最終話 「愛の錬金術」

『闇の王子』は、倒れている少年と、その少年を必死に守ろうとしている愚かなアストラル体を見下ろしていた。
そのとき、十四歳の少年の肉体を持つ彼の耳に、この街の様々な音が流れ込んでいた。
犬が、町中の犬たちが一斉に空に向かってほえていた。威嚇するというより、悲鳴に近い鳴き声だった。犬たちは、空に現れた黒い竜と光に包まれた半透明の竜におびえきっていたが、ようやくそれらが消えた後になって、ほえ始めたのだ。あらゆる哺乳類の敵であった「竜」なのだ、当然だろう、『闇の王子』は思った。
そして「竜」は生きとし生けるものすべての「運命を定める」、神聖な生き物なのだ。ぼくは父に操られ、原初の『光と闇の竜』の戦いを再現したんだ、『闇の王子』は思った。
また、人のざわめき、おびただしい消防車やパトカーのサイレンが聞こえた。同じだ。人間たちは変わらない。住宅ローンをどうしようとか、明日失業しやしないかとか、出来の悪い子供の将来とか、あれこれと気をもむうちに、洪水に巻き込まれて死んでしまう、か弱い草のようなものだ。
『エンキさま、どうかわれらをお導きください!』異形の人間たちが、口々に叫ぶ。あの大陸の沈んだ後だった。ぼくは彼らを導いて、大きな二つの河に挟まれた土地に上陸させた。父はぼくに、人間に文明を与えよ、と言った。ぼくは庭の草むしりをさせられる少年よろしく、人間に言葉や、栽培や、道具を使うことを教えてやった。
『ありがとうございます、エンキさま。深淵(しんえん)に棲(す)む偉大なる智恵の神よ』祈りなどという役にも立たないものはいらない。そんなもの自分らでこしらえた『神』にささげればいいのだ。お前たちが叱って甘やかせてもらうためにこしらえた、くだらない神々に。
人間がある小さな山のてっぺんで産み落とした神へささげた、面白くもない書物『創世記』において、バビロニアを経て伝わったシュメールの神『エンキ』が、人間に禁断の実を食べさせた『蛇』に変貌を遂げているのを知った時、『闇の王子』は、怒るどころか、大笑いしたものだ。
『あははははは、きみたちはそんなに智恵が怖いのか。……そんなに自由が恐ろしいのか!』自由と智恵から逃れるために、人間たちは手段を選ばない。奇怪な教義、滑稽なしきたり、きらびやかな法衣(ほうい)に身を包んだ僧侶階級。『死んだラクダの肉を食べてはいけない』。ごもっとも。束縛と無知の揺りかごの中に安住するがよい。
『来訪』は人間の、神への依存を打ち砕く最後の鉄槌(てっつい)になるはずだった。
中世、宗教改革という名の貨幣経済への迎合によって、ようやく人間は神を捨てつつあった。近世、古くさい死にかけた神にとって換わったのが『愛』だ。それも主に男女の愛。現代、人間の大好きな小説や映画やテレビドラマでは、『愛』が『神』のかわりにあがめ奉られる事になった。このとらえどころのない、近代的概念が。
……だから、貴様は生き延びたのだ。愛の女神。おまえとドゥムジの『聖(せい)婚(こん)』とはすなわち、欠陥だらけの人間の、精神の中の二つの分裂した要素、『男性原理』と『女性原理』の結合の隠(いん)喩(ゆ)なのだ。……だから、お前の信者は絶えることはない。人間は分裂したまま、無明の闇に生まれてくるのだから。『闇の王子』は消えかかる女神の霊をにらみつける。
「……『イアンナ』、もう遅いぞ。貴様への『罰』はこうだ」
青白い陽炎(かげろう)のようなものに包まれた『闇の王子』から、光の糸のようなものが何本も吹き出て来て、倒れている少年を包もうとした。
「やめて、やめて」レイは、その糸を振り払おうとする。しかしほとんど見えなくなった自分の腕をやすやすと貫いて、糸はシンジの手のひらの上の、小さなホムンクルスの死体にまとわりつき、そして包み込んだ。同時に何本かの糸がシンジの背中から胸へ向かってすっと伸びていく。
「やめて、シンジになにをするの?」レイは心の声で叫んでいる。
「……肋骨(ろっこつ)を取ってるのさ」『闇の王子』は、渚カヲルと呼ばれる美しい少年の顔で、にやりと笑った。
「殿下! ――もしや?」背後から膝をついた魔法使いが声をかけた。
「なにをあわててるんだ? 貴様が大好きな『シモン・マグスの墜落』をなぞったように、ぼくも大好きな神話をなぞってるんだ」『闇の王子』は振り返らずに冷たい声で言った。
『シモン・マグス(注)の墜落』……! そして光と闇の竜の激突。そして……。ローレンツは、自分が疲れによってではなく、畏れで震えている事に気が付いた。

((注)シモン・マグス(Simom Magus)=英語読み:サイモン・メイガス。伝説的な魔術師。神の神聖な御霊(みたま)を金で買おうとしたという伝承がある。悪魔の力を借りて空を飛んでいる時に、聖者の祈りによって墜落した)

その時、かすれて輪郭だけになりかけたレイの周りの空間が、ぐにゃりとゆがんだ。
ぼん。
空気が押しのけられる、おなじみの召喚魔法に伴う音がして、色の白い、青みがかった銀色の短い髪の、全裸の少女が現れた。
レイは突然、目の前でうずくまるように気を失っているシンジの姿がはっきりと見えだしたので、びっくりした。手の先が何か変だ。何かに触れている感じがした。硬くて冷たいガラス瓶の内側じゃなくて、もっと暖かく柔らかい物に触れている! 動かすと、感触も変わる。手をシンジの髪に持っていく。いやにはっきりした白い手が触れている。髪の感触がする。……これは、わたしのて? シンジの手のひらを見る。小さな死体が消えていた。わたしはここでいんでいない。このては、やっぱり、わたしの、て?
不思議だった。レイは、今度はシンジの背中をなでてみる。固い背骨がある。ぱんぱんとたたいてみる。ぱんぱん、と音がする。……音が。そうだ。音が聞こえるのだ。わたしがたたいたおとが、きこえる。シンジ。シンジ、おきて。わたし、なんだか、へん。

「殿下! 殿下! 何をなさるのです!! ……あなたは魔法で人間を召喚してしまった! あのホムンクルスの魂を、この人間に!」
「騒ぐな、ローレンツ。古来、これが神に対する最高にして最大の罰だったのだ。知らないのか?」
「知っております! しかし人間を魔法で――」
「貴様の大好きな規則をよく読め、ローレンツ。人間は人間を魔法で創造してはならぬ。だが、ぼくは『大いなる闇』『母なる夜』の嫡子だ。ぼくには資格が無いと貴様は言いたいのか?」
「と、とんでもございませぬ! どうかお許しを」『ウィズ・ローレンツ』は額を地面にこすりつけんばかりに平伏する。

レイは、シンジの身体をぺたぺたと触っていた。不思議だった。なぜさわれるんだろう? ぺたぺたぺた。シンジおきて。わたしをみて。なんだか、へんなことになったみたい。
「……い、いんに」シンジと言おうとしたのだった。すると、どこかから声が聞こえたのだ。奇妙な声だった。
「……いん、に」頭蓋骨が震える。聴いたことのない、女の子の声がする。あそこに倒れている、黒装束の女の子の声ではない。シンジと裸でベッドに入っていた女の子の声ではなかった。
「……ひんじ!」レイは懸命に叫んだ。
う、ううん、少年はうめいた。目覚めようとしているみたいだった。レイはシンジの肩を揺すった。

『闇の王子』は、その少女の肉体を得た、かつての女神を見つめていた。
その時、碇家の坂道を、数台のパトカーが上って来るのが見えた。その後ろに、あの相田という少年が、自転車をこいでくるのも見えた。
「しばらく待っていろ!」『闇の王子』はうるさそうに手を振った。
高台の碇家に至る道路の真ん中に、醜悪な獣が二匹現れた。複数の犬の首を持つバケモノだった。地獄の番犬、ケルベロスだった。
パトカーがあわてたように停止したのが見えた。

「……イアンナ」『闇の王子』は坂道に背を向け、全裸の少女に話しかけた。後ろで聞いていたローレンツには、その声になんの感情も感じられなかった。
「イアンナ、――いや、もはや貴様はイアンナではない。お前は『人間』だ。人間の『女』なのだ」少女は、少年をかばったまま顔を上げた。『闇の王子』と同じ赤い瞳が彼を見上げていた。あどけない、赤ん坊のような表情を浮かべていた。
「――弱きもの、汝(なんじ)の名は『女』。『女』よ! おまえは月のものにくるしみながら成人し、痛いだけの破(は)瓜(か)の時を迎え、やがて子を孕(はら)む。産(さん)褥(じよく)は地獄のように、血と胎盤とともに赤子を産むのだ。乳首をふくむ赤子の愛(いと)おしさに目を細めるのも束(つか)の間、苦労に苦労を重ねた子はすぐにお前の元を去る。おまえの乳は垂れ、目尻には皺(しわ)が刻まれて、乙女の美しさは夢のよう。お前は醜く年を取る。声はしわがれ歯は抜け落ちるだろう。背中は曲がり、やがて階段を上るのも苦労するだろう。お前の骨は隙間だらけになり、ある日、ぽきりと折れる。寝込んだおまえは、汚物を垂れ流し、中年になった我が子に、見とられながら息を引き取るのだ。しかし、『天国』や『極楽浄土』など、この宇宙にはないぞ! お前は焼かれ、わずかばかりの骨を残して灰になるのだ。……それで終わりだ。おまえの存在は永遠に消えるのだ。一年も経(た)てば、子や孫さえにも、お前がこの世に生きていたことすら忘れ去られるだろう」
レイは、きょとんとした顔で、怖い顔をした『闇の王子』を見つめていた。言葉の意味がさっぱりわからなかったのだ。
「これが、女神であった『イアンナ』への罰だ。受け取るがよい」
その時、シンジは寝返りを打った。レイは、愛しい少年の顔をのぞき込んだ。その『女』の白い横顔には、愛情と不安があった。『闇の王子』はその白い横顔を見ていた。胸の中に奇妙な感情がくすぶっていた。しばらくして、それが『嫉妬』であることに気が付き、恥辱を感じた。ぼくはもうこの世界にはいたくない、と思った。
「……息を吹き込んでやるんだな、『女』!」彼は苦い声で言った。
レイは、シンジをそっとあおむけにして、口をとがらせて、少年のかすかに開いた唇に重ねようとした。

その時、アスカは、何者かに揺すられて、気を取り戻した。シンジだと思い、「あ」と息を漏らしながら目を開けた。目の前に毛むくじゃらの猿の顔があった。モン吉だった。「竜」が去ったので、ようやく主人の元に駆けつける事が出来たのだ。
「……モン吉、ありがと……シ、シンジは?」
アスカは上半身を起こした。うなじから背中にかけてきりきり痛んだ。この美しい魔女である少女は顔をしかめながら、シンジの立っていたあたりを見て、そして凍りついた。あのホムンクルスとそっくり同じ姿をした、『人間』の少女が、シンジの上におおいかぶさり、キスしようとしているのだった。
「……レイ?」アスカは声を出した。
全裸の少女は、アスカの方をちらりと見るが早いか、すっとシンジにキスをするのだった。まるでアスカに邪魔されないうちにと、急いだように。

シンジは、暗闇の中にいた。春の陽光を浴びて、ガラス瓶が何度も何度も縦に回転しながら、道路に落ちて、ぱぁん、と割れた。何度も割れた。その中に、レイが居た。彼を見ていた。ぱぁん。死。沈黙。彼は絶望する。真っ黒な悲しみが彼を包む。レイがなぜ死ぬ? レイが何をした? レイは何もしなかった。瓶の中で、ぼくがのぞき込むとうれしそうに回っていただけだ。なんの罪がある? なんの罪の償いで死ななければならない? 理不尽じゃないか? 先生が学校で言っていた。「『来訪』は人間を『原罪』意識から解放したという学者もいます」。人間は、それまで『原罪』を背負っていたのだ。でもレイには『原罪』すらないのだ。ふたたび瓶がくるくると回る。空には恐ろしい竜が浮かんでいる。竜は罰だ。ぼくやアスカや罪もないレイに罰を与えにやってきたんだ。あいつは学校や中間テストや体育の授業みたいなものなんだ。……消えてしまえ! レイが死ななければならない世界なんて、消えてしまえ!
その時目を開けた。光が差し込んできた。白い顔をした美しい少女がシンジをのぞき込んでいる。赤い、吸い込まれるようなきれいな瞳。唇はうっすらと開かれていた。ぼくは、どこかでこの子に会った事がある。
「……ひ、ひんじ」その子は言った。ひどくしゃべりにくそうだった。
「……?」シンジは首をひねった。その時、ようやくその少女が誰に似ているかわかった。透明な液体の入ったガラス瓶の中で、赤い目をぱちぱちさせてはね回っていた小さな少女。
「……レイ?」
うんうん、その少女はそう言わんばかりに必死でうなずく。
「……レイ?」
うんうん。
「レイ! ……なぜ? ……君は死んだはず……」シンジは手のひらを見る。気を失う直前まで、そこに、小さな亡きがらがあったはずだ。しかし、そこには何も無かった。
「……に、人間に生まれかわったの?」
わからないわからない。レイは一生懸命、首を振った。

『ウィズ・ローレンツ』はよろよろと立ち上がり、この二人に近づいていた。アスカもまた彼に引き寄せられるように、彼らに近づいた。あの男の目に、その『邪眼』の目の中に、ある力が発現しつつあるのに気が付いたからだ。
「……だめよ、ローレンツ」アスカは、シンジとレイと、『ウィズ・ローレンツ』の間に割って入り、震える声で言った。
「どけ……。この少年は『ソーサラー』だ」『ウィズ・ローレンツ』は言った。
「ちがうわ……ちがう、ちょっととりみだしただけよ」アスカは言った。
「とりみだしただけで、この少年は、地球という惑星を宇宙の塵(ちり)にしてしまおうとしたのだぞ! 殿下とわたしと、それに……お前がいなければ、今頃、全人類の夥(おびただ)しい死体は、大地の無数の破片とともに宇宙空間を漂っていたところだ。その少年は、まぎれもなく、反社会的魔法使い、すなわち『ソーサラー』だ! わたしは『ウィザード』の一人として、その少年を『ソーサラー』と認定し、直ちに処刑する」
「……あの『闇の王子』とあなたがいなければ、シンジは『反竜』を召喚する事はなかったわ」
「屁(へ)理屈を言うな、アスカ。お前の功績に免じて、わたしに働いた無礼の数々、違反の数々は不問にしてやってもよい。しかし、これだけはだめだ。その少年を生かしておくわけにはいかない。お前も魔女の端くれならわかるだろう? われわれは人類の生存を脅かす魔法使いの存在を容認するわけにはいかない」
『ウィズ・ローレンツ』は言った。
「ええ……、ええ。そうよ……。でも、だめ……、殺してはだめ」アスカは、そのとき、なぜか自分が泣いているのに気がついた。涙の滴が、黒いワンピースの胸元にぽとぽとと落ちていた。なんで、わたしは泣いているのだろう? アスカは思った。
「……だめ、シンジを殺してはいけないわ」アスカは言った。
「非論理的だぞ、アスカ! お前にはこの少年の罪の大きさがわかっている。……なぜだ? なぜこの少年を弁護する? この少年に恋しているからか? しかし、見ろ! この少年はホムンクルスと愛しあっているなどと言った。そして、そのホムンクルスはいまや人間となったのだぞ。お前が入り込む余地はないぞ」
「……わかってるわよ、……だけど、だめ」アスカはまるで幼い子供が、だだをこねるように言った。この少女は十四歳にして、大学の教養課程を全て終えていた。魔法に関しても、知識に関しても、並ぶのもがないと言われていた。しかし、その少女の心を、馬鹿げた、まったく理不尽な想いが捉えていたのだ。シンジが死んでしまったら、もうトーストを焼いてもらえなくなっちゃうじゃない。……コーヒーを入れてもらえないじゃない。……わたしが座っている前で、バターを塗ってもらえないじゃない。

「ローレンツ、その魔女の言うとおりだ。その少年に手を出すな!」『闇の王子』は突然言った。
「な、なぜです、殿下! この少年は世界を崩壊させるところでした。あなたによると『イアンナ』から『メー』を授かったという。しかし彼は、世界を焼きつくす『世界の王』なのです。『イアンナ』に愛されたものは『世界の王』となるという。ですが、この十四歳の、……知識も道義的責任も持たぬ、たった十四歳の中学生は、いつでもわれわれの地球を吹き飛ばす事が出来るのです! ……どうか」
「だめだ、ローレンツ」『闇の王子』はそう言って、裸の少女がすがりついている、かつてのクラスメートを見た。碇シンジは、ぼうぜんと『渚カヲル』を見上げている。
「なぜです? 殿下、われわれに破滅の恐怖と四六時中隣り合わせに生きろ、とおっしゃるのですか? われわれ人類の命をこの少年の手のひらに載せろ、と」
「だから、だめだ。ローレンツ。この少年を殺してはならない」
「ですから、なぜです?」
「――それは、時が来れば、誰の目にもわかるだろう。ぼくには、『それ』が見えたのだ。あのぶつかり合う竜たちを遮蔽魔法で包み込んでいる時に、その光景が見えたのだ。それはまるで陽炎(かげろう)のように揺らいでいた。まだ不安定なのだ。しかし『それ』は間違いなく、父上のご意志なのだ。――だから殺してはならぬ」
「何のことかわかりませぬ。が、殿下、あの少年を生かすのは、『大いなる闇』のご意志なのですか」
「――そのようにとってもらってもよい」
「……な、なんという事だ! ……なんという……」『ウィズ・ローレンツ』は嘆くように天を仰いだ。

「あ、あの……ぼくは何を召喚したんでしょうか?」首にレイの両手が巻き付いているシンジは、おどおどと言った。『ウィズ・ローレンツ』は怒りにぎらぎらと光る青い目でシンジをにらみつけた。アスカは、黒いワンピースの袖で目をごしごしこすったあと、ふりかえり、とりなすように言う。
「あんたは、『反物質』で出来たドラゴンを召喚したのよ」
「『反物質』? ……それってなに?」シンジはさらに問う。アスカの背後で、ああ、と『ウィズ・ローレンツ』はまた天を仰ぐ。
「――あのね、普通の物質の原子は、正の電荷を持つ原子核と負の電荷を持つ電子とで構成されてるでしょ? それは知ってるわよね? 『反物質』はその電荷がそれぞれ正負逆になっている物質の事なのよ」
「だったら何がいけないの? ――くっつくとか?」アスカの背後で、トレードマークのバイザーが取れてしまった『ウィザード』は、頭を抱える。
「く、くっつかないわ。『対消滅』といって、爆発するのよ。いえ、爆発的なエネルギーの解放が起きるのよ。それは最も純粋で効率のいい、物質からエネルギーへの変換よ。たとえば数ミリグラムの『反物質』でも、この界隈(かいわい)を高台ごと吹き飛ばし、巨大なクレーターに変える事が出来るわね」
「……そしたら、ドラゴンっていうと――」
「――その爆発は、地殻をやすやすとはじき飛ばし、地球のコアを破壊するだろう。そして自転の遠心力が、裂けたオレンジのような核の壊れた惑星をバラバラに引き裂いて、宇宙にばらまいていただろうな」『闇の王子』がそう言った。
「……すると……」
「そうだ、シンジくん。きみはここにいるアスカや君の両親やクラスメートや、担任の教師のみならず、あらゆる世界中の見ず知らずの人々、動物、植物を、すべて吹き飛ばすところだった。……きみは危うく世界を滅ぼすところだったんだよ」『闇の王子』は腕を組んで言った。
「……え」シンジは、黙ってしまった。なんと言えばいいのか、わからなかったのだ。頭の中が真っ白になってしまったのだ。普通の少年が、お前は世界を滅ぼしかけたと言われて、すぐに答える事が出来るだろうか?

「ローレンツ!」『闇の王子』は初老の魔法使いに言った。
「なんでしょう、殿下」
「ぼくは、もうこの世界から去りたい。手短に言う。この少年を、すぐさま極東地域の『ウィザード』に任命するんだ」
その言葉に、『ウィズ・ローレンツ』ならびにアスカや、シンジはあぜんとした。やかましいパトカーのサイレンと音と、犬たちのほえる声が響きわたっていた。
「な、なにをおっしゃるんですか! 殿下――このものを『ウィザード』になどと」
「台湾の『ウィズ・ワン』、ワン大人が死んだ後、空位だったのだろう? 極東地域は。ならばちょうどいいじゃないか。……ぼくは、それにも『作意』を感じるがね」
「ち、ちょうどよい、などと言う場合ではありません! 事もあろうに、この少年を……! あんな事をした少年を……! まだ十四歳の少年を」
「『体制にとって脅威であるものは、体制に取り込む』のだ、ローレンツ、政治の基本だ。この少年を『ウィザード体制』に取り込んで、手綱を取るのだ。考えてみろ、それしか方法がないことに気がつくだろう」
「……」『ウィズ・ローレンツ』は考え込んでいた。途方もない考えだが、『闇の王子』の言うとおりだ。この少年が『ウィザード体制』に敵対する国家、宗教・政治団体の手下になったとしたら……。そうだ。それだけは避けねばならん。
「……わかりました。この者を『ウィザード』に認定するよう、『ウィザード会議』に提議しましょう。――しかし、半年、いえ、せめて一ヶ月お待ちください。この少年はいくらなんでも、無知過ぎます! 発表までに猶予をください」
「かまわん、任せる。しかし、ぼくがいつも地球を監視しているのを忘れるな」
「わかりました」

『闇の王子』はすたすたと歩いて、全裸の少女と地面に座り込んでいる、碇シンジの前まで歩いて行った。
「――そういうことだ。シンジくん。きみは『ウィザード』になるのだ。いわば人類のリーダーの一人だな」
「そ、そんなこと勝手に……」シンジは抗議するように言った。
「いや、だめだ。きみは『ウィザード』にならなければならない。ぼくは超古代に、うっかりしていたんだ。ちょうどこんな風に、一人の男が、たまたま強大過ぎる魔力を手に入れた。ぼくは人間をかいかぶっていたんだ。しばらく放っておいても大丈夫だと思っていた。結果、大陸が一つ沈み、人類は石器時代に逆戻りしてしまったんだ。だからきみは現体制の中に組み込まれなければならないんだ」
「……そ、そんな……」
「選択の余地はないぞ、シンジくん! そうしなければ、きみは台風の目になるだろう。『ウィザード体制』が確立されて一○○年、そろそろほころびが見えてくる頃だ。きみの存在はそのほころびを大きな裂け目にするだろう。世界を二つに割った戦争が起きるかもしれない。きみはそうしたいのか? それが望みか?」『闇の王子』は言った。
「い、いや戦争なんか望んでいないよ……でも」
「ならば、議論の余地はない。ぼくはもうこの世界を去るよ。シンジくん。もうきみとも、その」と言って、『闇の王子』はレイをにらみつけ、吐き捨てるように言った。「その『女』ともお別れだ。気がついただろうが、その『女』は、きみの愛していたというホムンクルスが復活した姿だ。一緒に暮らすなりなんなり、好きにするんだな」

一方、アスカは『闇の王子』と、彼の足下にいるシンジと、そして裸のレイを見ていた。そして、形容しがたい、経験したことのない感情がわいてくるのを感じていた。
『闇の王子』は一同に背を向けて、「さらばだ。諸君。ぼくはたぶん、数万年後にまた来るだろう。……じゃ」
だしぬけに、彼は光輝に包まれた。渚カヲルの肉体が急速に縮んで球体になった。数秒後、中からまったく見たこともないような生物の姿が現れた。それは白く曲がった足に、細い胴体を持っていた。腕は飛び魚のヒレのように大きな長円の羽と一体になっていた。大きなルビーのような赤い瞳だけの目が付いている青白い顔は、刃物のように鋭くとがり、全体がくちばしのようになっていた。
「……天使?」シンジの脳裏に、なぜかそんな単語が浮かんだ。宗教画に描かれた天使とは似ても似つかないけれど、その姿は、どこか天使を思わせたのだ。
その生物は、かん高い声で鳴くと、空に舞い上がった。ネオンのような光が流れていく。
空中で、それは二度三度螺旋(らせん)状に旋回し上昇した後、ふっと消えた。
「……殿下……」『ウィズ・ローレンツ』はつぶやいた。

坂道をとおせんぼしていたケルベロスは消え、パトカーが近づいて来た。ききー、とシンジの家の前の路上で停まり、中から警官の制服ではなく背広を着た男が、「ご無事でしたか? 『ウィズ・ローレンツ』!」と叫びながら降りてきた。
「カールはどうしたのだ? アスカ」走り寄ってくる男を片手で制しながら、『ウィズ・ローレンツ』は言った。
「まだ『遅延』してるわ」アスカは無表情で答えた。
「やはり、あいつは修行が足りない。ドイツに帰ったら鍛えなおさんといかん……それより、アスカ」
「なによ?」
「お前が引き続きあの少年の監督者になるのだ。お前は、一ヶ月の間に、あの少年に最低限の知識をたたき込め。そして経過を報告しろ」
「な、なんであたしが」アスカは、シンジとレイとに背を向けていた。背後で抱き合っているんだ、と思った。
「これは命令だ。お前もまた多くの罪を犯した。しかし、この命令に従えば、それを日本支部には報告しないでおく」『ウィズ・ローレンツ』は小声で言うのだった。
アスカは、再び心の中が、この狡猾(こうかつ)な男への嫌悪感に満たされるのを感じていた。しかし彼女もまた、シンジと同じように選択の余地は無いのだった。
「……ええ」彼女は低い声で答えた。
「……賢明だな。わたしは夜の便で帰る。すぐさま必要な文献を送るから、それを全てあの少年に読ませるのだ」

「……ええ」アスカは自分の周りから徐々に色彩が消えていくような感じがした。再び、魔法アカデミーのキャンパスに立って、『蒸気人間』に食べられるのを待ち続ける生徒たちの間にいるような気がした。
『ウィズ・ローレンツ』は、彼を取り巻いている私服警官たちに何事か説明を始めた。もう、アスカの事は眼中に無い感じだった。あの男は、あの男の世界に帰っていったんだ、アスカは思った。政治力学、野望や、駆け引きや、お世辞や、やんわりとした皮肉の世界に帰ったのだ。
アスカはその男をほんの一瞬、ぼんやりと見つめていた。

「あ、アスカ!」碇家の周りを野次馬たちが取り囲んでいた、その中に、相田という少年がいて、手を振っていた。
アスカは、軽く手を上げて、人垣に背を向ける。
シンジとレイは、まだ地面にへたりこむように座っていた。いまやアスカの視界から色がまったく失(う)せていた。まるでシンジの足にからみつくようなレイの白いふとももが目に入った。

「……おめでとう、とでも言えばいいのかしら? ……『ウィズ・イカリ』」誰かが、生意気で、いやらしい女の声で、誰かがしゃべっているわ、アスカは思った。それは自分の声だった。ちがう、わたしはそんなことを言いたいんじゃないわ、そう思ったが、その言葉を発したのは自分だった。
「……『ウィザード』の地位と、『人間の恋人』を同時に手に入れたんだもんね」また誰かが言った。また自分だった。自分が歩いていく。家の中に向かって歩いていく。自分じゃない自分が歩いていく。
「ど、どこへ行くの、アスカ」ざわめきの中で、間の抜けた声で、地球を壊しかけた少年が、そう言うのが聞こえた。
「家の中に決まってるでしょ、バカ」
アスカは戸をぴしゃりと閉め、乱暴に靴を脱ぐと、二階の自分の部屋へ、階段をとんとんとんと駆け上がった。
とたんに背中と足がきりきりと痛んで、小さな踊り場で、うずくまった。涙がにじんできた。
涙が出るのは、けがをして痛むからだ、アスカは思った。

碇夫妻が家にたどり着いたのは、夕方になってからだった。
タクシーから降りると、家の前に立っていた二人の警官がつかつかと歩み寄り、名前と身分証明書を見せろと言った。「どうかしたんですか?」ユイは聞いたが、警官は答えなかった。
ユイは、仕方なく運転免許証を見せた。
ゲンドウは「日本錬金術師協会」発行の「公認錬金術師証」を見せた。子供の落書きにしか見えない、十七世紀のイギリスの『錬金術士』の書いた、へたくそなフラスコの絵がシンボルマークとして付いている免許証サイズの証明書である。
「……これが身分証明書ですか?」警官はあきらかにいぶかっていた。
「それが身分証明書だ。子供の落書きみたいだろ? あんたらの角張ったサクラに比べりゃ見劣りするかもしれんがね」ゲンドウは言った。
「あなた」ユイはたしなめる。

戸を開けると、居間から二人分の足音が聞こえてきた。ユイは、安堵(あんど)感につつまれた。シンジとアスカは無事なのだ。
ところが、シンジの隣に立っているのは、どこかで見たような色の白い女の子で、おまけにシンジのパジャマを着ていた。
「マ、マキ」マキコちゃん、と思わず口走りそうになったゲンドウは、それが意味する事実に気がついて、腰を抜かしそうになった。
「お、おまえ……その女の子は、もしかして」ゲンドウは珍しくあわてていた。
「……うん、レイは人間になったんだよ」中学生の息子は途方に暮れたように言った。

そのころドイツへ向かって飛ぶルフトハンザ航空機のファーストクラスの椅子の中で、予備のバイザーを付けた『ウィズ・ローレンツ』は、目を閉じて物思いにふけっていた。
この馬鹿げた、しかし、恐るべき事態を克服するのだ。いや、むしろこれを利用するのだ。彼は思った。魔力だけなら、あの少年はわれわれ『ウィザード』の平均的な魔力を凌駕(りょうが)しているかもしれない。
殿下は、「体制に取り込め」とおっしゃった。そうだ。わたしの影響下におくのだ。彼の存在は、他の四人への圧力になるだろう。わたしの発言力は否応(いやおう)なしに増すに違いない。
残念なのは、ローレンツは思った。あの少年がやはり日本人であることなのだ。
偶然にせよわたしの人生の節目にはなぜか日本人が関与する、ローレンツは思った。
瞼の暗闇の中に、ふいにアスカの母親の顔が浮かんだ。アジア人にしては鼻の高い、美しい女だった。何か日本語で彼に話しかけている。ちんぷんかんぷんだった。おれには君の言葉がわからない。彼女は、ドイツの夏の日差しの中にいた。けれど金髪ではなく、黒い長い髪、日本語をしゃべる女だった。ドイツ語はへたくそだった。美しいドレスデンに、音楽の勉強に来たのだ、と英語で言った。次の瞬間、おれは彼女と手をつないで、ヴィルヘルム・シュトラーセを歩いていた。ベルリンは嫌いな街だ。だが彼女は好きだという。
そこで、目がさめて、自分が今まで夢を見ていた事を悟った。

深夜。シンジはいつものように居間に寝ていた。レイは、夫婦の寝室で寝ていた。アスカは二階の自分の部屋で寝ていた。
ゲンドウとユイは、寝付かれず、実験室にいた。
「……いったい、どういうことかしら。あなた」ユイは言った。
「どうもこうもあるもんか。息子が地球を破壊しかけて、ワシが作ったホムンクルスが『闇の王子』によって人間になって、一ヶ月後息子は『ウィザード』になるという、それだけだ」
「それって、事実を並べただけじゃない!」
「だから、どれも事実だと言いたいのだ」ゲンドウは、いつも座って捕物帖を読む椅子に、どっかと腰掛けた。
「どれも事実だから困ってるんじゃないの……」ユイはいらいらと狭い実験室の中を歩き回った。
「ワシらに何が出来る? ……たとえば、あの水のバケモノの大群の時みたいに、近所に菓子折りもって謝りに行くのか? 『このたびは息子が地球をぶちこわしかけてすみません』と。――六○億個の菓子折りがいるぞ」
「ふざけないでよ、まったく」ユイは、実験室に置いてあるゲンドウ専用の本棚を、何をするでもなく、ぼんやりと見ていた。
その本は、岡本綺堂の「銭形平次」の文庫本の隣に、無造作に置かれていたのだった。ユイは、その書名が気になって、ひょいと手に取った。背表紙に市立図書館のラベルが張ってあった。
「あなた、これ貸出期限過ぎてるわよ。ちゃんと返さないと」
「地球壊すよりましだろ」
「もう!」ユイはその本の表紙を見る。『イラク神話紀行』とゴシック体の書名の下に、古代シュメールの遺跡の写真が載っている。著者は聞いた事のない日本人だった。イラク旅行と神話を絡めた軽い読み物のようである。

時折、そんな偶然がある。いつもは手に取らないような本をパラパラとめくる。すると、今一番知りたい単語が目に飛び込んでくる。まるで物事が目に見えない糸で織られた絨毯のように、どこまでもつながっているような。
「……愛の女神『イアンナ』(「イナンナ」「インニニ」という読みもある)は、こうして智恵の神『エンキ』が大気の神『エンリル』から授かった、大切な『メー』を持ち出したのです。『エンキ』はすぐさま追っ手を差し向けましたが後の祭りでした」
「なんじゃ、そら」ゲンドウは言った。
「あなたこれ読んでないの?」ユイは言う。
「うむ」
「……どれどれ……あなた、これ『イアンナ』のこと、いっぱい書いているじゃない! どうして読まなかったのよ」
「一緒に借りた『若さま侍捕物帖』の方が面白かったので、繰り返し読んでいたのだ」ゲンドウはいいわけするように言う。
「『イアンナ』は冥界の女王にして彼女の妹である『エレシュキガル』によって冥界で辱めをうけました。『エンキ』は、『メー』を盗まれたものの、この美しい女神を愛していたので、彼女を死からよみがえらせたのです」
「ふうん。やっぱり『エンキ』って奴か?」
「そうね、『エンキは水の底に棲む智恵の神です。文化的にシュメールの後を継いだバビロニアの時代ではエアとしてあがめられていました。エアはバビロンの主神マルドゥクの父です。このマルドゥクが土から人間を創造し、ようやく人間の時代が始まった、とバビロニア神話は伝えています』だって」
「そらまあ……なんだな。おれたちがこうしているのも、元をたどれば『エンキ』のおかげか。……しかし、その『イアンナ』をよみがえらせるのに、ずいぶん時間がかかったもんだな。そうだろ? ワシがたまたま作ったホムンクルスの身体にとりつくまで、えーっと、五○○○年か、ずっと死んでた事になるのだからな」
「違うわよ、『神性』だから、死んでたわけじゃないわ。漂っていたのよ……それによみがえらせたんじゃなくて、人間にしたのよ。それもまるで『創世記』をなぞったように」
「するとウチのシンジは『アダム』だって言いたいのか? ……でもワシら人間はずっと前からいるんだぞ」
「それは、そうだけど……」
「……ところで、そもそも、『メー』ってなんだ? ウチの息子はレイからそれもらったから『ウィザード』になったと、小娘が言っておったが」
ユイはその本を熱心にめくっている。この本に書いてある、という直感があった。そして彼女は容易にそれを見つけた。
「ほら、ここに書いてあるわ! 『メーとは、シュメール人が宇宙をつかさどる原理だと信じていたものです。これは、シュメールからはるか後のユダヤ教が教義を確立させた時代、そのユダヤ教でいうトーラ(律法)を連想させますし、さらに後の、原始キリスト教とプラトン主義を結び合わせたグノーシス主義のグノーシス(ギリシャ語で知識の意)をも連想させます。このようにシュメール神話は、世界の宗教・哲学に大きな影響を与えているのです』……」ユイはそう言って言葉を区切った。

