、ケガすんぞぉ」少年は冬月の目の前に立ち、すごんでみせる。
普段の冬月ならば、こんな時、すぐさま財布を出し、気弱な老人のふりをしただろう。しかし、その日の彼は、喉の渇きに、いらいらしていた。
突然、冬月は、少年の目の前に右手の人差し指を突き立てて見せた。
「あんだぁ? ……一万で勘弁してくれってか……?」
「違うよ、ぼうや。君はこいつで倒されるんだ」
「なにを」と少年は言いかけて、うっと胸を押さえてうずくまる。まわりの少年たちは何が起こったのか、さっぱりわからなかった。目に見えないほどの速さで、冬月の指が少年のみぞおちを突いたのだ。
「……い、いき、ができねえ……こ、コノヤロ」うずくまった少年がかすれた声で言った。かちん、かちん。おなじみの飛び出しナイフの音が、まわりで響いた。
冬月は、コートをひるがえしながら、ナイフを持つ少年たちの間合いの中に飛び込んで、急所を指で突いて回った。まるで、バレエのような、優雅な無駄のない動きだった。
四人の少年がのたうち回っている。若いな、こいつらは。コウゾウは思う。まさに血の気が多い連中だ。
その血を、ほんの少しだけ、それこそ一回の献血の半分でいい、分けてもらっても、かまわないのではないだろうか?
コウゾウは、若者たちの首筋を凝視していた。

むかし、葛(かつら)城(ぎ)教授は言っていた。『普通の人間でも、まれに血を吸われても遺伝子の変質を起こさないものがいるんだ』。この子たちは、そうかもしれない。俺のようにならずに済むかもしれない。
冬月は、彼らを見下ろしている。

「そこまでよ! この、ケダモノ!」背後で誰かが叫んだ。
冬月は、振り返った。その時ちょうど、最終の急行列車が、陸橋の上を通り、まばゆい光を投げかける。その声の主は、逆光のなかで、シルエットになっていた。
女だった。成熟した、スタイルのいい女。黒いズボンの上に、ぶかぶかの大きな軍用コートを羽織っている。女は背中に手を回し、長い銃のような物をコートの中から取り出した。

あいつは俺の心の中から来たんだ。コウゾウはそんな非現実的な思いに囚(とら)われた。あいつは俺を裁くために、俺の心の中からやってきたんだ。
女は銃を構えて、ゆっくりと彼に近づいてくる。ほぼ、五メートルほどの距離に女は立つ。
「君は……誰だ?」冬月は、ようやく見えるようになった女の顔に見覚えがない。
「わたしは、あんたをこの世から消し去りに来たのよ、『ヴァンパイア』」女は腰の重心を落とし、銃を構えた。
「地獄に堕(お)ちろ!」女は、グレネード(手榴(しゅりゅう)弾)を発射した。それは紫色の煙を吹き出しながら、その初老の男の腹に当たった。ばすっ。黄色い大量の煙が上がった。避けなかったのは、普通の手榴弾だと思ってなめてたんだわ、女は思った。
冬月コウゾウは猛烈な不快感に襲われた。毒ガスだ。それも俺のような体質の者にしか効かない毒ガスだ。赤い斑点が皮膚の表面にさーっと広がっていく。

「ああああああ」冬月は走り出した。何十年ものあいだ、普通の人間の中で身を隠していたために、変身が起きる前に、衝動的に逃げ出したのだ。
女は追いかけた。
冬月は顔を押さえながら、走り続けた。あの女は『知っている』、冬月は思った。俺が何であり、どのような生理を持ち、何を弱点としているかを。
しかし、大勢の人前で、醜悪な姿を晒(さら)して死にたくなかった。彼は、もっと、もっと、ひとけのない場所に向かって走っていた。

こんな異常な事件が起きているというのに、ひとけのない河川敷の公園で、その少年と少女は、のんびりと魔法の練習をしていた。人目には、どう見ても冗談としか思えなかった。
少年は地面から一メートル足らずの空中にあおむけになって、ぷかぷか浮いているのだった。少女はそんな状態の少年を面白そうにつっついている。
「よ、よせよ! 人が降りられないと思ったら!」シンジは叫んだ。
「あははははは」アスカは、シンジの頭を人差し指ですっと押す。するとシンジの身体は風船のようにふわふわと前に進む。シンジは、空中でジタバタする。
「止めろよ!」
「あはははははは」アスカは、今度はシンジの肩のあたりを押してみる。するとシンジは腹を中心にくるくるとまわり始める。
「いいかげんにしろよ、ひとをなんだと思ってるんだ」
「ははははは。自分のかけた魔法を、解除できた試しがない魔法使いの卵だと思ってるわ。あんたも、いい加減にこの程度のコントロール、出来たらどうなの?」
「し、しかたないだろ! 出来ないものは出来ないんだ」
「じゃあ、出来るまで浮いてなさい」アスカは今度は、手のひらに力を入れて押してみる。公園の記念樹に向かってシンジはすーっと滑るように進んでいく。
「ほら、いま魔法を解除しないと、木にぶつかるわよ」
ごん。
「いてっ、いててててて」
「ばーか」

