第二話「レイの病気と『シゲル君』登場!」

「マキコちゃん、元気い?」ゲンドウは息子の部屋に勝手に入り、円筒形のガラス瓶の中に浮かんでいるレイに話しかけていた。
「あれえ、どうしたの? こっち向いてくれないのかな」ゲンドウは猫なで声で話しかけるが、透明な培養液の中の小さなホムンクルスは、そっぽを向いたままだった。

「とうさん! 勝手にぼくの部屋に入らないでよ!」
「なんだ、シンジか」
「『なんだ』じゃないだろ! ……それにレイのことをマキコなんて呼んだりして」
「おまえ、レイだなんて名どこから思いついた? ほら良く見ろ、『マキコ』って顔してるぞ」
「してないよっ。もう出て行ってよ」
「『出て行ってよ』、か」ゲンドウはさも憎々しげにシンジのモノマネをした。
「だれが、この子を作ったんだ? あん?」
「それは、父さんだけど、レイはもう一個の命なんだ。レイって呼ぶとうれしそうにするんだから、レイの気持ちを尊重しなきゃ!」
「……はーん。『尊重しなきゃ』かぁ」ゲンドウは、口をとがらせて、またシンジの口調をまねる。
「ずいぶん、えらくなったもんだな、シンジ」
「もう出て行ってよ」シンジは父親の背中を押して部屋から追い出した。尊重しなきゃ、か。ゲンドウは相変わらずシンジのまねをしながらどすどすと階段を下りる。
「こんにちは、レイ」シンジはレイに話しかける。体長わずか一五センチほどの女の子は、うれしそうにガラス瓶の内側に手をふれる。瓶の中から見ていると、シンジの顔がひらぺったく歪(ゆが)んで、面白い顔になるからだった。

「ちわーっ。宅配便です。ハンコお願いします」
「はいはい」エプロン姿のユイは台所から出てくる。
「ここにお願いします」
「……はいはい。あら、荷物はどうしたの?」
「あ、すんません。あとから歩いてきますんで」
「『歩いて』? ……荷物が?」
「ええ、自分で歩くってきかなくて」
そのとき小柄な配達人の背後に、大きな黒い影が立った。
「……あ、あら」ユイは言った。それは巨大なスーツケースを二個抱えた大男だった。髪を肩まで伸ばし、土気色の、縫い目だらけの顔をしている。
「確かに届けました。じゃ」配達人は去る。
「あなたーっ。あなたーっ」ユイは夫を呼んだ。
「なんだい、ハニー」
ユイは答えず、玄関に突っ立っている大男を指さした。
「ほう。人造人間だ」ゲンドウは大男を恐れることもなく近寄って、ぺたぺたと身体に触る。
「また随分へたくそな縫合だな……。糸が悪いんだな」
「あなた、危ないわよ」ユイが心配そうに言う。
「大丈夫だ。こいつは荷物運び用に作られたおとなしいやつだ。見ててごらん。……スーツケースを床に置け」
人造人間は、ばかでかいスーツケースを置いた。ユイは感心しながら見ている。ゲンドウはスーツケースのラベルを見る。
「……うん? ……なんだこりゃ? ドイツ語だ。お前この人知ってるか?」
「あら、いけない」ユイはそう言うと、電話のある居間まで駆け出した。
「とうさん、なにその人」シンジが二階からおりてきた。
「人じゃない。人造人間だ。……おや? ……こいつ『シゲル』て顔してるぞ」ゲンドウはまるで独り言のように言う。
「ふむふむ、いやまったく、見れば見るほど『シゲル』って顔だ」ゲンドウは息子の顔色をうかがっている。
「……べつに。……好きにすれば」シンジは言う。
「よし、こいつを『シゲル君』と呼ぼう」ゲンドウは意味もなく上機嫌で言った。

シンジはふたたび二階の自分の部屋に行き、ガラス瓶の中のレイを見つめた。
ふと思い立って、勉強机の引き出しから虫眼鏡を取り出した。
レイはまったく人間の女の子に見えた。……それも全裸の。
シンジはしばらくそうしていた。
ふと、レイの汚れを知らない無邪気な表情が目に入った。
シンジは、思春期の男の子なら誰でも感じる、ある罪悪感にとらわれた。
彼は急いで虫眼鏡を部屋の窓から放り投げた。
「……ごめんよ、レイ」シンジは言った。

こん。その虫眼鏡は、とりあえずここにいろと命令されて、ユイの薬草用菜園の真ん中につっ立っている『シゲル君』の頭に当たった。しかし彼は眉一つ動かさない。
そのときユイが、近所のおばさんに頼まれた薬を作る材料の、薬草を採りに家の中から出てきた。
「……よく見ると、あんがい男前ね」ユイは『シゲル君』を値踏みするようにじろじろと見ながら、独り言を言った。
「光栄でございます。奥様」『シゲル君』は突然そう言うと、おじぎをした。
「きゃあ」ユイは思わず後ずさった。
「……あんた、もの言えるの?」
「奥様のような方を目にすれば、道ばたの石ころすらしゃべり始めるでしょう。……その美しさをたたえんがために」『シゲル君』はそう言ってほほえんだ。ほおの縫い目がほころびそうになった。
「あら、あら、あら」ユイは言った。