ゲンドウとユイは顔を見合わせていた。
「――『グノーシス主義』だ」ゲンドウが口を開いた。
「そう、『グノーシス主義』よ」
「河合教授だったかな?」ゲンドウは口元に笑みを浮かべていた。
「そうよ、河合教授」ユイもかすかな笑みを浮かべている。
この非常時に、この二人がにやけているのには理由があるのだ。記憶力のいい読者だけがおぼえておられるだろう。二人のなれそめは、そもそも、同じ大学の同じ一般教養科目を取っていたということなのだ。学部は同じ魔法学部だが、学科が違うので講義で知り合う機会は一般教養科目でしかない。
その科目が『グノーシス主義概論』。河合教授の、学内でもあんまり人気のない科目であった。
「『グノーシス主義は後期において性としばしば結びつけられた。性を通してわれわれは真の自己と出会うのだ、という有名な言葉がある』」ユイは河合教授の口調をまねながら言った。
「あのしわくちゃのジジイの口から『性』なんて言葉が出てきたら、ぎょっとするなあ」ゲンドウは言った。
「……あなたって、変わらない人ね、二十数年前、あの講義の時、あたしにそうやって話しかけてきたのよ。まるっきり同じセリフ、『あのジジイの口から……』って」
「そ、そうだったか?」
「そうだったわよ……。わたし、なんて変わった人だろうって思ったのおぼえてるわ……それより、わかって来たわ。『シモン・マグス』の話、おぼえてる?」
「ああ、キリスト教でいう精霊(ホーリィ・ゴースト)を手に入れようとした二世紀頃の魔術師だ」
「そう、『メー』とはすなわち『グノーシス』、『トーラ』そして『精霊』、そしてそんな智恵の最高位のものが今の言葉で言う『ウィザードリィ』」
「……ふむ。『メー』を与えられたシンジのやつが、『ウィザード』並みの魔法使いになっても不思議でもなんでもない……」
「そう……、それと、人類は発祥した時から、宇宙を律する法則を知ることが魔法の源泉であることを知っていたんだわ。それも『闇の王子』すなわち『エンキ』から教わって……でもその法則はニュートンや、偉大なる『ウィズ・アインシュタイン』の若い頃の特殊相対性理論で説明できる法則じゃない。物質に隠された真の法則のこと。……人類は生まれた時から魔法の事を知っていた。でもそれを忘れて、ずっと思いだそうとしてきた。宗教の歴史って、ようは、それなんだと思うわ」
「……そうかな」ゲンドウはいぶかしげに言う。
「どうして?」
「ワシはそうは思わん。ワシには、人間が宗教というややこしい仕組みを発明して、わざとその事実から遠ざかろうと努力してきたように思えるのだ。でなければ、悪魔どもが『来訪』というショック療法を行わなくても、人間はずっと昔から魔法と共存できたと思うぞ。考えてもみろ、魔法が使える人間と使えない人間との間に、じつは『遺伝子工学的な差異』は無いんだ。だのに魔女と魔法使いの間には魔法を使える子供が生まれる確率は異常に高くなる。きょうび赤ん坊でも発現する子は発現する。だったら僧侶階級はなぜ必要だった? 庶民に理解できない、ややこしい教義がどうして要る? 寺院に何の意味がある?」
ユイは黙って考え込んでいた。
「魔法を使える事が宗教の目的じゃなかったわ」彼女は言った。まるで、大学の近くの喫茶店で話をしているみたいだった。京都の蒸し暑い午後、あなたはアイスコーヒーを、わたしはアイスティーを飲みながら。
「ま、そらそうだ……。もう寝よう。ここで話してても何がどうなるわけでもない」

「ええ……」ユイは、そのイラクの本を、書棚に戻した。その時ふいに目の前のハードカヴァーの本が目に入った。また、もどかしい感じがした。暗い海を崖の上からのぞきこんでいるような気がした。何か、この本にもあるわ、ユイは感じた。
「『錬金術の歴史と表象』……」ユイは書名を口に出して言いながら、その本を手に取った。
「わ」ゲンドウは声を上げた。
本の口絵のところから、一万円札がぱらりと落ちた。
「どうしたの? このお金?」
「い、いやなに、なんで、そんなところに金が入っておるのだろう……?」
「へそくりはもっと上手に隠しなさい。ほら」ユイはそのお金をゲンドウに手渡す。ともかく、夫のへそくりはあったわ、ユイは思った。
ぱらぱらとページをめくる。十六世紀から十八世紀に描かれたおびただしい錬金術のシンボルが並んでいる。
「あ……」ユイはページをめくる手を止めた。
最初は、毛筆で描いた円に見えた。よく見ると、へたくそな、子供の描いたような太い蛇の絵だった。その蛇は胴体を丸めて、自分の尻尾を呑み込もうとしている。だから、円に見えるのだ。ユイの頭の中で、とらえどころのないある想念が、出口を求めてそれこそ蛇のようにのたうちまわっていたのだ。
『わたしはこれを知っている』、その文字が脳裏に焼き付いている。
「どうしたのだ?」長身のゲンドウがそばに来て、ひょい、と本をのぞき込んだ。
「……これよ。これ。なんだか、感じるのよ。これが……そう、……『答え』だって」
「なんの答えなんだ?」
「今日起きたこと全部の意味だって……。わたし占いの才能なんかあんまりないのに、感じるのよ。これがそうだって」
「……なにがそうなのだ」
「だから、答えよ。ほら、……この蛇をみて! ここから始まって、ここで終わる。でも始まりと終わりは……」
「そいつは『ウロボロスの蛇』だよ……。『ヘルメスの杖(つえ)』や水銀と同じく錬金術師にはおなじみのものだ。――こんな絵もある」
ゲンドウは、ユイの手から本を取り上げると、ぱらぱらとめくって、あるページを見せた。
ユイはその絵を見た。
水彩で描かれた巨大なフラスコの絵だった。フラスコは熱されているのか、下の丸い部分に炎が描かれている。しかし、ユイが目を留(と)めたのは、フラスコの中身だった。フラスコの丸い部分に、緑色のドラゴンが寝そべっているのだ。そのドラゴンはフラスコ下部の湾曲に合わせて丸くなり、自分の尻尾をくわえているのだ。
ドラゴンの上には、全裸の男女が手をつないで立っている。男女の上には天使のような光輝で出来た王冠があった。王冠のさらに上には、鳩(はと)に似た白い鳥が翼を広げていた。ユイはその男女をくいいるように見つめていた。
またもや、心の中の声がした。これが答えだ、これが答えだ。
「あなた! ……これよ! この絵が答えよ! この絵の通りの事が起きたんだわ!」ユイは真夜中なのに興奮のあまり大きな声を出した。
「な、なにを言っておる」
「わからない? これが。こんなに明白なのに。なぜ、普段はあんなに冷静なアスカが、事もあろうに『ウィズ・ローレンツ』に攻撃魔法を使ったのか? なぜ、その『ウィズ・ローレンツ』は非常識にも住宅街の真ん中でドラゴンを召喚したの? ……なぜシンジの目には『闇の王子』がレイを殺したように見えたの? なぜ、シンジは突然反物質で出来た竜を召喚出来たの? 今日、いいえ、もう昨日ね、私たちを含めて、みんなどうかしてたんだわ! ……それもみな、意味の上ではこの『絵』を再現するために、全ての出来事が、この『絵』の意味するものにパタパタと畳まれていったんだわ――そうとしか考えられない」
「お前、それはおかしいぞ。絵に出来事が収(しゆう)斂(れん)していくなどと。因果律はどうなるのだ」
「だから、出来事自体は因果律にのっとているけれど、その重なり合いが、絵、いいえ、『意味』に向かって転がり落ちたのよ」
「……わけのわからんことを。だいたいこの絵はだな、中世の錬金術士が、化学反応を彼らなりの奇怪な理論で図式化したものなのだ。錬金術士たちは、水銀やら鉛やら、おまけに身体の部分に、ややこしい名前と属性を与えて、化学反応のことを『結婚』などと呼んでいたりしたのだ。これはそんな時代のありふれた絵にすぎん。たとえば、これは王である『硫黄』と女王である『水銀』の結婚(化学反応)を表したものだ――下に書いてある文章を読んでみろ」
ゲンドウはその挿し絵の下の解説文を指さした。
「『ヴァレンティン・アンドレエ』の『化学の婚姻』(一六一六年)という寓意(ぐうい)小説の影響を受けた十七世紀頃の水彩画。この小説のあらすじは、パラケルスス(注)も関係があったのではないかとされる『薔薇(ばら)十字団』の創始者、『クリスチャン・ローゼンクロイツ』が錬金術の国を旅するというものである。この絵はその中の一挿話である。王(硫黄)と女王(水銀)は苦難の末一度死ぬ。錬金術士たちはフェニックス(不死鳥)の卵をダイアモンドで切り、不死鳥を誕生させ、その血で二人をよみがえらせる。二人は最初は小人であったが、みるみる成長し、やがて結婚する」ユイは読み上げた。

(注:パラケルスス、十六世紀初頭の医師・魔術師、『来訪』以降も彼が本当に魔術師であったかは議論の的である。彼は『一五七二年に接近する彗星は世界の変革の前兆である』という予言を残しており、これが一九一○年の契約に基づく彗星の接近の先駆的な予知であると信じる学者も多い)

「……な、『薔薇十字団』、『テンプル騎士団』、それからオルフェウス教たらマニ教たら、中世は神秘主義の宝庫だ。『来訪』以降、それらのほとんどは否定されたんだ。仮に数千年前のシュメール時代まで人類は魔法を使えたとしよう。でもそれを失ったあと、わずかな伝承や創作を交えた、混沌(こんとん)の極みを魔法学や錬金術と称していたんだ。この絵もよくあるハッタリのきいた神秘的な寓話(ぐうわ)から思いついた絵にすぎんよ」
「え、ええ。そうだけど、描いた人もそう思っていたんでしょう……だけど。ほら、この男女。……『イアンナとドゥムジ』よ。彼らの『聖婚』。そして炎に焼かれる尻尾をくわえた竜。そして卵から生まれた不死鳥……ねえ、これは絵になった『予知夢』なんじゃないかしら?」
「お、お前、昨日の出来事が中世から予知されてたというのか?」
「そう……。さっきの『メー』と魔法の話よ。かつて人間には『メー』のかけらが与えられていた。その実験は失敗したけど、その血はかすかに人類に受け継がれて……、この絵を描いた人は、わずかだけど、魔力を持っていたのかもしれない。そして、やがて悪魔との接触によって、再び人間が魔法を使えるようになった未来にこの光景が現出するのが見えた……てのはどう? それは具体的な予知じゃなくて、きっと象徴的な夢だったのよ。だから彼はその夢のまま象徴的な絵を描いた。そして昨日、その絵が象徴する意味に沿って出来事がパタパタって起きたのよ」

そんな馬鹿な、と答えようとして、ゲンドウは思いとどまった。妻がおそろしく真剣な顔をしていたからではない。実験室の戸がかすかに開いていて、そこから青みがかった銀色の髪の毛がのぞいていたからだ。じっと見ていると、その頭は動いて、レイの白い顔が現れた。
「おい、レイが起きてるぞ」ゲンドウは言った。
「え……? あ、レイちゃん、起こしちゃった? ごめんね」ユイは、シンジのパジャマを着た少女に歩み寄って、幼い子に話しかけるようにやさしく言うのだった。
レイは、困ったような顔をして、下腹を手のひらで何度も押さえた。
「……どうしたの? おなかが痛いの?」ユイはゆっくりと話しかけた。
レイはうなずきながら、おなかを押さえる。
ユイはピンときた。テーブルにスープをまき散らしながら食事をした後から、この少女がトイレに行っていない事に気がついたのだ。
「……トイレね? ……そんなこと言ってもわからないかしら? 一緒に行ってあげるわ」
ユイはレイの肩に手を置いて、トイレに連れていった。
ゲンドウはそんな、仲のいい母子のような後ろ姿を見ながら、まさかマキコちゃんがユイに似てるとは思わなかった、と思った(ところでこれは結論から書いているのである。それに至るまでは、各自補完されたい)。

次の日、シンジは朝の六時に目がさめた。
薄暗い居間の天井を見ながら、はげしい非現実感に襲われた。途切れ途切れの夢の中で、なんどもガラス瓶が宙を舞って落ちてきて、ぱぁん、といって割れるのだった。
消えてしまえ! 自分の声が、聞こえた。消えてしまえ。居間の安っぽいシャンデリアの白いガラス製の被(おお)いに、ハエの死体があるのを見つけた。『闇の王子』、カヲルくん、あれは現実にあったことなんだろうか?
教えてくれ。いま起きたら、一日前に戻るんじゃないだろうか?
あのバイザーを付けた『ウィザード』が来てから、今この瞬間まで、長い長い夢だったんじゃないだろうか?
ぼくが、この地球を壊しかけたなんて、悪い夢だったんじゃないだろうか。
それが本当の事だとして、ぼくはこれから、どう暮らしていけばいいんだろう? ぼくは、いつでも地球もろとも、宇宙で一番派手な自殺をすることが出来るんだ、そう思ったが、あの『反物質』で出来た竜をどうやって召喚できたのか、まったく思い出せないのだ。

居間で着替えをして、庭に出てから、ぼくはいったい何をやってるんだろう? と思った。ぼくは最高の魔法使いになったのに。やっぱりあれは夢だったのか。起きたばかりなのに、ひどく疲れていた。
空を見上げた。昨日確かにあの空一杯に黒いドラゴンが浮かんでいた。レイの入ったガラス瓶が回転しながら、空から落ちてきた。そして……。
背後に人の気配がした。シンジは振り返った。
彼のパジャマを着た、レイが立っていた。はだしで、菜園の土の上に立っていた。朝日を浴びて、レイの髪が輝いていた。前髪の影が、赤い瞳にかかっていた。
「レイ……」シンジは言った。けれども、レイを目の当たりにしても、非現実感は去らなかった。シンジは、なぜかうしろめたさを感じていた。
「し、しんじ」少女は低い声でそう言った。
一晩で彼の名前がうまく言えるようになったのだ。シンジとレイは見つめ合っていた。けれどシンジは、その少女にどんな言葉をかけていいのか、思いもよらないのだった。いったん死んで、人間に生まれ変わった少女に、どんなことを言えばいいんだろう。よかったね、だろうか。
よかったね、口まで出かかったけれど、なんだかバカみたいな気がした。泣きわめいて、仕組みはよくわからないけれど地球をぶち壊しかけた自分が、途方もないあほうに思えた。
「外を歩く時には靴をはくんだ」彼はそう言っただけだった。
「? ? ?」
シンジはレイの手を引いて、レイが開け放った勝手口にある母のサンダルを、レイに履かせてやった。
「ほら、ここに足を入れるんだ。右と左と違うから、気をつけるんだよ。こっちが右、こっちが左」
シンジは、レイの足に、サンダルを重ね合わせて、懸命に説明するのだった。
突然、レイはしゃがんだシンジの頭を抱きしめた。
「わ」シンジは声を上げた。レイの両の乳房の間に、鼻が挟まれてしまったのだ。
「シンジ」レイの胸が、声の振動で震えた。レイの心臓の鼓動がとくんとくんと聞こえた。
そうだ。レイは生きているんだ。シンジは思った。

シンジは、庭にレイを立たせて、アスカが下りてくるのを待った。しかし来なかった。
仕方ないので、レイと一緒に朝御飯を食べた。レイの隣に座って、パンの食べ方を教えてやった。ユイは、彼らの後ろで、アスカとシンジのためにお弁当をこしらえていた。
「ほら、歯で、がじっとかみ切るんだ。こう……わかる?」
「……ん」レイは答えた。
ユイの背後でそんな会話が交わされていた。睡眠不足のユイは気が重くなってきた。夫と夜を徹して話した予知がどうの、シンジが『ウィザード』になるの、といった重要な問題が、彼女の頭を悩ませていたわけではない。
同じ屋根の下に、思春期の男の子と、女の子二人。
いったい、どうすればいいのかしら、ということが頭の全部を占めていたのである。
案外、そんなものだ。

その時、アスカが制服姿でダイニングにやってきた。ユイは思わず緊張している自分に気がついた。
「アスカちゃん、おはよう」ユイは声をかけてみた。
「……ああ、おはよ」アスカは、並んでいるシンジとレイの正面を避けて、テーブルの端に腰掛けた。いつも一家の主のゲンドウが座る席である。
「お、おはよう、アスカ」シンジはおどおどと、小さな声で言った。まるで謝っているような口調に聞こえた。
アスカは聞こえない振りをした。彼女は黙って食パンをオーブントースターに入れ、ダイヤルを回した。そして、弁当に卵焼きを詰めているユイの隣で、コーヒーを自分で入れた。
専用の赤いマグカップを両手に持って、椅子に座る。
その間もレイはパンくずを散らかしながら、シンジに助けてもらって、食事をしていた。ものをたべるのはたのしい。レイは思った。なんてたのしいのかしら。
その時、ゲンドウが珍しく早起きして、やってきた。
「おら、小娘。そこどかんか」ゲンドウは新聞を脇に抱えて、そう言った。
「や!」アスカは一言、そう言った。
「にゃ、にゃにおう」いまにも怒りだしそうな夫を、ユイが目で制した。
「ふん」ゲンドウは、アスカがいつも座っている、シンジの向かいの席についた。正面で、息子と昨日人間になった少女が食事をしていた。レイは、ゲンドウの顔をじっと見ていた。めずらしいものでも見るように。
「シンジ、レイに人の顔をジロジロ見るなって教えとけ」ゲンドウはそう言って、新聞をばさばさ広げて、自分の顔を隠した。なんだか、胸の奥がどきどきいっているのだ。レイは、もろ好みのタイプなのだった。自分が作ったのだから、当たり前といえば当たり前だったのかもしれない。
コイツは十四歳くらいの女の子で、昨日人間になったばかりなのだ。おれにはロリコンの趣味はないぞ。ゲンドウはそう思う事にした。金髪も美しい(ついでにミニスカートから伸びる脚も美しい)赤木博士の事を頭に思い浮かべた。
「あなた」
「へ?」突然妻が話しかけてきたので、ぎくっとした。
「とにかく、魔法管理機構に連絡して、レイの事をどうするか聞いてくれないかしら」妻はいうのだった。ユイにしてみれば、自分はもう魔女ではないし、アスカに頼める雰囲気ではないので、そう言ったのだ。
「うむ……」彼はそう答えた。新聞の地方面に昨日の事が小さく載っていた。
なんとあの球体はつまり、『闇の王子』と『ウィズ・ローレンツ』と黙りこくった小娘が張っていた「遮蔽フィールド」は「実験用熱気球」ということになっていた。なるほど、情報とは操作されるものなのだ、ゲンドウは思った。
シンジは父親をちらっと見たが、黙って自分の食事を始めた。
静かな、静かな、不気味な沈黙につつまれた碇家の朝の風景であった。

アスカは、食事を終えて、普段より一○分も早く学校に行くまで一言も、ものを言わなかった。玄関先に、警官が二名立っていた。彼女はその警官たちが視界に入らないふりをして、いつもの道を歩く。
近所の人が、窓から彼女を見て、指さし、何かひそひそ話をしていた。
ふん。
学校に向かって歩き始めて、三分とたたないうちに、自分が尾行されているのに気がついた。彼女はよりいっそう険しい顔で、人もまばらな中学校に着いた。
シンジはアスカに遅れること一○分後に家を出た。彼はアスカの二倍の人員に尾行されていたが、気がつかなかった。そういうものだ。

学校では、アスカとシンジはやっぱり注目の的だった。街の誰もが、昨日の怪現象がシンジの家を中心にして起きた事を知っているし、何人かはぶつかり合う二匹の巨大なドラゴンを目撃していたし、何よりもおびただしいパトカーが碇家のある高台に殺到していたのを知っていたからだった。
これまで、アスカとシンジのうわさは二人はラブラブよ、といった、いってみればたあいないものだったが、この日をもってそれは変わった。クラスメートをはじめ、全校生徒が、この才色兼備の魔女とさえない男の子の二人を畏怖の目で見るようになっていたのだった。
しかし、昨日のうちに帰国した『ウィズ・ローレンツ』とこの二人を結びつけて考えるものはいなかった。
ある生徒が、職員室に背広を着ているけど、テレビの刑事に見える人が二人入って行くところを目撃した。またある生徒は、その刑事らしき男たちが、シンジとアスカの担任と話し込んでいるのを目撃した。
この情報は昼休みまでに全校に広まり、ああやっぱりね、ということになった。何が「やっぱり」なのかわからないが、アスカとシンジが、何か「大きな事」に巻き込まれたのは間違いない、という確信が生徒たちの間に生まれた。
アスカを途中まで自転車で乗せていった相田ケンスケは、そんな中、口をつぐんでいた。あの高台の家でいったい何が起きたのか、決定的瞬間を目撃していないのもあるけれど、アスカをそっとしておきたかったのだ。彼も、あの犬の怪物(ケルベロスの事)の背後で、渚カヲルがシンジに話しかけているのが見えたし、見たこともない裸らしい女の子がかいま見えたので、いったい何が起きたのか知りたかったけれど、シンジに訊くことは出来なかった。
渚カヲルは今日も学校に来なかった。きっともう二度と来ないのではないか、ケンスケにはそんな、理由のない直感が浮かんでいた。彼の目的はシンジで、きっと、もう目的を果たして、帰ったのだ、そう思った。

「アスカ……」昼休みである。あたりは誰もいなかった。何人かの生徒が彼らを遠巻きに見ていたが、シンジはもはや慣れっこになっていた。
「や」アスカはそう答えた。
「アスカ……」シンジはまた話しかける。
「や、よ……。話しかけないで……しばらくあんたとは話したくないの」
「……なんでだよ?」
「理由なんか、ないわ……。『ウィズ・イカリ』」
「そ、そんな呼び方しないでよ! ぼくはそんなんじゃない」
「でも一ヶ月後にそうなるわ。あんたは日本初の『ウィザード』になる。もう大騒ぎね。超有名人だわ」アスカはそっぽを向いたままお弁当を食べているのだった。
「……そんな……考えてもみなかったよ」
「じゃ、考えなさい! この、とーへんぼく! あんたは世界でたった五人、いえ、あんたを入れて六人しかいない最高の魔法使いになるのよ! たいして訓練もせずにね」
シンジは、アスカがなぜ機嫌が悪いのか、自分なりに考えた。そして、きっと、ぼくがなんの努力もせずに、ただ怒って我を失っただけで、『ウィザード』という魔法使い最高の地位に就いてしまうなりゆきなったのが、腹立たしいのだ、と思った。アスカが魔女としてどんなに努力家であるか、シンジはこの半年よくわかっていた。だから、ぼくのことが腹立たしいんだ、と思った。だから彼はこう言うことにした。結果として大間違いだった。もちろんアスカはそう感じてはいたけれど、シンジがそのかわり『ソーサーラー』として処刑されなかったのだから、と自分を納得させようとしていたのだ。
「ぼくが、『ウィザード』になったのは、たまたまレイが、昔の女神さまだったからなんだ。ぼくが努力したわけじゃないよ」シンジは、つとめてやさしく言った。
アスカはシンジの顔をまじまじと見た。コイツはとことん間抜けだ、と思った。これで、あたしに気を遣ってるつもりなんだ、と思った。そう思ったら、むかむかと腹がたってきた。アスカは、まるで自分で自分を怒らせようとしているみたいに、よせばいいのに、裸のレイがシンジに抱きついている光景を思い出した。
「なによ! あんた、ばかぁ? そら、あんたはなんの努力もしてないへっぽこ魔法使いよ! でも、あのかわいいホムンクルスのおかげで『ウィザード』になれるわ! おめでとうございます、『ウィズ・イカリ』、でもあたしになんの関係があるのよ! あたしがそれですねてるとでも思ってるわけ? うぬぼれないでよ! あたしは、あんたなんかと関係ないわ! もうあんたとは必要な時以外、口きかないから! もう話しかけないでね!」
アスカは急いでろくに食べていない弁当を片づけて、すたすたと校舎に向かって歩き出した。
シンジは、ぼんやりと、アスカの後ろ姿を見ていた。

夕方になった。
シンジは、一人で、とぼとぼと歩いていた。赤い夕日が、彼の長い影を作った。ぼくには一緒に帰る友だちがいない、シンジは思った。クラスメートたちはいっそう、よそよそしくなったみたいだった。みんな、ぼくを怖がっているんだ。
アスカはさっさと家に帰ってしまったみたいだった。校内のどこにもいなかった。アスカと話したかった。この心の中に広がっていく、不安な想いを聞いてほしかった。
『ウィズ・イカリ』……!
なんてこった。シンジは思った。『ウィザード』。地球を破壊しかけた魔法使い。
なんとなく、家に帰りたくなかった。家に帰ればレイがいる。人間になったレイがいる。奇跡じゃないか、シンジ。どうして家に帰らないんだ。
彼はオレンジ色の街を歩いた。
もう春も終わりだった。梅雨がきて、夏が来るんだ、と思った。シンジは夏が嫌いだった。泳げなかったからだ。水泳の授業が始まるんだ、シンジは思った。体育の授業なんか、無くなればいいのに、と思った。
その時、シンジは、砕け散ったガラス瓶の前で感じた絶望感を思い出した。ぼくは悲しかったのか? レイが死んだのが、本当に悲しかったんだろうか? 世界を消し去りたかっただけなんじゃないだろうか、と思った。
カヲルくん……、きみなら答えを知っているんじゃないだろうか。シンジは思った。
気がつくと、公園の前にいた。
あのカヲルくんと話した児童公園の前にいた。カヲルがいるわけはなかった。彼は『天使』になって空へ飛んでいってしまったのだから。
シンジはブランコに腰掛けた。
公園には、何人かの子供たちが遊んでいた。ブランコの前に、小さな四角い砂場があった。
姉と弟だろうか、七、八歳の女の子と、それより小さな男の子が遊んでいた。
「ともちゃん、もおーっとまるく!」女の子は言った。
男の子は、一生懸命、砂をなでている。シンジはなんとなく気になって、砂場の中をのぞき込んだ。砂の中に、ラグビーボールのような丸い形が出来ていた。
「たまごよ、たまご」女の子は歌うように言った。
女の子は、男の子が不器用な手つきで砂の卵をなでて、形が崩れるのを、丁寧に直しているのだった。
シンジは、気がつくと夢中になって二人の子供を見ていた。
砂の卵の表面はつややかになって、本当にダチョウの卵のように見えてきた。
「……なんのたまご?」その時、男の子がぽつりと言った。
「へびよ! へび! ともちゃん、へびのたまご」女の子は叫んだ。
その時、五時の時報がなった。
「かえろ、ともちゃん、かえろ」女の子はしゃがんでいる男の子の手を引いて歩いていく。
二人の子供は、公園の外へ出ていった。シンジはその幼い姉弟が見えなくなるまで、ずっと見ていた。
『ぼくは、あの子たちを殺すところだったんだ』、そう思った。けれど、シンジは次の瞬間、肌寒い思いにとらわれた。ぼくは、良心の呵責(かしゃく)を感じていない、シンジはそのことに気がついたのだ。
心の中のある部分が、寝る前にオナニーをした後なんかに活発になる、ある部分が、『お前は良心の呵責(かしゃく)を感じなければならない』、とささやいていたのだけれど、心の大半は、これは現実じゃない、と言っていた。
これは現実じゃない。
シンジは、手のひらを見た。握る。開く。握る。開く。ぼくはこの世界をいつでも破壊できる。握る。ぷしゅ。地球が、手の中で、オレンジのように潰れる。ぼくが消えろ、といったら、消える世界なんて。
……この世界は、ぼくの妄想に過ぎないんじゃないだろうか? シンジは思った。
ぼくは、未来の寝たきり老人かなんかで、生命維持装置に囲まれて、夢を見ているんじゃないだろうか? ありえない中学生時代の、魔法とアスカやレイみたいなきれいな女の子に囲まれた、奇妙な世界の夢を見ているんじゃないだろうか? ぼくの孫かなんかが、「生命維持装置を止めてください」、医師に言う。医師はスイッチを切る。ぷち、世界はそれで終わりだ。この地面も、あの月も、太陽も、一瞬にして消えてしまう。だって、ぼくの夢だったからだ。
それともぼくは意識を与えられたコンピューターのプログラムの一つで、世界全体をシミュレートしているんじゃないだろうか? その場合も、オペレータがキーをこうたたけば終わり。「STOP RUN」。ぷち、世界は消える。
シンジはブランコを降り、砂場に歩いていく。ふと「蛇の卵」が見たくなったのだ。
砂場の真ん中に、丸い砂で出来た卵があった。シンジは、その卵をじっと見ていた。その中に、どんな蛇がいるだろう、と思った。だしぬけに、その蛇の姿が浮かんだ。
彼は、砂の卵を指で作りかえて、その卵の中の蛇を外に出してやろうと思った。砂遊びなんてするのは、何年ぶりだろう。気がつくと夢中で、砂をいじっていた。

「……ごめん、これ以上言ったらいけないのよ」アスカは、並んで歩いている洞木ヒカリに言った。二人で寄り道して、ヒカリの家まで歩いて来たのだった。
「うん、気にしなくていいのよ」ヒカリは言って、ふと家の近くにある公園に目をやった。
「あれ? あれシンジくんじゃない?」ヒカリは言った。
「……あいつ、いったい何やってるのよ」公園の周りを奇妙な男たちが「さりげなく」立っていた。いや、本人たちは「さりげなく」シンジを監視しているつもりだろうが、目立ち過ぎていた。ふつう、背広を着た大の大人が四人も、児童公園の前で立っているわけがない。
アスカは思わず、シンジがしゃがんでいる砂場に走っていく。陽は落ちたばかりで、黄昏(たそがれ)が公園を包んでいた。アスカは、シンジの前に立った。
「あんた、こんなところで平和そうに、なにやってるのよ!」
シンジは、顔を上げて、絆創膏(ばんそうこう)だらけの脚をたどって、アスカの顔に行き当たり、「あ」と答えた。
「『あ』じゃないわよ! あんた、尾行してる人、何人も引き連れて砂遊びなんてしないでよ! 恥ずかしいじゃないの!」
関係ないと自ら宣言したのだから、別に恥ずかしがるいわれは全くなかったのだけれど、アスカはそう言ったし、実際、恥ずかしさを感じていた。
「い、いや、あの……ほら、なんとなく」シンジはそう言って立ち上がった。
アスカはそんなシンジの顔をにらんでいた。
「……アスカ、もう帰るんだろ?」シンジは言った。
「……それがどうしたのよ」
「……いっしょに帰らないか?」シンジはそう言って、アスカを見つめた。
「え? ……あんた、……待ってたの?」そうでなければ、家から逆方向の洞木ヒカリの家の近くにある児童公園にいるはずがない、アスカは思った。
「……そういうわけじゃないけど……」シンジは言いよどんだ。
「……いいわ、帰ってあげるわ」
アスカがそう答えると、シンジは安心したようだった。
「じゃ、ヒカリ、さよなら」アスカは洞木に声をかけた。
「う、うん。気を付けてね」
ヒカリは、アスカを尾行していた二人の男と、シンジを尾行していた四人の総勢六人の大所帯になった尾行者をぞろぞろと引き連れて帰っていく二人のクラスメートを、見えなくなるまで見送っていた。
アスカちゃんは、わたしに迷惑がかからないように何も言わなかったんだ、と思った。
ヒカリは、ふとシンジくんが砂場で何をしていたんだろうと思った。
砂場をのぞき込む。砂で出来たドーナッツ。シンジくんは中学生にもなって、そんなものを作っていたのだ。よく見ると、ドーナッツに模様があった。丸い小さな目のようなもの。でも、ドーナッツ型だから、どっちが頭だかわからないわ。洞木ヒカリは思った。

アスカとシンジは並んで歩いていた。
何もしゃべらなかった。月に、きれいな満月に、向かって歩いているみたいに、下り坂を歩いていた。
「あんたつけられてるわ、わかってる?」アスカはささやくように言った。
「え……、そうか。なんだか変だと思った。きっと魔法管理機構の人だ」
「いえ、たぶん警察ね。……気にならないの?」
「うん……」シンジは考え込んでいた。どこかホンキになれない、そんな感じだった。
アスカは、あんた、もっと自覚を持ちなさい、と言おうとしておもいとどまった。シンジの身になって考えてみれば、無理もない、と思えたのだ。きっと何もかも、実感がわかないんだ、と思った。そんなときに、『ウィザード』の自覚うんぬん、地球を破壊うんぬん言ったってしょうがないじゃない、と思った。
「おなかすいたわ、今日のおかず、何かなあ」アスカはそう言ってみた。
「……なんだろうね」シンジは答えた。気のない返事だった。
アスカは少し遅れ気味にシンジの後を歩いた。シンジの背中が、やつれているみたいに見えた。
こんどは高台の坂を登る。シンジの足取りは重そうだった。なぜ? レイが家で待ってるのよ? アスカは思う。
――わたしがしっかりしなければ。その言葉は、心のどこかから浮かんできた。わたしが、しっかりしなければ。今度はわたしがシンジを助けなければ。
碇家の門灯はついていて、チェックの模様のワンピースを着た、色の白い女の子が立っていた。普通の格好をしていると、ほんとにかわいい普通の女の子に見える、とアスカは思った。きっとおばさまが買ってやったんだわ。
レイのそばにユイが立っていた。
「どこで寄り道してたのよ、レイは夕方からここで待つって」ユイは言った。
「あ、ああ。ごめんよ」シンジは答えた。
レイは、ゆっくりとシンジに歩み寄り、彼の首に手を回して抱きついた。
「シンジ、シンジ」レイは懸命に言うのだった。
アスカは、その二人が見えないふりをして、家の中に入った。

……ところで、ここは、イラクである。
イラクでは『世界大戦』以降、トルコの支配下から脱したあとイギリスの保護化で、王政が続いていた。しかし、一九五六年、有名な『ウィズ・アインシュタイン』の国連演説、『あらゆる国の国民が自ら為政者を選べなければならない』という演説の五年後に、選挙が実施される事になって今に至っている。
ここはそのイラクの砂漠地帯にある、ウルクの遺跡である。日はとうに沈み、明るい満月が夜の砂漠の中の唯一の明かりだった。

ウルクは、シュメールの遺跡の中でも大規模なものである。かつて、ここには月の神の娘『イアンナ』を守護神とした都があった。しかし、いまは『柱廊神殿』と呼ばれる数々の建物の遺跡を、さえざえとした月の光がさびしく照らしているだけだった。
遺跡の一つの窓に、人影があった。女だった。それも、肌を露出させた大胆なドレスを着た女だった。ぴくりとも動かないので、旅行者がその場に居合わせたら、観光用のろう人形か何かと思うかもしれない。
女は黒い髪を束ねて、変わった形に編み上げていた。皮膚は白といより青かった。美しい、かどうかは好みによるだろう。細くとがった鼻と、切れ長の目、紫色の唇が好みならば、美しい女なのかもしれない。
不思議なことに、女の周りにクモの巣が張っていた。女が腰掛けている、彩色煉瓦(れんが)の四角い窓全部にクモの巣が張り巡らされているのだ。