伊吹マヤは、古書店の前に立ち、シャッターを軽くたたいている。応答は無い。どこに行ったのだろうか? マヤは心配になる。もう、そろそろ渇きも限界だろうに。
彼女は、時計を見る。夜八時半。まだ早い。あの人にとっては、夜はこれからである。朝の五時頃まで起きていて、明け方から眠り、書店の開店時間の前に起きるのだと聞いたことがある。
「どうして夜警とか、夜の仕事をされないんですか?」マヤはそう尋ねてみたことがある。
「もちろん、もう何十年も夜警の仕事をしたことがあるよ。若い頃からね。それしかなかったからね。でも、し過ぎたんだ。私は、一度でいいから昼の世界で生きてみたかった。いったいあと何年生きるかわからないが、死ぬまでに一度だけ、昼間開いている商店の店主になりかたかったんだ」その時冬月はそう答えた。

マヤは裏口に回ってみようと思い、シャッターの前から離れた。その時、彼女の肩に、誰かが手を置いた。マヤの身体に冷たい衝撃が走った。その大きな温かい手は……。
「どうしたんだい?」振り返ると、案の定、眼鏡をかけた真面目そうな青年が立っている。
「あ。……え? ……あの、ちょっとここに用事があったんだけど。留守みたい」マヤはぎこちなくほほえんだ。
「マコトさんの方こそどうしたの?」
「いや、商店街の入り口で、たまたま君を見かけたもんだから。ここの人と知り合い?」
「ええ、あの、遠い親類にあたるの」マヤは言った。
「……そう」予想した通りの答えだった。前にこの町には、いやそもそも親類なんかいないと言っていたくせに。
「あの、よかったら、どっか寄っていかないか? この人、お留守みたいだし」マコトは言った。ゆっくりとマヤと話がしたかったのだ。
どうしよう? マヤは迷った。もしかしたら、単に用事で出かけているのかもしれない。しかし、暗い衝動を抑えきれずに、夜の街を徘徊(はいかい)しているのかもしれない。そして血を吸っているところを誰かに見つかり……。
マヤは、日向マコトの顔を見上げた。優しい顔。私を信じている顔。あたしたち、つきあいだしてからけんかもしたことなかった、マヤは思った。

「ええ、いいわ」マヤはマコトが怖かった。彼の優しい目がひたすら怖かった。

二人の若い男女は、暖かい夜の街を歩き始めた。自然に腕を組んだ。青年は心の中で繰り返していた。ぼくたちは恋人同士だよな、君はぼくのカノジョだよな。もちろん、そんなことを声に出して尋ねる事など出来なかった。
公園にさしかかる。細い、不吉な三日月がまるで弓のようだ。マコトはマヤの肩を抱いた。
「あ……」マコトはマヤの唇を、自分の唇で塞いでいた。
ゆっくりと、離れた。見つめ合った。
「君が、欲しい」マコトは静かに言った。

女が走っていた。心臓が飛び出しそうだった。しかし、いまここで逃がすわけにはいかない! いま逃がしたら、もはや二度と私の前に姿を現す事はないだろうと思った。やつを殺したあと死んでもいい。あいつを追いつめるまで、ほんの少しでいい、私に走る力をちょうだい!
あのケダモノは私の前を走っている。振り返った。顔がゆがみ始めている。変身するのか? どんな形態になるのだ? 立ち止まる。私を待っているようだ。私を倒す自信があるのか?
追いついた。もう少し! 狙いを付けられる位置まで、もう少し。また、走り始めた。なんて早いんだろう! 悪夢のようだ。白髪頭の初老の男が、まるで一○○メートルランナーのように早い!
川に向かっている! どうする気だ。私と対決するのか? 私と。返り討ちにあわせるつもりなんだ。
追いつけない! 追いつけない!
また、立ち止まった。振り返る。まるでコウモリのような顔になっている。あれが『インヴォルヴド・ピープル』というものなの? 父さん、父さん、なぜあんなやつらを救おうとしたの? 母さんを巻き添えにしてまで。
また、走り出した。もう足がもたない! 考える気力もない。
街灯の明かりが赤い。昼間寝ている時に。いいえ。それではあのケダモノと同じだわ!
また、立ち止まった。こっちをみている。私を待っているの? まさか。そんなことはあり得ない。
ここは、どこ? 川だ。大きくて広い川。いけない! 泳いで逃げる気なんだ!