「あなた、何を作ってらっしゃるの」少し乱れたショートカットの髪を直しながら、ユイは座敷を改造した実験室に入ってきた。
「いや、なに『シゲル君』の家を作ってるんだ」ゲンドウは答える。
「『シゲル君』て、あの人の事ですか?」
「そうだよ。わたしが名前を付けてやった」ゲンドウは得意そうに言う。
「……『ヒースクリフ』って名前にしません?」
「あんだ、そりゃ?」

「海みたいな広いところで泳がせてあげるね」シンジは菜園の花壇のそばに置かれたガラス瓶の中のレイに向かって言った。レイは初めて見る外の景色にすごく興奮しているみたいだった。
シンジは、『シゲル君』に手伝ってもらって、倉庫から二メートルはあろうかという水槽を運び出していた。
それはかつて『ヒロミツ』という名のシーラカンスを飼っていた水槽だった。

「ところであなた、どうしましょう? あのこと。わたしシンジの事をすっかり忘れてましたわ」ユイはかなづちを振り上げてくぎを打っているゲンドウに言った。
「わしもシンジの事なんかよく忘れる。気にせんでいいよ。あいつにそんな甲斐(かい)性あるもんか。まったく、不肖の息子だ」
「あら、じゃ、あなたは女の子にもてましたの?」
「それは秘密だ」

「とうさん、大変だ! レイが、レイが死にそうなんだ!」シンジは実験室に走り込んできた。
「なんだ、やかましい」ゲンドウはうるさそうに言う。
「レイが大変なんだよ! ぐったりとして……、とにかく来てよ!」シンジは父の手を引っぱって、裏庭に連れて行く。
菜園のそばに、水のいっぱい入った水槽があった。その中で小さなホムンクルスがぐったりと漂っている。
「おまえ、この水どうやって入れた?」ゲンドウは言う。
「え? あの水道から」
「このたわけ」ゲンドウは拳でシンジの頭をこづいた。
「このサイズのホムンクルスが培養液以外の水の中で生きられるわけはなかろうが! はやく実験室に行って培養液を取ってこい。H一五六とマジックで書いた青いポリタンクだ」
「……ごめんよ、レイ、ぼくのせいだ」
「何をぼさっとたっとる! 嘆くまがあったら走れ! この子を死なせたいのか!」
シンジは泣きながら駆け出した。

夕方になるとレイはすっかり回復した。
しかし、シンジの心は晴れなかった。
虫眼鏡のこと、レイを死なせかけたこと、それらがシンジを責め続けていた。彼は夕飯も食べずに、しょんぼりと二階に行き、ベッドにもぐりこんだ。
元気になったレイは、そんなシンジの様子を心配そうに見ていた。

その夜は満月だった。神々しい月の光が、シンジの部屋の開け放たれた窓から差し込んできて、レイのいるガラス瓶に当たり、壁に複雑な模様を作った。
そして、奇跡は起こった。レイは自分の身がすっと軽くなったような気がした。そしてガラス瓶を抜け出して、空を舞い、シンジのベッドの脇に降り立った。シンジの顔が下に見えた。そうだ。レイは普通の女の子のサイズになっているのだった。
レイはうれしさのあまり飛び上がった。そして一刻も早くシンジにこのことを知らせようと、彼の肩を揺すろうとした。
しかしその手は、シンジの身体の中にすっぽりと吸い込まれてしまったのだ。レイは何度もやってみた。しかし何度やっても自分の手は、シンジの身体を突き抜けてしまうのだった。
レイの魂だけが、月の魔力で身体を抜け出したのだ。レイは悲しくなった。
ふと気がつくと、シンジのほおに涙の跡があった。彼女はそれを指先でいとおしそうになでた。レイはシンジのベッドに横になった。そして、まだ子どもらしさの残るシンジの寝顔を、じっと見つめていた。
そのとき、意地悪な雲が月を隠してしまった。レイは自分の魂が、あの瓶の中に帰っていくのを感じた。
また瓶の中。レイは小さな泡を立てながら、うなだれた。

次の朝。
朝食を食べながら、ゲンドウとユイが話をしている。
「シンジはまだ起きてこんのか?」
「ええ、レイの事でこたえてるんですよ。そっとしときましょう」
「ふん、ばかなやつだ」ゲンドウは半熟卵の黄身をちゅうちゅうすすりながら言った。

……さて、その後『シゲル君』がどうなったかというと、実はまだ碇家にいた。
いまや彼には一戸建ての家が与えられていた。それは遠くから見ると簡易トイレに見える細長い木製の箱で、入り口には『シゲル君』と汚い字で書かれたカマボコ板が張り付けてあった。

つづく