女は地平線を見ている。
彼女の目は、その軍用ジープのエンジンの熱を捉えていた。彼女の目には、その内燃機関の熱が、白っぽい地上の星のように見えていた。独立した人の体温が固まりが四つ。それは赤くにじんで見える。もちろん胸が最も温度が高い。
その女は、『熱を見ている』のだ。彼女の目は、いま、赤外線に合わされているのである。夜の砂漠では、その方がなにかと都合がいいからだった。
そのジープが来るのは一時間前から知っていた。彼女の『アンテナ』が、そのジープの通信無線を傍受していたからだ。
彼女は『アンテナ』をしまい始めた。窓に張っていたクモの巣が、女の首筋に向かってするすると引っぱられていく。クモの糸に見えたのは、その女の、発達した神経繊維だった。
彼女は『アンテナ』が完全に首筋にある小さなこぶに隠れてしまうと、窓の中に入っていく。
彼女は、薄い青のドレスをひらめかせて、遺跡の地下に降りていった。
月の光も差し込まぬ遺跡の坑道はまっくらだったが、彼女にはなんの不都合もなかった。
坑道の突き当たりに、鉄の扉がある。
彼女は、普通の人間の耳には到底聞こえない波長で、こう言った。
「タランテラよ、開けて」女は言った。
「あいよ」
鉄の扉は内側から開けられた。扉の脇に、体中がオレンジ色の岩石のようなかさぶたに覆われた大男が立っていた。
「ありがと」『タランテラ』と名のった女は礼を言うと、その扉をくぐって、聖堂の中に入った。
それはシュメールでは一般的な煉瓦で作られた、小さな体育館ほどもある地下聖堂だった。扉から入ると、正面に掲げられているのは、巨大な、全裸の抱き合っている男女の石像だった。
その聖堂からは、まるでアリの巣のように張り巡らされた地下道と数十もある小部屋へ行く事が出来た。
『ウルクのサンクチュアリ』。彼らの間ではこのウルクの遺跡、その地下に広がる迷路のような洞窟群はそのように呼ばれていた。タランテラも四歳の時にここに来てから、ずっとここで育った。
『ウルクのサンクチュアリ』は、現在は「サンクチュアリ(聖域、転じて保護区)」としては機能していなかったが、十数年前までは、毎日のように何人かの『仲間』がここに逃げ込んできたものだ。多くはひどい傷を負って、何人かは「普通の人間」に危害を加えた罪を逃れて。
タランテラも、ここに連れて来られた時、生命が危ぶまれるほどの重傷を負っていたと聞いた。彼女自身はおぼえていなかったのだが。……というより、わたしは思い出すことを無意識に拒否しているのかもしれない、彼女は思った。その傷は両親によってつけられたものだ、と、だいぶ後になって知ったから。

聖堂の片隅に、大きな木製の机と、巨大な書架が並んでいる、書斎のような場所があり、『AB』がそこに立っていた。
『AB』は、見事な白髪頭に、同じく白い口ひげを生やした、痩せた老人だった。いつものように、本を片手に持って、海泡石のパイプをくゆらせていた。
「AB、大佐がやってきましたわ」彼女は老人の前にある机に座って、長く白い足を組んだ。まるで、老人を誘惑しているように見えた。
「……ふむ。……また、あの演説を聴いてやらねばならんのか」ABと呼ばれた老人はあきらめ顔で言った。
「あまりいやがっておられるように見えませんわ」タランテラはからかうように言った。ABが『大佐』をかわいがっているのを知っているのだ。
「そうかね……。サダムにも困ったものだ。イラク王国軍に入ると言い出した時に、もっと反対しておくのだった」タランテラには、その声に、愛情が込められているような気がした。

ABは、手にしていた本をぱたんと閉じると、右腕を書架に差し出した。二メートル程の上の本の列に隙間が一つあった。老人の腕はしゅるしゅると伸びた。まるでゴム人形のようだった。腕は細い釣りざおのように伸びて、しなって、その本の隙間に届いた。ABは手にしていた本を隙間にすぽん、と差し込んだ。彼の腕はまたするすると縮んで、袖の中に収まった。
「さて、お出迎えの準備をするかね……。いまどこにいるんだ?」ABはタランテラに言った。
青白い肌をした女は耳を澄ませた。
「……ジープが静止しましたわ。……階段を下りてきます。――大佐一人でやってきてます」ともかく、『話し合い』にきたんだわ、タランテラは思った。

その時扉をがんがんとたたく音がした。オレンジ色の硬化した皮膚を持つ、『ノーム』と呼ばれる男が、鉄の扉を開けた。
濃いベージュ色の半袖の軍服を着た男が、聖堂の中に入って来た。浅黒い肌に黒い口ひげを生やした、典型的なイラク人の男だった。
タランテラは、ほんの一秒足らずの間に自分の可視光線波長を様々に変えて、いろんな『角度』から、この男を検査した。武器や爆弾のたぐいは持っていないようだ。
男はつかつかと歩み寄りながら、「AB! あんた、あの知らせを聞いたかね!」と大声で言った。
「……サダム、サダム。わたしは今日は少し気分がすぐれないのだ。もっと小さな声でしゃべってくれないか」老人はそう答えて、椅子に座った。
「これはわたしの地声だ、AB! それよりあの知らせを聞いたんだろ?」
「どの知らせだね?」
「とぼけるなよ、このタランテラがいて、知らないはずがない! 知ってるんだろ? 日本で『リリス(Lillith)さま』がお生まれになったということを?」
「リリスさま、か……、サダム、お前はまだあんな迷信を信じているのかい?」
「迷信だと! 老いぼれたな、AB! 誰がなんと言おうとあれはリリスさまの誕生なんだ。いいかい。『われわれ』の母親がお生まれになったんだ!」
「ああ、サダム、子供より後に生まれる母親なんているかね? お前こそ目をさますのだ」老人は、やれやれといった調子で首を振る。
「神話というやつは、ねじれ、おれまがり、無駄な繰り返しをするんだ。錯綜(さくそう)してるんだ。われわれ悪魔の子ら『リリム(Lilim)』の母はリリスなんだ! 数千年に亘る、長い神話の続きの中に、われわれは生きてるんだよ」
「サダム、われわれは一九一〇年の彗星の尾が、地球の大気に触れた時に遺伝子が変化した人間だよ。そんな大昔の伝承に出てくる脇役ではないぞ」
「AB、わざと論点をずらすなよ。普通の人間に気を使う必要などないぞ! 真の歴史から言えば、普通の人間なんぞ、われわれの形態のヴァリエーションのひとつに過ぎない! それも一番劣った、な。あいつらの時代はもう終わったんだよ! AB、これは合図なんだ。普通の人間は借金をしていたようなもんだ。リリスさまの誕生は、その借金の返済期限が過ぎたっていう印なんだ」
「……ああ、サダム。相変わらずだなあ。それになんで、あの不思議な生まれ方をした女の子が、リリスなんだね?」
「ほら、知っていたんだ。AB。さすがだな。いいかね、リリスの原型は、バビロニアの女悪魔、『リリツ(Lilitu)』(バビロニア・アッシリア語で「女悪魔」「風の精霊」)だ。そしてリリツこそ、あの愛の女神イアンナが世話をしていた柳の木に棲(す)んでいた精霊だという伝承がある。こいつは何を意味するんだ? AB」
「何を意味するんだね、サダム?」
「とぼけるなよ、AB。イアンナとリリスは関係があるということだ。伝承は日本で起きたことを象徴的に予言していたんだ。イアンナからリリスが生まれるという事をな! イアンナの魂がエンキによって肉体の中に閉じこめられる。そして『人間』の女が生まれた。最古の女神の終わりは最初の人間の誕生を意味する。そうじゃないか? イブよりも先にアダムの妻になったリリスの誕生なんだ」
サダムは丸い大きな目を輝かせている。
「そもそも『リリム』とは、あの大陸が沈んだ後に、エンキに導かれてチグリス・ユーフラテス川に挟まれた土地に上陸したわれわれの『第一世代』の記憶が世代を超えてつたわったものだ。『第一世代』は、やがて、普通の人間の遺伝子に呑み込まれて消えてしまったが、『来訪』によって復活した。これもイアンナの運命と対応しているんだ。いいかね。次にくるのは、われわれの時代だ」
「……そうかい、サダム。それで、お前はどうしようと言うのだ?」
サダムと呼ばれた男は、ABに近づいて、小声で言う。
「……AB、実は、イラク国軍の約一〇パーセントは、われわれの仲間が占めているんだ。われわれの戦闘能力は、普通の人間の数倍もある。つまり、われわれはいつでも軍を掌握出来るんだ。想像してみろ、おれが一声かけただけで、軍はわれわれのものになる。軍はバグダッドをほんの数十分で制圧出来るだろう。わかるね? AB」
「クーデターか……。『正義とはゼロの数字だ。力という数字が左にないと意味がない』。――サダム、お前はそんなことを考えているのか? イラク王国を転覆してどうするんだ?」
「は!」サダムはいらいらと聖堂の石畳の上を歩き回った。
「どうする、だって? AB! われわれの国を作るんだ! 世界じゅうの『サンクチュアリ』から、仲間を呼び寄せて、われわれの国を作るんだ。おそらく周辺の普通の人間どもの国は一斉にここに攻め込んでくるだろう。しかし心配はいらない。われわれの軍隊は世界最強だからな! われわれは負けない。しかし、新しい国は足がかりに過ぎない。まだまだ石油を産出できるこの湾岸地域を拠点にして、われわれは世界に挑戦するのだ。100年もたってみろ、中近東は、いや、アフリカ北部、ことによると南ヨーロッパが、われわれのものになっているぞ」
ABは黙って、興奮した軍服の男を見つめていた。男は興奮のあまり、変身を始めているようだった。もともと毛深い彼の体毛が、さらに濃くなっているのだ。そういえば、今日は満月だったな、ABは思った。
「われわれの国家にはシンボルが必要だ。なぜなら様々な民族、言葉や習慣の違う人々が集うのだから。国家の統一の象徴が必要なのだ。――そう、それがリリスさまなのだ! あのお方が、われわれの最初の国家の女王として国母として君臨される……。どうだ? AB、素晴らしいだろう? そして、初代の首相には、AB、あんたがなるんだ! あんたはわれわれの仲間うちでは世界的な有名人だし、信頼されている。リリスさま、あんた、そして世界最強の軍――」
「そしてきみは国防大臣にでもなるのかね、サダム。そして、わたしが引退したあとは、きみが首相になるのかい?」
「――国民がのぞめばね」
「ああ、サダム、国民投票というのは『元首の意志を確実にするための投票』なんだよ」ABは随分昔に書いた自分の本の中から引用した。
「サダム、われわれが普通の人間のまねをして、国家なんてものを作って、どうしようと言うんだ? 普通の人間と同じ愚行を繰り返すのか? この国にはイラク人が住んでいるんだ。普通の、ね。国を作るって、彼らを住み慣れた家から追いだそうというのか? ……われわれ自身が、われわれの迫害者と同じ事をして、どうするんだ?」
「あんたの『宥和(ゆうわ)政策』はもう限界だ!!」サダムは叫んだ。勢い余って本格的な変身を始めた。骨格がめきめきと音をたてて変形し始めた。彼は見る見る灰色がかった茶色い毛に覆われていく。黄色い巨大な犬歯が、唇をめくり上げて突き出てきた。
「がぅぅぅぅ……あんたは大変な功績を残したさ、それは認める、……おれだって、あんたがいなけりゃ、村の住人全員にたたき殺されていたところだ」
「あれはひどいけがだったな、サダム」ABは言った。サダムがここに運ばれてきた時、彼はまだ六歳だった。体中、青アザだらけだった。おまけに背中に弾丸を撃ち込まれていた。
「あんたがいなければ、おれたちは『世界大戦』で、魔法使いたちと同じように、兵器として使われて、バタバタと死んでいただろう。魔法使いとちがって、おれたちはこの世にいないほうがいいから、抹殺する事もかねて、むちゃくちゃな使われ方をしただろうな。100年後、これだけの同朋が生き残って増えてきたのはあんたのおかげだ」完全なる『狼男』に変貌を遂げたサダムはそう言って、ぐるぐるうなった。
「そりゃどうも」
「『世界大戦』じゃ、あんたは『ウィズ・アインシュタイン』なみの活躍をした。だのに片っ方は普通人の小学生まで知っている超有名人、片や一九一四年に行方不明になったあと、戦死したと思われてる男。こいつは不公平だぜ、AB。あんたは表舞台に出るべきだ。光の当たる場所におれたちを導いてくれ。……ほんとは、あのホムンクルスから人間になった女の子なんかどうでもいいんだ。とにかく『きっかけ』になればいい。世界中の仲間が一斉に蜂起するきっかけに、な」

ABという老人は顔をしかめた。目の前の狼に変身した男を、六歳の頃から育て、名前を変えて教育を受けさせ、社会に出したのだ。息子、と言ってよかった。ABにはそんな『息子と娘』が数千人以上いたのだが、サダムはとりわけ気にかかった。粗暴でうぬぼれが強くて無鉄砲だったからだ。つまり、出来(でき)の悪い子ほど、というやつだった。
タランテラは、聖堂の隅に立って、赤外線で彼ら二人を見ていた。サダムはすごく興奮していた。熱でわかった。怒りっぽい男、昔からそうだったわ。

「サダム……、そんなことをしたら普通人との全面戦争になるぞ」ABは静かに言った。
「そんなことは承知だ! われわれは最終戦争に必ず勝利する!」
「『魔法管理機構』が黙っちゃいないぞ」
「は!」サダムはあざ笑うように叫んだ。
「あいつらに何が出来る、AB!? 100年間、何もしなかったやつらだぞ! 『ドォーモン宣言』(即時停戦と魔法の戦闘使用の拒否宣言)の後、やつらがやったことと言えば、演説と土木工事だけじゃないか!」サダムは、世界各国の民主化を促進した『ウィズ・アインシュタイン』の一連の国連演説と、『フォート・ローエル』の建設の事を言っているのだ。
「だが、実質的に世界を支配しているのは彼らだ」
「しかし彼らは、『中立』の立場を取るに違いないぞ! AB。彼らは普通人の中で素性を隠さず暮らしてるもんだから、事が起きたときの『魔女狩り』が怖いんだ」
「『魔女狩り』が怖いからこそ、われわれに敵対するとは考えないのか?」
「……ふん、やってみないとわからんさ……AB。今がチャンスだ。最後のチャンスだ。組織だって蜂起できるチャンスなんだ。AB、あんたの『宥和政策』は100年の間、われわれへの大規模な迫害や虐殺を防いできた。しかし、今は一九一四年じゃない。情報は一瞬で世界を駆けめぐる時代なんだ。体制側の『隠蔽政策』にのっかったあんたのやり方は限界に来てるんだ! ――いま先進国の若者の間に何がはやっているかしってるかい、AB。『亜人類』と人類との殺し合いを描いたアニメや小説なんだ。破壊と殺戮(さつりく)、そして神がかった黙示録的終末、そんな反吐(へど)の出るような場面がたらふく詰め込まれたものばかりだ。テレビゲームだってそうだぜ、こんな遺跡の迷宮で、バケモノを撃ち殺すゲームが定番になってるんだ! 普通人はうすうす知ってるんだ。単純な予知だよ。もうすぐ、そんな時代が来るのを予感しているんだ。望みをかなえてやろうじゃないか、AB。われわれが世界の表舞台に立って! ノーミソが腐った若者どもがきっかけとなって、大規模なわれわれへの虐殺行為が始まってからでは遅いぞ! この戦いには先制攻撃しかないんだ」
「……何億人もの人が死ぬぞ、サダム」
「産みの苦しみだよ、AB! 世界が生まれ変わる前に一瞬炎に包まれる。が、そこから新しい光が生まれるんだ」
「……サダム、サダム、なぜお前は、世界だの、炎だの、黙示録だの、終末だの、お前の軽蔑している普通人がこしらえた、やくたいもない宗教用語を使うんだ。さっきから聞いていると、お前はまるで『世界の終わりは近い』と書いたプラカードをもって歩き回ってる『預言者』に見えるぞ。そのうち、『死海文書』だの『ナグ・ハマディ文書』(注)だのといった、カビの生えた巻物を、話に箔(はく)を付けるために持ち出すんじゃないかね?」

(注:「ナグ・ハマディ文書」一九四五年にエジプトで発見された古文書。初期キリスト教から派生した「グノーシス派」の思想を知る上で重要な資料。くしくも二年後に死海のほとりで発見された写本が「死海文書」である。これはイエス・キリストの教義が当時珍しくもないユダヤ教の一派の教義であったという事を伝える資料。むしろユダヤ教の禁欲的な一宗派が「誤解」と「情報操作」によって「キリスト教」という独立した宗教に「変質」して行った事をうかがわせる。しかし『来訪』後、そんなことがわかっても誰も関心をはらわなかった。世が世なら「世紀の大発見」などと称されていたかもしれない)

「……AB! いい加減に覚悟を決めろ!」サダムは、木製のテーブルに近寄り、右手をそれにたたきつけた。
ばむっ。テーブルはまっぷたつに割れた。
「いまが、戦いの時だ!」サダムは叫んだ。
振り上げたサダムの手を、体中が硬化した皮膚で覆われたノームが、ひょい、とつかんだ。
「そいつはおれのセリフだ。大佐、ここでこんなまねはするな」ノームは岩石のような唇をカタカタいわせながら言った。
「は、離せ、このデカブツっ」サダムはバタバタと暴れた。
「サダム、お前の気持ちもわからんでもない。いまでもわれわれへの暴力行為はやむことがない。われわれの何パーセントかは、成人するまでに殺されている。だが、待て。早まるな。殺人を止めるために数億倍の大殺戮(さつりく)を起こすな」ABはそう言った。
「AB、この機会をみすみす逃すのか!」
「蜂起する、などというのは別にして、わたしも日本での出来事には興味がある。……タランテラ!」
「はい、AB」青白い肌の女はうれしそうに答えた。
「久しぶりに船旅をしようじゃないか。わたしは日本へ行く」
「日本へ……? すると、リリスと会うのか?」サダムは言った。
「ま、好きにとれ。わたしが帰るまで、何も行動を起こすな。約束しろ」
「わかった。あんたも話が分かってるじゃないか、いつ行くんだ」
「明日だ。サダム」
「そんなに早くか? ……わかった。……今日のところは帰るよ。ノーム、いい加減におれの手を離すんだ」
ノームは、狼男の手を離した。

変身を解いた軍服の男が去った後、ABは物思いにふけっているように見えた。
「……本当に『リリス』の話を信じたのですか? AB」タランテラはABに寄り添うようにして言った。
「いや、信じてはいない。あいつは昔からああだ。あいつにとっては落雷も、河の氾濫も神のお告げなんだ。生まれが違えば、それこそカルト宗教の教祖にでもなったかもしれん。わたしの目的は『男の子』の方だ」
「『男の子』?」
「そうだ、サダムは『闇の王子』とイアンナに気を取られて、あの事件の真の意味に気がついていないんだ。鍵はあの少年だ。あの事件が何かの合図ならば、あの少年がそうだ」

シンジは学校へ行き、そしてまたアスカと一緒に帰った。アスカの方から、一緒に帰ろうと言ってきたのだ。別に何を話しするでもなく、並んで歩いた。町中の人々が、彼らを指さしてひそひそ話をしていた。一人でいてもそんな目にあうのだから、二人でいる方がいい、アスカは思っていた。
いつものように高台の家へ向かう坂道を、並んで登る。
高台のてっぺんにある家が、夕日で赤く染まっていた。
やっぱり、家の前にはレイが立っていた。はだしにサンダルを履いていた。左右が逆だった。
「シンジ!」レイは明瞭にシンジの名前を呼ぶようになっていた。
食事も上手に出来るようになっていた。箸はまだ使えなかったが、スプーンでご飯をすくって、口に運び、懸命にもぐもぐとかんでいる。

ぴんぽーん。玄関のチャイムが鳴った。
「はい」ユイは廊下を歩いて玄関の戸を開けた。そして、はっと息を呑んだ。
春の終わりの暖かい夕方だというのに、その女は全身を包む黒いタイツに、黒い革のジャケットを着ていた。ベレー帽と手袋も黒だった。ベレー帽に、羽根の付いた銀の靴のワッペン(「ヘルメス」の象徴)が付いていた。おまけに、その若い女性の背後には、銀色の塗料が塗られた箒が宙に浮いていた。
「魔法管理機構逓信部特別飛行隊『クイックシルヴァー』所属、上級魔女、ナミ高須です! これを碇シンジさんに届けに参りました!」おそらくユイもまた魔女(今は元魔女だが)であることを一瞬で見て取ったのだろう、短いブーツをかちんとそろえて、敬礼し、バックパックから分厚い辞典ほどもある小包を取り出した。
「は、はい」ユイは、それを受け取ろうと手を出した。
「すみません、直接本人に手渡すよう命令されています」
「あ、そうね、あたりまえよね、シンジ!」ユイは奥に声かける。
「おばさま、『クイックシルヴァー』って言わなかった?」シンジではなく、アスカが走ってきた。
「あ、本物だ」アスカは思わずそう言って、「すみません、はじめて見たもので」と言い訳した。
箒に乗って空を飛べる魔女で、音速を超えるスピード記録を持っている『マダム・イエーガー』か、飛行に関してはエリート中のエリートばかりを集めた『クイックシルヴァー』に、あこがれを抱かぬ魔女はいない。
人より少し早く飛べる幼い魔女たちは、十人中九人まで「将来クイックシルヴァーに入りたい」という。当然アスカも幼い頃憧れていたのだ。
「どこから飛んできたんですか?」アスカはショートカットもりりしい若い魔女に聞いた。
「ハンブルグからよ。北極まわりで」その魔女はこともなげに言うのだった。
「すごいわ、何時間で?」アスカは目を輝かせている。
「そうね……。十四時間と三〇分てとこかしら?」
おそらくノンストップで飛んできたんだ、アスカは思った。それだけの能力を要求されるのだ。
「シンジさんは留守ですか?」その魔女は言う。
「こらぁあー! シンジぃ! 『クイックシルヴァー』の魔女を待たせたらだめでしょう!」アスカはダイニングに向かって叫んだ。
「ごめん、レイが味噌汁こぼしちゃって……」シンジは雑巾を手に持ったまま、すたすたと歩いてくる。
「碇シンジさんですね?」その魔女はシンジに向かって言う。
「はい……」
「ちょっと失礼、認証用の魔法を使わせてください」彼女は、小包を脇に抱えて、指をぱちんとならした。指先から、小さな銀色の精霊が現れた。精霊はこれまた小さなサーフボードに乗って、シンジの身体の周りをすいすいと飛び回る。
『認証完了。遺伝子レベルから言って、この人が碇シンジです』精霊はそう言って、ふっと消えた。
「では、お渡しします」若い魔女は小包をシンジに手渡した。シンジはそれを片手で持とうとして、うわっと前につんのめりそうになった。あわてて両手で抱えたが、重いのでしゃがみこんでしまう。
「すみません、『ジップタイプのアーカイブ魔法』で圧縮梱包されているのです。あなたの声で『アンジップ』とささやけば自己解凍します。では、これで」
黒ずくめのかっこいい魔女は、箒に飛び乗った。ユイとアスカはあわてて後を追う。『クイックシルヴァー』の魔女の離陸を見るためだ。
「では」その魔女がそう言った次の瞬間、ぶん、と音がして、箒に乗った魔女の姿は消えていた。
ユイは、彼女を見失ったが、アスカはすぐに捉えて、「おばさま、あそこ」と指さしていた。
まるで、ジェット機並みのスピードだわ、ユイは思った。飛ぶ格好もジェット旅客機のように、肩のところにぴかぴかとランプが点滅しているのだった。その光は、あっと言う間に空を横切り、南西の空に消えて行った。
「……」魔女が見えなくなったのに、空を見上げているユイに、アスカは中に入りましょ、と声をかけた。

「重たいよ、これ」シンジは文句を言いながら、階段を上っている。
「文句言わないの、あんたのためなのよ」それと、地球のため、アスカは思った。
シンジは久しぶりに自分の部屋に入った。ベッドが目に入った。シーツもマットレスものけてあった。けれど、雨の日の記憶がよみがえってきた。
「思い出さないでって、言ったでしょう!」たちまち背中からアスカの声が飛んできた。
「どこに置こうか?」
「床の上に置いて」アスカは言った。
シンジは言われるままに、見た目より重たい小包をフローリングの床の上に置いた。
「呪文を言って」
「なんだったっけ?」
「……『アンジップ』!」アスカは早くも疲れてきた。これからシンジに、中級を飛び越えて、上級魔法使い、さらに天才少女アスカにとっても未知の『ウィザード』たる心得をたたき込まなければならないのだ。それも、あと一ヶ月の間に。
「『アンジップ』」シンジは小包に向かってささやいた。茶色い小包は生き物のようにむくむくと、ほぼ二回りも大きくなった。
「開けて」
シンジは、箱を開けた。中身は、電話帳ほどもある大判の革の装丁の本が五冊。ひもで綴(と)じられたA4の書類が山ほど入っている。
「案外上手に翻訳してるじゃない」アスカは、書類綴(つづ)りの一冊を取り上げて、ぱらぱらとめくりながら言った。
「……なんだよ、これ?」
「この本の方が、管理機構の規則と事例集、判例。一番下のやつが、『ウィザード』用。……世界で何冊も無い本よ」
「あ、アスカ、これ、全部英語で書いてる!」シンジは叫んだ。
「あたりまえじゃない! だからこうやって翻訳してくれたのよ!」
「……これ全部読むの?」
「そう、『あんた』が全部読むの。わからないところがあれば質問して。わたしは一ヶ月であんたにこれをたたき込むわ」
「……」シンジは黙った。学校の勉強すらままならないのに、こんな事をしなきゃならないなんて。
「あれ?」アスカはその時一つの封筒を見つけた。その差出人の名前に、すぐさま生理的嫌悪感をおぼえた。
「……『ウィズ・ローレンツ』から、あんた宛てに」アスカは言った。
アスカの顔にはなんともいえない不快感が現れているように見えた。シンジは、あの時、その魔法使いがアスカの事を『アスカ・ローレンツ』呼んだことをおぼえていたが、そのことには触れるまいと思っていた。
彼は黙ったまま、封筒を開けた。白い紙に日本語で書かれていた。シンジはその文章を読む。
「……どうしたのよ?」
「――えーっと、『直ちに入学手続きをされることお願いする。ドイツまでの旅費、滞在費等、学費等、経費はすべて当アカデミーの特別奨学金で』――」
「貸しなさい」アスカは、シンジの手からひったくるようにその手紙を取ると、斜め読みした。
「……あんた、これ、高校をすっ飛ばして『魔法アカデミー』に入学しなさいって事じゃない!?」
「……うん、そうみたいだ」
「……あいつの魂胆が読めたわ。……『ウィザード』就任の発表前にこんなもの送りつけてくるのも、あいつらしい。……あいつはあんたを自分のテリトリーに取り込む気なんだわ」
「……そう?」
「自分が学長やってるアカデミーで、何も知らないあなたを縮み上がらせて、自分の子分にする気なのよ。もちろん、自分が『ウィザード』の仲間うちで偉ぶるためにね!」
「……そう?」
「そうよ! ひとたびあいつに屈服したら、毎日警察犬みたいにしごかれるわよ」
「……うん。でもこれ命令じゃ、ないみたい」
「そら、そうよ! まだ発表もされていないけど、同じ『ウィザード』という意味ではあんたとあいつは対等なのよ。だから、これ、お願いの文章なのよ。あんたは断ってもあいつとしちゃ、手のだしようがないわ」
「……うん、じゃ断っとこうか」

その時、ぴたぴたというはだしで階段を上る足音が聞こえた。
シンジは思わず開いたドアの方を見る。
足音は踊り場の手前でとまり、開いたドアの隙間から、青みがかった銀色のきれいな髪がのぞく。
「レイ、どうしたの?」シンジはレイに話しかけた。レイは答えずに、部屋の中をじーっとのぞき込んでいる。
「……心配しなくても、なんにもないわよ! ほら、時間が無いわ。はじめるわよ」アスカは言った。
「今日から?」
「明日に延ばして、何かいいことあるの? その赤い背表紙の本とその『中級編』って書いてる紙の束持って、椅子に座って」
「はいはい」
「ハイは一回でよろしい」

レイは、机に向かって何かを読み始めたシンジを見つめながらこう思った。
……シンジがんばって。シンジがんばって。おうえんするから、がんばって。――でも、そのいやなおんなのこと、なにをやってるの?

冬月コウゾウは、古本屋を閉めて、店の奥にある四畳半の和室で、ぼんやりと本を読んでいた。いま読んでいるのは、岩波から出ている古典文学集成の『古事記』だった。何度も読んだ本だったのだが、何度読んでも、どこか発見があって面白い本だった。
『――その矛の先より滴り落つるしずく、かさなりつもりて島となりき。これオノゴロ島なり』
『――しかれどもくみどにおこして生める子は、水蛭子(ひるこ)。この子は葦(あし)船に入れて流しうてき』
……わたしが、淡路島に生まれて、船で捨てられた事に、何か意味があるのだろうか? 冬月は、いつもこの『国産み』の部分で、面白半分に考える。わたしのような取るに足らぬ古本屋の店主でも、『神話』に参加できるということなのだろうか? いつから神話はそんなに民主的になったのだろう?
そしてもっと後、イザナミは黄泉(よみ)の国に行く。イアンナのように。彼女の姿は恐ろしく変貌し、体中に稲妻が宿っているのだ。これは、水蛭子のエピソードと合わせて、アダムの元を去り、リリムを産んだリリスを連想させる。
気の遠くなるような歳月をかけて、『伝播(でんぱ)』が起きたのだ、冬月は思った。シュメールの神話が、侵略者たちの手によって世界中に徐々に広まったのだ。
それは『鉄』の武器によって古代世界を席巻(せっけん)した、『ヒッタイト人』によって行われたに違いない。東は日本、西は地中海、ギリシャ。だから、ギリシャ神話と日本神話のエピソードの間に、奇妙に符号するものがあるのだ。たとえば、イザナギの黄泉への旅がオルフェウスに対応するように。
だが、『伝播』だけでなかったとしたら? 冬月は客から聞いた、ドラゴンと黒い球体の事件を思い出していた。
『伝播』したのは「予知能力」であるとしたら? 冬月は考える。
そこから導き出される結論はひとつだ。

われわれは、たったいま神話の中に生きている。

その時、電話が鳴った。
彼の家に、夜、電話がかかってくることは珍しい。たまにあったとしたら、ほとんど『仲間』からであった。
今晩もそれだろうと彼は考えた。彼は受話器を取った。相手は、普通の人間の耳では聞こえない波長で、暗号文をしゃべった。冬月はメモを取る。
彼は、本棚に隠した乱数表を見ながら、それを解読する。
「五月〇〇日午前一時〇〇埠頭(ふとう)、『ウルクのサンクチュアリ』からABがくる。護衛をかねて出迎える。他にも連絡されたし』
そうだ。あの事件は、イラクに引きこもっているはずの偉大なるABをも動かしたのだ。まさにいま、なにかが起きようとしているんだ、冬月は思った。

伊吹マヤは、この街の中心部にあるマンションに独り暮らしをしていた。だから、いつもは独りで夕食を取るのだが、今日は違った。恋人の、日向マコトが、ワンルームの床の上に置かれた座布団の上に座って、彼女の作ったビーフシチューを食べていた。
これで何度目だろう、マヤは思う。もう数え切れない。後ろにマコトが座って、何かをおいしそうに食べている。そんな光景にすっかり慣れてしまった。もともと一緒に住んでいるみたいな気がした。二人で小さなワインのデカンタを買った。マコトもマヤもお酒はあまり強くない。グラスに少しそそいで、一杯ずつ飲んでも、すぐに二人とも赤くなってしまう。
テレビでは、サッカーの試合をしている。マコトは時折テレビをくいいるように観ている。その光景も見慣れてしまった。
マヤはマコトの横顔が好きだった。子供みたいなのだ。大きな子供みたいだった。いつか、子供を膝の上に載せて、一緒にテレビを観ているマコトを見ることができるだろうか、彼女は思った。
ぜいたくはいうまい。こうして、関係が続いているだけでも。
「……ほら、感想聞いてないわ」マヤは言った。
「うん、おいしいよ。マヤの作った料理はどれもおいしい」
「えー、それって、あんまりうれしくない褒め方」
「え? ……どう言えばいいの?」
「だから、味付けがいいとか、さ。肉がおいしいとか、具体的に言わなきゃ」
「まったりとしてどうとか、マンガみたいな事言えばいいのかい?」
「そんなんじゃなくて……」マヤは、近くのベーカリーで買っておいた、おいしいフランスパンを薄く切って軽く焼いたのを、マコトの脇に置く。
「ねえ、一緒に食べようよ。なんだか、おれ偉そうな気分」
「あ、ちょっとまって。バター出してなかったから」マヤは冷蔵庫まで歩いていく。
日向マコトは、そのほっそりとした女性の後ろ姿を見ていた。そうだ、ぼくは、この女を幸せにする、と思った。だが、どうやって? ぼくはきちんと結婚式を挙げて、一緒に暮らしたい。孫が出来たら田舎の両親に見せたい。

「遺伝はするわ」マヤはある時、といっても、ベッドの中で、そう言った。
「うん」マコトは答えた。
「幼い頃は制御できなくて、興奮したら変身が始まる。かみつかれたり、ひっかかれたりして生傷が絶えないわ」
「うん」
「わたしは育ててくれた叔母さんに大けがをさせてしまったわ」
「うん」
「でも、……人間なのよ」
「わかってる」
しかし実際のところ、おれはわかっているだろうか、マコトは自問自答する。
おれは覚悟が出来ているだろうか?
気がつくとマヤは彼の隣に座っていた。ワインで上気したマヤの横顔が、とてもきれいだった。今夜もぼくたちは愛し合うだろう。ぼくは子供が欲しい。
マヤに、ぼくの子を産んでほしい。男の子ならば、一緒に公園でサッカーをするんだ。マヤも子供が大好きだ。
おれは覚悟が出来ているだろうか?