マヤは、青年の顔を見上げる。真剣な顔。だめ、怖い顔、しないで。わたしは怖い。あなたが怖い。あなたを失うのがこわい。
「だめ……」
「……ぼくの事をなんとも思っていないの?」思わずそう言ってしまって、マコトはひどく後悔した。

河川敷の公園に降りていく。後を追う。何組かのカップルがその男の顔を見て逃げていく。公園に残ったのは、子供だった。中学生ぐらいの男の子と女の子。こんな時間に何をやってるの? なぜだか男の子がぷかぷか浮いている。
あいつは立ち止まる。私に襲いかかる気だ。私はコートからアーマライトを取り出す。
「あんたたち、逃げなさい! そいつは『吸血鬼』なのよ!」女は叫ぶ。

言葉は虚空に放たれると取り戻す事が出来ない。
二人は黙ってしまった。マコトはマヤの端正な横顔を見つめている。そんなんじゃないんだ、マヤ。ぼくは君を愛しているんだ。ぼくは、君を離したくないんだ。
突然、マヤの様子が変わってきたのに、マコトは気がついた。
「……だめ。その人を、殺しちゃだめ!」
「へ?」マコトは思わずマヤの顔をのぞき込んだ。
マヤは耳を押さえて、ぶるぶると震えている。
「だめーっ!」マヤは、だっ、と走り出した。
夜の公園に、日向マコト一人残された。

「き、きゆーけつきぃ? 吸血鬼って言ったの」シンジは空中でじたばたしながら言った。
「そうみたいね」アスカは、シンジの頭に手をかけた。いざとなったら二人とも飛行してこの場を離れるためだった。
「なにするんだよ?」頭にアスカの細い指がかかっているシンジは、なぜか 恥ずかしくなった。

冬月の顔が変貌していた。温厚そうな好々爺(こうこうや)といった顔は、赤くつり上がった目と、とがった耳、そして口から突き出した二本の犬歯によって、獣の顔に変わっているのだった。
ミサトは銃を構えた。重心を落として、歯を食いしばり、引き金を引いた。ば、ば、ば。弾丸はすべて命中した。そのたびに冬月の身体から白い煙が立ち上った。
「わわわ」シンジは素っ頓狂な声を上げた。一瞬その怪物のような男と目があった。シンジは震え上がった。風下にいたアスカは、まるで塩酸のような息が詰まる匂いが漂って来るのを感じた。
冬月はよろよろと歩き始めた。

「まちなさい!」銃を構えた女が、背後から撃とうとしたとき、信じられない事が起こった。小柄な人間ほどもある黒豹(くろひょう)が、その吸血鬼と女との間にわって入り、女を威嚇するように吠(ほ)えたのだ。
「なんでヒョウが!? どっから来たんだよ、あんなもん!」シンジは空中で泳いで逃げようとする。
「『インヴォルヴド・ピープル』……」アスカはつぶやいた。
シンジはその単語をどこかで聞いた事があった。しかし、いまは恐ろしさのあまり、舌がかじかんでしまったみたいだった。
「な、なによ……これ」女は激しい非現実感にとらわれた。なにもかもが悪い冗談に思えた。ヒョウは彼女を威嚇するようにもう一度吠えた。
「どきなさい、どかないと撃つわよ」女は銃口をヒョウに向けた。

黒豹(くろひょう)は、銃をまったく恐れず、女に飛びかかった。前足で女を突き倒した。倒れた女の腕を押さえて、顔を近づけ、もう一度吠(ほ)えた。女はヒョウを突き放そうともがいた。暗闇の中で、女と黒豹(くろひょう)がとっくみあっている。

「アスカ! 魔法でなんとか出来ないの! あの人、ヒョウに食われちゃうよ!」シンジが叫んだ。
「……」アスカは答えなかった。どうすればいいか、迷っていたのだ。相手も……人間かもしれないのだ。いいえ、きっとそうよ、あの吸血鬼を助けに来たんだわ。
「なんとかしろよ、アスカ!」
「やかましいっ」アスカは、ぷかぷか浮いているシンジの肩に手をやって、くるくるとコマのようにぶん回した。

女と黒豹は、上になり下になり、ごろごろと転がりながら、もみあっていた。とにかく二人(?)を離さないと、アスカは思い、心の中で豹にロックオンした。
浮遊魔法をヒョウにかけようとした、その時、女は銃をなんとかつかむと台座でヒョウを殴りつけた。黒豹はぐったりとなった。
女は立ち上がり、銃をつかむと、軽く片足を引きずりながら、吸血鬼を追跡する。

アスカは、回り続けるシンジをほったらかして、そのヒョウに近づいた。ヒョウに奇妙な変化が起きていた。黒い体毛がみるみる身体の中にしまわれていくように短くなり、同時に骨格がめりめりと音を立てて変形していく。
「……女の人?」アスカは思わずつぶやく。
ほんの数秒で、黒豹は、若い全裸の女性に変貌を遂げてしまった。気を失っただけみたいだった。
「あ」アスカは再びシンジの元へ走っていき、彼の回転を止め、いきなり彼の着ていた体操着の上着をむりやり脱がす。
「なにするんだよ!」
「あのままにするわけにいかないでしょ! ばかっ」
「あのまま、っていったい何が起こったんだよ!?」回っていたシンジは何がなんだかわからないのだった。
アスカは、その女性にシンジからひっぺがした体操着をかけてやると、シンジのランニングシャツをつかんで走り出した。
「こ、こ、こらー」まるで子供に引っ張りまわされる風船のようなシンジは叫んだ。アスカはかまわず走った。
街灯の無い、河川敷からばすっ、ばすっ、と音がする。あの銃をもった女性が吸血鬼を、いや『インヴォルヴド・ピープル』を撃っているのだ。