その時電話が鳴った。
「もしもし」マヤは立ち上がり、受話器を取った。高周波の声がきいいんと耳をつんざく。冬月さんだ、彼女は思った。聞きながらメモを取った。
マコトは、マヤが何も言わずに受話器を耳に当てたままなので、最初は無言電話か何かがかかってきたのかと思った。が、思い直した。そうじゃない。これは、きっと彼女の『体質』に関係のあることなのだ、と思った。そんな気がした。
音は途絶えた。マヤは受話器をそっと置いた。マコトが、じっと自分を見つめているのがわかった。聞くだろうか? しかし、『普通人』にこの事は言っていけないのだ。わたしはその理由で断らなければならないのだ。わたしとマコトは違うのだ。
しかし、日向マコトは何も言わなかった。
「このパンおいしいね」彼はほほえんで、そう言った。
「……訊(き)かないの?」
「……言ってはいけない事なんだろ? ……たぶん。だから訊かないよ。……きみに断らせたくないんだ」彼は優しく言った。
「うん……」
彼女はそう言って、マコトに背を向けて、本棚から乱数表を取り出し、暗号を解読した。驚くべき事が書かれていた。マヤは迷った。なぜ、迷っているのだろうと思った。マコトには言ってはいけないのに。
「……あの」
「ん?」
「……これは言っておきたいの。……『あなたたち』にも関係のあることだと思うから」
「『あなたたち』なんて言い方、やめろよ」
「……ごめんなさい。……あのね、いまのは『インヴォルブド・ピープル』が電話で連絡するときに使うやりかた。普通の人間には聞こえないような波長の早口で暗号をしゃべるの。でもそれでも危険だから、よほどのことがないと使われないわ」
「その、余程の事があったのかい?」
「……ええ、一ヶ月後、『ウルクのサンクチュアリ』から『AB』が日本に来るって」
「ウルク? ……サンクチュアリ? ……エイ・ビー?」
「ウルクはイラクという国にある遺跡の名前よ。そこに、もっとも古いサンクチュアリがあるの。サンクチュアリとは、『インヴォルブド・ピープル』が逃げ込む場所。迫害を受けたり、吸血して人を殺してしまって追われている仲間を保護する場所なの。世界各地にあるんだけど、イラクのそこがもっとも古くて、一九一四年、『世界大戦』が勃発した当初からあるわ」
「……へえ……。世界各地に。知らなかったな。日本にもあるのかい?」
「日本にはないわ。一番近いところで、チベットよ。……ABっていうのはこのサンクチュアリを最初に作って、世界に広めた人。そして『世界大戦』で、『インヴォルブド・ピープル』の能力を戦争の道具として利用される事を防いだ人のイニシャルなのよ」
「……世界大戦って、その人、もう一〇〇年以上も生きてるのかい?」
「ええ、わたした――『インヴォルブド・ピープル』は、とても長生きだから。わたしはABの本名も知らないわ。ただみんなAB、ABと呼んでるの」そう言って、マヤはマコトの顔を見た。……愛してる。でも、あなたはきっとわたしより先に逝ってしまうだろう。それでも、わたしの人生の半ばぐらいにすぎないのだ。あなたは、わたしの人生の、ほんの一瞬しか、一緒にいてくれないのだ。そう思うと、いてもたってもいられないほど、胸が苦しくなるのだった。
「マヤ……それで?」
「……ABがウルクを出るのはとても珍しい、というか、ここ数十年来なかったことなのよ。……なにかよっぽどな事がなければ」
「……その何かが、この日本にあるんだね?」
「ええ、それもこの街に」
「なんだって……、じゃ、あの皆既日食みたいに見えた、黒い球体と関係あるのかい?」
「……そうとしか考えられないわ……。わたし、怖い……何かが起きるのかわからないけど……怖い」
マコトは思わず恋人を抱きしめた。そしてショートカットの柔らかい髪をなでながら、「ぼくがついてる」といった。しかし、ついていても何が出来るだろう、と考えていた。

それから一週間たった。
再び日本は平和だった。為替相場は安定していたし、株価もまたしかり。とくに大きな事件も、役人の汚職もなかった。そして迎えたゴールデンウィークも、例年のように人々は方々へ出かけていくのだった。
ただし碇家は別だった。
もともと一家のあるじ碇ゲンドウ氏が極端な出不精であるし、運転免許を持っているのは妻のユイだけだったこともあるし、好きなように金を作り出せるとは言っても、金相場の関係で、収入ががたんと減ることもあるしで、家族旅行なるものをすることはあまりない一家だった。
今年はまた格別だった。ゴールデンウィークで世間が浮かれている間、シンジは勉強部屋にこもって、ずーっと中級以上の魔法使いに必要不可欠な知識を詰め込んでいた。去年の一○月からいる居候の魔女アスカは、そんなシンジの口やかましい監督をしていた。

ユイは、内職をはじめた。なんだか分からない会社の封筒の宛名書きであった。レイという居候が増えて、毎月の食費が増えたのもあるけれど、レイに女の子らしい服を買ってやりたいからだった。
実は、ユイは女の子が欲しかった。これは公然の秘密である。産院で、看護婦から「元気な男の子ですよ」と聞いた時、もちろん飛び上がるほどうれしかったけど、心の隅では「女の子じゃなかったのかぁ、残念」という気持ちが少しだけあった。
女の子は楽しい。服を買ってやりがいがあるもの。ユイはそう思っていた。これはユイが、ほとんど小学生の頃から魔女であったのとおおいに関係がある。
一般に魔女である女性は、歴史と伝統を重んじる。極端な例がアスカの飛行するときの姿である。彼女は別に服を着て空を飛べるのだが、古式にのっとって、素っ裸に香油を塗って空を飛ぶ。が、程度の差はあれ、どの魔女もそんなこだわりを持っている。
ユイの場合は、服装だった。黒以外の色を身につけないのだ。これはもう徹底していて、下着からして独身時代からずーっと黒だった。下着が黒であってもゲンドウが喜ぶぐらいにしか役にたたないのだけど、とにかくそうなのだった。
しかし、その反動で、子供が女の子だったら、それこそタンスを一杯にするほど服を買ってやろうと思っていた。
レイは、ユイにどことなく似ていた。いや、少女時代のユイにそっくりだと言ってもよかった。ユイの好みの服がとてもよく似合った。ユイの好みとは、シンプルだけど、オーソドックスな、女の子らしいラインの服だった。
買ってばかりでは大変なので、何枚かワンピースを縫ってやる。デパートにあった、ローラ・アシュレーの、カントリー調の細かい花柄のプリント地で縫ってやった。それは、びっくりするくらい似合った。朝早く、ユイが居間に歩いていくと、それを着たレイが、窓際に立っていた。手をそっと窓枠にかけていた。窓は開け放たれていて、レースのカーテンが、花柄のスカートの裾にまとわりついていた。レイは、窓の外を見ていた。朝日が横顔に当たって、白い鼻の横に影をつくっていた。まるで絵のようだった。古くさい少女小説の挿し絵のようだわ、ユイは思った。
「何を見ているの?」ユイは声をかけた。
「……あれ」レイは庭の一角を指さした。
スズメが二羽、ユイの菜園の上で戯れているのだった。
「スズメね」
「す、ず、め……」レイは答えた。

これを『三角関係』と呼ぶのはかわいそう、ユイは思っている。
シンジは、とりあえず二階の子供部屋に『帰還』を果たした。理由は簡単である。現在のアスカとレイを比べると、一階の寝室で眠るレイの方が「危険だから」である。これはユイの判断だった。
もし居間に眠るシンジにレイが、その、なに、そうなったとき、レイはやっぱり、うまれたばかりみたいなものだから、なにを、この、ああなってはいけないので、まだアスカとそうなったときには、さいていでも、その、あれのことはきちんとしてるだろうから、まあ、だいじょうぶ、と思ったのだ。
シビアな判断だが、狭い家に、思春期の男の子ひとり、女の子二人暮らさせるのだから、これくらいの判断は必要なのだ、とユイは独りで納得している。
不思議な事に、レイをどこかへ、たとえば(人間になったホムンクルスの施設などというものがあるとして)施設へやるなどといことは、碇夫妻はこれっぽっちも考えなかった。
ゲンドウにとってレイは初恋の人によく似た自分が作ったホムンクルスの延長線上にいる女の子だし、ユイにとってはついに産むことがなかった自分の娘のような存在なのだった。

シンジは連休中、朝から夕食どきまでずっと部屋にこもって、大量の文書を読んでいた。アスカはそんなシンジのそばに座って、彼の馬鹿げた質問に、辛抱強く答えるのだ。口汚くののしりながらも、アスカは献身的な努力をしているようにみえた。
「……ねえ、『地球の自転を止めてはならない』ってなんで?」シンジは上級魔法使い編の規則を読みながらつぶやくように言う。
いつもの午後だった。
アスカは、あんぐりと口を開け、コイツは、いったいいままで何を考えて生きてきたんだろう、と思った。きっと何も考えていなかったのだ。
「……あんたねえ、いま、この瞬間、自転を止めたらどうなると思う?」
「えーっと――夜が来なくなる!」彼なりに一生懸命考えたのだ。
「……そら、そうね。でもね。それより先に起こることがあるわ」
「……?」シンジは考えた。考えている。
約一○秒間、アスカは律儀に待った。なんだかむかむかしてきた。この子が世界で六人しかいない『ウィザード』になるんだ、と思った。人類の前途は洋々だわ。
「あのね。地球の自転の速度って知ってる?」
「……さあ」
「……あんた自転車に乗ってて、思いっきりブレーキかけたらどうなる?」
「ま、まえにつんのめるかなぁ」
「そうね。それが慣性の法則ってもんよ。――一瞬にして地球の自転を止める。ところが地球の上には海洋があって、陸地があって山があって木が生えてて、薄い皮膜のような大気があって、そして、地球の大きさからすればゴミみたいな、私たちのささやかな文明がのっかってるわ。それが、それらだけが、慣性の法則にしたがう、つまり以前の速度を維持しようとする。ずるずるずるずる。いままで記録されたことの無いような巨大な津波、崖という崖は崩れ、ビルはバタバタと自分の速度でふっとんで、人間はまるでボーリングのボールみたいにごろごろと」
「……す、すごいね」
「……何人生き残れるかしら? 『慣性中和魔法』か『遮蔽魔法』を使えるものだけが、かろうじて生き残れるかも」
「……たいへんだ」
「たいへんよ。だから、禁止されてるの。今のところ、こんな魔力を持つ者はいないわ。でもいつか出現するかもしれない……。これは『来訪』直後、『H・G・ウェルズ』って評論家がその可能性を指摘した事からきてるの。……わかった?」アスカは、もしかしたら、シンジだったら出来るかもしれない、と思いながら言った。
「わかった」
こんな調子であった。
つまり、魔法は、強くなればなるほど、覚えなければならないことが増えるのである。なぜならば、魔法の強さとは、すなわち物理世界への影響の強さのことであるから、物理学の知識が不可欠なのだ。

シンジは、文書から目を離し、ふう、とため息をついた。アスカが自分をにらんでいるのは分かっていたが、窓の外をぼんやりと見た。
厚い雲の隙間から、夕日が差し込んでいる。遠くで車のクラクションの音。
「……ぼくにはむりだよ」彼はつぶやいた。
「無理でも、やらなきゃだめ」アスカはぴしゃりと言った。
「……ぼくが『ウィザード』になるなんて、たまたま父さんが大昔の女神の魂を受け継いだホムンクルスのレイを作ったからで、もともとぼくに何かの才能があるわけじゃないんだ……。ぼくは何も知らないし、アスカのほうがよっぽど」
「でも、やらなきゃだめ」
「そればっかりじゃないか!」シンジは珍しく魔法の勉強中に、アスカに対してどなった。シンジは、黙ってしまったアスカをにらみつけてこう叫んだ。
「ぼくが『ウィザード』になるなんて、悪い冗談なんだ! ぼくに人類のリーダーって、ぼくになんの資格があるんだよ! ……ただ怒ったら地球をこなごなに出来るかもしれないってだけじゃないか! ……ぼくなんか、魔法が使えない方がよかったんだ!」
シンジはそう言った後、自分でも情けない事に、アスカの視線から目をそらした。怒鳴り返されるとおもったからだ。議論してアスカに勝てるはずがないと思ったからだった。ぼくは、前に進むのも、逃げ出すのも怖いんだ、と思った。
「……ぼくは、だめなんだ。地球を壊しかけた悪者なんだ。でも、悪いことをしたと思えないんだ。……このまま『ウィザード』になるとしよう。……気に入らないことや、つらい事があったら、『消えてしまえ!』って叫ぶ。……『ぼん』って地球は破裂して、……おわりなんだ……。いつでも消してしまえる世界なんて、ぼくの夢みたいな気がするんだよ。ぼくが、目をさます。『ぼん』って世界が消える。ぼくが交通事故かなんかで死ぬ。それでも『ぼん』、だ」

「……」意外にもアスカは黙っていた。しばらく沈黙が続いた。
シンジは恐る恐るアスカの顔を見た。いつもの、髪の長い少女が立っていた。青い目。山のてっぺんの、どのくらい深いかわからないような湖の色。その瞳は、ぱちぱちと閉じられるまぶたで、なんども隠れた。
「わたしは、あんたの夢じゃないわ……。こうやって生きてるんだもの。……シンジが、『ウィザード』にならなきゃだめ」彼女は、ゆっくりと言った。
彼女の脳裏には、『ソーサラー・ブリンクマン』のように、『ウィズ・ローレンツ』のドラゴンの炎で、シンジが焼かれる光景が浮かんでいた。くすぶりながら燃え尽きる薪(まき)の灰のように、世界から色が消えていく、そんな感じがしていた。『ウィザード』として体制に取り込まれるか、さもなくば死か、あるいは世界を征服するか。でも、シンジには『ウィザード』以上に世界の独裁者は似合わない。
「……ごめん」シンジは、アスカの様子に、思わず謝った。
「あやまらなくてもいいのよ。……あんたの立場だったら、そう思っても不思議じゃないわ」アスカは静かに言った。
「……でも、ごめん。……もう言わない」

シンジはそう言って、文書の続きを読み始めた。何一つ頭の中に入らないような気がした。相変わらず難しい言葉だらけだった。
「……この『魔法で変身してはならない』って意外な感じがするけど?」シンジは話題を変えるように、あらたまった調子で言った。
「え……、その後の文章を、よく読んで」アスカはシンジの肩越しに、規則集を翻訳した紙の束をのぞき込む。彼女の長い髪が、軽くシンジのほおに触れた。
「あのね、後ろに『人間の遺伝子を改変するような変身は』と書いてあるでしょう。魔法は、少なくとも精神が作用対象をイメージしていなければならないから、脳の容量、思考形式まで変身によって変わってしまうと、元の人間の姿をイメージ出来ない可能性があるわ、つまり元に戻れないから駄目って言う意味ね」
シンジは、アスカの口元を見ているのだった。たしかにアスカは生きている。ぼくの、空想の中の登場人物じゃなかった。唇が動いている。そうだ。あの夜見た、きれいな女の子の裸も現実のものだったんだ。
アスカは、シンジが見つめているのに気がついた。
横を向いた。シンジの唇があった。不思議な瞬間が訪れた。お互い、相手の唇に自分の唇を触れさせるのは、ごく自然な事だと思えたのだ。だから、ふたりは、そうした。
「……ん」アスカの唇は、懐かしい味がした。重なり合った唇の中で、まるで鳥たちが挨拶するように、舌のさきっぽと、さきっぽが、ちょん、と触れた。
一日中おしゃべりをするよりも、そうやっているほうが、分厚い本をぱらぱらと調子よくめくるように、相手の事がよくわかるような気がした。
シンジは、自分が座っている椅子にかけているアスカの右手に自分の手のひらを重ねた。冷たい、柔らかい感触。ぼくの手の中でこわばっていくアスカの手。……うん。……アスカは生きている。そう思った。ぼくの夢じゃない。たぶん。

ぺたぺたぺた。レイは靴下が嫌いだった。なぜ嫌いなのか、自分でもわからない。でも、はだしの方がずっといい、と思えるのはたしかだった。彼女はスリッパも履かずに、家の中を歩き回る。ぺたぺたぺた。だから碇家のだれもが、レイが近づいてくるのは、足音でわかる。
でも、知らず知らずのうちに手を握り合って、指までからめだした、キスをしている少年と少女には、その足音は聞こえなかった。
ぺたぺたぺた。
レイは階段を上っている。シンジにごはんだよ、と告げるために。別に階段の下で叫んでもいいのだが、レイは、シンジの部屋をのぞき込みたいのだ。
『嫉妬』という言葉を、レイが知っているはずもない。一階にいて、ユイかあさん(レイはそう呼ぶことに決めた)に単語を教えてもらっていても、二階の事が気になるのだ。シンジと、あの女の子が、裸でベッドに入っているのではないか、と思うのだ。
なぜその光景を頭の中に思い浮かべるだけで、いてもたってもいられない、くるしい気持ちになるのだろう? と思った。
レイは、一日のうち、何度もシンジの部屋をのぞきこむ。たいてい、あの女の子はうるさそうに手をふるが、シンジは「なんだい、レイ?」とやさしく声をかけてくれるのだ。
「シンジ、シンジ、ごはん」レイはドアをいきなり開けて、中をのぞき込む。
ドアの隙間の向こうで、さっきまで抱き合っていたらしいシンジとあの女の子が、ぱっと離れるのが見えた。
「わ、わかったでしょ、――だから変身魔法というのは使われないのよ」
「う、うん。――なんだい、レイ?」シンジはレイの方を向いて、そう言った。

「ごはん、シンジ、ごはん」おかしい。なにかがへんだ。いえがせまくなったみたい。レイは、だだだだだ、と階段を下りた。
家は、どんどん狭くなってくるように感じた。違う、わたしがおおきくなってるんだ、レイは思った。
レイちゃん、どこへ行くの? ユイかあさんが後ろでそう言うのが聞こえた。わからない、いえがどんどんちいさく、せまくなっていくから、そとにでなければならないの、そんな長い言葉をきちんとしゃべれるはずがなかった。彼女は黙ってユイのサンダルをつっかけて、家の外に走り出たのだった。
間の悪いことに、ユイは両手に天ぷらをてんこ盛りにした皿を持っていた。
目の前には、早くも箸を手に持った、ゲンドウ、『シゲル君』、モン吉が座って待っていた。
「あなた、レイが家から出ていったの、追いかけて」
「いやだ。『シゲル君』行け」ゲンドウは、いったん食卓につくと梃子(てこ)でも動かない主義である。
「……」
「じゃ、モン吉行け」
「ウキキ」
「もう、いいわよ! ……シンジ、シンジ!」
なんだよ、と言いながら、シンジとアスカがどたどたと階段を下りてきた。
「シンジ、レイが外に出てしまったのよ! 連れ戻してくれる? あの子自動車ってもの、知らないから」
「う、うん」
シンジは勝手口に置いてあった、自分の古いスニーカーを履いて出ていった。
「……どうしたのかしら……レイちゃん」ユイは、何気なくアスカの顔を見た。そして、全部わかった。わかったような気がした。アスカのほおが赤くなっていたのだ。

高台の坂道の真ん中を、淡いブルーのワンピースを着たレイがとぼとぼと歩いているのだった。シンジは走り出した。
レイ、と名前を呼ぶのが、なんだか恥ずかしかった。だから追いついて、肩をたたこうと思ったのだ。
ところが、レイはシンジの足音が聞こえたのか、振り返った。レイはどんな表情をしていいか、困っているみたいだった。次の瞬間、突然前を向き、彼女は走り出したのだ。
「レイ!」シンジは、さらに速く走った。レイは一○メートル程先を走っている。
「レイ、待って!」シンジは叫んだ。
坂道の脇に並んでいる家々の人は、この高台にある錬金術師一家の息子の叫び声を耳にするや、またなにかしてかすのではないかと家の中の貴重品を集めるのだった。
確かに、何かは起きた。レイが坂道を下り終え、国道との交差点にさしかかってきたとき、軽四自動車がすごい勢いで左折してきたのだ。普通の人間、たとえば女子中学生だったら、ぱっと歩道へ避ける事が出来るほどの余裕があった。
しかしレイは自動車が怖くて脚がすくんでしまい、道の真ん中で、凍りついてしまったのだ。
シンジは、とっさに魔法をかけた。いったい自分が何の魔法をかけているのか、わからなかった。とにかく軽自動車が視界から消え、地面の上にへたりこんだレイだけが残っていた。
あの自動車には人が乗っているんだ、鈍くて冷たいものが背中に忍び寄った。ぼくは小さな「反竜」を召喚して、消してしまったのか?

「な、なにが起きたんだぁー」頭上で声がした。見上げると一○メートルほど上空に自動車が浮かんでいて、中年の男が窓から顔を出して叫んでいる。
「すみませーん」ぼくは『浮遊魔法』をかけたのだ、シンジは思った。
「レイ、道の端に寄って」シンジは、しゃがみ込んで震えているレイの両脇に手をいれて、狭い歩道に連れていった。レイは、だまって座った。
自動車を宙からゆっくりと降ろした。
「すみません」シンジは車の中からにらみつける中年男にぺこぺこ頭を下げる。
「きみ、碇さんちの息子だろ?」
「はい」
その中年男は、そうか、と言って車を走らせた。坂道の途中の近所の人みたいだった。
なにが、「そうか」なんだろう? シンジはそう思いながらレイに向かって歩く。レイは道ばたに両足を抱えて座っていた。怒ったようにシンジを見上げていた。
「レイ……パンツ見えてるよ」シンジは言った。そのとおりだった。

シンジは、レイの手をつかんで、引きずるように坂道を登っていた。レイは、わざと身体の力を抜いていた。何か言うべきだと思ったが、何も浮かばなかった。口の中に、ざらざらして気持ちのいい女の子の舌の感触が残っていた。
シンジは頭からその感触を追い払うために、「車に気をつけなきゃだめじゃないか!」とレイに振り向いて叫んだ。
レイは、シンジの顔をじっと見つめ返した。レイは、相変わらず、どんな表情を浮かべていいのか途方に暮れたような顔をしていた。
「……ちいさくなりたい」レイは言った。
シンジは聞こえないふりをした。
ちいさくなりたい、まえみたいに、ちいさくなりたい。おおきくなってもいいことない。そとを、あるけるようになったら、シンジがおんなのことだきあっているのをみてしまう。あついのきらい。さむいのきらい。といれへいくまえに、へんなふうにおなかがいたくなるのも、きらい。おふろとごはんたべるのだけ、すき。シンジきらい。いまのシンジきらい。
なぜか、レイの頭の中に、あの白い人(『闇の王子』のこと)がべらべらとわけのわからない事をしゃべっている光景がうかんだ。

アリゾナの『フォート・ローエル』で、『ウィズ・ブリティッシュ』は、頭を抱えている。彼の頭上には液体の入ったガラスの球体がぷかぷか浮かんでいた。球体の中には小さな妖精がいた。ホムンクルスのミランダだった。
ミランダは大好きなこの『ウィザード』を元気づけようと、くるくる回ったり、とんぼ返りをうったりしていた。
「ありがとう……、ミランダ」
午前中に行われた『ウィザード』の会議の事を彼は思いだしていた。
会議と言っても、一般的に『ウィザード』が世界のどこかに一堂に会することは、まずありえない。危険だからだ。彼らは『スター・チェンバー』と呼ばれる魔法によって造り出された疑似空間の中で会議をするのだ。
「……十四歳! ――そんな少年を」『ウィズ・ジャティ』が叫んでいた。
「きみは本気なのか? 『ウィズ・ローレンツ』」『ウィズ・コリンバ』が口を挟む。
無理もない。世界最高位の魔法使いの地位を、十四歳の日本人の少年に与えようというのだから。『ウィズ・ブリティッシュ』は思う。
しかし、『ウィズ・ローレンツ』を嫌っていた彼だが、彼の言うとおり、というか、それしか方法が無いという気がしていた。
その少年、『シンジ・イカリ』が、『闇の王子』と接触していたのは間違いない。データも証言も全てそれを証明している。『闇の王子』がシュメールの愛の女神『イアンナ』目当てにこの世界にやってきたのも事実。その女神の魂が少年の父が造ったホムンクルスに偶然にも宿り、少年に『メー』を与えたのも事実。
少年が『反竜』を召喚し、竜と激突したのを完全遮蔽したのがあの球体であることも事実だろう。そして、地球を破壊しかけた、そんな強大な魔力を持つ少年を、『ソーサラー』と認定した上で処罰出来ないのであれば、『ウィザード体制』に取り込む、というのも、政治的な判断として正鵠(せいこく)を射ているだろう。

『ウィズ・ブリティッシュ』を悩ませていたのは、それら個別の事実ではなかった。それらの連鎖、因果関係が、信じられないほどの偶然の上になりたっていると言うことなのだ。
『プロスペロー』(『フォート・ローエル』のコンピューター)に計算させてみたとしたら、天文学的な確率をはじき出すだろう。たとえば、10のマイナス二十七乗、といった数字が数学的に正しいとしても何の意味があるだろう?
それはゼロではない、という事を表しているのに過ぎないのだ。
これらが仕組まれた事だとしたら、その目的はなんだ。
仕組んだ犯人は分かっている。『闇の王子』より上位にあるもの。すなわち『魔界』の主、『大いなる闇』だ。だが、目的がわからない。
『悪魔はサイコロを振るのが大好きだ』、彼はある言葉を思い出した。彼の尊敬する『ウィズ・アインシュタイン』の言葉だった。『一般相対性理論』を放棄した後、『魔界』研究の最中に漏らした言葉だという。
悪魔はサイコロを振った。まるで彼らが現れるという合わせ鏡のように、無限に連なる平行宇宙というサイコロを振ったのだ。
彼らは賭に勝っているのか? われわれの宇宙は、彼らの望みどおりの目が連続して出る宇宙なのか?
では配当は何だろう? 『ウィズ・ブリティッシュ』は考え込む。
ふいに、例のヴィジョンにとらわれた。彼は一瞬、鬱蒼(うっそう)と茂った暗い森の中にいた。森の中に、魔女のコロニーがあった。年老いた魔女、若い魔女、幼い魔女。わずかに男の姿がみえる。彼らはめいめいたいまつを持ち、どこかに向かって歩いていた。
ブナの森の切れ目に、その異形の生き物がいた。山羊(やぎ)の頭を持ち、乳房と男根を同時に持つ生き物だった。『バフォメット』。中世の魔女たちがあがめていた神だった。こいつは予知じゃない。おれの心の奥にある広大な無意識のプールから出たシンボルなんだ。『ウィズ・ブリティッシュ』は思った。
いったい、この世界に、何が起きようとしているんだ?

古い寄宿学校の校長室で、その男は、手紙を読んでいる。
「『断る』、と、きたか」男はつぶやいた。おそらくアスカの入れ知恵だろう。しかしそれは予期していた可能性の一つに過ぎないのだ。
彼はカレンダーを見る。『発表』の日まであと一週間。魔法管理機構内ではワン大人を継ぐアジア地域の『ウィザード』の就任発表があるといううわさが流れていた。それもひどく若い『ウィザード』であるということまで。
おそらく世界は驚愕(きょうがく)するんだろう。十四歳の少年が、実質的に世界を支配している魔法管理機構のトップの六人目になるんだからな。
『中学卒業後魔法アカデミーへの特別奨学生として入学が決まっている』、この一文が花を添えるはずだったのだが。とにかく印象が違う。誰しも、わたしと、この驚異的な少年との関係に気がつく。師弟などと世間がとってくれるかもしれない。地球を破壊できる程の魔力を持つ少年と、『後見人』のわたし。
そんな図式である。
「……が、断るのか」その男はまたつぶやく。
日本語でなんと言ったろうか? 『お灸(きゅう)をすえる』だったか。どんなに巨大な魔力を持っていても、いかに自分がちっぽけな存在であるかを思い知ることは、彼の今後の人生にとって有益な事だ。そして、自分の無知と無力さを悟り、わたしにすがりつくがよい。
その男はバイザーを付けた顔で天井を仰いで、一九五六年の『ウィズ・アインシュタイン』の国連演説の事を考えた。
その男が『世紀のお節介』と呼ぶアインシュタインの国連演説によって、『世界大戦』以降継続していた帝政、王国、独裁国は漸次、民主的な選挙を行うようになったのだ。まったくコスモポリタンらしい、民族自決権を考えぬ、愚かな行為だ。男は思った。
あの少年が、国連会議場で何を言おうと世界がどうなるわけでもない。ただ世界中に漠たる不安をまき散らすかもしれない。『このウィザードには後見人が必要だ』。そうだ。わたしが適任であることは論を俟たない。
『ウィザード』が国連で演説するのは不思議でもなんでもない。わたしも就任式の後、やった。あのイギリス人の若造もやった。極東地域の『ウィザード』がやることに、なんの不思議もない。
その男はその妙案に満足し、国連事務総長への手紙の文面を考えた。
こうして、物事のすべては坂道を転げ落ち始めた。

さて、碇家ではまるで詰め込みの受験勉強のようなシンジの学習が追い込みを迎えていた。シンジは何度も音を上げた。アスカはそのたびに、「おばさまが資格を剥奪されてからこっち、あんたの監督者はわたしなんだから、あんたが『ウィザード』になって、アホなことしたら、わたしが恥をかくんだから!」といって、シンジの背中を力いっぱいたたくのだった。
前みたいにキスしたりする事はなかった。いやに頻繁に、ユイが部屋の中に入って来るようになったからだ。たぶん、レイの事でばれちゃったんだわ、アスカは思った。どうでもいい。わたしはシンジを男として好きなんじゃないんだから。恋してる? 冗談じゃないわ、ローレンツ。なにか手のかかる子供みたいなものよ、シンジは。
「様子はどう?」ユイはグラスに入ったオレンジジュースを二つ、盆に乗せてやってきた。
「え、ええ、いま『ウィザード』篇に入ったとこ」アスカはシンジの手元をのぞき込んでいた顔をあげ、ユイに振り返った。
「すごいわ、未知の領域ね」
「ええ、すさまじいわ。『大気圏外においてのみ使用出来る魔法』って独立した一章になってるし、『瞬間移動に関する禁止事項』なんて項目あるし」
「やっぱり、ウィザード級になると『瞬間移動魔法』が使えるようになる、ってホントだったのね」
「ええ、ただし『真空から真空への移動に限定する』って書いてるけどね」
母とアスカがそう話しているのを聞きながらシンジは、それって息できないじゃないか、と思ったのだが、口に出して言わなかった。馬鹿みたいなセリフだと思ったからだ。

碇ゲンドウのいらいらは頂点に達していた。
レイの事である。息子がレイに冷たいと思えるのだ。朝早く起きて部屋にあの小娘とこもって勉強。中学校から帰ってきたら、やっぱりあのくそ生意気な小娘と部屋にしけこむ。正味レイと口をきくのは夕食の時ふたことみこと。
どうなっておるのだ。
どうせ、部屋でちちくりあっているに相違ない、碇ゲンドウは思う。ユイの目を盗んで、キスしたり、その、なんだ、胸揉(も)んだりしておるに違いない。
モン吉はドラゴンを見て以来、すっかり弱気になっちまって、お目付役の役割を果たさんし。
どうなっておるのだ。そもそもレイは、わしがシンジのガールフレンドとして造ってやったのだ。いや、造ってやったホムンクルスが、あの横恋慕野郎の『闇の王子』によって人間になったのだ。
これは浮気ではないか。
『浮気』という単語で条件反射的に浮かんでくる赤木博士(特に喫茶店で見たミニスカから伸びる脚)の姿をあわてて追い払いながら、ゲンドウは、これは義憤なのだ、と思った。
ゲンドウにしては非常に珍しく、事あるごとにレイにやさしい言葉をかけてやるのだが、レイはどうもゲンドウを嫌っているらしく、すぐにどこかへはだしでぺたぺたと行ってしまうのだ。
どうなっておるのだ。
ゲンドウは、初恋の面影を持ち、かつ若い頃の妻に似ている少女の事がかわいそうでならなかった。もちろん、ゲンドウ以外の人間にゲンドウがそう考えているのはわからなかった。もともと碇ゲンドウは、何を考えているのかわかりにくい人物なのだが。
その日も、シンジと小娘と妻が二階で話しているあいだ、レイはぼんやりと居間の窓のところに立てって外を見ていた。その横顔がなんともいえず悲しそうに見えたので、ゲンドウはそばに行った。
たいていの場合、たいていの人は、碇ゲンドウという人物がそばに来ると、『ぬっと現れた』という印象を持つ。
レイとて例外ではなく、「きゃ」っと声を上げて逃げ出そうとした。
その時、レイはおへその下の方に重たい痛みを感じてしゃがみ込んでしまった。
「どうしたのだ?」ゲンドウは言った。
「……おなか、いたい」レイは言った。
「何かにあたったのか?」そう言われてもレイにわかるわけがない。
「……トイレにつれていって」
その少女がそう言うものだから、ゲンドウはレイの身体を支えて、トイレまで歩かせた。
「あー!」トイレの中から、レイの困ったような叫び声が聞こえた。
「どうした?」トイレの前に突っ立っていたでかい中年男は声をかける。
「……あたし、しんじゃう」レイのか細い声がする。
「だから、なにがあったのだ?」
「……ちがでてきた」レイはそう言うのだった。
ゲンドウの頭の中で、古い建物がダイナマイトで解体される。わらわらわら。ゲンドウはあわてて二階へ走って行く。
二階にいたシンジ、ユイ、アスカの三人は、どすどすどすという野太い足音が下から上がってくるので、誤解したモン吉が『シゲル君』に乗って攻めてきたのか、と一瞬思った。
「かあさん!」なんとゲンドウがあわててシンジの部屋に入ってきたので、一同は面食らった。こんなにあわてているゲンドウを見るのは、シンジもアスカも初めてだった。ユイは初めてではなかった。わたしが産気づいて、「生まれそうだわ」と家で言った時、こんな感じだった。
「なに?」
「ちょっと来てくれ」
「だから、なに?」
「だからちょっと来い」
「なによいったい……」ゲンドウはユイの手を引いて、またどすどすと階下へ降りていく。
ゲンドウはトイレの前までユイを連れて行った。耳を澄ます。中から、「シンジ……シンジ」と蚊の鳴くようなレイの声が聞こえた。
「レイが大変なのだ」ゲンドウは言う。
「もしかして……」
「その、もしか、だ」
「変だと思ったのよ……ちょっとまって!」ユイは寝室へ走って行き、紙袋を取ってくる。
「教えていなかったのか?」
「他の事を教えるのに忙しくて……。レイちゃん、入るわよ……あなた、あっちへ行ってて!」ユイはトイレのドアを開け、中に入って行った。
こんなとき、男の出る幕はない。ゲンドウは台所に行き、椅子に座った。まるで産婦人科の待合にいるように、そわそわと待ち続けていた。

「なんで、ぼくが」
抗議するように、そう言うシンジの顔を見下ろしながら、ユイは無性に悲しくなった。
「あなたに、そばにいてほしいのよ。びっくりして、心細いのよ……、シンジ、しばらく、そばにいてあげなさい」
息子は、うなずいて寝室へと歩いて行く。やはり、人形の延長として、「愛している」と思いこんでいただけだろうか? ユイは思った。レイが殺されたと思いこんで、無意識にでも、世界を消去しようとするという行為と、それはつながっているような気がした。
「愛」という便利な言葉が浮かんだ時から、思考停止していたのだろうか。レイはいまや人間なのよ。トイレにも行くし、生理にだってなる女の子なのよ。しかし、中学生の少年に少女の存在の全てを受け入れて、『愛する事を続けなさい』(シェイクスピア『冬の物語』より)と言えるだろうか?
息子のことで、こんなふうに考えるわたしは、やっぱり変わった母親なのだろう、ユイはそう思う。PTAで出会う母親たちに、息子をいまだに子宮から伸びる糸でつながっていると思いこんでいる母親たちに、わたしはなじめない。
ユイは台所に戻る。夫とアスカとモン吉と『シゲル君』がいっせいに彼女を見た。
ゲンドウは、生意気な小娘が、なんとなく機嫌の悪そうな顔をしているのを見て、いい気味だ、と思った。この父親もやっぱり変わっている。

シンジは、寝室の戸を開けた。部屋の真ん中に布団が敷かれていて、その上に丸い掛け布団の塊がある。その掛け布団の隅から、青みがかった銀色の髪が一房こぼれていた。
「……レイ」シンジは声をかけた。
がばっ。布団からレイの顔が飛びだすように現れた。まるで怖いものでも見たような顔をしていた。
「……シンジ!」
「だ、だいじょうぶだよ、病気じゃないんだから」と言いながら、ぼくはそれについて何を知っているんだろうと思う。「女子は生活課教室に集まってください」、小学生の時、先生がそう言って、男子のぼくたちはグラウンドでドッジボールをやったときがあった。『じつは、女子はみんな魔女で、魔法の訓練してるんだぜ!』、誰かがそう言ったので、みんなはぎゃはははは、と笑った。
その時、ぼくはなんでみんな笑うんだろう? と思ったんだ。すごい事実じゃないか、と思ったんだ。
「びょうきじゃないの?」
「病気じゃない。……かあさんから聞いたんだろ?」
「うん、……こどもをうめるように、からだが、かわっていくんだって」
「うん……そんなもんだよ」
「わたし、シンジのこども、うむの?」
「う、うむの? って聞いたって……」実に困った質問だった。
「……キスして」レイは突然、唇を突き出す。
「う、うん」シンジはそう答えて、顔を近づけた。アスカの時と何かが違う。何が違うんだ?
「レイ……キスするときはね、目を閉じるんだ」
「うん」レイは目を閉じた。シンジは横たわるレイの、淡いさくら色の唇に、自分の唇をくっつけた。
ほんの一秒ほどそうしていた。離れる。レイの顔に安堵(あんど)の色が浮かんでいた。シンジは見下ろしながら、よかった、と思った。とにかく怖そうな表情は消えている。
「……ねむくなった」レイは言った。
「しばらく横にいるから、眠ったらいいよ」シンジはやさしく言った。

レイは、すとん、と眠りの国に入っていった。夢を見た。人間になってはじめて見る夢だった。ユイかあさんに読んでもらった本の海に、レイはいた。
夜の海だった。
絵の具で描いた夜空に、黄色い大きな月が浮かんでいた。
海と月は、とても仲が良さそうに見えた。波がゆらゆらと、月にほほえみかけるように揺れていた。
月はユイかあさんの言ったとおり、動いていた。そらのてっぺんにあったかと思うと、すっと海の中に落ち込んで、今度は太陽が出てきた。太陽があたふたと海に沈むと、今度は月。果てしない追っかけっこ。
本当は地球の方が動いている、とユイかあさんは言ったけど、そんな難しい事はわからなかった。
レイは、ああ、きれい、と絵の具の海と絵の具の月を見て、思った。その時、不思議な言葉が浮かんだ。
からだのなかにも、うみはある。だから、にんげんは、つきがすき。

「……何を見ているんだ、タランテラ」
その船は暗い海を突き進んでいるのだった。夜の空に月が輝いていた。甲板に、青白い肌を持つ女が立って空を見ていた。女の、クモの巣のような感覚器官は、デッキの手すりにからみついていた。女は、さまざまな波長の電波を浴びているのだった。
「……美しい月です、AB」女は言った。
「そうだね。……素晴らしい航海だ」ABと呼ばれた白髪の老人は言った。
「……日本は平和みたいですわ。AB」日本語のラジオ放送が実に鮮明に「見え」だした女はそう言った。
「そうだな。……予定どおり着けば、なんと一日前になる」
「……そうですか、ぎりぎりですね」
「うむ。『ウィザード』になってしまうと、接触が面倒になるからな」
「日本の同朋がなんとかしてくれますわ」
「いや、事を荒立てたくはないのだ」ABは言った。
その時、船の乗組員のうち、狼男の何人かが声をそろえて月に向かってほえるのが聞こえた。美しいコーラスのようだった。
腕をコウモリの翼に変形させた乗組員が、月を背に、きれいな宙返りをくりかえしていた。
「……月は、われわれの魂を解放する。そうじゃないかね? タランテラ? ……それを『ルナティック』(狂気にとらわれた人の意がある)と呼ぶのは、この宇宙が狂っていると言うのと同じだと思うね」
タランテラは答えず、まるで満月の下で踊るサロメのような、妖艶なほほえみみを浮かべた。

そして、数日が過ぎた。
その埠頭は貨物船専用にも関わらず、夜の十二時を過ぎてから、人が集まっているのだった。まるで客船を出迎えるように。
冬月コウゾウは、暗い海の沖を見つめていた。いよいよ、ABと会えるのだ。
その時、埠頭(ふとう)のクレーンの脇に車が停まり、若い男女が降りてきた。伊吹マヤと、彼女の恋人だった。
日向マコトは、埠頭に大勢の人々がいるのを見て驚いていた。数十人はいるのではないか、と思った。年齢も性別も服装もまちまちだった。小学生らしい少女がいるかと思えば、白髪の老人がいた。平凡な主婦に見える女。警察官の制服を着た男。
彼らはみな本性を隠して、普通の人間にまぎれて生活しているんだ。
「やあ」冬月は二人に声をかけた。
「……すみません、どうしても一緒に来たいって――」弁解するように言うマヤを制して、冬月は若者に言った。
「――当然の事だが、ここで見たことは誰にも言ってはいけない」
「わかってます」マコトは答えた。
「誓えるかね? 命にかけて」
「冬月さん!」
「……誓えます。誓いを破ったら、ぼくを殺してください」
「はは、そんなことはせんよ」

「船が見えたぞ」誰かが叫んだ。
確かに沖に船の明かりが見えた。何の変哲もない古ぼけた貨物船だった。
やがて船は接岸した。
「AB、AB」その場にいた人々は口々にそう叫んだ。
白髪の老人が、青白い顔をした女と船から降りてきた。出迎えの人々は遠巻きに立って、その二人におじぎをする。
年を取った何人かが感激のあまり泣いている。
「……冬月さんはおられるかね?」その老人は日本語でそう言った。
「はい、ここに。AB」冬月はそう言って頭を下げた。
「ありがとう、明日の夕刻、少年の家に案内してくれないか」
「承知しました」冬月は答えた。
翌日の昼間、碇家に魔法管理機構日本支部のお歴々が雁首(がんくび)をそろえて集まった。
マスコミへの発表、記者会見、就任式の段取りを告げに来たのだった。全員が、早くもこのぱっとしない外見の中学生を、『ウィズ・イカリ』と呼んでいた。
アスカはシンジが『ウィザード』になるのって夢じゃなかったんだ、と思った。シンジは自分が『ウィザード』になるのって夢の続きを見ているみたいだ、と思った。
黒塗りの車が三台、坂道を下って行く。玄関先で、ユイとゲンドウとシンジが並んで見送っていた。
「……明日ね」ユイはぽつりと言った。
「日本中大騒ぎになるな」ゲンドウが言った。
「……世界中よ、あなた」ユイはそう言って、息子を見ていた。普段と変わらない。つまり、ぼーっとしていた。
「もう全部読めたの?」
「うん、一応」シンジは答えた。
「じゃ、今日は早く寝なさい。あした朝の七時に迎えが来るんだから」
「うん」

シンジは学校を休んでいた。何もせずにゆっくりしてなさい、と母親が言ったので、居間で昼のワイドショーを見ていた。
「なーに、ぼーっとしてるのよ? ウィズ・イカリ」アスカが冷蔵庫からウーロン茶の缶を取って、歩いて来た。ソファに腰掛けるシンジの後ろに立って、肩をぽん、とたたいた。ぼくたち、まるで、夫婦みたいだ。シンジは思った。そしたら、まっ昼間から、元気になってしまったので、あわてて脚を組んだ。
その時、レイが寝室からぺたぺたと歩いてくる音がした。
レイはアスカを見た。アスカは、ぷいっと横を向いた。
レイは、シンジの隣に座った。
「……もう大丈夫?」シンジはレイに話しかけた。
「うん……ありがと」レイは言った。なぜかレイの白いほおにかすかなピンク色の影がさしていた。
「……あたし、出かけてこようーっと」アスカは独り言のように言う。
「どこに行くの?」シンジは振り返った。
「そんなの勝手でしょ」アスカは言って、二階の自分の部屋に上がって行く。
「……あのこ、シンジのことすきなの?」レイは言う。
「し、しらないよ、そんなこと」
「すきじゃないのに、だきあってたの?」レイは単刀直入に言う。
「いや、あの、あれは」シンジは言いよどんだ。

居間の入り口に、碇ゲンドウが、まるで黒いタールが塗られた昔の電柱のように立っていた。
がんばれ、マキコちゃん、あんな小娘に負けるな。
彼は物陰からそっと応援しているつもりなのだ。

シンジの街に夜が訪れた。
碇家の前に二名の警官が立っていた。九時の定時連絡を済ませたあと、あれこれと世間話をしていた。住宅地の真ん中に立っているのは、どうも気合いが入らないのだった。おいおい、十一時の交代時間までまだだいぶあるなあ、という話になる。

その女は坂道をゆっくりと登ってくる。両手に買い物袋を下げた、太った中年女である。太りすぎて歩くのすら大儀なのだろう。
「ふーっ」
警官たちの五メートル前ほどで、一息つき、「あーっ、坂の上には家建てたくないわねえ」と独り言を言った。
女は再び歩き始めて、碇家の前まできた。
「何のご用ですか?」警官の一人が言った。
「……何のご用って、あんた見てわからないの? これ届けに来たのよ」女はそう言って買い物袋を持ち上げる。
「身分を証明するようなものを持ってますか」もう一人の警官が言った。
「あんたねえ、あたしみたいなおばはんが、いつも身分証明書持ち歩いているわけないじゃないの。……あ、そうだ、午前中歯医者に行ったから保険証持ってるわ、ちょっと持ってて」女は目の前の警官に、両手に提げた二つの買い物袋を突き出す。
「はいはい」その警官は袋を受け取ろうと女に近寄った。手渡す瞬間、女は警官の首筋にかるく手を触れた。ぴくん、その警官は女の足下に崩れるように倒れる。
「あらあら、そんなに重たいことないのに。大変、この人、気をうしなっちゃったわ、あんた、このひと心臓発作かなにかよ!」
「え? ……大丈夫か?」もう一人の警官は倒れた同僚に近づいた。
女は再びもう一人の警官の首筋に手を触れる。ぴくん、警官は飛び上がって、倒れた。
「もう、重たいわね……!」女は文句を言いながら、気絶した警官二人を引きずって碇家のガレージに隠した。いつもガレージのシャッターには鍵が掛かっていないのは知っていた。古ぼけた緑色の車は廃車になっていて、ガレージはからっぽだった。女は警官をガレージのコンクリートの床に寝かせた。息をしているのを確認する。
ガレージから出てくると、三人の人物が坂道を登ってくる。
偉大なるABと、お付きの女性、古本屋の店主、冬月だった。
「ありがとう」冬月は声をかけた。
「いえいえ、ABさまのお役にたてて、あたしはうれしいですよ。ああ、ABさま、お会いできるとは思っておりませんでした」
「ありがとう、マダム」ABは言った。
「警官はご心配なく、わたしが起こさないと気絶したままです、どうぞごゆっくり」
三人は会釈すると碇家の玄関に向かって歩いていく。
中年女は、『護衛部隊』が音もなく展開するのを眺めながら、人差し指と親指を、宙をつまむように、わっかにした。バチバチバチ。指先と指先の間に火花が散った。中年女の体内は電気ウナギのような化学的な発電器になっているのだった。

冬月はチャイムを鳴らす。碇ゲンドウは彼の店の得意客だが、家を訪ねたの
は初めてだった。
「はぁい」奥から、若い女の声がして、誰かが走ってくる。
タランテラは玄関のガラス戸越しに、その人影を確認する。女の子だ。おそらく上級魔女だという少女だろう。タランテラは、感覚器官をそっと広げた。青白い肌の女は、彼女の最大の武器の準備をしていたのだ。魔女が、何らかの攻撃魔法をかけるまえに、少女の体内の水分が沸騰するほどのマイクロ波を浴びせる事ができるだろう。
がらがらがら。アスカは戸を開けて、目の前に『吸血鬼』が立っているのに気がついた。
「あ、あんたは!」アスカはとっさに戸を閉めようとした。
「わたしは、碇シンジ君に用があってきたのだ。危害を加えるつもりはまったくない。入れてくれないかね?」冬月コウゾウは言った。
「シンジに何の用があるのよ!」アスカは警戒したまま後ろに下がる。
「……どうしたの?」ユイが台所から歩いてくる。
「おばさま! 来ちゃだめ! ……『インヴォルブド・ピープル』!」
「え? ……冬月さん!」ユイは廊下に立ち止まった。
「どうも、こんばんは、おくさん、――ゲンちゃん、いえご主人はご在宅ですか?」
「あなた! あなた!」ユイは振り返らずに夫を呼んだ。
「なんだ、そうぞうしい……」ゲンドウはどすどすと廊下を歩いて来て、玄関先になじみの古本屋の店主が立っているのに気がつくと、
「ああ、あの本の支払いなら、ちょっと待ってくれないか?」と言った。
「な、なに言ってるのよ! こんなときに」アスカは叫んだ。戸の向こうに、殺気を感じるのだ。
「え……集金じゃないのか?」ゲンドウは言った。
「はははは、相変わらずだなあ、ゲンちゃん。ある時払いの催促なしだよ、当店は。――息子さんに会いたいって人を案内して連れて来たんだよ。夜分に失礼だとは思うが、息子さんに、会わせてくれないか?」
「あ。いいよ。そんなことなら」ゲンドウはあっさりと言った。
「あなた!」
「おじさま!」
「いいではないか……、相手は『文月堂』の冬月さんだぞ。古本ツケで買えなくなったらどうするのだ、バカモノ」
アスカはもちろんの事、ユイもこの時ばかりは開いた口が塞がらなかった。
「感謝するよ、ゲンちゃん。今度来たとき好きな本持って帰ってくれ」
「ああ」ラッキー。
「AB、どうぞこちらへ」
ABと呼ばれた人物が玄関口に入って来た。白髪の欧米人らしい老人だった。 アスカもユイも、ゲンドウもその人物に見覚えがなかった。
「すみませぬ。急な訪問をおわびします。事前に連絡して騒ぎになるのを避けたのです。わたくしはこういうものです」その人物は、流ちょうな日本語でそう言って、名刺を差し出す。
「日本語お上手ですな」ゲンドウはその紙切れを受け取りながら言う。
「ありがとう、外国語を学ぶ時間はいくらでもありましたからね」
ゲンドウは、その名刺を見る。

『    詩人   アンブローズ・ビアス     』

そうか『AB』とはこの名前のイニシャルなのだな、とゲンドウは思った。
「シンジ、シンジ!」ゲンドウは台所に向かって叫んだ。
「どうぞ、狭いところですが……かあさん、コーヒーでもいれてくれ」
「あなた……!」

客人を応接間兼居間に通しながら、ゲンドウは、なんであんな見ず知らずの、外人の年寄りの名前に、聞き覚えがあるのだろう? と思っていた。
冬月と同行の女性は外で待つと言って、家に入ってこなかった。
アスカは、すぐさま台所の窓をそっと開け、庭を見渡す。案の定、闇の中に光る目があった。縦長の瞳。ふと夜空を見る。コウモリと呼ぶにはあまりに大きな何かが、いくつも月の回りを舞っているのだった。
「……囲まれてるわ」彼女は、コーヒーカップを食器棚から出しながら、ユイに小声で言った。
「そうね……とりあえず様子をみましょう」ユイはコーヒーの準備をしながら答える。
シンジは居間にやってきた。音を聞きつけてレイも彼にぴったりとくっついてやってくる。
ABはその色の白い少女に目をやった。彼女が『エンキ』によって人間にされた少女なのか。
ABと名のる老人が座る正面に、シンジを中心にレイ、ゲンドウ、ユイ、アスカの全員がそろった。いや、『シゲル君』とモン吉は庭でわけのわからぬ獣たちに取り囲まれて震えていたのだが。

「わたしは、君に会うためにイラクからやってきたんだ」老人は言った。
「……イラク?」地理で習ったはずなのに、シンジは思い出せない。アジアのどっかにあったっけ。
「バグダッドのある中近東の国よ」アスカが怒ったように言う。
「……バグダッドといやあ、アラビアンナイトだな」ゲンドウはつぶやく。しかし彼は、頭の中で、アンブローズ、アンブローズ、アンブローズ、と呪文のように繰り返していた。
「あなたは黙ってて」ユイは言う。
「……ぼくに何の用ですか?」シンジは聞いてみた。
「それが、特に無い」老人は平然と言った。
「なんですって! 特に用事も無いのに人の家、包囲して! あんた」
「アスカもだまって!」
「特に無いのだ。わたしはある信頼できる情報源から、きみとその子に関わる事件の顛末(てんまつ)を聞いてから、きみに会わなければ、という観念にとりつかれてしまったようだ。あの事件自身が神話、神話的表象をなぞっているように、わたしはこの家の坂を登りながら、これではまるで『東方の三賢人』のようだと思ったのだ。マリアとイエスの厩(うまや)を訪れた三人の博士のようだ、と三人で歩きながら思っていた」
ユイは、不思議な共感をこの老人に抱いていた。そうだ。この人も感じたのだ。あれが、あの一日に起きた信じられない出来事が、何かをなぞっていることに気づいているのだ。
「……しかし、わたしは『神』などというものを信じているわけじゃない。『神は人間の造った最高の作品なのだ』」
ゲンドウは、その言葉が、赤くてでかいゴシック体のフォントで点滅しているような気がした。どこかで聞いた事がある。……映画? ……図書館? ……おれの家だ。おれの本棚だ。
「ちょいと失礼」ゲンドウはソファからむっくと起きあがり、ばたばたと『実験室』に走っていく。ばさばさと本が床に落下する音がする。「あったー」とゲンドウの声。またどすどすと大男が走ってくる。
「アンブローズ・ビアス! あんたアンブローズ・ビアスって名刺を出したね!」ゲンドウは興奮している。
「ふふ、そうだよ」『AB』とイニシャルで呼ばれる老人は、にやりと笑った。
「どうしたのよ! あなた」
「ユイ! この人は『アンブローズ・ビアス』! この本を書いた人だよ!」ゲンドウは一冊の分厚い本を妻に向かって突き出した。
その古いハードカヴァーの本には『悪魔の辞典』という書名が金文字で刻印されている。ユイはその著者名を見てたまげた。
「……え……えええ? 、『アンブローズ・ビアス』!」
「開いて見ろ、最後の方だ」
「『一九一四年、メキシコにて消息を絶つ』! ……じゃあなたは一九一四年から……?」
「そうだよ。一○○年も生きてきた。もっぱら、イラクのほこりっぽい砂漠の中に住んでいたから、知る人は少ないがね」
「その間、何をしてたのですか?」ゲンドウは、目を輝かせて言う。なんてこった、大学生時代に一番信頼していた辞典(注)の作者の名前をど忘れしていたとは!

(注:というより皮肉とユーモアに満ちた辞典のパロディと言うべきである。この素晴らしいスタイルは今に至るまで『〇〇用語辞典』といったパロディの定番的手法となっている)

「わたしは『来訪』の契約に基づく一九一〇年の彗星の接近で、君たちの呼ぶ『インヴォルブド・ピープル』になったのだ。正直、神なんてものがいるのなら、それを呪いたかったよ。……が、そのショックから立ち直ってみると、世界中にわたしと同じ目に遭った人々がいて、そして大きな『戦争』の気配が忍び寄って来ていたことに気がついたんだ。そうだ、バルカンは導火線そのものだった。あそこから火がついて、ボンっと世界を巻き込む戦争になるとね。我々『インヴォルブド・ピープル』の運命は容易に想像がつく気がした。……われわれは戦争に利用され、消耗させられ、殲滅(せんめつ)させられる、とね。わたしは、地下に潜る事を決心した。世界に我々のネットワークを作り、戦争で殺し合い、殺されることを防ごうと思ったのだ」
「じゃ、あのロシアの『ラスプーチン』のように――」ユイが言う。
「いや、彼とは協力出来なかった。彼は半ば自分の正体を世間に公然とさらして、戦争を終わらせようとしたのだ。結果はご存じの通りだ。彼は世界の暗殺史に刻まれるほど大袈裟(おおげさ)な殺され方をした。我々を殺すにはあれ程の努力が必要なんだよ……。わたしは世界各地に仲間の避難所を作る事を思いついた。そしてこう呼びかけたのだ。『徴兵を忌避せよ、この戦争には勝者も敗者も大義もない』と。その呼びかけに応じた我々の仲間は警察に追われ投獄されたが、何人かは避難所、のちに『サンクチュアリ』と呼ばれる場所に逃げ込む事が出来た。……兵士となった仲間には残酷な運命が待ち受けていた。こんな話がある。敵軍との戦闘によって死んだ仲間より、自軍内のリンチによって死んだ仲間の方が多い、とね」
一同は黙り込んだ。シンジの隣に座っているレイは、意味がよくわからず、きょとんとした表情で、目の前の老人を見つめている。
「『世界大戦』はよく知られているように『ウィザード体制』の確立で終わった。わたしはある程度この事を予期していたんだ。そして、その体制が恐ろしく長く続くだろうということも。そして結果は、人類に一〇〇年の安定した平和な時代が訪れたのだ」
老人はレイの顔を見つめていた。血の気の多いサダムが言うように、彼女は、象徴的な『リリス』なのだろうか? 我々の『母』なのだろうか? 『インヴォルヴド・ピープル』という名称が国連と魔法管理機構との秘密書簡で使われるまでの一九一〇年から一九一七年までの間、我々は『リリム』と呼ばれていた。それは、「悪魔の子」という意味で、蔑称として使われていたのだが、その事実が、後になって神話的な符号を生むなどという、非科学的な事があるだろうか? ……が、我々は非科学的な存在なのだ。

「……だが、我々への迫害は、世界各地で続いていた」ABは、正面に座っている少年を見据えて、言葉を続けた。
「国連、魔法管理機構が『インヴォルブド・ピープル』の隠蔽を決定し、その政策をとり続けていたから、我々への迫害、虐殺は決して公になることはなかった。……わたしをここに案内してくれた冬月さんは、数十年前、妻子をそんな虐殺行為で失ったんだ。……だが、わたしは、持てる力を尽くして、報復行為を抑えてきたつもりだ」
「……なぜですか?」シンジは、そのとき初めて口を開いた。
「……それはね、ウィズ・イカリ、若きウィザードよ、我々が組織的な報復を行えば、人類の文明は崩壊するからだ。なぜならば、外見上普通の人間と変わりない隣人が狼男や、吸血鬼かもしれない、と考えてごらん? ――疑心暗鬼にかられて普通人は、普通人同士で殺し合うだろう」
シンジは、それと同じ事を母から、アスカから言われた事を思いだした。
「普通人とかなり違った肉体を持つ我々も、人類が営々と築き上げてきた文明の中で生きていることに変わりはないのだ。わたしは文明を崩壊させたくはない。わたし自身、かつて詩人を志した文士の端くれとして、ソフォクレスやシェイクスピアを生んだ人類の文明を破壊したくないんだ。いささか回り道もしたし、どうしようもないクズを生みはしたがね」
「だが」ABは語気を強めた。
「一○○年に渡る隠蔽政策も、『ウィザード体制』の金属疲労とともに、ほころんできているように見えるんだ。それは我々とて同じだ。我々の中にもさまざまな考えのものがいる。いわゆる『過激派』と呼ばれる連中だ。彼らは世界各地に点在しているが、考える事は同じだ。我々の正体を明らかにし、我々の理想郷のような国家を建設しよう、とね。そのためにはどんな犠牲を払うのもいとわないとね」
「……それは多数派なんですか?」ユイは静かに言った。
「いや、わからないのだ。実際。わたしは、我々の中では、おそらく最も知名度がある人物というだけで、我々全部の実権を掌握しているわけじゃないんだ。……我々はいま、世界で二億六千万人いる」
「……!」ユイは息を呑んだ。
「思っていたより、多かったかね? 少なかったかね? とにかく、その中の何割かの同朋がそんなふうな野望を抱いているのは事実だ」
そして、その『過激派』の最も先鋭的な人物が、わたしが息子のように愛している男なのだ、ABは思った。

「……いっぽう、魔法も使えず、ましてや『インヴォルブド・ピープル』でもない、まったく『普通』の若者の間に、ある種の閉塞感が広がっているのに気がついているかね?」
「『へいそくかん』?」シンジは聞き返す。
「……先が塞がった感じだよ。魔女や魔法使いはあこがれの的だ。だが魔法を使えるいう資質があるかないかは、遅くとも十三歳から十四歳までの間にはっきりする。もしその年を過ぎれば、……魔法は使えないのだ。つまり君たちのように、空を飛んだり、キマイラを召喚したり出来ないのだ。人生の先に待つのは退屈で平凡な生活だ。……先進国の少年犯罪は年々凶悪になり低年齢化している。彼らが熱中しているホラービデオや残酷なビデオゲームを知っているかね? ケダモノと人間の合いの子を撃ち殺したり、はらわたを引きずり出して殺されたり。彼らは、そんなシーンの山ほど入ったものに夢中になっているのだ。……年寄りの心配性と嗤(わら)ってくれてもいい、が、わたしは怖いのだ。それが何かの予兆ではないかと。地球にそのような光景が現出する予兆ではないかと。……彼らは自分のすぐそばに我々という『闇』が広がっているのに、うすうす気がついているのではないかと――」

「さっきから黙って聞いてれば、『わたしたち』の事を忘れてるみたいね! 『魔法管理機構』があるわ! そんなことがあれば」アスカが叫ぶように言う。
「アスカ!」ユイがたしなめる。
「――その『魔法管理機構』なのだ。わたしがイラクからはるばる来た理由は、それなのだ。お嬢さん、あなたは『悪魔との契約』内容を知っているかね?」
「え……?」アスカは言葉を詰まらせた。
「きみは魔女だ、魔法を使える。それは全てパーシヴァル・ローエルと当時のアメリカ合衆国大統領クリーブランドが、アリゾナで悪魔と契約したからだ。その契約の肝心な部分、悪魔が人類に魔法を与える代価に要求したものはなんだと思うね? ――魔女ならば答える事ができるだろう?」
「え、えと。……それは秘密なのよ! それはこの世界の終末の時に明らかになるって」そう『あの男』は言っていたわ、アスカは思った。
「それは、情報操作だよ。お嬢さん。実は『魔法管理機構』の公式な文書にはこの『代価』に言及したものがないのだ。『契約書』は『フォート・ローエル』の地下に封印されていて、誰もそれを読むことができない」
「え?」
「これは、『魔法管理機構』の最上層部、おそらくウィザード級に近いものしか知らない、と公式にはなっている。が、わたしは、たまたまそれを知ることが出来たんだ」
「な、なによ」アスカは言った。
「悪魔は魔法を与えるかわりに魂を要求することもあると言われてきた。が、この宇宙には地獄も、ましてや天国も存在しない――と『来訪』した悪魔は明言した。神もいない。霊魂は不滅ではないとも言った。霊魂が不滅ではないのに、悪魔がわれわれの魂に何の用があるだろう? ボルシェビキによる革命に失敗した『レーニン』の有名な言葉に、『悪魔は、わたしより唯物主義者だ』というのがあるぐらいだ。また、これは魔女の場合だが、中世から悪魔との性行が魔法の代価という伝承がある。これが迷信であることは、お嬢さんにはあきらかだろう。――さて、何だと思うね?」
「……ひょっとしてあのうわさの事ですか?」ゲンドウはぽつりと言った。
「どんなうわさだね」ABの目ににやりと笑う。
「……この宇宙は『ゲーム』のために作られた」ゲンドウは言った。
「どんな『ゲーム』だね?」
一同は、ゲンドウの顔を見つめた。レイも、みんなが見ているので、なんだろう? と思って、このでかい男を見つめた。
「……それが」ゲンドウはゆっくりと言葉を続ける。
「なによ?」アスカが促すように言う。
「……しらんのだ」ゲンドウは意味もなくにたりと笑った。
「あ、あのねえ!」
「……そうだよ。それが正解だ。わたしが知り得た情報も、この宇宙は『ゲーム』のために作られたというものだった」
「え?」シンジは、思わず声を上げた。ぼくの感じていたこの世界が現実のものでは無い感じ、あれは正しかったのか、と思ったのだ。そして、冷たい何かが背中に忍び寄ってくるのを感じた。
「どんな『ゲーム』なのよ」アスカは怒ったように言う。
「わたしはある種の『カードゲーム』のようなものだ、と聞いている。恐ろしい魔女や、強大な魔法使い、獣人の絵が描かれているカードを出して、優劣を競うゲームだ。宇宙は『大いなる闇』のカードコレクションのために存在し、時がくれば、そのカードを使ったゲームが行われる。人知を、時空をも越えたどこかの領域で。その時には、我々は悪魔のために命を投げ出し、別の世界の、怪物のカードと戦わなければならない。……『来訪』は、より強いカードを作るために起こされたのだ、という――」
「そんな馬鹿な話ってないわ! 宇宙が……人類の歴史が、悪魔のたかが『カードゲーム』のために存在していたなんて!」アスカは叫んだ。
「そんな馬鹿な話は無い。お嬢さんの言うとおりだ。だが、それを信じているものもいるんだ。なぜ、魔女・魔法使いは軍隊風に組織されているんだね。十八歳以上の優れた魔法使いたちが世界から集まる『魔法アカデミー』では、なぜ『軍事教練』がカリキュラムに取り入れられているんだね?」
「……!」アスカは自分自身、その軍事教練を体験していたのだ。

「すくなくとも、『ウィズ・ローレンツ』はその『契約書』の契約内容を知っており、『来訪』の目的を知っている。そして、この地球が『ゲーム』においてより強い者を生み出すために作られたと信じているんだ。そして彼は、やがて地球で、より強い者を決める最後の決戦が起きると思っている。まさしく雌雄を決めるハルマゲドンだ。それがいつかは知らないようだが」
ABはシンジを見つめて言った。
「シンジくん。……わたしはもしかしたら、君がカギではないか、と思っているんだ。実に変わったいきさつで『ウィザード』になるきみがね……『契約書』には具体的に『その時』は記されていない。悪魔は『西暦』なんか使わないからだ。それは、一万年後かも、百年後かもしれないし、明日かもしれないのだ」
「――ひょっとして、あんたは、『インヴォルヴド・ピープル』の蜂起が起きたとき、『ウィズ・ローレンツ』が同時に戦いを起こして真(しん)に強い者を決めるっての? そんな馬鹿な話聞いたこと無いわ! シンジ、まに受けちゃだめよ! この人はきっとあんたを利用しに来たのよ!」
「アスカちゃん!」ユイはたしなめる。
「元気のいいお嬢さん、わたしがイラクからはるばる船に乗ってやってきたのは、べつに『ウィズ・イカリ』を利用しに来たわけではない。わたしは大袈裟(おおげさ)な予言など大嫌いだ。『ハルマゲドン』などという、たかが一民族の願望入りの『予言』なぞ信じておらんよ。神がかったティーンエイジャーじゃあるまいし。だが、何かが、得体のしれない何かが、起ころうとしているような気がするのだ。けっして脅すつもりはない。碇くんがウィザードになる前に、いろいろと話したかった。それだけだよ。シンジくんと呼んでいいかね? ……シンジくん、ウィザードに任命されたとたん君の回りには厚い壁が出来る。マスコミと取り巻き連中とが。すると一生『インヴォルブド・ピープル』と会う機会はなくなくだろう。だからだよ、他意はない……おっと長く話し過ぎたようだ。わたしはもう帰る」
ABは立ち上がる。
シンジは、あわてて立ち上がった。丁寧に礼を言って帰ろうとする老人の後を追う。
「あの。……ABさん?」シンジは話しかけた。
「なんだね、『ウィズ・イカリ』」
「……あの、……あなたの能力ってなんですか?」シンジは言った。
ABは答えずに、シンジを見つめている。老人の目の中に、いたずらっぽい輝きがあった。
「す、すみません。……なんだろうな、ってふと思ったんです」老人が答えないので、シンジは謝ろうとした、その時、ABは人差し指をシンジの目の前に突き出す。
「わたしの指先を見てごらん」
シンジをはじめ、その場にいた一同は目を凝らす。
すると、その人差し指は、するする伸びて行き、五○センチほどの長さになって止まり、天井にちょこんと触れた。まるで手品みたいだった。
「――ごらんの通り、わたしの体はゴムのように伸び縮みするんだ。まるで風船みたいに膨らむ事も出来る。若い頃は、ほとんど、どんな形にも変形できたので、『ミスター・ファンタスティック』というあだ名を頂戴したよ。しかし年を取って『伸び』が悪くなってしまった」そう言って、ABはシンジに笑いかけた。シンジは思わずほほえみ返した。
「……では、突然おじゃまして済まなかった。……さようなら」老人が挨拶して外に出ようとした時、ゲンドウが呼び止めた。
「ミスタ・ビアス!」
「……なんだね?」A・B、すなわち『アンブローズ・ビアス』は振り返った。
「こ、これにサインしてください」ゲンドウは、まるで野球選手にせがむ少年のように、『悪魔の辞典』という分厚い本を老人に差し出した。

「あんなこと、まに受けちゃだめよ、シンジ」アスカは二階へ行こうとするシンジを呼び止めた。
「……あ、ああ。いろんな事聞きすぎてわけがわからなくなった」
「し、しっかりしなさいよ! あんたは明日から『ウィザード』なんだから!」
そうだ。そう言えばそうだな、シンジは思った。しかし、やっぱり実感がわいてこない。

「……本気でああ思っていらっしゃるんですか?」冬月は歩きながら、白髪の老人に話しかけた。彼は外に立っていたが、彼の耳は家の中の話し声を全て捉えることができたのだ。
「うむ、……そうであって欲しくない。だが。……結果は原因があって生じるものだ。そして原因は、また何かの結果でもある。その織物が、神ごとき目で遠ざかって見ると、巨大な、意味のある模様になっているかもしれない。……そんな気がするのだ」
冬月、AB、タランテラの三人は、影のように寄り添う多くの同朋に囲まれながら坂道をおりていった。

シンジは眠れなかった。
暗闇の中で、彼は今夜訪ねてきた不思議な老人の事を考えた。あの人はなんのためにイラクからはるばるやってきたんだろう? アスカが言うようにぼくを利用しようとしているんだろうか?
しかし、シンジにはあの老人が悪い人だとは思えないのだった。

次の日。日本は爆発した。というのは比喩で、日本中が『日本からウィザード誕生! それも十四歳の少年!』というニュースにわき返ったと言いたいのだ。

その朝。シンジとレイと『シゲル君』とゲンドウを除く碇家の人々は、そわそわしていた。アスカは主人につられて興奮したモン吉を肩に乗せて、走り回っていた。土壇場になって、シンジが就任挨拶の言葉(それも文字にして三〇字程度)をさっぱりおぼえていないのに気がついて、あわててカンニングペーパーを作り始めるし、ユイはユイで朝御飯を作りながら財布とハンカチの用意をしていた。
何を着て行くかは決まっていた。学校の制服である。
シンジは六時にアスカにたたき起こされ、朝食を取り、顔を洗い、歯を磨き、髪をきれいにといて、居間に座っていた。なんだか、魔法管理機構に行く前に疲れ切っていた。
迎えの車は黒塗りのリムジンだった。アスカは嫌なことを連想し、顔をしかめた。
「シンジ、かえってきてね」レイはなぜか心配そうにシンジに声をかける。
ばか、どっかに行って帰って来ないわけじゃあるまいし、アスカは思う。
「落ち着いてね、シンジ。普段どおりでいいのよ」ユイが言う。
普段どおり、ぼーっとしていたら世界中に恥さらすぞ、バカモノ。ゲンドウはそう思ったが、黙っていた。

シンジは後部座席に座った。縁なし眼鏡をかけた男がシンジの隣に座った。
「昨日誰かが訪ねてきませんでしたか? ウィザード?」その男は、車が走り出し、碇一家全員が門の前で手を振っている住み慣れた家が見えなくなるのと同時に、シンジに話しかけた。
シンジは話していいものかどうか、迷った。彼はゆっくりと、こう言った。
「いえ、誰も来ませんでした」
「そうですか」縁なし眼鏡をかけた男はこう答えて黙った。彼は、ウィザードが否定した場合、それ以上そのことを話題にはするなと命令されていたのだ。