「なぜ、なぜ死なないの!」女は叫んでいる。
「なぜこれが効かないの!」
冬月は膝をついてじっとしていた。胸板から白い煙が上がっている。
「……それは、効かないのだ。わたしには」まるでのこぎりをバイオリンの弓で弾(ひ)くような、高く揺れる声だった。冬月の普段の声とはまるで違った。変身に伴って、声帯も変化したからだった。
女は冷たい恐怖に、体中が凍り付くのを感じていた。効かない! しかし、こいつには効かないなんで事があるわけがない! これはハッタリなのだ。きっとそうに違いない!

「それは効果がないんだよ、ミサト」背後で聞き慣れた男の声がした。
ミサトは振り返らずに、叫んだ。
「なんでよ!! 父さんの作った薬がなんで効かないの!」
足音が近づき、そしてミサトを追い越して、加持リョウジは吸血鬼と彼女の間に立った。
「それが効かないのは、きみの父親の実験のせいなんだ、ミサト」リョウジは静かに言った。
「そ、そいつに背中を向けると、血を吸われるわよ!」
「そんな心配はない。冬月さんは、そんなことはしない」
「なんで名前を知ってるの!」
「今日、昼間調べたんだ。この人の経営する古本屋に行ったんだ。君はあの水のバケモノの行列に出会った時に、この人を発見した。そうだろ。そして復讐(ふくしゅう)のときが来たと思った、……そうだろ?」
「そこまでわかってんなら、そこをどきなさい!」
「どかない。ぼくは君を人殺しにはしたくない」
「そ・い・つ・は、『人』じゃないわ!」ミサトは叫んだ。
「いや、人間だ」リョウジの言葉は静かだが断固とした調子だった。
「人間じゃない! そいつは、そいつは、わたしからすべてを奪ったわ! そいつは、そいつはわたしの父さんと母さんを殺した!」

アスカとシンジにはその男性に見覚えがあった。魔女の呪いを祓ってもらいに家に来たルポ・ライターだった(第六話参照)。アスカは立ちすくみ、シンジはぷかぷか浮きながら、二人の男女を見ていた。

「大丈夫かい?」
マヤが目を開けると、目の前に、息を切らせたマコトの顔があった。終わってしまった。すべて、終わってしまった。マヤは思った。大好きなあなたとの時間が、すべて終わってしまった、と思った。
マヤの身体には、マコトの上着が掛けられていた。マコトは黙ったまま、マヤが走りながら脱ぎ捨てた服を、彼女の前にそっと置いた。
「……何も聞かないの?」マヤは言った。
「立てるかい?」彼は言った。マヤはうなずくとマコトは後ろを向いて言った。
「服をきながら、話してくれないか? いったい、どうしたんだ」