アスカは学校を休んで、居間のテレビの前を歩き回っていた。
ユイは落ち着かないので、菜園の手入れをしている。薬草のかわりにスミレを植えていると、手に雨粒がぽつんと落ちた。
「やだ、雨だわ」彼女はそうつぶやくと、洗濯物を取り入れ始めた。菜園の隅に物干し台があって、物干しざお三本分いっぱいに、洗濯物が掛かっていた。いまや碇家は大家族だったので、洗濯は大変だった。
雨は次第に大粒になって、本格的に降り始めた。両手一杯に洗濯物を抱えた
ユイは縁側で、ぼーっとしているレイに声をかけた。
「レイちゃん、手伝って」
レイは、びっくりしたようにユイを見つめると、はだしで庭に走り出る。
「レイちゃん、外に出るときは靴履いて!」
レイは、ぴたぴたと縁側に戻り、サンダルを履いてくる。
「その物干しざおにかかってる洗濯物を、家の中に入れて」
レイは、物干しざおから不器用な手つきでシンジのパンツやらゲンドウのパンツを取ると、開いた居間の窓から投げ入れる。
「こらーっ。パンツ投げつけないでよ!」居間の中を歩き回っていたアスカは、
庭からわらわらと飛んでくるブリーフ型(シンジ)とトランクス型(ゲンドウ)のパンツを部屋の隅に脚で蹴り込んだ。NHKの一時のニュースまであと数分なのだ。アスカはテレビをつけ、ソファに腰掛けた。
レイはアスカの声が聞こえなかったのか、相変わらず洗濯物を居間に放り込む。
ばふ、アスカは突然目の前が紫色になった。あわてて顔からそれを払いのけると、紫色に黄色い稲妻の模様の、四十八歳にしては信じられないほど派手なゲンドウのパンツだった。アスカは怒りで今度は目の前が真っ赤になった。
「レイ! あんたわざとやってるでしょ! このぉ!」
アスカは洗濯物を抱えたレイにゲンドウの紫色のパンツを投げつけた。レイはひらりと体をかわす。外れたパンツは地面の上に落ちた。
「やめなさい! ふたりとも!」ユイはたしなめた。

ゲンドウは、その時、実験室の椅子に座って、『アンブローズ・ビアス』の『命の半ばに』という短編集をぱらぱらとめくっていた。それは大昔の岩波文庫本で、表紙がぼろぼろになっていたけれど、ついでにサインしてもらえばよかったと思っていたのだ。冬月の店に売れば高く売れるのではないか?
そのとき居間のほうから、妻と二人の女の子のきゃあきゃあという声が聞こえる。
「うるさいぞ、ゆっくり読書もできんではないか、バカモノ」ゲンドウはどすどすと歩いて行く。
いってみると、アスカとレイがとっくみあいのけんかをしているのを、ユイが止めているのだった。
「やめんか、はしたない!」ゲンドウは一喝した。二人の娘はぴたっと止まり、ゲンドウをすごい形相でにらみつけた。
その時、『一時になりました。ニュースをお伝えします』とテレビが言った。
一同はばたばたとテレビの前に集まった。
『今日午前十一時、世界魔法管理機構本部ジョブズ広報担当官は、ウィズ・ワンの死去に伴い空位となっていた極東地域のウィザードに、〇〇県〇〇市に住む碇シンジさんを任命したと発表しました』
碇シンジの名前がテレビから流れて来たとき、ユイは思わず震えた。いよいよはじまりなんだ、心の奥で何かがつぶやいていた。
『碇シンジさんは○○中学校に通う十四歳の中学生です。日本人がウィザードに任命されるのも初めての事です。また十四歳という年齢で任命されるのは二十六歳で任命されたアメリカ地域のウィズ・ブリティッシュの最年少記録を大きく下回る、世界初の快挙です』
『十一時に東京麹町にある魔法管理機構日本支部で行われた記者会見の模様です』
パシャパシャとフラッシュのたかれる中で、魔法管理機構日本支部長(すごい年寄り)が座って任命文を読み上げる。内容はアナウンサーの言った内容とかわりない。
次の瞬間、画面一杯にシンジの顔が映った。さらにはげしいフラッシュに、まぶしそうにしている。
「シンジ……シンジ!」レイはあわてて、シンジを守ろうとするかのように、テレビにしがみついた。
「こらー! 見えないじゃないの!」アスカは叫ぶ。
「レイちゃん、それテレビに映ってるだけなのよ」ユイはレイの手を引っぱるが、レイは動かない。
『……えー、一ヶ月前に知らされました』レイの体の向こうからシンジが答える声がした。
『……びっくりしました』シンジは答える。
『……学校へ行きながら任務につくと思います』シンジは答える。
「離れないさいよ、ばか!」
「レイちゃん」
「シンジ……」なんで、こんなことになってるんだろう?
『記者会見は五分ほどの短いものでした。ここで町田記者に現在の様子をレポートしてもらいましょう。えー町田さん?』
『はい町田です。ここは麹町の魔法管理機構日本支部の前です。午前中にくらべ倍以上の報道陣と、この若きウィザードを一目見ようと集まった群衆で渋滞が起きています。それと、CNNを始め世界各国の報道機関からも数多くの取材陣がつめかけています』
「レイちゃん、もうシンジは映ってないわよ」ユイはレイを引きずるようにして、ソファに座らせた。
『いやあ、びっくりしました……。すごいですね』
『えー、そうですね、日本のために頑張って欲しいです』
『……はい、魔女です。どういう経緯で任命されたか知りたいですね』
『えー、なんか、かっこいい』
『以上、街角の声でした』

渋滞が起きているのは東京麹町だけではなかった。二時ごろになると、高台の碇家に続く道は、民放各局の車と、集まり始めた野次馬でごったがえしていた。十名ほどの警官が出て交通整理を初めていた。
「買い物にいけないじゃない!」ユイは文句を言った。
「電話も使えないし」取材申し込みと、『お金を貸してもらえないか』といった妙な電話ばかりかかるので、電話機のモジュラージャックを抜いていたのだ。
雨の中、碇家をぐるりと取り囲むように群衆とマスコミの人垣が出来ていたので、全部の窓のカーテンを閉めた。とにかく雨で洗濯物入れていてよかったわ、ユイは思った。
テレビはどのチャンネルも『報道特別番組』だった。
別にNHKの一時のニュースで見なくても、記者会見の様子は、しつこいくらい、繰り返し放送されていた。碇家一同は様々な角度から、シンジの姿を見ることが出来た。このあたりになると、レイはようやく慣れて、テレビにしがみつかなくなった。とにかく、シンジはたいへんなことになったんだ、レイは思った。かえってきたらなぐさめてあげよう。でも、かえってくるんだろうか?

シンジは夕方帰って来た。
黒塗りのリムジンは、フラッシュの光をぴかぴか反射させていた。
碇一家はなじみの通りを通って、その車が自分たちの家に近づいてくるのを、テレビの実況生中継で観ていた。どこかの芸能人みたいだった。全員なんだか実感がわかなかった。
でも、現実に、家のそとから群衆のざわめきが聞こえて来た。群衆の声が大きくなる。空からパラパラとヘリコプターの音がする。
『いま車が停まりました! 史上最年少、日本人初のウィザードが降りてきます! ――どうですか、長嶋さん、なんだかわくわくしますね?』
『いやぁ、そうですね――シンジくーん、観てる!?』
『向こうからは見えませんよ……あ、いま出てこられました。ちょっと緊張しておられるようですね……ウィズ・イカリが警官隊の列の間をくぐって、家に向かいます。……ヘリのアイちゃーん、見える?』
『見えます、見えます、ウィズ・シンジー! きゃー!』
なんだか、正月番組みたいな感じだった。アスカはいたたまれない気分になった。アイツ、大丈夫だろうか?
アスカは、立ち上がり、玄関に行こうとして、レイも同じように横を歩いているのに気がついた。
「こら、狭いわよ」たたたた。
「……」たたたた。
二人は、気がつくと玄関までだだだだと走っていた。
がらがらがら、戸が開いた。警備の警官隊の向こうからフラッシュとビデオライトのまばゆい光が浴びせかけられる。
「ウィズ・イカリ! 何か一言!」
「ウィズ・イカリ! その女の子は誰ですか?」
「今後の抱負について!」
ぴしゃ。
シンジは後ろ手で、戸を閉めた。顔が真っ青だった。
「……シンジ……」アスカはそっと声をかけた。
「シンジ!」レイは靴を脱ごうとして、ぺたんとへたりこんでしまったシンジの背中に抱きついた。
「ごめん、ひとりにしてくれないか」シンジはつぶやく。
「シンジ?」レイはシンジの顔をまじまじと見た。べつのおとこのこみたい、と思ったのだ。
「離してくれ」彼はそう言って靴を脱ぎ、ゆっくりと重い足取りで二階へ上がっていく。
「シンジ……」レイは少年の後ろ姿を見上げた。
「シンジ、元気だしなさいよ」アスカは彼の後ろ姿に声をかけた。
「どうしたの?」ユイが居間から歩いてくる。
「なんか、疲れちゃったって感じみたいよ」アスカは言った。
「……そう」

シンジは暗い部屋に一人で入ってドアを閉めた。カーテンが閉められた窓に歩いていく。カーテンを少しだけ開けてみた。おそらくそれを待っていたのだろう、雨上がりの道路から、まるで機銃掃射のようなフラッシュが連続してぱぱぱぱと光る。彼はカーテンを閉めた。
服を来たままベッドに横たわった。
暗い天井の蛍光灯のカバーがほの白く光っていた。
ここはどこだろう、シンジは思った。ぼくはだれだろう? 意味もなく片手を上げて、手のひらを広げ、また握る。ぶしゅ。世界は消える。目を開けてみると夢から覚めたぼくがいる。『ウィザード』でもなく、アスカもレイもいない。この世界に魔法はない。悪魔もいない。インヴォルブド・ピープルもいない。なにもない。ぼくは普通の、いや普通以下の中学生。
そう思ってみた。やっぱりこれはぼくの夢だったんだ。長い長い、十四年間の夢。ぼくだけが世界を破壊できる。つまり、ぼくだけが夢から覚める事が出来る。ぼくの夢。

シンジはそのまま眠ってしまった。朝まで起きなかった。目がさめると、アスカの顔があった。彼をのぞき込んでいる。
「生きてる?」彼女は言った。
シンジはその時、自分の男である部分が勃起しているのに気がついた。
「……セックスしよう、……アスカ」シンジは、まるで助けを求めるようにアスカの肩に手をかけた。
「ばかぁ! しっかりしなさい!」アスカは怒ったわけではなかった。怒ったふりをしなければならない、と思った。どうして自分がそう思ったのかは、わからなかった。彼女はげんこつで、肩にかかったシンジの腕の、関節のあたりをぱしんとたたいた。
「学校休んじゃだめよ! すぐに下に降りてきなさい!」アスカはそう言い放つとすたすたと一階へと下る階段を下りていった。

レイは、パンを食べていた。シンジの部屋に行ってはいけない、と言われたので、しかたなく座って食べていた。ゲンドウは新聞をおかしそうに読んでいる。自分の事が書いてあるのが、面白くてならないといった感じだった。
モン吉はかわいそうにノイローゼになりそうだった。ドラゴンの件以来自信を失っていたし、カメラマンのフラッシュが怖くてならないのだ。猿は隣に座っている彼の乗り物の『シゲル君』を見た。平和そうに、ご飯に味噌汁をかけたものを食べていた。無性に腹がたったので、おかずを取ってやった。
ユイは、洗濯をどうしようか、と考えている。梅雨時だし、雨が降ってると思って部屋の中に干すか、と思った。
そんな面々の前にアスカが現れた。
「シンジの様子はどう?」ユイは尋ねてみた。
「……え? ……そのうち、なんとかなるんじゃない?」そう言って彼女は座ってトーストを口に運ぶ。
「それ、何も塗ってないわよ」ユイが言う。
「……あ、気がつかなかったわ」アスカは言い、マーマレードの瓶を冷蔵庫から出してくる。

シンジがやってきたのは、それからゆうに五分もたってからだった。アスカは最初に彼のシャツの襟元を見た。ちゃんと着替えているみたいだった。すこし安心した。

七時半になんと黒塗りのリムジンが迎えに来た。これから毎日、学校まで送り迎えしてくれるのだ。
「一緒に乗って行く?」シンジはアスカに言った。
「……うん」本当はリムジンなんぞで中学校に通学したくないのだけど、心細そうなシンジの顔を見ると、いやと言えなかった。
戸を開けた。昨日よりも報道陣も野次馬も増えていた。シンジだけではなくアスカの目の前に、何本ものマイクが突き出されて「アスカさんどう思いますか?」「あなたと『ウィズ・イカリ』はどういうご関係ですか?」などという質問が浴びせられるのだった。

完全防音、防弾の後部座席のだだっ広い本革のシートにずぶずぶと沈むように座り込んで、アスカは、「これって毎日続くのかしら?」とつぶやいた。
シンジは答えなかった。玄関を出てから一言も声を発していない。

沿道は駅伝大会のようだった。なぜか日本の小旗を振っている人が結構いた。
「……だれに振ってるんだろう、て感じだ」シンジはつぶやく。
「さあね、どっかの『ウィザード』じゃない?」
負けるもんか、彼女にも手を振る人々をにらみつけながら、アスカは思う。シンジに比べれば、どうって事はないのだ。

お祭り騒ぎが広がる日本で、この事態に困惑している人物がいるとすれば、シンジの学校の教師たちかもしれない。
どういうことか、説明しよう。ついでに、『ウィザード』がなんであるかも。
『ウィザード』は、他の『ウィザード』の満場一致でのみ推薦され、世界魔法管理機構本部が任命する。『ウィザード』の仕事は、文書には美辞麗句を並べてくだくだしく書かれているけれど、実のところ、これといってないのだ。
『ウィザード』が魔法を使うことすらない。
有名な話だが、『ウィズ・アインシュタイン』は『ウィザード』になったあと、死去するまで、魔法を使った事がない。その必要がなかったのだ(『ドォーモン宣言』当時はウィザード体制そのものが無かった)。
彼らは『スター・チェンバー』を介して集まり、相談し、命令を下すのが主な仕事といえば仕事である。
人が『ウィザード』に期待するものは、『ウィザードリィ』、すなわち最高位の魔法使いとしての智恵なのだ。故『ウィズ・アインシュタイン』は世界中の人々の尊敬を集めているが、その多くは、死去する数年前の一九五六年の国連演説を始めとする数え切れない程のスピーチや膨大な著作によるものなのである。けっして魔力の強さ、ではないのだ。
だが、あなたが魔法を使えない人、つまり普通の人間ならば、碇シンジの事を『ウィズ・イカリ』と呼ぶ義務はさらさらない。『ウィザード』とは、あくまで魔法界のヒエラルキーの頂点にいるものの敬称であって、一般社会でいう国家元首や閣僚の地位とは全く違うのだ。
ところが、マスコミをはじめ日本全国津々浦々の人は、『ウィザード』の名に『Wiz』という、いわゆる『業界用語』の敬称を付けて呼ぶ。
なぜならば、一般的に、『ウィザード』はそれこそ「なんでもできる」と考えられているからだ。もしこの最高位の魔法使いと懇意になれば、富や名声や美女や一等地の大邸宅の夢が、魔法でチョイチョイとかなえてもらえる、そんな信仰めいた気分が普通人の間にはあるのだ。
魔法をかじったものならば、これが誤解であることを知っているだろう。魔力が強くなるほど、より強く規則にしばられる。『ウィザード』ともなると、禁止事項だけで分厚い本になるほど。しかし、この事実は一般にあまり知られていない。

さて、それをふまえて、中学校の教師たちの話である。彼らは朝早くから緊急の職員会議を開いた。一夜にして日本の国民的英雄になりつつある、この『ウィザード』、碇シンジをどう扱うか?、それが議題であった。
「やはり、特別扱いはいけません」女性教頭は眼鏡の奥の目を光らせて、そう宣言した。
「そうですね、他の生徒にしめしがつかないですからな」教務主任が言った。
「おっしゃる通りです、ウィズ――もとい碇は、体育も勉強もあまりかんばしくありません。それを特別扱いするのは、他の生徒の士気にかかわります」髪を短く刈り込んだ体育主任が言った。
「賛成です」先日、教頭試験に落ちてしまった初老の担任教師は言った。

授業が始まった。
担任教師の国語の授業だった。順番に教科書を朗読する。シンジの番になった。その時、この教師はおもむろに、こう言った。
「『ウィズ・イカリ』、よろしければ、次のページから読んでいただけますか?」

シンジの友だちは急に増えた。『親友』と名のるものも数名いた。そうすれば、校門のところでお昼のワイドショーの女性レポーターにちやほやされるのだった。碇シンジは突然、学校の人気者になった。以前からずっと、そうだったらしい。
むしろ魔法界の人間であるアスカが、シンジの事を呼び捨てにするのは皮肉だったかもしれない。あと、鈴原トウジも「なんや、気味悪い」と言う理由で『ウィズ・イカリ』とは呼ばなかった。
相田ケンスケは話しかけなかった。もともと共通の話題があんまりないのだ。これでますます遠い存在になった、と思った。

放課後、いつも、シンジとアスカは校門まで歩いた。一メートル半ほどある塀の向こう側から、中継車の上の、何台ものテレビカメラが、二人を凝視している。
「……ワイドショーによると、あたしたち、『いいなずけ』なんだってさ」アスカは顔をしかめてささやいた。
「いいなずけ?」
「そ。あんたが十八になった時、『ウィザード』と『上級魔女』のカップル誕生だって……」うへえ、十八で結婚なんてしたくない。
「……ふうん」
「ち、ちょっとぉ! ……まに受けてるんじゃないでしょうね?」
「ううん」
十八歳の自分が想像出来ないのだ。どんなに想像力を働かせてみても、十八歳の時、何をどうしているのか、想像出来ないのだ。そら、少しは背が伸び(シンジは女子の大半より背が低かった)、大人びているだろう。毎日ひげをそらないといけないかもしれない。だが、それだけだった。時間がたっただけなのだ。ぼくは、確実に、死ぬまで『ウィザード』で、コイツらに写真やビデオを撮られまくって死ぬんだ。

二人はリムジンに乗って帰った。
毎日が、相撲で優勝した力士のパレードみたいなんだろうか? 沿道を埋め尽くす野次馬を見ながら、シンジは思った。
そのとおりだった。少なくとも一週間あまりはそうだった。

ある日、いつものようにそうやって家に帰ると、とんでもないことがシンジたちを待ち受けていた。
「良いニュースと悪いニュースがあるのよ」あまりのことに、芝居がかったユイが、アスカとシンジに、そう宣言した。

良いニュース。
「これ見てみなさい」ユイは一枚の紙切れをシンジの目の前にかざした。
「……なんだよ?」
それは住民票だった。「同居人『綾波レイ』……本籍地、東京都千代田区○○○一番地、住所は○○県……」それは碇家の住所であった。
「これって、かあさん」
「そう……レイは戸籍も住民票も持ってるの」
かわいらしいエプロンドレスを着てユイのそばに立っているレイは、なんの事だかさっぱりわからなかったが、誇らしそうに胸を張った。
「どうして……どうやって?」アスカはつぶやいた。
「『超法規的措置』ってやつね。日本政府のサービスよ」ユイが言った。
「ご祝儀ってやつだな。今朝から株価も金相場も上がったのだ」ゲンドウが言う。
「……へー」アスカは驚いた。
「これでもう法律的にも立派な人間よ。……そして碇家の一員」ユイはうれしそうだった。
シンジはなんと答えていいかわからなかった。人間であることに、なんで法律が必要なんだろう? と思ったのだ。彼は、ただ、「よかったね、レイ」と言った。
「うん!」相変わらずわけがわからなかったけど、シンジがよかったというのだから、いいことなんだ、レイはほほえんだ。自然な、美しい笑顔だった。シンジは、思わず見とれてしまった。この一ヶ月、どんどんレイの表情が生き生きとしてきた、彼は思った。怒った顔、べそをかいた顔、笑った顔、どれも生き生きとしている。
アスカは、シンジの袖を乱暴に引っぱり、「おばさま、悪い方のニュースは?」と促す。

悪いニュース。
「落ち着いて聞いてちょうだい、シンジ。このあいだから大変だとは思うけど、また大変な事になったのよ」
「……なんだい」『ウィザード』の資格取り消しだったら、どんなにいいだろう、とシンジは思いながら尋ねた。
「あなた、国連で演説しなければならなくなったの」ユイは言い放った。

「たかだか一五〇ヶ国の代表の前で、五分くらいしゃべればいいのだろ? 何を悩む必要があるのだ」ゲンドウは、ユイに言った。また眠れぬ夜。二人は実験室で話しているのだった。
「あなた、ね……そう言うなら、あなたがやってみなさいよ」
「わしはニューヨークはすかん。ジュネーブでやってほしかった」
「そんな問題じゃないわ! 子供の『一日国連事務総長』じゃないのよ、『ウィザード』の演説なのよ! かつて世界に大きな影響を与えてきた『ウィザード』の!」
その最も有名なのが、何回か触れた『ウィズ・アインシュタイン』の一九五六年の演説であった。それは、たんなる演説にとどまらず、世界を動かした。すべての人類が自らの為政者を選択できなければならない。この一言で、その翌年までの間に実に二〇数カ国の国で選挙が行われ、複数の独裁政権が倒れ、王国が立憲君主制に移行した。
日本の場合、明治時代に制定された帝国憲法が改正されたのが一九五八年、その二年後であり、この演説の影響の元で行われたのは言うまでもない。
『ウィズ・アインシュタインの最大の魔法は、国連演説と特殊相対性理論である』という言葉があるほどだ(注)。そう、このどちらも魔法ではない。
つまり彼は、魔力ではなく知性で世界を変えた人物として尊敬されているのだ。
もちろん、各国がいわば言いなりになった背景には、『ウィズ・アインシュタイン』の背後にある「魔法管理機構」と建設中だった『フォート・ローエル』という『力』の存在があった。アンブローズ・ビアスの言うとおり、『正義』はゼロの数字であり左に力というゼロ以上の数字を必要とする。が力を背にした行いが正しいものとして、多くの世界の人々に受け入れられたのは事実である。
死の直前、彼は『世界政府』の夢を抱いていたが、それは時期尚早だった。人類が国家を捨てるには、あまりにも高い障壁があったのだ。しかし、その構想の失敗も彼の名声を傷つけるどころか、ますます高めていた。

(注:アインシュタインのもう一つの業績「魔界相対性理論」が抜け落ちているので、魔法界では、この言葉は名言だとは思われていない)。

「日本支部で原稿でも書いてくれないのか? うちの息子が、それを読み上げるのだ。難しい漢字には、ルビふってもらって」
「それが、だめなのよ。十四歳の少年からみた世界について話していただくのが一番よろしいのです、なーんて言われて、どうしても引き受けてくれなかったわ」
「わしらが考えるのか?」
「そうできればね」
「……ふうん」ゲンドウはぼんやりと本棚を見つめている。ゲンドウはたいていの場合、何か得体の知れないことを考えているように見えるときは、何も考えていない。長年連れ添ったユイにはわかっていた。
だから、彼女は一人で考えることにした。
「……アイツにやらせてみたら、どうだ?」ゲンドウは妻に背を向けたまま、そう言った。
「……え?」
「だから、わしらは口を出さずに、アイツにやらせてみたらどうだ?」
「そ、そんなことは出来ないわ」
「なんで出来ないのだ?」
「それは、シンジがかわいそうだからよ。あの子、恥をかくわ」
「それも、いいではないか」
「なんで、それでもいいのよ! あなた、シンジが世界中の人々のまえで、しどろもどろになってもいいって言うの?」
「それも、いいではないか。恥をかいているうちに、なんとかなるものだ。わしはアイツの演説の原稿を一生書いてやるのはごめんだ」
「極端な事言わないでよ、まったく! あの子はいますごく落ち込んで、追いつめられてるのよ。今にもぺしゃんこになりそうなのが、手に取るようにわかる。わたしたちがなんとかしてやらなきゃ」
「あれだけの、ぼんくらなのだ。これから何度でもぺしゃんこになりかけるはずだ。早いうちに慣らしとけ」
「あなたって人は……!」

こいつは、地球を壊しかけた罰なんだ。シンジは思った。罰として『ウィザード』にされて、外国で、それも世界の国々の、代表の前で、話をしなければならないんだ。この現実は現実じゃないくせに、ぼくに罰を与えるのは不思議だ、と思った。もしかしてこの現実は現実なんだろうか? それはとても怖い考えだったので、心の奥にしまうことにした。
シンジは、ベッドに横たわっていた。アスカが枕を持って来てくれないだろうか、と思った。瓶の中に入ったレイでもいい。だれかと、一緒に眠りたかった。ずーっとベッドに入ったまま外に出なくてよければ、どんなにいいだろう。

朝、息子が落ち込んでいるのをよそに、ゲンドウはのんびりと新聞を読んでいる。報道陣をぞろぞろと引き連れて出かけなかればならない息子や妻と違って、いつも家にいる、そして家にいるのが大好きなゲンドウは、マスコミの取材攻勢が他人(ひと)事のようだった。
彼はいつものように金相場を確認すると、週刊誌の広告欄に目を通す。
『史上最年少の快挙! おめでとうウィズ・イカリ』と女性自身。
『十四歳の少年をウィズに任命した魔法管理機構の「裏事情」』と週刊文春。
『「ウィズ・イカリ」の素顔。学校では目立たない少年の「奇跡」』と週刊新潮。
『ウィザードを生んだ家庭の秘密。錬金術師の父、元魔女の母はこんな人物』とフォーカス。
――いったいどんな人物なんだろう?
ゲンドウは思った。わしはいったいどんな人物だと書かれておるのか?
ゲンドウは目を凝らす。最近老眼が進んできて、新聞の小さい字が読みにくい。彼は色つきの遠近両用眼鏡を指で押し上げた。
ふむ。
息子と小娘が大騒ぎを巻き起こしながらリムジンに乗って走り去った後、ゲンドウはカーテンを開けて、ひょいと外を見た。警備の警官以外誰もいないように見えた。みんな学校について行ったのだ。そういやあ、日本政府が取材を自粛するよう各報道機関に申し入れたって、昨日のニュースで言っておったな。
ゲンドウは、居間にある小銭入れから三○○円抜き取ると、裏口から家を出た。妻とレイは、妻の部屋、といっても狭い納戸にパソコンを置いてあるだけの部屋で、何かをやっていた。きっと幼児用の学習ソフトで勉強しているのだろう。レイはもともと頭がいい。のみこみが早い。あと半年もすると普通の十四歳の少女並みになるだろう。

警官に声をかけ、ガレージまで歩いて行き、自転車を出したとたんに、どこかからマイクが飛んできた。
「テレビ夕日のアフタヌーンワイド3の木野ともうします、ちょっとよろしいですか?」
若い女がマイクを持って彼の前に立っていた。年の頃なら二十七、八。好みのタイプであった。
「なんだね? わしは買い物に行く途中なのだ」
ゲンドウはかまわず黒塗りの自転車を引っぱり出す。しかし乗って走り去らずに、押したまま坂道を下りはじめた。
「息子さんが史上最年少の『ウィザード』になられましたが、どのように感じておられますか?」よく見ると、耳たぶに小さなバラの花のピアスをしておる、とゲンドウは思った。
「うむ……よかったのか、悪かったのかわからんな。これからだな」
「お子さまになにか特別な教育をしておられたんですか?」
「特にこれといってしておらん。ただ錬金術の手伝いはずっとさせておった」
「そうですか。息子さんが、いまホームステイされている上級魔女のアスカさまと婚約しているといううわさがありますが、本当のところはどうなんでしょ?」
「そんな話があるのか? あの娘が息子の嫁になるのか。……あの小娘がわしのことを『お義父(とう)さん』などと呼んで、小生意気な口をきくのはぞっとせんな」
「そ、そうですか」
「嫁になるならレイちゃんの方がいい。『お義父(とう)さん、お茶が入りました』なんて、あんた、想像しただけでかわいいではないか」
「そ、そうなんですか? するとお父様にしてみればレイさまの方と結婚されるのを望んでおられると」
「そうだな。……あんたは独身か?」
「へ? ……は、はい」レポーターの女性は茶色の髪のポニーテイルをゆさゆさと揺すりながらうなずいた。
「世の中の男どもは見る目が無いな。彼氏はおるのか」
「いえ、あの、その」ここ『編集』だわ、彼女は思った。『ウィズ・イカリ』の父にナンパされたなんて、放送できないわ。

「だれが小生意気な口をきくんですって?」アスカはゲンドウをにらみつけていた。
「……うむ、誰だろうな?」ゲンドウはとぼけた。
彼は買ってきた雑誌の『……京都大学魔法学部錬金術学科を優秀な成績で卒業したあと、錬金術一筋に歩んできた碇氏に転機が訪れたのは三〇歳の春であった。同じ大学の、魔女学科の才色兼備の魔女、ユイさんと結婚したのである』という箇所を読んでいた。
いったいどこから探してきたのか、学生時代の写真が、なんと三ページに渡って載っている。
海水パンツいっちょうで、当時流行(はや)っていた『若大将』をまねてギターを弾いている写真まであった。アスカはそれを見て、海でギター弾いてるって構図なのに、これほど『不健康』に見える人物ってみたことないわ、と思った。
レイは、繰り返し流されるゲンドウの『独占インタビュー』を見ながら、このひとはひょっとしていいひとかもしれない、と思っていた。

シンジはそれどころではなかった。ずっと子供部屋にこもっていた。
なんでぼくだけがこんな目に遭うんだろうと思いながら、演説の事を考えた。
「自分の言葉でいいのよ、今の世界について思っている事を言えばいいのよ。そしてウィザードとして、これからどうしたいのか」ユイはそう言うのだった。
母もアスカも、口をそろえて自分で考えなさいと言った。
きっと裏でしめしあわせてるんだ、と思った。

「とうさん」三日後、シンジは実験室に入ってきた。
シンジが魔法使いであることが判明してからこっち、錬金術の手伝いをやめていたから、実験室に入るのは極めて珍しかった。
「おう、なんだ」自分の記事が載っている雑誌のコレクションを始めたゲンドウは、振り返って言った。
「これ、読んでよ」息子はそう言って、一枚の紙切れを差し出すのだった。
「かあさんに見せたら、とうさんにも読んでおいてもらえって」
あいつわしに最終的な責任をなすりつけるつもりなのだな、ゲンドウは警戒しながらその紙を受け取った。
「…………」ゲンドウはその鉛筆で書かれた文章を読み始める。
「どう?」
「……ふむ、なんだな」ゲンドウは思わず頭を抱えそうになった。小学六年生でも、もっとましなことを書くぞ、と思った。わしとユイの間の子なのに、なんでこんなに文才がないのだ?
「なに?」シンジは父の表情を必死で読みとろうとするかのように、顔をのぞき込んでいた。
「……ま、こんなもんだろう」ゲンドウはようやく言った。演説の後、わしや妻を褒めちぎった雑誌の記事はどう変化するだろう? 『日本の恥! 少年ウィザードの「お粗末」』、週刊誌の見出しが目に浮かぶようだった。
「返してよ」
「ほら」ゲンドウは紙を息子に手渡した。
「じゃ」シンジは居間に行こうとした。
「おい」ゲンドウは息子を呼び止めた。
「なに?」
「……十四歳のお前が言うことなど、世間は期待しとらん。気楽にやるんだな」ゲンドウは言った。
「うん」なんていう気休めを言うんだ、とうさんは。

国連演説の件は、翌日一斉に新聞に掲載された。六月〇〇日、国連本部。日本に衛星生中継される予定。特別なイベントではなく、国連本会議場で十四歳の少年が演説するのは世界初。またまた快挙!
自粛していたはずの報道陣はさらに増えていた。
碇家ではシンジの初めての海外旅行の荷造りで忙しかった。
「このスーツケース、高かったんだから傷めないでね」ドイツから持ってきた、どでかい青いサムソナイトのスーツケースを、シンジに貸してやることになったアスカは言った。
「うん、……なんか人間一人入りそうだね」シンジは言った。
なんか吹っ切れたみたいに、明るい表情をしていたのでアスカは安心して、「あたしが日本に来て、もう半年越えちゃったのね」と言った。
「……いろんな事があったね」シンジはアスカの顔を見た。
「しみじみ言わないでよ! まだ三年半、ここにいるんだから!」クスリの効果が切れたはずなのに、あの雨の夜の事だけはしっかりと思い出せるアスカは、あわてて言った。
「レイちゃん、あなたは行けないのよ」その横で、ユイはシンジと一緒に行きたいとだだをこねるレイに言い聞かせていた。
「わたしもいく」レイはむくれていた。ぺたぺたとはだしで歩いて行き、居間の上に広げて置いてあるどでかいスーツケースの中に座り込んだ。
「ここにはいっていく」レイは宣言した。
「もう、なに言ってるのよ! バカレイ!」アスカは怒った。
「ふん!」レイはそっぽを向く。

「ホテルに着いたら電話するのよ」ユイは玄関先で言った。
「国際電話のかけ方知らないよ」
「通訳の人にききなさい」
「うん」
「気楽にやってね」アスカは言って、ほほえんでみせた。
「シンジ!」レイはシンジに抱きついた。背中が震えている。顔を上げると泣いていた。シンジは困ったように、こう言った。
「大丈夫だよ。一週間ほどで帰ってくるから」
それは、大きな見込み違いだった。

シンジは、生まれて初めて飛行機に乗った。当然、海外旅行も初めてである。ファーストクラスの馬鹿でかい椅子に、沈み込むように座っていると、たまらなく心細かった。窓際には通訳の人(若い男性)が黙り込んで座っている。
着陸がまた怖かった。アスカに吹き飛ばされた方がまだましだった。街並みに突っ込むかと思った。
空港には三○○人以上の報道陣が詰めかけていた。パシャパシャ。フラッシュの集中砲火は何度体験しても慣れなかった。
黒いリムジンに乗ってホテルに向かう。日本と違って警備の車以外はついてきていなかった。
ホテルまでたどり着くと、その前に大勢の人だかりがしていた。何人かの日本人が日章旗を振っていた。『Welcome! Wizard!』と書かれた白いTシャツを着ている人がいた。
「あれ、はやってるんですよ」通訳の人がシンジに言った。
ホテルの最上階、ロイヤルスイート。四部屋、大理石張りのバス・トイレ、最初は狭い部屋だなあと思ったほどの広いワードローブ、上でプロレスの試合でも出来そうなだだっ広いベッド。
「これ、独りで泊まるんですか?」
「え、ええ、そうです。『ウィズ・イカリ』」まさか一夜をともにする女性を『工面しろ』などと言われるんじゃあるまいな、と思いながら通訳は答える。
「……」碇一家全員泊まっても広いぞ、この部屋は、とシンジは思った。
「なにかありましたら、電話してください。わたしの部屋は一○五一一です」
「す、すみません」部屋から出ようとした通訳を、シンジは呼び止めた。
「なんでしょう?」
「あの……国際電話かけてもらえませんか? 家まで」
「ああ、いいですよ」通訳の人は、シンジの父の机よりも大きな備え付けの机の上にある受話器をひょい、と取ると、電話をかけた。
「別に交換に英語で話さなきゃならないってことはないんですよ、『ウィズ・イカリ』」通訳は受話器を世界で一番有名な中学生に差し出しながら、言った。
「はい碇です」アスカの声だった。すぐそこの横町にいるみたいに近くに聞こえた。その間に通訳はそっと部屋を出た。シンジは受話器を手で押さえるとおじぎをする。
「もしもし? 碇ですけど」
「あの……ぼく」
「シンジ! 着いたの? いまホテル?」
「うん……なんか広すぎて落ち着かないよ」
「なんて声出してるのよ! しっかりして。あたしがついてるから」
「ついてないじゃないか、こんなに遠くにいるのに」
「文句言わない、がんばってね……あ! こら、レイ!」
「シンジ、シンジ、シンジ」
「レイ、ぼくはだいじょうぶだよ」
「シンジ、シンジ、かえってきてね」
「あたりまえだろ」

とにかくシンジが東京国際空港からニューヨークに出発して三日後。その日はやってきた。
日本では午前三時。碇一家全員が眠い目をこすりながらテレビの前に集合していた。深夜にもかかわらず、多くの日本人がテレビの前にそうやって座っていた。
家の中で取材したいという申し出を断ったので、マスコミの報道陣はやっぱり外で待っていた。坂道に面した家々にはほとんど明かりが点っていた。シンジのクラスメートの多くも、起きていた。

ドイツでは夕方の七時。『ウィズ・ローレンツ』は学長室でテレビを観ていた。あの少年はどんなことを言うだろうか。人を使って、聞き出しておいたところによると、まるで小学生の作文のようだという。さもありなん。ローレンツはホムンクルスの入ったガラス瓶を抱えて、おいおい泣き出してしまった無様な少年の顔を思い出す。『ウィザード』全体の権威はやや低下しても、あの少年は『魔法アカデミー』に入学し、わたしの相対的発言力は増すだろう。

アリゾナでは午前十一時。若き『ウィザード』、『ウィズ・ブリティッシュ』は、彼に従者のように寄り添う二人の部下、ウィリアム・ゲイツとスティーブ・ウォズニアックと、そして非番の魔女数人と一緒に、『フォート・ローエル』の食堂で、パイを食べながらテレビを観ていた。
「ローレンツもまた意地の悪いことをしますね」ウィリアムは言った。
「ま、この子にはいい経験になるさ。……いっぺん会ってみたいもんだな」『ウィズ・ブリティッシュ』はコーヒーを口に運びながら言った。

イラク。夜の九時。欠けた月を見上げながら、タランテラは通信衛星から降り注ぐ電波をシャワーのように浴びていた。蜘蛛の巣のような神経繊維を広げて、衛星放送電波を受信しているのだ。そして、彼女はコードを手にしていた。そのコードは『ウルクのサンクチュアリ』の内部に伸びていき、ABの机の上に置かれたテレビにつながっていた。
白髪の老人は、テレビを興味深そうに観ていた。

宇宙のどっか。いったい何時と表現して良いかわからない、超新星になる寸前の赤色巨星の静止軌道上。
炭素繊維で形成された、全長数キロにおよぶ巨大な何かが、イバラだらけの鉄骨のような六本の脚をすりすりしている。さらに数十キロ離れてみれば、これが何の形をしているか、すぐにわかるだろう。『ハエ』なのだ。途方もなく大きいが、それはハエに見えた。
そのハエは生きており、頭をきょろきょろさせ、プロ野球のドーム球場ほどもある複眼で、数キロ先の小さな点を捉えた。
その点とは、長方形だった。赤色巨星の光を背に、それは黒いモノリスに見えた。しかし、それは石版ではなかった。どこの家具屋にでもあるような、ありふれた、オレンジ色のカーペットだった。
カーペットの上にはベージュ色のソファがあり、横には観葉植物と、シェードのついた電気スタンドが置いてあった。
ソファには色の白い少年が、ポップコーンの袋を持って座っていた。
少年は、目の前の古ぼけた家具調のテレビを観ているのだった。
『……殿下、なんでそんな格好をされておられるのです?』巨大なハエのようなものが言った。
少年は、自分の陰気なユーモアに口をゆがめて笑い、「そんなもの、ぼくの勝手だろ? ……さっさと映してくれよ、『ブブちゃん』」と答えた。
『はあ……では七万光年離れた地球の電波をスクープしますです』ハエは言った。

距離はたくさん離れ、時間は少しさかのぼる。
シンジは、雲の中をふわふわ歩いているような気がしていた。議場の控え室の中で、そわそわと気ばかり焦りながら座っていた。紙はどこだろう? シンジはブレザーの内ポケットをまさぐる。あった。とにかくこれを読んで、さっさと日本に帰るんだ。
「この服に着替えてください、『ウィザード』」突然、通訳の人が詰め襟の濃い緑色の服と、同じく濃緑色のマントを抱えてやってくる。
「え……着替えるんですか?」
「そうです、これは『ウィザード』の伝統的な衣装なのです。お着替えください」
「は、はい」シンジは立ち上がり服を脱いだ。

舞台の袖に当たるところから、議場の演壇が見えた。テレビ中継用のライトがまばゆくて、すり鉢状の各国代表の席は暗く、居並ぶ顔がぼんやりと見えるだけだった。
よかった。シンジは思った。明るいところで百数十人に見つめられるのなんて、ぞっとしないからな。
国連事務総長のなんとかさん(名前がややこしくて覚えられなかったのだ)が英語で何かしゃべり、通訳の人が「では、まいります。『ウィズ・イカリ』」と言ったので、シンジは言われるままに、すたすたと歩いた。

『ウィズ・イカリが現れました……緊張しておられるようですね』
『そうですね』
「出てきたわ……」アスカは言った。
「シンジ、ころびそう」レイが言った。
「……あああ」ユイが目を閉じた。
「わしは眠くなってきた」ゲンドウが言った。

演壇はでかい木製だった。細いのやら太いのやら、いろんな種類のマイクが、自分を脅すように突き出ている。
正面に立つとライトがまぶしくて、何も見えなかった。ただ、大勢の人が息をひそめている気配がした。ごほん、えらく遠くで誰かがせきをした。この会場はすごく広いんだ。シンジは見渡してみた。真っ暗だった。最前列の人の顔すら見えなかった。
とにかく、あの紙を取り出して読み上げて、さっさと日本に帰るんだ。
彼は、ブレザーのポケットを探ろうとしたとき、ブレザーが消滅していることに気がついた。いや、服が消えてしまったのではない、違う服を着ているのだった。シンジはマントの中や、詰め襟の服の中を探し回った。

「何をやっておるのだ、アイツは」ゲンドウはテレビの中であわてている息子を見ながらそう言った。
「……だいたい想像つくわ……もう!」アスカは両手で顔を覆った。
ユイは放心したように座り込んで黙ったままだった。
「???」レイは何のことだかわからなかった。

袖で見ていた通訳は、この少年の仕草でピンときて、あわてて控え室へ向かって走った。なぜか、その国連議場の控え室の通路に、バナナの皮が落ちていた。
(あまりにも古典的なので、以下略)。

シンジは頭の中が、洗いたてのシーツのように真っ白になるのを感じていた。
目の前に、壁のような暗闇が、それも何百人という人の気配のある暗闇が広がっていた。冷たい嫌な汗が背中をしたたり落ちているような気がした。
心臓が口から飛び出しそうだった。緊張のあまり吐き気がした。
ああ、どうしよう、どうしよう。とにかく、何か言わなきゃ、みんな怒りだすんじゃないだろうか?
何か言わなきゃ!
「……あ、あの」シンジは口を開いた。誰も怒鳴りださないので、シンジは続けた。

「あの、ぼくは碇シンジといいます。……こんど、その、う、ウィザードになりました……」言葉を切って、見回す。だいじょうぶだ。続けろシンジ。
「よろしく、お願いします。その……ウィザードっていっても、その、ろくな魔法を使えるわけじゃなくて、……本当なんです」独り言を言っているみたいだ、と思った。
「ぼくがウィザードになったのは、ていうか、されてしまったのは、カヲルくん、いえ、『闇の王子』が『なれ』って言ったからで、なりたいからなったわけじゃないんです。……なんでそうなったかというと、ぼくが『反物質で出来たドラゴン』を召喚してしまって、地球を壊しかけたからです」
ざわざわざわ。会場の至るところで低いざわめきが起こった。しかしシンジは気がつかなかった。彼はしゃべり続ける。
「……地球を壊しかけたけど、『闇の王子』は、ぼくを殺してはいけないと言ったので、そのかわりに『ウィザード』になったのです。だから、その、ぼくは」

「あの馬鹿者!」『ウィズ・ローレンツ』はうめいた。いきなりあの少年は機密条項をしゃべりだしたのだ。あの少年によって地球が崩壊しかけた件は、『ウィザード』を除く数名しか知らないトップ・シークレットだったのだ。このあほうは自分が地球をいつでも破壊できると宣言したも同然なのだ。

「だから、『ウィザード』ってちやほやされても困るんです。……でも、なった以上、が頑張ります。……その、なにをしたいかっていうと」
シンジは考えた。踊り回る心臓で、懸命に考えた。世界についてどう思っているかを。その時彼の脳裏には、この間訪ねてきたABという老人と、彼のしゃべった事が浮かんでいた。そして、そこから派生したのか、河原で冬月さんという古本屋のおじいさんを銃で撃ってる、女の人の事が浮かんだ。
そうだ。世界について思う事ってそれだ。それはやっぱり良くない事だと思うんだ。シンジは、しゃべる事が浮かんで、ちょっぴり安心した。その勢いで、彼の頭からは、それがいかに政治的に微妙な問題であるか、という点が、すっこーん、と抜け落ちた。

「……魔法使いになってしばらくして、知ったんですが、世界には、あの『インヴォルブド・ピープル』って人たちがいて」

「……!」『ウィズ・ローレンツ』は思わず秘書に電話をかけた。
「いますぐ国連に連絡して『ウィズ・イカリ』の演説を止めさせろ! いいから! 早く!」

そんなことが間に合うはずもない。シンジはしゃべり続ける。
「……その人たちは、吸血鬼だったり狼男だったりするんだそうです。その人たちは、ずっと昔からいじめられたり殺されてきたそうです。――吸血鬼の人が血を吸って普通の人を殺してしまうこともあるそうです。どっちも、その罪にならなくて」
その時シンジは、どっちも罪にならなかったのはそれが隠蔽されているからで、ということは、そのことはしゃべってはまずいんじゃないか、と思ってあわてた。あわてて、フォローしようとして、もっとしゃべってしまった。
「今のは、その、たとえで。……それって良くないと思うんです。……その、あの、どちらも人間だからです! どんなに怪物みたいになったって、人間の心を持ってたら、その人は人間だと思います。世界にはそんな人たちが、えと、……二億人もいるそうです」
議場に、天井を揺るがすほどの大きなどよめきわき起こった。

ワシントン。執務室でテレビを観ていた、ホワイトウォーター合衆国大統領は椅子から転げ落ちそうになっていた。合衆国大統領の就任時に必ずすることが二つある。一つはフリーメーソンの入社式(定規と木槌(きづち)を持って誓いの言葉を言うのだ)。もう一つは合衆国のどこに『サンクチュアリ』があり、ひとたび『彼ら』と普通人の戦闘が起きた場合、どうすればいいかを前大統領から教わること。
「ジム、全米へ州兵の待機命令を出すんだ」彼はあわてていった。
「はい」補佐官は執務室を出ていく。
大統領は机の抽斗(ひきだし)をがちゃがちゃし始める。違う、こいつはロシア、こいつはイギリス。あれはフランス。
「あの電話はどこへ行ったんだ!」彼は『フォート・ローエル』へのホットラインを探しているのだった。

「……一〇〇年前やってきた彗星で、そんな風になってしまったそうです。ぼくみたいに『魔法』を使えるかわりに、身体が魔法になってしまったんです」
彼は以前アスカが使った比喩を、そのまま使った。

太平洋の向こうで、そのアスカは頭を抱えていた。
「ばか! シンジのばか! こんなにバカだとは思わなかったわ!」彼女の声はほとんど悲鳴に近かった。
「シンジはばかじゃない!」レイは叫んだ。「シンジはばかじゃない!」
「ばかよ! あんたは何も知らないくせに!」
「――ばかじゃない」レイはアスカの目を見据え、わけのわからない確信を持って言い切った。

「その彗星が来たのは、悪魔との契約のせいで、……悪魔は『ゲーム』のためにそれをやったんだそうです。……いつかわかんないけど、宇宙のどっかで強いカードを出し合うゲームで、その時人間は悪魔に命を差し出さなくちゃならないって――」シンジはしゃべり続けている。

ばん。『ウィズ・ブリティッシュ』は食堂のテーブルをたたいた。
「なんてこった!」若き『ウィザード』は、唇をかんだ。
「ビル! 『エアリエル』(通信システム)の全タスクを解放しろ! めいっぱい使う時が来たかもしれん」
「イエス・マイロード!」ウィリアム・ゲイツは走り出ようとした。
「待て、『キャリバン』(防衛システム)も起動しろ」
「『キャリバン』も、ですか?」スティーブ・ウォズニアックは言った。
「そうだ。『キャリバン』の本当の力を使う時が、こんなふうに来るとは思わなかったがな。もうすぐ世界は沸騰するぞ」
「マイ・ロード! 合衆国大統領から電話が入っています」若い魔女が走り込んできた。
「早速来たな。わたしも司令室に行く」『ウィズ・ブリティッシュ』は廊下をつかつかと歩きながら、考えていた。いま、六人の『ウィザード』に分裂があってはならない。彼は思った。あの『ウィズ・イカリ』は切り離すには大きすぎる尻尾なのだ。なにしろ世界を破壊出来るのだから。
彼の演説は、つまり、『世界魔法管理機構』の公式見解ということだ。それにしても、なんと突然の方針転換だろうか?

「でも」シンジは、なんだか騒がしい暗い壁に向かって言った。
「……『契約』がなんのためでも、ぼくは、あの……うまく言えませんけど、人間は……な、仲良くしなければならないと思います。……ぼくは『ウィザード』になって、できれば、その、がんばります」
シンジはぺこりと頭を下げた。
会場はその時、突然静まりかえった。各国代表は、まだ、何かとんでもない暴露があるのではないかと警戒していたのだ。
シンジは、何の反応もないので、みんな終わりだと思わなかったのではないかと思った。
「……あの、これで終わりです」そうだ、こんな時、決まり文句があったっけ。
「……ご、ご静聴感謝します」彼は言い添えた。
そのとたん、国連本会議場はどよめきに包まれた。何十人もの怒声が飛び交った。多くの代表が本国に連絡するため、席を立った。
どうしたんだろう? シンジは思った。やかましいのでかえって冷静さを取り戻してきた。ぼくは言ってはいけないことを言ったのかもしれない。もしかして、世界が、ぼくのせいで大変な事になったかもしれない。

ユイはぐったりとソファに座り込んだ。
「……がんばりますって、一言だけ言えばよかったのに……」ユイは両手で顔を押さえた。
「あの作文のとおり言えばいいのに……、恥ずかしいことなんかないのに」
「……ま、腹くくるしかないな」ゲンドウはつぶやいた。

シンジは、通訳の人が青い顔をして彼に近寄ってくるのを見ながら、そうだ、『インヴォルヴド・ピープル』の事だけは言っていけなかったんだ、と思った。
その時、議場の、演壇のすぐそばの暗闇に、青い鬼火のようなものが現れ、人の形をとった。ゆらめく陽炎(かげろう)のような姿に、男か女かわからないような、中世的な顔。
「マスター、『スター・チェンバー』にお入りください」風に震えるような声で、それもはっきりとした日本語で、それは言った。
「ぼくの、ことですか」シンジは言った。
「『スター・チェンバー』といえば、あなたしかいないでしょう? わたしは電子の精霊『エアリエル』、この中に『ウィズ・ブリティッシュ』がお待ちです」
それが、そう言ったとたん、虚空に扉が現れた。
「どうぞ、入ってください、大至急お連れするよう命令されています。早く」
「は、はい」シンジはその黒い扉を押して、中に入った。
「あれ?」彼は振り返った。演壇の端だったはずなのに、目の前に一〇メートル四方の部屋が広がっているのだ。正面の奥に、一人の男の人が立っていた。金髪を肩まで伸ばし、口ひげを生やしている。そして、シンジと同じ濃い緑色のマントを羽織っているのだった。
「はじめまして、『ウィズ・イカリ』、わたしはアメリカ大陸担当のブリティッシュだ」その外国人の男性は、日本語で言った。しかしよく見ると声と唇がずれていた。まるでテレビでやる映画のように、誰かが吹き替えているようだった。
シンジの感じたとおり、『スター・チェンバー』という疑似空間を作りだしている電子精霊『エアリエル』が、『ウィズ・ブリティッシュ』の声を盗んで、一瞬にして翻訳し、かわりにしゃべっているのだ。

「……はじめまして、『ウィズ・ブリティッシュ』」
「時間がない、本題に入ろう。きみが、さっきしゃべった事は、誰かにこう言えと言われたのかね? ――たとえば『ウィズ・ローレンツ』とかに?」
「い、いえ違います。あの、やっぱり言ってはいけなかったんですね?」
「きみは、自分の言葉に命をかける事が出来るか? 『ウィズ・イカリ』?」
「――え?」シンジは戸惑った。急にそんなことを訊かれても答えようがなかった。
「きみの命だけではすまないかもしれない。……きみの言ったことは正しいと思う。『人間の心を持つ者は人間』だ。『インヴォルブド・ピープル』だって人間だ。それは普通の人間に恐怖を与えるかもしれないが、それは彼らが、たまたまそう生まれただけで、彼らに罪はない。そもそも、人間の自然なありように罪なんてない。そして、人間は仲良くするべきだ。――きみは正しい事を言ったと思う」
「……そうですか」シンジは安心したように言った。
「だが、きみは世界を破滅の淵(ふち)にたたき込んだ。『反物質のドラゴン』で壊しかけた地球を今度は、破滅的な暴露で滅ぼそうとしてるんだ」
「……え?」
「矛盾した事を言うようだが、実は、『インヴォルブド・ピープル』は秘密でも何でもない。少なくとも『為政者』と呼ばれる人々にとっては『公然の秘密』ってやつだ。たとえば、このアメリカでは、五大湖の近くに『サンクチュアリ』があることは、ある程度政治に近い人だったら誰でも知ってるんじゃないかな」
「そうなんですか?」だったら、なぜ、大騒ぎするんだろう?
「そして、アメリカ空軍は、大統領の命令があればいつでもそこを爆撃出来る体勢をとっている。州兵、FBI、各州の警察は、『特殊な』暴動が起きたときの訓練を欠かしたことはない。特殊な暴動とはすなわち、『インヴォルブド・ピープル』と普通人の間の衝突の事だ。おおむね世界各国とも似たり寄ったりだろう」
「え……」
「驚いたかね? ――いいかい? 『来訪』から一〇〇年以上たってるんだ。どんな秘密であろうと隠し通す事は不可能だ。ましてや、社会、文明の存亡に関わることなんだから」
「だったら、なぜ? ぼくは、ますますわからなくなりました」
「きっかけ、なんだよ。きみは公の場で、それこそ国連という最大級の公の場で『インヴォルブド・ピープル』という言葉を使った、最初のVIPだ。きみの背には『世界魔法管理機構』があり、『ウィザード体制』がある。きみの言葉はわれわれ『ウィザード』全員の言葉でもある。――これが何を意味するか? 魔法界、普通人、そして彼らの三極。世界はその三極の危うい脚の上に乗った水瓶(みずがめ)のようだった。さっきまではね。きみが、そのバランスをちょっとだけ崩したんだ。きみは、『ウィザード』の就任にあたって真っ先に彼らに言及した。つまり魔法界という脚が、彼らという脚に向かって傾いたんだ。水瓶(みずがめ)はいまぐらぐらと揺れているのさ」
「やっぱり、わかりません、『ウィズ・ブリティッシュ』!」
「いいかい、魔法を使えない人々の、特に『為政者』の立場で考えてごらん。彼らは実に一○○年間、我々の魔法という超越的な力で押さえつけられていたんだ。一〇〇年間、国境紛争すら無かった。起こしようがなかったんだ。これがどれだけのものを鬱積させるか、考えてごらん。為政者じゃない普通の人にしてもそうだ。魔法という超越的な力を使える我々は、羨望の、そして表には出せない妬(ねた)みの的なんだ。そして『悪魔』との『契約』によって生まれたという意味では、我々も『インヴォルブド・ピープル』も同じなんだ。しかし片方は世界を支配しており、魔法は有益なものとして認知されている。片方は恐ろしく、不快なものだ。一〇〇年前、その残りの片方を『存在しないもの』として隠蔽したのは、魔法界を代表する『ウィザード体制』と、普通人を代表する国連の、純粋に政治的な判断なんだ。きみがそれをさっき明るみに出して、『なんとかしたい』という意味の事を言った。つまり、魔法界と『インヴォルブド・ピープル』とが手を結んだ」
「……そんな、そんなつもりはなかったんです」
「きみがそうでなくてもそう受け取られるのさ。二対一。普通人は一気に少数派になった。きみは、『インヴォルブド・ピープル』を二億と言ったが、その根拠は?」
「……ある人から聞いたんです」
「慎重になってしまったな、……少数派といったが、魔法管理機構の登録者は現在、世界で約一〇億人。『インヴォルブド・ピープル』は二億。圧倒的に普通人の方が多いんだ。――しかし、心理的にはそうではないんだ。なにせどちらも想像を超える超越的な力を持ってるんだから。その力への一〇〇年間つもりに積もった妬みと、やがて、種として淘汰(とうた)されていくのではないかという恐怖が、一気に噴出するかもしれないんだ。まず、それは実質的に世界を支配している方ではなくて、『インヴォルブド・ピープル』へ向かって起きるだろう。今、この一○○年間のうちで、普通人と『インヴォルブド・ピープル』との全面衝突の可能性が、最も高まっている」
「……」シンジは学校で感じた、クラスメートたちの視線に含まれるものを思い出した。なんとなく、わかってきたような気がした。
「……ぼくはどうすればいいんですか?」
「『ぼくは』じゃない。これは我々全体の問題だ。我々のとりうる道は一つしかない。――それは『中立』だ。中立といっても、手をこまねいて見ているという意味じゃないぞ。世界中で衝突が起きたら、それを、身体を張って止めるんだ。それしか、文明を崩壊から防ぐ道はない」
「……はい」シンジは、うつむいた。ぼくは、いったい、なんて事をしてしまったんだろう!、と思った。
「しょげてる暇はないぞ! 『ウィズ・イカリ』。ぼくはわざと一〇分間ずらして残る四人の『ウィザード』に招集をかけたのは、きみに事態をわかってもらうためと、今から言うことを聞いてもらうためだ! ぼくは『能動的介入命令』の発令を提議する。その提議に賛成してほしいんだ」
「『能動的介入命令』って、もしかして」
「そうだ、世界の魔女・魔法使いに、衝突があったら止めさせろ、という命令だ。我々側に被害が出るかもしれない、だが、やらなければならないんだ。賛成してくれるか?」
他にどんな選択の余地があったろうか? シンジは、「はい」と言ってうなずいた。

その時、何もない、だだっ広い部屋に、誰かが入ってきた。シンジにはアラビア人のような感じの人に見えた。
「はじめまして。『ウィズ・イカリ』、わたしは『ウィズ・ナギーブ』」彼もまた外国語をしゃべっているはずだが、精霊によって翻訳されていた。
シンジは名のって挨拶する。
『ウィザード』たちは次々と『スター・チェンバー』の疑似空間の中にやってくる。
『ウィズ・コリンバ』、『ウィズ・ジャティ』、そして最後に『ウィズ・ローレンツ』が現れた。
「この馬鹿が!」『ウィズ・ローレンツ』は現れるなり、シンジを怒鳴りつけた。
「『ウィズ・ローレンツ』、いくら彼が十四歳でも、ここでは対等のはずだ! 誹謗(ひぼう)中傷はつつしんでください」『ウィズ・ブリティッシュ』は言った。
「……ふん。確かに、な」
「では、さっそく本題に入りたい。アメリカ東部標準時十四時をもって『能動的介入命令』を発令したい。命令内容は、『各支部の指示に従ってパトロールを行い、普通人とインヴォルブド・ピープルとの戦闘行為・虐殺行為を発見次第、これを止めよ。相手を『インヴォルブド・ピープル』と誤認した行為も同様である』だ」
「……もしかして軍事シミュレーションケース『№666』を適用するのか?」『ウィズ・コリンバ』が言った。
「そうだな。くしくも666番だ」この奇妙な符号は以前からささやかれていた事だが、こういった偶然の一致には、うんざりするな、『ウィズ・ブリティッシュ』は思った。世界魔法管理機構を巻き込む可能性のある紛争を順に想定していって、連番を振っただけなのに、なぜ『獣の数字』にならなければならない?、無神論者である彼は、昔から、その事を畏怖するよりも鬱陶しさを感じていた。
「そのケースだと、我々の犠牲が最も多くなるぞ! 『ウィズ・ブリティッシュ』!」『ウィズ・ジャティ』は言った。
「やむをえない。それしか道はない。わかっていると思うが、『ウィズ・イカリ』の発言を取り消したりするような『切り離し』は効果が無いと思われる。世界規模で、起こり得る紛争を調停出来る力を持っているのは我々だけだ」
『ウィズ・ブリティッシュ』は答えた。
「――傍観する、という選択肢もあるぞ」『ウィズ・ローレンツ』は言った。
「本気で言っておられるのですか? 『ウィズ・ローレンツ』」『ウィズ・ブリティッシュ』は皮肉を込めて、慇懃(いんぎん)に言った。
「むろん本気ではない。……やむをえんな」バイザーを付けた魔法使いは苦々しげに言った。
彼は、遠い未来に、『契約』に基づき、『インヴォルブド・ピープル』と魔法を使える『優性人種』とが雌雄を決する戦いをするだろう、と確信していた。そして『優性人種』が勝利し、千年王国、それこそ伝説の『トゥーレ』のような栄光に満ちた神のごとき人間の時代がくるだろうと思っていた。しかし、その決戦は決して『今』起きるべきではなかった。初歩の魔法も使えぬ劣等人種が多すぎるのだ。彼らは愚かにも、ニーチェの哲学やワーグナーの音楽といった人類の文明の最良の部分と、我々を引き連れて、自滅の道を歩むだろう。それだけは、来るべき『第二の黄金時代』のために避けるべきなのだ。

「他に異論が無ければ採決をとりたい、いいかね?」『ウィズ・ブリティッシュ』は五人の『ウィザード』を見回しながら言った。
「賛成する。実は、先日から、ルワンダで彼らがらみの小規模な民族紛争が起きているのだ。今回の『ウィズ・イカリ』の演説が引き金となって大規模なものに発展するかもしれない」『ウィズ・コリンバ』は言った。
「すみません」シンジは思わず謝った。
「謝る必要はない。正しいと思って言ったのなら」『ウィズ・コリンバ』はそう言った。
「わたしも、賛成だ」『ウィズ・ジャティ』は言った。
「賛成だ」『ウィズ・ナギーブ』は言った。
「……やむをえんな」『ウィズ・ローレンツ』はつぶやいた。
気がつくと、その場にいる全員がシンジを見ていた。彼は思わずうつむいた。
「きみの意見は、『ウィズ・イカリ』?」
口ひげをたくわえた、若き『ウィザード』はそう言った。
「……はい、賛成です」
「わかった。ここに六人の『ウィザード』の全員一致で、『能動的介入命令』を発令する。これは『エアリエル』に乗せて、夜明けを迎える地域の順に伝達するものとする。『キャリバン』はスタンバイしているので、必要であればいつでも『スター・チェンバー』経由で使ってください。以上です」
若き『ウィザード』は言った。
かくして、世界を震撼(しんかん)させた三日間ははじまった。

六人の『ウィザード』はシンジを除いて、みな担当地域で、支部の統括の任務に就くことになった。
「きみはすぐに『フォート・ローエル』に来るんだ」シンジは『ウィズ・ブリティッシュ』にそう言われた。日本に帰るまでの安全を保障出来ないし、『アインシュタイン・インターセクション』が提供する機能、『エアリエル』(通信)と『キャリバン』(防衛)の二つを遠隔操作で使えないシンジは、危険を冒して帰国しても役に立てないのだ。東アジア地域は中東地域担当の『ウィズ・ナギーブ』が引き続き兼務する事になった。

事態は最悪の予想の通りになっていくように見えた。
シンジの演説は、ほとんど一瞬にして世界を駆けめぐり、人々に大きな衝撃を与えた。『ウィズ・ブリティッシュ』が言及したように、もし『インヴォルブド・ピープル』が完全な秘密ならば、シンジの話はたんなる笑い話になっていただろう。なにせ公式の場で『吸血鬼』や『狼男』が実在すると言ったのだ。
問題は、多くの人々が、この世には『闇』の部分があると漠然と感じていたという事なのだ。それは、多くは伝聞によるものだった。『隣町の誰それが、夏の夜に襲われて血を吸われたんだ』。『誰それが月夜に変身していた』。
それで充分なのである。人間は、信仰を捨てたとしても、精霊やもののけや、悪鬼が出てくる伝承を捨てたことはなかった。それは薄暗い森のそばの村落から、高層ビルの立ち並ぶ都会に住むようになった今もかわらなかった。
いやむしろ都市の方が、闇の温床なのだった。ガード下。誰もいないはずの地下鉄の駅。雑居ビルと雑居ビルとの間の狭く暗い空間。冷たいアスファルトの道に長くのびる影。
シンジは、『ウィザード』という、現代において最高に権威ある立場の人間として、この闇の都市伝説が、現実であると認めたのである。
あるものは恐怖におののき外出を控え、あるものは恐怖を克服するために徒党を組み、闇を追いだそうとした。ニューヨーク、ロサンジェルス、サンパウロ、世界の大都市で演説後数時間後、夜の訪れとともに、早くも最初の暴行事件が同時に起きた。おおむね、夜間に独りで歩いている者に、集団で暴行を加えるというものであった。
これらの都市には既に『能動的介入命令』が出されていたので、そこに住む魔女や魔法使いは、このような行為を制止するのに大わらわになった。

そのころ、シンジは、数名の上級魔女の飛行編隊にガードされながら、ジェットヘリでアリゾナへ向かっていた。彼は、都市を通過するたびに空をパトロールしている魔女を見つけた。アスカ……、彼は魔女の少女の顔を思い浮かべる。目を開けた時、のぞき込んでいた、心配そうな表情を。
アスカ、きみもこうやって飛び回っているんだろうか?

アスカは風呂に入っていた。
夜はすっかり明けて、明るい日差しが狭い風呂場に差し込んでいた。
白いホーローの浴槽に脚を投げ出してつかっていた。天井から水滴がぽつり、ぽつりと落ちる。
シンジ、あんたは帰って来られるのかしら? 少女は思った。帰ってきても、日本が燃え尽きずに残っているのだろうか、と思った。……だめだ。わたしがこんなに弱気でどうするの?

ユイは朝食をとっていた。頭がぼーっとしている。けっきょく、一睡も出来なかった。朝の七時頃からやけに騒がしいので、カーテンを開けて外を見た。国連に出発する朝と同じくらいの報道陣が、家を取り囲んでいた。心なしか殺気立っているような気がした。息子が罪を犯した家庭を取材しに来ているような感じがした。
朝、テレビのニュースもそんな論調だった。アナウンサーがひどく困惑したようすで、『様々な波紋を投げかけています』と言った時、波紋ではなくて洪水かもしれないと思った。
ユイは、自分のために紅茶を入れた。トーストは半分も食べる気がしなかった。彼女は、ぼんやりとカップから立ち上る湯気を見ていた。
……わたしは、なんのために生きているのだろう?
突然、そんな言葉が浮かんできた。わたしは、シンジを『ウィザード』にするために生まれてきたんだろうか? わたしは、ゴールをとうに走り抜けてしまったのだろうか? でも、そのシンジは、世界を大騒ぎさせているのだ。そしてわたしは家で、心配しているだけ。何も出来ない普通の母親なのだ。

ユイが、ティーカップを手に持って、口に運ぼうとした瞬間、カップの中の紅茶が沸騰するようにごぼごぼと音を立てた。
「きゃ」ユイはあわてて、カップをテーブルに戻した。
ごぼごぼごぼ。紅茶は泡立ち、むくむくと盛り上がった。中から何かが出てくる。それはゆっくりと小さな人の形をとった。中性的な青白い顔をした妖精だった。
「……あら、『エアリエル』、お久しぶりね」ユイは愛想よく言った。

「きゃー!!! こんなところから出てこないでよ!」風呂場の方からアスカの怒鳴り声が聞こえた。おそらく別の『エアリエル』が、湯船からぶくぶくと現れたのだ。

「久しぶりだな、中級魔女・碇ユイ」その精霊はろうそくのようにかすかに震える声で言った。
「あら、『エアリエル』でも間違える事があるのね、わたしは元中級魔女・碇ユイよ。資格を剥奪されちゃったの」
「ふむ……? おかしいな。わたしのデータベースには中級魔女・碇ユイのレコードがある。――まてよ、ではまだ通知がきていないんだな」
「な、なんの通知よ」
「あんたは三日前に資格回復されてるんだよ。日本支部の連中、それどころじゃなくて、あんたに通知し忘れたんじゃないか? 組織がでかくなると、右手のしていることを左手が知らないなんて事が起きる」
「……本当なの?」
「電子精霊がうそをつくと思うか?」
「じゃ、国連演説の直前にあわてて回復したのね。『ウィザード』の母が資格剥奪者じゃ具合が悪いから」
「そうだろうな。おめでとうと言っておこう」
「複雑な心境だわ。なんだか馬鹿にされてるみたい」
「それが組織ってもんだ。そんなことより、中級魔女・碇ユイ。日本時間の〇〇日午前八時『能動的介入命令』が発令された。命令内容は――」
電子精霊が魔法管理機構からの指令を暗唱しているのを聞きながら、ユイは実にゆっくりと、身体の奥の方から何かが駆け上がってくるのを感じている。
「――である。以下はウィザード全員の連名で発布する。署名『ウィズ・ジャティ』『ウィズ・ブリティッシュ』『ウィズ・コリンバ』『ウィズ・ローレンツ』『ウィズ・ナギーブ』、そして……『ウィズ・イカリ』。中級魔女・碇ユイ? 聞いているのか?」
「は、はい。聞いています!」
「だったら、何をぐずぐずしているんだ。箒に乗って空を飛べ。そして、人に尽くせ」
「わかったわ、『エアリエル』、ありがと」ユイは言った。
精霊はおおげさにおじぎをすると、ふっと消えた。増幅された精霊の分身は、使命を終えると消滅するのだ。
カップをテーブルに置くと、ユイは、自分がどうして椅子に座っているんだろう、と思った。とにかく、着替えなくちゃ。
彼女は夫婦の寝室に行った。ついたてがわりにおかれた小さな本棚(中にはレイ用の絵本や小学生の教科書などが入っている)に隔てられて、夫のゲンドウとレイが寝ていた。
「あなた……」レイを起こさぬよう、小声で夫に言った。
「……ふにゅ……なんだ……シンジが今度は太陽を破壊したか?」
「ば、馬鹿言わないでよ。『能動的介入命令』が出たの。あたし行くわ」
「……ああ。……あれ? お前なんで?」
「帰ってきてから説明するわ、アスカも当然行くから、レイちゃんの事、お願いね」
「ああ」錬金術師は気楽な稼業ときたもんだ。ゲンドウは思う。『魔法管理機構』の管轄下にありながら、『能動的介入命令』に従わなくてもよいのだ。練金のために『フィフス・エレメント(第五元素:転じて「賢者の石」)』を作り出す魔法しか知らない最下級の魔術師が、緊急事態に何の役に立つだろう?
着替えはじめた妻の下着姿を眺めながら、相変わらずスタイルはくずれていないな、とゲンドウは思った。

ユイは、細身の黒いズボンと、黒のセーターを着た。納戸を改造した部屋からストラップをとってきて、魔女用のGPSシステムを取り付ける。
洗面所で顔を洗う。鏡の中のわたしは、まるで怖いものに出会ったような顔をしている。ユイ。五年ぶりに飛ぶのよ。飛べる?
飛べるはずだ。押し入れから古びた箒を取り出しながら、ユイは自分に言い聞かせた。
その箒はアスカに授けた『小林丸』より前、彼女が小学六年生から使っていた箒だった。銘を『轟丸(とどろきまる)』という。その箒は小学生の夏休みに、魔女の林間学校で、大先輩の魔女からいただいた思い出の品だった。
「風を怖がるな、高さを怖がるな、自分の魔法を怖がるな」暗い森の中で長老格の魔女は、若いユイにそう言った。
「魔法は人のために。人を危難から救い、奉仕するため」
「魔法は人のために。人を危難から救い、奉仕するため」薄暗いブナの森の中で小学生のユイは繰り返した。
何かが、心の中で高まっていた。どんなに卑小な、役人の追従の結果でも、わたしは戻ってこられたのだ。この魂が震えるような世界に!