「あれは、事故だったんだ、ミサト」リョウジは言った。
「なんで、あれが事故なのよ! なんで! 父さんと母さんは、あいつに、あいつに血を吸われて殺されたのよ!」
「そうかもしれない。結果として。しかし、あれは事故だ。世界中で、『インヴォルヴド・ピープル』のうち、吸血症候群にある人々を、秘密裏に治療しようとした科学者や医者は、そんな事故に巻き込まれている。自分自身に抑制血清を注射したあと血を吸われると、失血死することがあるんだ。だから、あれは事故なんだ」
「そんな馬鹿なこと言わないで! 吸血鬼を元に戻すのになんで血を吸われなきゃならないの!」
「きみは、きみの両親がなにをやっていたのか知らないで、仇(かたき)を討とうとしていたのか! 吸血衝動を抑える血清を作るための過程では、逆に被験者の吸血衝動を極限にまで高めなきゃならないんだ! そんなことも知らないのか!」
「そんなことも知らないわよ! ……知ってるのは、母さんが優しい人だったてことだけよ! 父さんが、あたしを愛していたってことだけよ!」ミサトの目から涙があふれ出た。
「あんたになんか、わからないわよ! ……あの日、あの日あたしは、父さんとケンカしたのよ! ボーフレンドのことで! あたしは父さんに、ひどい悪態をついて、そのまま家を飛び出したのよ。……どこにも行くあてがなくて、真夜中に帰って来たら、……真夜中に帰ってきたら……」ミサトは子供のように顔をゆがめて泣いていた。
「あやまることもできないじゃない! ……死んじゃったら。……父さんに謝ることもできないじゃない……」
リョウジは、ミサトを抱きしめるために近寄ろうとした。
「寄らないで! 近寄ると撃つわよ! あんたも撃つわ!」
リョウジはかまわず近寄った。
ミサトはほとんど躊躇(ちゅうちょ)せず、引き金を引いた。
「あ」アスカは思わず声を上げた。ばばばば。弾丸は全部加持リョウジの胸板に当たった。透明な液体のしぶきが飛び散った。リョウジは、痛みに顔をしかめながら、ミサトの持つ銃の銃身をつかむと、ひねり上げた。
「こんな薬品では、吸血鬼は死なない。きみは勘違いをしている。これは彼らが衝動を抑えきれなくなって、研究者を襲おうとしたとき、威嚇するために開発されたものだ」
「なによ、ばかーっ」ミサトは、分厚いコートを脱ぐといつも胸からかけているロザリオの鎖を引きちぎり、片手にかざした。
「だったら、こいつで、殺してやるわ!」
「そんなものが何の役に立つんだ、ミサト。『この宇宙』には、きみの好きな神なんか、いないぞ。われわれは、アダムとイブの子じゃないんだからな」
「あ、あんたは『インヴォルヴド・ピープル』の肩を持って! あいつらは汚らしい怪物ばかりじゃない!」
リョウジはミサトから銃をひったくり、川の中に放り投げ、つかつかと彼女に歩み寄り、ミサトのほおを平手で殴った。ばしん、その音は、数メートル背後にいたシンジとアスカにもはっきりと聞こえた。
「いくらきみでも、許さんぞ!」リョウジは言った。
「何するのよ!」ミサトはリョウジのほおを拳で殴り返した。
「おれを殴って、忘れろ。あの人を逃がしてやれ。さあ、帰ろう」リョウジは口の端からにじんできた血を手の甲で拭いながら言った。
「あんたはいつもそればっかり! ……自分がなんでも知ってるみたいにして! あたしを馬鹿な女だと思いたいんだわ! 音楽も止めて、いちんちじゅう、家でケーキでも焼いてりゃいいと思ってるんだわ!」
ミサトは、立ちはだかるリョウジを押しのけて、膝をついた冬月に近づこうとした。
「やめろ! そんなことをして何になる?」
「警察だって、どこだって相手にしてくれなかったわ! みんなつるんでるのよ! 自分で裁くしかないじゃない!」

「その人の言うとおりだ。わたしを裁きなさい」冬月は立ち上がった。
加持は振り返った。冬月の顔は典型的な吸血症候群のそれだった。資料の通りだった。はだけたコートの襟元から、薄い青い煙が立ち上っている。細い月の下で、冬月の影が長くのびていた。
「……葛城夫妻を殺したのは、わたしだ。わたしを裁きなさい」
「ええ、殺してあげるわ」ミサトは冬月の前に立ちはだかる。手にはロザリオが握りしめられている。
「わたしが陽光で灰になる、などという迷信を信じてはいけない。紫外線は、たしかにわたしの皮膚を焼き、代謝機能を停滞させるが、殺すことは出来ない」冬月は言った。
「……わたしを殺すには、ここを縦に切り裂くんだ」冬月は、コートの襟をどけて、首筋をミサトに見せる。
「だが、失血しただけでは、わたしは死なない。一番早いのは切っておいて、この川に逆さに浸(つ)けておくんだ。血が抜けた後に、灰になるまで身体を焼き尽くせ。そうすれば、わたしはたぶん死ぬだろう」冬月は殺されるために、ミサトをここまでおびきよせたのだ。ミサトにもそれがわかった。
「五○年前、わたしの妻と子供はそうやって殺されたんだ。だから間違いはないと思うよ」冬月は、ぽつりと言った。

アスカは、思わず両手で口を押さえた。恐ろしかったのだ。そんなことが出来る人間というものが、怖かったのだ。そして、そんな悲惨な経験を経てもなお、生き続けなければならない、この初老の男の運命が怖かったのだ。
シンジもまた、浮きながら、その男を凝視していた。

「……○○村の虐殺事件ですね」意外にも加持が、そう言った。
「きみは若いのに、そんな昔の事を知っているのか?」冬月は言った。
「……ぼくの父は、その村の生まれなんですよ」加持は静かに言った。
「中学生の時、父が亡くなったあと、日記が出てきたんですよ。ぼくはそれを読んだんです。母に止められていたんだけど。父は、その事件があったとき、若造でしたが、得意げにこう書いてましたよ。『今日、みんなで吸血鬼どもを退治した』とね」
「ぼくは、ショックを受けました。大変なショックでした。……思えば、あの時のショックが、ぼくの人生を決定づけてしまった気がする」リョウジは言った。

その時、パトカーのサイレンが聞こえた。近づいて来た。同時に、若い男女が走って来るのが見えた。
「その人を殺しちゃだめ!」若い女は叫びながら走ってくる。

「逃げるんだ、ミサト。警察に見つかると、やっかいな事になる」リョウジは言った。
「いや! いや! いや! 絶対にいや! あいつは逃げるわ、わたしの手の届かないところに!」
「……いや、わたしは逃げない。わたしは疲れたんだ。この永遠に続くかと思えるような旅に。それに、仲間の人生を犠牲にして生きのびる気はしないんだ」
「冬月さん!」マヤは叫んだ。
「きみは誰だ」冬月は言った。マヤの背後に眼鏡をかけた真面目そうな青年が立っていたからだ。
「どうしてわたしの名前を知っている?」
「いいんです! もう話しちゃったんです。もう、いいんです」
マヤの背後に立っている青年は、暗い表情で、冬月を見ていた。
「なぜ、そんなことを……!」冬月は言った。

その時、警官たちが彼らを取り囲んだ。リョウジは、目立たぬようにミサトからナイフをひったくると、自分のポケットにつっこんだ。
ミサトは逮捕され、その他の人々は警察署に任意同行を求められた。アスカとシンジも警察署にパトカーで連れて行かれた。パトカーの車内の天井に浮いているシンジがコツンコツンと当たってうるさいので、アスカはシンジの浮遊魔法を中和して席に着かせた。
「なんで最初からそれ使ってくれないんだよ」シンジは小声で言う。
「それじゃあんたのためにならないでしょ、バカ!」アスカは言った。

アスカとシンジは、警察署の小さな事務室のようなところで、しばらく待たされた。一○分後、ほとんど名前を聞かれただけで、もう帰っていいよ、と言われた。
警察署の建物の前に、父のゲンドウと母のユイが立っていた。シンジは、あるべきものがそこにある、という安心感を覚えた。
「車に乗りなさい」ユイは言った。
大男のゲンドウは助手席をつついっぱい後ろに下げて、そこに座っていたので、シンジは後部座席で小さくなっていなければならなかった。
「狭いよ、父さん」シンジは文句を言った。しかし心の中には、ちっとも不平はなかった。トランクに押し込まれたってかまわない、と思った。
「ワシだって足がつかえておるのだ、バカモノ」ゲンドウは言った。だから車に乗るのはいやなのだ。
「……」アスカは黙っていた。口を一文字に結んで、通り過ぎてゆく夜の街の灯りをにらみつけている。シンジは、そのとがったような、アスカの横顔をちらちらと盗み見ていた。
「ねえ……」シンジは口を開いた。
「なんで『インヴォルヴド・ピープル』って、いるの?」シンジは言った。誰に言ったわけではない。
「……『来訪』がすべての始まりなのよ。それが人間の遺伝子を変えてしまったのよ」ユイが運転しながら言った。
「どうして、秘密にしてるんだよ? ぼくは、今日始めて知ったんだ。学校でも教えてくれなかったし」考えてみれば、おかしな話だった。魔女や魔法使いの存在は誰でも知っている。同じ『来訪』がもたらしたものなのに、もう片っ方が秘密になっているのは。
「わからない? シンジ。あなたの隣人が、吸血鬼や狼(おおかみ)男だったとして、普通の人間はどう思い、どう行動するかしら?」ユイは言った。
「……」シンジは考えてみた。奥さんと子供を残酷な方法で殺された、あの男の人の事が浮かんだ。
「わかるでしょ? 一九一○年に彗星の尾が地球を包み込んだときに、彼らの存在は一部の人にはわかっていたわ。でも、その事実を公表したときに起こることを恐れて、それを秘密にしたの。そして、その直後に起こった『世界大戦』の後に確立された『ウィザード体制』でもそれは継承されたのよ」
シンジは『けいしょう』という単語の意味がわからなかったが、なんとなく意味はつかめた。
「それで、ずっと秘密なんだね。でも、どうして父さんや、母さんは知っていたの」
「それは、わたしとアスカが魔女で、父さんが錬金術師だからよ」ユイは言った。
車は見慣れた国道を横切り、碇家の前の坂道を登りだした。そのとき、アスカが始めて口を開いた。
「きっと、どっちかを皆殺しにするまでやめない戦争になるわ……」アスカは硬い表情でそう言った。
意外にも、ゲンドウがそれに答えた。
「そうなったら、『インヴォルヴド・ピープル』側が勝つかもしれん。彼らの正確な数はわからないんだからな……」
「あなた!」ユイがたしなめるように言った。
「いや、ありえることだよ。そいつは。……普通の人間たちは、自滅するかもしれん。疑心暗鬼になり、仲間同士殺し合うかもな。『インヴォルヴド・ピープル』は能力を使わなければ、見分けがつかんからな」ゲンドウは静かに言った。
「そんなこと、シンジがいる前で言わないで」ユイは言った。
「こいつだって、いずれは知らなきゃならないんだ。今日はいい機会だ」
車は家に着いた。

そのころ、ミサトは留置所の中で、膝を抱えていた。鉄格子のある窓から、不吉な三日月が見えた。リョウジがそばにいてほしかった。暖かいベッドの中で抱きしめてほしかった。さもないと、あの歩き疲れて帰ってきた晩の事を思い出すかもしれなかったから。
「とおさん……かあさん……」
彼女は膝の間に顔を埋めて、声を立てずに泣き出した。

思った通り、加持リョウジはすぐに帰らされた。おそらく、問題が問題だけに、ミサトもすぐに返されるだろう。わかりきったことだ。何も変わらないのだ。五○年前から。俺のおやじも、なんら罪に問われる事はなかったんだからな、リョウジは思った。
彼は、警察署から、歩いて帰った。おそらく冬月はパトカーに乗せられて、あの本屋に帰っているだろうと思った。そして夜が明けるまで、渇きに苦しめられるのだ。

マヤは、マコトと並んで歩いていた。どちらも黙っていた。
こうして並んで歩くのも最後だ。マヤは思った。ちょっとした偶然から知り合って、知らぬ間につきあうようになって。一年。ちょうど一年ぐらいになるんだろうか。楽しいことばかりだった。マコトは、優しい人だった。とても優しい人だった。
マヤは、日向の顔を見上げた。彼は正面を見据えたまま、唇を固く閉じていた。
「ありがとう」マヤは、ありったけの思いを込めて言った。冬月の古書店のある商店街の入り口の近くだった。ここで、お別れを言うのだ。
「あの人のところへ行くのかい?」マコトは言った。
「ええ」マヤは答えた。
「どうしても?」
マヤは一瞬ためらったあと、こう言った。
「ええ、たぶんひどく苦しんでいるだろうから」
「君でないとだめなのか」マコトは街路樹の下で、立ち止まった。その木の陰になって、マコトの表情は見えなかった。
「ええ、たぶん。普通の人の血を吸うと、その人も吸血症候群にする恐れがあるから……。わたしは大丈夫だから」既に変身能力を有するからだ。
「そう……」そして、マコトは黙った。ながいこと黙っていた。マヤは目を伏せて、マコトが別れの言葉を言うのを待った。

車のヘッドライトがいくつもマコトの姿を照らし出した。けれど一度も彼の表情は見えなかった。マヤは、待った。
「……マヤ」マコトは口を開いた。
「はい……」マヤは答えた。
「……正直、なんて言えばいいんだか、わからないんだ。いろんな事がありすぎて。……頭の中がまだ混乱しているんだ。どう言えばいいのかな。ぼくの世界のすぐそばに、違う世界への入り口があったって感じだ」
マコトは、突然派手な美人になってしまった、赤木博士の実験(第七話参照)を思い出す。途中までは赤木博士の理論が正しいとすると、『魔界』は虚数と同じだった。極小にして極大ともいえた。どこにも存在しないし、逆に偏在する可能性があるのだ。
マコトは言葉を継いだ。
「……マヤ、ぼくは考えていたんだ。ぼくは誰を愛してるんだろうと。ぼくは、ある女の子の、どこを愛しているんだろう? って。……ぼくは、その女の子の、優しくて、明るくて、素直で、涙もろくて、お弁当づくりの上手なところが、好きなんだ。……それは、ああ! うまく言えないんだけど、変わらないんだ! ……好きだってことは、好きなところが、その他のところが、本当はどんなであっても好きだってことに、気がついたんだ」
「ぼくはそればかり考えていたんだ。……わかったよ。……ぼくは、伊吹マヤを愛してるんだ。いまも、ちっとも変わらずに。……ぼくは、君を愛してる」
マコトは、一歩踏み出して、マヤに近づいて来た。マコトは、マヤを見下ろしていた。手をさしのべて、マヤの白いほおを、人差し指で、そっと拭った。そしてキスした。マヤは、おそるおそる、両手をマコトの背中にまわした。マコトは、マヤを抱きしめた。

碇シンジは寝付けなかった。目を閉じると、あの怪物のように変貌した男の人が、ここを切り裂け、と首筋をすっと指でなぞる光景が浮かんでくるのだった。
シンジは、レイのいないベッドに、一人で丸くなった。窓から、細い月が見えた。耳を澄ました。
アスカの部屋から、ゴトゴトガサガサと音がした。時計を見る。一時。まだ起きているのだ。
小さなホムンクルスのレイがいない寂しさが、シンジをしてそんな行動を取らせたのかもしれない。ともかく、普段であれば決して取らない行動をシンジは取った。
彼はベッドから起きると、アスカの部屋の前まで行き、ドアをノックした。
「誰よ、こんな時間に!」間髪入れずにアスカの怒ったような声が、木製のドアの向こうから聞こえてきた。シンジは、アスカはぼくが来るのを待っていたんじゃないだろうか? と、ふと思い、すぐさま、そんなことはあるはずがない、と思い直した。
「……アスカ、今日の事、どう思う?」シンジはドアを閉めたまま言った。彼はドアを開けて、アスカの部屋に入るなんて思いもよらなかったのだ。
「どう思うって、何をよ! ……今日の出来事は、一○○年間も繰り返されてきた悲劇の一つに過ぎないわ!」ドアの向こうからアスカの怒鳴り声が聞こえた。
「……そんな言い方って──」
「じゃあ、どう言えばお気に召すの? ……そもそも、あんたは、おじさまが車で言った事の意味が分かってるの?」
「分かってるよ、もし普通の人間と『インヴォルヴド・ピープル』が戦争したら、彼らが勝つかもしれないって」
「それだけ?」
「それだけ、って……それだけだよ」
「あんたは、とことんバカね! 『魔女狩り』って言葉知ってる? 『スペインの宗教裁判』って知ってる? 『コットン・マザー』って男を知ってる?」
「……あんまり知らない」
「そういうだろうと思ってたわ! ……いい、『来訪』までの人類の歴史では、『魔女』は、人間の敵だったのよ! 人間は裁判と称して魔女の疑いをかけられた女を川の中に放り込んだり、内蔵が破裂するまで水を飲ませたり、串刺しにしたり、縛り上げて火で焼いたりしてきたわ! 『魔法使い』だってそうよ、ロシアではユダヤ人を『魔法を使う悪魔の兄弟』として虐殺したわ! そしてそれは全部『来訪』前のこと。ホントに魔法を使える人なんていやしなかった。みんなぬれぎぬだったのよ。いまみたいに『魔女』と『魔法使い』がおおっぴらに尊敬された事なんて、人類史上希有(けう)の事なの」
「それらはみな『来訪』と『世界大戦』がもたらしたもの。でも、いつまた歴史は繰り返すとも限らない……」アスカは黙った。
「それと、父さんの言ったことと、どういう関係があるんだよ」
シンジがそう言うと、アスカの部屋が勢いよく開いて、いつもの赤いパジャマを着たアスカが現れた。シンジは、アスカの目が、なぜか赤いのに気がついた。
「……まだ、わかんないの! 『来訪』は人類を変えた。あるものはあたしとあんたみたいに『魔法』が使えるようになった。……そしてあるものは『魔法』が使えるようになるかわりに、自分の身体そのものが『魔法』になっちゃったのよ!」
アスカはシンジをにらみつけていた。シンジはふいに、アスカのパジャマの胸のところのボタンが一つはずれているのに気がついた。シンジは思わずそれを見ていたが、アスカは妙に興奮していて、シンジの視線に気がつかなかった。
「おじさまが暗に言おうとしてたのはこういう事なの! ……普通の人間と『インヴォルヴド・ピープル』が、もし全面的に殺し合いを始めたら、あたしやあんたは、どっちの側につくのかって事よ!」

ばたん! アスカはドアを閉めた。
シンジは、自分の部屋に帰った。そしてアスカの言葉の意味を考える。そんな馬鹿な事が。シンジは信じられなかった。けれども、魔法使いであることが学校に知れ渡ってから、クラスメートのシンジに対する態度が、微妙に変わってきたのを思い出す。あれは、羨ましがっているだけなんだろうか? 羨ましいという気持ちは、きっかけがあると、……妬(ねた)みに変わるんじゃないだろうか?

そのころ、一階のゲンドウとユイの寝室で、小さな妖精が目をさました。あわててシンジを探す。けれどこのホムンクルスが愛する少年の姿はなく、代わりに眠っている少年の母親の髪が目に入った。
あれは、二階から聞こえてきたのだった。ガラス瓶の中で、妖精のレイは思った。まさか、二人で一つの部屋に……。あのいやな女の子と、一つの部屋に……。レイは、透明な液体の中をくるくると回転した。ガラスの壁をたたいた。外に出して! ……わたしを大きくして!

シンジは寝付けなかった。あの出来事とアスカの言葉と、そしてアスカのすこしはだけたパジャマからちらっと見えた膨らみが、頭の中でぐるぐる回っている。やだなあ……。シンジは思った。……なんで、こんなもん付いているんだろう。なんで必要も無いときに固くなるんだろう。

シンジが眠りに落ちたのは、それから三○分後の事だった。勉強机の近くに置いてあるくずカゴの横には、狙いが外れた丸めたティッシュが転がっている。

静かで暗い夜のとばりが、錬金術師一家の上にかかっていた。留置所で眠る女の上にも。その女の事を愛する男の上にも。真新しいシーツの上で、しっかりと手をつないで眠る恋人たちの上にも。そして渇きを癒やした吸血鬼のうえにも。夜だけは平等であった。

その夜の一点に、穴が開いていた。その穴のサイズは、ほぼ水素の原子核、つまり陽子一個分の大きさだった。穴はすすすと移動し、ガラス瓶をたたき疲れて眠る、小さな妖精のそばにやってきた。
その穴から、何かがのぞいていた。

そのころ、アメリカ合衆国のアリゾナ州にある巨大な要塞の中で、動揺が広がっていた。職員たちが走り回っている。誰かが、『ウィザード』に連絡を! と叫んでいる。
それは、始まりだった。その小さな点は、シンジの、いや、彼のまわりのすべての人々の運命を大きく変える事になる。しかし、相変わらずけばけばしい原色の、エッチな夢を見ている十四歳の少年はそれを知る由もなかった。