「おばさま、その格好は?」上気した身体にバスタオルを巻いたアスカが言った。
「後で説明するわ。先に集合地点に飛ぶわね」ユイはそう言って箒を持ち、さっそうと廊下を歩いて、玄関から外へ出ていった。年季の入った魔女らしい、誇りにみちた後ろ姿だった。
「あ、あたしも急がなきゃ」アスカはあわてて下着を着けはじめる。

フラッシュの閃光(せんこう)にまぶた一つ動かさず、ユイは家の前に立った。
「ユイさん! 息子さんの発言が世界に衝撃を与えていますが、どう思われますか!」
いまや、『ウィズ・イカリ』ではなく、『息子さん』だ。ユイはその記者を見た。おとといも来て、『ウィズ・イカリ』と呼んでいたくせに。
ユイは答えず、箒にまたがった。
「ユイさん! どこへ行くんですか!」別の記者が言った。
「義務を果たしに行くんです。失礼」ユイは、箒の柄からさきっぽに向かってなぞるように精神を投影していく。飛べるか? 飛べる。わたしは飛べる。

ぶん。ユイは宙に舞い上がった。おおおおお、と眼下の報道陣からどよめきが上がるのが聞こえた。南南西。『機首(柄の先)』をそっちに向ける。
朝の雲の彼方へ。ユイは力を込めた。びゅー! 風が渦を巻いて吹き抜けていく。
高揚感は頂点に達していた。……これだわ。これが魔女なのだ。太古から、暗い森の中で、孤独を恐れず、おのれの探求心の命ずるままに薬草をこね回し、迷信ではない智恵で人を救ってきた、誇り高い女たちの系譜、それが魔女なのだ。嫉妬と偏見と、偏狭な宗教観からみれば異端中の異端。弁護人なしの宗教裁判にかけられ、火あぶりにされてきても途絶えることのなかった伝統、それが魔女なのだ!
ユイはアイルランドに伝わる、古い古い歌を歌いながら空を一直線に横切った。

そのころ、シンジはようやく『フォート・ローエル』にたどり着いていた。
夜だったので、その要塞の大きさに驚く事はなかった。ヘリポートに降りると、眼鏡をかけたアメリカ人らしい男が歩いてやって来た。
彼はいきなり英語でべらべらと話しかけてきたので、シンジは面食らった。通訳の人をニューヨークに残して来たのだ。シンジは、あわてて英語の授業で習った事を思いだし、『I don’t can speak English』(もちろん間違い)と言う。
その眼鏡をかけて痩せた男は指をぱちんとならし、小さな『エアリエル』を呼び出した。そして、その電子精霊に英語で何事か話したと思うと、精霊は飛んできて、シンジの肩にとまった。
「あー、『ウィズ・イカリ』わたしの言葉が日本語に聞こえますか?」男はそう言った。『スター・チェンバー』の中で他のウィザードたちと話したときと同じように、唇の動きと声がずれていた。精霊が声を盗んで同時通訳しているのだった。
「はい、聞こえます」シンジは答えた。
「鬱陶しいでしょうが、我慢してください。日本語をしゃべるのは『砦』であなた一人ですから、こうした方が早いんです」
「鬱陶しくて悪かったな、ゲイツ」シンジの肩にとまった精霊が小さな声で言った。
「わたしは、ウィリアム・ゲイツ、『メイジ』級の魔法使いです。初めまして、『ウィズ・イカリ』」その眼鏡をかけた男は精霊の文句が聞こえなかったのか、シンジに手を差し出す。
「……あ、ぼく碇シンジです。よろしくお願いします」シンジは男と握手した。男の手はきゃしゃだが大きくて、シンジの手がすっぽりと包み込まれてしまった。
「下で『ウィズ・ブリティッシュ』がお待ちです。どうぞ、ついてきてください」
シンジは言われるままに、だだっ広いヘリポートからエレベーターに向かって歩いていく男の後をとぼとぼとついて行った。
エレベーターは地下に向かって降りていく。果てしない感じがした。シンジとゲイツは黙ったまま、地下何メートルといったのデジタル表示を見つめている。
「フライトは快適でしたか?」突然ゲイツが口を開いた。
「……え? ――ええ」シンジは答えた。
お互い何を言っていいのか途方に暮れていた。

「司令室です」シンジは長い廊下を歩いて、とある広い八角形の部屋に通された。八面全部が巨大なプロジェクターの画面になっていて、黒に白の線で世界地図が映し出されていた。正面がアメリカ、太平洋を越えて、左を見ると中国、朝鮮半島、日本が映っていた。日本や中国の上には赤い光点が、まるで意志を持ているかのようにうようよと動いていた。それぞれの面に数名の男女が座って、何事か指示を与えている。
「待ってたよ、『ウィズ・イカリ』」あの不思議な空間で会ったのと同じ人物が歩いてきて、シンジを出迎えた。
「――あれは魔女が飛行しているのを表しているんだ」シンジがおびただしい赤い光点に目を奪われているのに気がついたブリティッシュが言った。
「……」シンジはその点の一つがアスカなんだ、と思った。
「いま日本は朝になったところだ。だから『能動的介入命令』を受けて魔女たちが飛び立っているところだ。彼女たちは決められた集合場所に集まって、また散って行く」
「……なにをするんですか?」
「パトロールだ。地上で紛争が起きているのを発見したら連絡し、可能ならばその紛争を止める。――来たまえ。きみがいたニューヨークでは、さっきこんな事があった」
ブリティッシュは、アメリカ大陸の巨大な地図の下のコンソールを操作した。ディスプレイの中に、映像が映った。何人かの若者が雑貨屋みたいな商店に火をつけている。商店の主人だろうか、鋪道に二人がかりで引きずり出され、頭を足で蹴られていた。
「……!」シンジは顔をしかめた。数名が無抵抗の人間の頭を蹴っている。不快感がこみ上げてくる。その時、若者たちが全員空中につり上げられるように浮遊した。『浮遊魔法』だ、シンジは思った。
「発見したのが飛行しか出来ない下級魔女だったので、近くをパトロールしていた魔法使いに応援を要請し、間に合ったんだ。暴行されていた人は重傷だが一命をとりとめた。もちろん、その人は『インヴォルブド・ピープル』じゃない。夕方から夜にかけて、そんなのばかりだよ。デマが横行している。誰それは顔が吸血鬼みたいだ。誰それは毛深いから狼男だ。そんなデマによる商店への略奪行為が多いんだ。この映像は、『エアリエル』が捉えたんだ。こいつは映像も伝達出来る優れ者だから」
「どうも、マスター」シンジの肩に乗っている電子精霊は礼を言った。
「……こんな事が世界で起きてるんですか?」シンジは尋ねた。
「まだ思ったより件数は少ない。これからだよ。今はまだショックを受けてぼうぜんとしている、といった状況だろう。本格的な衝突が起きるとすれば、それは明日か、一週間後か、一年後突然起きるか、わからないんだ。とにかく、今回の『能動的介入命令』が基づいているシミュレーション・パターンは一週間を想定している。きみはその一週間の間ここにいて、『エアリエル』と『キャリバン』の使い方をおぼえるんだ」
「外に出てパトロールはしないんですか?」
「ああ、きみは危険すぎる」口ひげをたくわえた『ウィザード』は、はっきりと言った。「きみにとっても危険だし、世界にとっても危険だ。『キャリバン』ならばまだいくらか制御出来るかもしれん。きみにここへ来てもらったのはそんな理由もある」
「……わかりました。……あの、『キャリバン』っていったい何ですか?」
「遠からず使われる事があるだろう。各担当地域の『ウィザード』によってね。その時立ち会うんだ」
「はい」シンジはうなずいた。
「……もうすぐ十一時を回る。きみは眠りたまえ。何かあれば起こすから、この部屋に来るんだ」
「はい」
「ウィリアム、『ウィズ・イカリ』を賓客室に案内してくれ」
「イエス・マイロード。では『ウィズ・イカリ』参りましょう」
シンジがゲイツと出ていこうとしたとき、ブリティッシュは呼び止めた。
「『ウィズ・イカリ』、気にするなといっても気にするだろう。だから、そんな気休め言わない。だが、必要以上に自分を責めるのは愚か者のする事だ。それが罪だとしても、自分で自分を完全に罰することは、誰にも出来ないんだ。少なくともぼくは、きみの言ったことは罪ではないと思う……。おやすみ」
「……はい」シンジは答えた。

イラク。午前九時。決定的瞬間というものは、静かにやってくるものだ。
タランテラは明け方に眠ることにしている。
彼女は、『ウルクのサンクチュアリ』の、遺跡の採掘坑をくりぬいて広げた小部屋で眠ることにしている。少しでも地下で眠らないと、無線電波だの空電だのと、『雑音』で眠れないからだ。
びぎゅーんんんん。タランテラは飛び起きて耳を押さえてうずくまった。痛い程の電波が彼女の感覚器官をかき回していた。
「――ジ、ジャミング」彼女はうめいた。だれかが強力な妨害電波を遺跡のすぐ上で発信しているんだわ。
彼女はよろよろと『ドゥムジとイアンナ』の、『聖婚』の石像のある聖堂まで歩いて行った。
軍服を着た手が彼女の両脇に差し込まれる。
「は、離しなさい!」彼女は、致死的なマイクロ波をまき散らそうとする。しかし、彼女の首筋に注射器が突き立てられた。
「……は、離しなさい」自分の意識がもうろうとしてくるを感じだ。聖堂の中は軍人でいっぱいだった。なんと言うことだろう! 事もあろうにイラク軍が『サンクチュアリ』を攻撃するのか!
「……あ、……あんたたち自分がなにをやってるのか……」タランテラはそこで気を失った。

「作戦完了しました。大佐!」青白い肌の女を縛り上げると妨害電波発生機の横に寝かせた兵士が、浅黒い肌の男に向かって報告した。
「よくやった。では第二段階だ。戦車隊を出発させろ!」大佐と呼ばれた男は言った。
「は!」兵士が一人地上に向かって階段を駆け上がる。
大佐は、いままでABと呼ばれる老人が座っていた椅子にどっかと腰掛け、目の前のテーブルに広げられた地図を見た。
「予定どおり、日没までにバグダッドを攻略する」男は宣言した。
「いよいよですね、大佐」そばにいた副官らしき男が言った。
「そうだ……いよいよだ。歴史をやり直すのだ。五〇〇〇年のねじを巻き戻す時だ」男は、『ウィズ・イカリ』という少年に感謝した。天の配剤とはこのことだ。彼が普通人と我々との間に緊張を与えてくれたおかげで、我々は結束しやすくなった。我々の仲間は世界の『サンクチュアリ』で蜂起し、やがてこのウルクに終結するのだ。『エンキ』によって導かれた『第一世代』が地上を闊歩(かっぽ)していたこのウルクに。
その時、何の取り柄も持たぬ人間の、間違いだらけで無意味な五つの千年期は終わり、われわれの時代が始まるのだ。それこそが世界の創造主の本意なのだから。

シンジは眠れなかった。目を閉じると、複数の若者が無抵抗の人の頭を蹴っている光景が浮かぶのだ。
寝返りをうつ。だだっ広い部屋の中で独りだった。間接照明の光が、ベッドのサイドテーブルに、柔らかい光を投げかけていた。
「……もう、死にたいよ……」少年はつぶやいた。
横たわり、死ぬことだけを考えた。悪魔が言うように、死後の世界なんてない。輪廻(りんね)なんてない。終わり。暗闇。目を閉じる。世界がぼくの夢じゃなくて、ぼくが世界の夢なんだったらいいんだ。
みんなが目を覚ます。碇シンジはどこにもいない。
そうだったらいいのに。
小さな、この部屋の分厚いじゅうたんが少し焦げる程度の『反竜』を召喚しようか。額にぶつければ、ぼくの空っぽの頭と対消滅を起こす。ぼん。対消滅の爆発で頭を吹き飛ばして自殺した、世界最初のウィザードだ。ギネス・ブックに載るかもしれない。一番髪の長い人や、一番のっぽの人の間に、ひっそりと載るだろうか。
家の回りに集まったマスコミの人や旗を振っていた野次馬たちは、あざ笑うんだ。地球を壊しかけてウィザードになって、国連で口を滑らせて大騒ぎを巻き起こして、最後は派手な自殺をした馬鹿な少年だ、って。

その時サイドテーブルの電話が鳴った。
シンジは受話器を取る。英語でいきなり誰かがしゃべりはじめる。シンジはあわてて日本語で、「ちょっとまってください」と言って、通訳をしてくれる『エアリエル』を探す。電子精霊は、テーブルの上でゼリーのように半分溶けて、休んでいた。
「あの、『エアリエル』」シンジは声をかけた。
「なんですか、マスター」そのゼリーの山は一瞬にして中性的な顔の妖精の形をとった。
「電話かかってきたんだ」シンジは言った。
「――『ウィズ・イカリ』、おやすみのところ申し訳ありません。至急司令室にお越しください」
シンジは時計を見た。午前二時。
なにか、またよくない事が起きたんだ。

「すまない、『ウィズ・イカリ』。起こしたくなかったが、一度『キャリバン』を使うのを見てほしかったんだ」『ウィズ・ブリティッシュ』は言った。
「なにが起きたんですか?」
「アフリカだ。ルワンダで武装した集団が、ある村を襲撃しているという情報が入った。一部軍や警察官も混じっているらしい。その村はルワンダでは少数部族なんだ。やはり『インヴォルブド・ピープル』とは関係ないが、『悪魔の子』を地上から殲滅(せんめつ)すると息巻いた群衆が、武器を取って押し寄せているらしいんだ。現地の魔女、魔法使いでは手に負えないので、ケニアの『ウィズ・コリンバ』が『キャリバン』を使用する」
「……はい」
「ここにいるのは、この『砦』の天才技術者、スティーブだ。『キャリバン』を作ったのは彼だ」若き『ウィザード』は、彼の隣に立っているでっぷりと太った男をシンジに紹介する。二人は握手した。また手がすっぽりと太い手に包まれてしまう。
「わたし一人で作ったんじゃないですよ。『ウィズ・イカリ』。数千人のエンジニアと何テラ・ステップに及ぶソースを書いたプログラマが作ったんです。わたしは思いついただけ」その男はそう言って笑顔を見せた。
「時間がない、『スター・チェンバー』に入ってくれ」
「はい」
シンジとブリティッシュは、疑似空間の中に入った。中に、『ウィズ・コリンバ』が立っていた。彼は入って来た二人の『ウィザード』に会釈をする。
「アメリカでも普通人同士の紛争ばかりのようだな?」
「ああ。そうだ。気味悪いくらいシミュレーションのとおりだよ。『ウィズ・コリンバ』」
「……あの、『シミュレーション』て?」シンジは尋ねた。
「我々は、ずっと以前から、このように世界的に『インヴォルブド・ピープル』の存在が明るみに出た場合、発生しうる事態をシミュレートしてきた。その結果、『インヴォルブド・ピープル』との直接の戦闘よりも、こういった普通人同士の紛争の方が多発するだろうという予測が出たんだ」ブリティッシュは言った。
「そして、もし魔法界が『能動的介入』をせずに放置した場合、たった一週間で、世界中で六千万人の死者が出る」コリンバが言った。
「――!」
「――それでも少なく見積もって、だ。『ウィズ・イカリ』、きみは日本人だ。……日本人は、自分たちは『単一民族』だという幻想を持っているようだが、世界には、民族間部族間の対立の、こういった紛争の火種が山ほどあるんだ。『インヴォルブド・ピープル』は導火線に火を付けただけだ。……われわれ人間にとって、信じるものや習慣が違う得体の知れない隣人は、『怪物』と同じなんだよ……」
シンジはぼうぜんと立っていた。ここは、あの平和な日本の平凡な中学生活とまるで違う、と思った。それは、世界のほんの一部分の、ほんの上っ面に過ぎないんだ、と思った。ぼくは、世界じゅうにぼくの町が広がっているように感じていたけど、それはとんでもない誤解だったんだ。

「さあ、話している暇はない。『キャリバン』を起動するぞ」コリンバは暗い『スター・チェンバー』の天井に向かって言った。
『フォート・ローエル』の地下、電子の海の中で、ある精霊がむくむくと起きあがった。
『ウィズ・コリンバ』の目の前の空間が、輝きながら揺らいで、何かが現れた。それは背の低い、ボロボロの服をまとった醜い男の形をしていた。美しい『エアリエル』とはまるで違った。節くれ立ったごつごつした腕、やけに親指が大きく見えるはだしの足。額はひさしのように出っ張り、小さな丸い目を隠しそうだった。髪は海草のようにべったりと頭にくっついていた。
「……オイラをお呼びですかい、マスター」低くしゃがれた声で、その電子精霊は言った。
「ああ、用事だよ、『キャリバン』。武器を持って頭に血が上ったやつらをおとなしく家に帰らせるんだ」
「おやすいごようだ……マスター。……ところで、あんた雨の日は好きですかい?」
コリンバは、笑みを浮かべ、愛想良く答える。
「ああ、好きだとも。わたしの国では雨はあまり降らないが、好きだよ」
「……オイラも好きだ。オイラが生まれた日も雨だった。オイラはおっかあの顔もしらねえけど、だれかがそう言っていたっけ……。マスター、オイラ、オイラが放り投げられる場所の座標はわかってる。あとはあんたが魔法をかけてくれ」
「わかった」コリンバはその醜い精霊に両手を差し出した。
「わ」シンジは吹き付けてくる魔法風に思わず目を閉じた。強力な魔力がこの精霊に集まっているのだ。
「……この程度でいいだろう……『キャリバン』、行け」
「あいよ、ヘイホー」ぴゅん、と音がして精霊は消えた。

その防衛用電子精霊は加速器の中に飛んでいったのだ。『フォート・ローエル』の別のオペレータ室では、精霊が加速器の中で光速に近づくのをモニターしていた。
「進入角度よし、『インターセクション』に入ります!」
『スター・チェンバー』に女性の声が響いた。
すべての物理法則が無効になる特異点である『魔界』へ『掘られた』回廊で、精霊の質量は全て魔力に変換された。そして、かけられた『ウィズ・コリンバ』の魔力より何倍も増幅された精霊が、アフリカ、ルワンダの空に転送された。
疑似空間の中で、シンジをはじめ三人はそれを見ていた。
壁に、舗装されていない道が映った。何百人もの様々な格好をした人々が歩いていた。手にはサブマシンガンやライフルが握られていた。
ばばーん。暴徒は空を見上げる。雲一つない空から、わらわらとそれは降ってきた。さっきまで『スター・チェンバー』の中にいた『キャリバン』が、二○センチほどに小さくなって、何百、いや何千と空から降ってくるのだった。まるで雹(ひょう)か霰(あられ)のようだった。ミニ・キャリバンたちは、驚きのあまり声も出ない人々の持っている銃にぽとぽとと落ちた。シンジには一人一人のミニ・キャリバンが、ギザギザの歯をむき出すのを見た。なんとキャリバンたちは銃をばりばりと食い始めた。
暴徒たちはパニックになり、銃を振り回したり、空に向かって乱射し始めた。しかし、銃声はしなかった。キャリバンたちは弾丸の火薬を爆発しない物質に変質させていたのだ。
「彼らに家に帰っていただこう」『ウィズ・コリンバ』はそう言って、映像にさっと手を振った。ミニ・キャリバンは群衆の前途に集合し、合体し、溶け合って、大きなトゲのある壁になった。それは、人々を押し返すように迫っていく。
役に立たない銃で壁を殴りつけるものもいたが、無駄だった。人々は押し返されていく。

「おみごと、『ウィズ・コリンバ』」
「ありがとう。ではわたしは引き続き任務につく。では」コリンバは疑似空間から出ていった。

「あれが『キャリバン』です。感想はいかがですか?」外で待っていたスティーブが言った。
「か、変わった武器ですね」シンジは答えた。
「武器じゃない。精霊だよ。『エアリエル』と同じで個性が強いが、面白いやつだ。これから仲良くやってくれ」ブリティッシュは言った。

その頃、日本。午後六時半。
ユイとアスカはパトロール飛行任務を別の魔女と交代して、家に帰ってきた。命令が解除されるまで、毎日二十四時間態勢でパトロールを続けるのだ。
「ふう……」ユイは、玄関の前でため息をつき、家の壁にもたれかかった。ぼんやりと暗くなった坂道を見る。報道陣は一人もいなかった。世界で同時多発している紛争で、『ウィズ・イカリ』の残された家族などを取材している暇はないのだろう。
「だいじょうぶ? おばさま?」モン吉を肩に乗せたアスカは言った。二人の魔女はえらく年の離れた姉妹のようにそっくりの格好をしていた。つまり、細身のズボンに薄手の黒いセーター。二人とも昔あこがれていた『クイック・シルヴァー』の制服をまねていたのだ。
「さすがにくたくたよ。……アスカ、あなたやっぱりタフね。若いから」
「そんなことないわ。おばさまだってすごいじゃない。一○年近く飛んでなかったなんて信じられないわ」
「……シンジがね、いやがるから。あの子が三つか四つの時にね、目の前で飛んだの。そしたら、あの子、泣きながら追っかけてきて……。だから出来るだけ飛ばないようにしてきたのよ」
「シンジったら、昔から弱虫だったんだ」アスカは笑いながら言った。
「そうね、そんなに甘やかしたつもりはないんだけどねぇ」ユイはほほえんだ。
共通の理想のもとで働いているもの同士の共感がそこにあった。二人の魔女たちは、肩を並べて家の中に入った。

「なによ、この臭い?」アスカは言った。いつもの薬品の臭いに混じって、何かが焦げたような臭いがした。
「なにかしら?」ユイはショートブーツを脱いで、臭いが漂ってくる台所に行った。
その臭いは焦げたご飯の臭いだった。テーブルの真ん中に焦げ付いたご飯が大皿にてんこもりになっており、小さな平たい皿にこれまた炒り卵というよりいりすぎた卵が五人前並べてある。
そのテーブルを取り囲んで、ゲンドウとレイと『シゲル君』が既に座って待っていた。
「おかえり、ユイかあさん」レイは、きらきらする赤い瞳でユイを見上げて言った。
「ご飯作ってくれたの?」ユイは言った。
「うん。おこめたいたの、このひと。たまごやいたのわたし」レイはゲンドウを指さす。
「なぜ、ワシを『ゲンドウとうさん』と呼ばぬ」ゲンドウはむっとした表情で言った。
「だって、きらいだもん」レイはあっさりと言う。
「ふん」そう言って黙ったが、ゲンドウは内心傷ついていた。そんなにはっきり言うものではなかろう。
「なによー、これ?」アスカは遅れて台所に入ってきて素っ頓狂な声を上げた。
「これ食べろっての?」
「それを食べろと言っておるのだ。外から帰ってきたら手を洗わんか、バカモノ。そして、さっさとテーブルにつけ。ワシは腹が減って死にそうだ」
「それはこっちのセリフよ! 一日中箒に乗って空飛んでいたんだもの」アスカはめんどくさいので、流しで手を洗いながら叫ぶ。
「ワシだって一日中テレビを観るのに疲れた。さあ、飯にするぞ」ゲンドウは言った。
「はいはい」ユイも手を洗い、椅子に座った。

「口の中でサクサクいうご飯って……」アスカが言う。
「おなかが空いてたら、なんでもおいしいわ」ユイが、実に楽しそうに言う。
「そのとおりだ。おかわりはいくらでもあるぞ。そら食え」
「勝手に人のおわんに入れないでよ!」とアスカ。
「遠慮はするな。ノルマだと思え」
「ちょっとかたい……」口いっぱいほおばったまま、レイがつぶやく。

食事を終えた碇一家は、居間にそれぞれの格好でくつろいで、テレビを観ていた。七時のNHKニュースで、アフリカで『キャリバン』が使われた事が早くも報道された。
「……ついに始まったわね」アスカがつぶやいた。
「ええ、日本じゃ想像出来ないけど」ユイは言った。これは戦いなのだ。のんびりと家族でテレビを観ているけれど、わたしたちは戦いの中にいるんだわ。文明の崩壊をくい止める戦いの中に。そして、わたしの息子も、また。
「……アンブローズ・ビアスはどう思ってるんだろうな」ゲンドウはつぶやいた。
「あんなやつ信用できないわ。きっと普通の人間が自滅するの待ってるんじゃない?」アスカは言った。
「アスカ!」ユイがたしなめる。
「だって、そうじゃない。入ってくる情報は、デマに踊らされた普通の人間が普通の人間を襲ってるってやつばかり。『能動的介入命令』がなければもっと大きな戦いが世界中で起こってるわ」
「しょせん、他人はモノノケと同じ、か」ゲンドウはつぶやいた。
あの、古本屋のおやじよりあんたの方がよっぽど吸血鬼に見えるわ、アスカはソファにふんぞりかえっている大男を見ながら思った。
「……シンジ、どうしてるかな」レイはユイを見ながら心配そうに言った。
「さあ……」ユイはそう言いながら、居間の飾り書棚に置いてある世界時計を手に取った。
「『フォート・ローエル』はアリゾナだから……アスカ、アリゾナの州都って?」
「え……えーっと。――フェニックスよ」アスカは答えた。
そうだ。息子は『フェニックス(不死鳥)』の近くにいる。ユイは思った。夫の錬金術の本に描かれた絵を思い出した。不死鳥と、火で炙(あぶ)られている、自分の尾をくわえたドラゴン。そうよ、まさに世界はいま、フラスコの中のドラゴンのように、アルコールランプの火で炙(あぶ)られているわ。
「どうしたの?」レイがぼうぜんとしているユイに声をかける。
「あ、ごめんなさい。時計をフェニックスに合わせて、と。日付は今朝の……午前三時半、――たぶん寝てるんじゃないかしら」ユイは答えた。

その瞬間、アリゾナ。午前三時三〇分。
シンジは今度こそ眠っていた。
浅い浅い眠りの中で夢を見ていた。空から火花が降ってくるのだ。暗い空全体に花火が広がったように見えた。花火と違うのはいつまでたっても消えることなく、火の粉を降らし続けているという事だった。火のかけらは黒い地面に落ちて、ぱちぱちとはねて消えていく。オレンジ色の雨のようだった。
その時シンジはおかしな事に気がついた。手を振って歩いているのに、自分の手が見えないのだ。手のひらをのぞき込んだつもり。何も見えない。
視線だけが、自分の視線だけがそこにいて、その壮大な、永遠に続く花火を見ていた。彼は不安になった。なんともいえない嫌な気分がこみ上げてきた。ぼくはどこにいるんだろう。この光景を見ているのは誰だ。ぼくはどこにいるんだろう?
『わたしはどこだ?』
目がさめた。広い部屋の天井を眺めながら、わたしはどこだ? という言葉が、太陽を直視した後にまぶたに残るピンク色の残像のように心に響いていた。
わたしはどこだ。
時計を見た。午前三時三〇分。シンジはあたりを見回して、ここが自分の子供部屋ではないことに気がついた。勉強机がない。レイが、ガラス瓶の中でくるくる回っていた勉強机がなかった。
わたしはどこだ?
ぼくは広いベッドに横たわっている。静かなエアコンディショナーの音がする。手を毛布から出して、電灯にかざしてみる。血管が暗い小径のようにはしっている。
シンジは身体を起こした。なぜだかわからなかった。なぜぼくは服を着ているんだろう、と思った。ドアを開けて、通路に出た。黒い制服を着た女の人が歩いていた。
静かだった。シンジは、ゆっくりと通路を歩く。
司令室にまで歩いた。そうだ、ぼくは嫌な予感がしているんだ。そこまで来て、ようやく自分の気持ちに気がついたような感じだった。
部屋一杯に広がる世界地図の中で、相変わらず赤い光点が飛び回っていた。インターコムを付けた女性が数名、何事が指示を与えている。
魔女たちは眠らずに働いているんだ。
「まだ起きていらしたのですか? 『ウィズ・イカリ』」一人の女性職員が話しかけた。
「い、いえ、……なんだか目がさめてしまったんです。『ウィズ・ブリティッシュ』は?」
「個室で仮眠をとられています。呼びましょうか?」
「いえ、とんでもないです! ぼくの事は気にしないで、お仕事を続けてください」
「はい、『ウィズ・イカリ』」その女性はコンソールに向きなおり、モニタを見つめている。
シンジの正面は、巨大な中近東の地図だった。エジプト、サウジ、イラン、イラク、英語だったが国名くらいわかった。広い地域にぽつぽつと赤い点が点滅している。きっとアラビアンナイトの砂漠の上を、空飛ぶじゅうたんじゃなくて、箒に乗って飛んでいるんだ。
「こちらイラク支部南部偵察班、『サンド・ストーム』、イラク国軍同士の戦闘発見」『エアリエル』が重要な情報を増幅してシンジに伝えた。女性の声だった。
「こちらは『フォート・ローエル』、あなたの通信を拾い上げました。イラク支部に転送します。状況を詳しく」さっきまでシンジと話していた女性はインターコムに向かって言う。
「バグダッドから南へ五○キロの地点で戦車数十台が進軍中、国道を塞ぐようにして大破した軍用車に向かって機銃掃射を行っているようです。どちらもイラク陸軍の軍服を着ています」
「わかりました。双方に発見されぬよう、低空で離れてください」
「いえ、まだ行けます。もっと接近して状況を確認します」
「気をつけて。『レベルE遮蔽』を行いながら飛行してください。こちらから『エアリエル』を転送します」
「了解」
「『アインシュタイン・インターセクション』、指示した座標に『エアリエル』を転送」
「了解しました。『エアリエル』発射」
シンジの耳には加速器のぶうん……という低い音が聞こえた。極小で発生した電子精霊が魔界へと続く回廊にぶつかり、質量を魔力に変え、遠く離れたイラクに放り出される音なのだった。

次の瞬間、その女性職員の手前のモニタに、どこか異国風の田園地帯が映った。『エアリエル』が、『サンドストーム』というコールサインを持つ勇敢な魔女に届いて、映像を送り返して来ているのだ。
シンジは、イラクという場所から、あのABという老人の話の印象から、想像していた砂漠地帯ではない光景が映っているのに、少し驚いた。イラクといっても砂漠ばかりじゃないんだ。
確かに遠くに戦車が列をなして進んでいるのが見えた。道の脇に炎上するトラックがあり、カーキ色の袋のような物が畑に散らばっていた。高度な知性を有する『エアリエル』は、気をきかせてそのトラックのまわりの物体を拡大した。
死体だった。兵士の死体だった。全員何発も弾を撃ち込まれていた。シンジは思わす「う……」と声を上げた。人間の、それも口径の大きい銃で頭を撃たれた人間の死体を見るのは初めてだったからだ。

「『サンドストーム』! こちらは『フォート・ローエル』、座標は押さえました。ですから一刻も早くその空域から離脱してください!」オペレータもシンジと同じ思いだったのだろう。叫ぶようにその魔女に言った。
「もう少し接近してみます。おそらく目的地はバグダッドでしょうが」
「『サンドストーム』、『エアリエル』の光輝が敵に発見される可能性があります。低空で旋回して離脱して」
「もう少し」
モニタは戦車から顔を出している兵士をくっきりと捉えた。浅黒い顔にイラク人の男によくあるように口ひげを生やしていた。毛穴まで見えるようだった。
その時男は、シンジと、モニタの前の女性オペレータの顔を見た。
男の目が、まるで小さな豆電球のようにオレンジ色に輝いた。シンジは一瞬その意味に気がつかなかった。男の顔はまるで獣のように変貌していく。ライオンが威嚇するように口がかっと開かれて、巨大な犬歯が飛び出した。
「……インヴォルブド・ピープル?」シンジはつぶやいた。
「『サンドストーム』! 気づかれたわ! 遮蔽魔法に注力しつつ、全速力で離脱せよ! 早く!」
ぱぱぱぱぱぱぱ。『エアリエル』の目は一瞬にしてパンフォーカスになり、戦車隊全景を捉えた。何機かの機銃がモニタに向かって火を噴いていた。
「ジグザグに飛んで! フィールドに被弾させちゃだめ!」オペレータは悲鳴のような声を上げた。
レベルEの遮蔽魔法(第十二話参照)とは、魔法による遮蔽フィールドと衝突する、あるしきい値より速い相対速度の物体を遮蔽する。物体がフィールドに激突したときに失われる速度と質量(=慣性質量)は、魔界方程式で求められる分だけ、魔法をかけたものの負担となる。このイラクの勇敢な魔女は、おそらく初級魔女だろう。音速の倍のスピードで飛んでくる弾丸の雨を長いこと防ぐ力はない。オペレータの女性は中級魔女としてそれに気がついていたのだ。
シンジは、そんなことは知らなかったが、そのオペレータの声の様子で、状況がなんとなくわかった。たのむから無事で逃げてくれ、シンジは思わず祈った。
『エアリエル』は、冷静にこの謎の軍隊を見据えていた。戦車隊の中に数台ある、変わった戦車の砲塔がこちらを向いた。
「地上すれすれに飛びなさい! ガトリングガンが狙ってるわ!」
『エアリエル』は、急降下する魔女の姿を捉えた。黒く長い髪をなびかせた、若い魔女だった。彼女は歯を食いしばり遮蔽魔法をかけながら飛行していた。
「あの人をなんとか助けられないんですか」シンジは思わずそう言って、すぐに言わなければよかった、と思った。司令室にいる魔女のオペレータは全員中東地域のパネルを見ながら、緊張した声でほうぼうに連絡を取っているのだ。だれもが必死になっていたのだ。
「どうした?」その時司令室にブリティッシュが走って来た。マントも上着も身につけていなかった。
「マイ・ロード! 『キャリバン』を!」シンジの手前のオペレータは叫んだ。
その瞬間だった。
シンジの目には、箒と黒い布きれが、ばっと飛び散るのが見えた。真っ赤な何かが、視界の下へすとんと落ちた。箒の破片が宙を舞って、ゆっくりと落ちた。
「ああ!」隣の担当区域からモニタをのぞき込んでいた他のオペレータが悲鳴を上げた。
「『サンドストーム』! 応答されたし、『サンドストーム』!」
応答はなかった。そのかわり、歩兵輸送車からおりた兵士たちが、モニタに向かってばばばばばばと銃を掃射してきた。
「もう、撃つなー!!!」オペレーターの女性はかすれ声で叫んだ。
兵士たちは『エアリエル』と魔女の死体を撃っているのだ。ブリティッシュは思った。――まるで我々が撃たれているようだ。
「緊急事態発生! イラク全土に指令、南部に展開している魔女はすぐさま飛行を止め、徒歩で安全な場所に避難せよ。イラク北部の魔女は、速やかにバグダッドに集結、指示を待て」ブリティッシュは冷静に言った。
はい、と答えたオペレータは、震える声で連絡を済ませたあと、両手で顔を押さえた。まわりの魔女が彼女を抱きかかえるようにして、司令室から連れだし、交代した。

シンジは、それを見ていた。突っ立って、それを見ていた。

「こんな時に『ウィズ・ナギーブ』は何をやってるんだ! すぐ隣のイランにいるはずだぞ!」ブリティッシュは司令室全体に響くような声で怒鳴った。
「それが『ウィズ・ナギーブ』に連絡が取れないのです。イラン支部にも自宅へも『エアリエル』を飛ばしてみたんですが」
「なんだって!? 政府に問い合わせろ」
「はい!」

「……ぼくのせいだ……」シンジはつぶやいた。
「何か言ったか? 『ウィズ・イカリ』?」
「……ぼくのせいなんです。あのひとが撃たれたのは」
「何を言ってるんだ。『ウィザード』会議を招集するぞ。早く来なさい」
「……ぼくが、国連であんなこと言わなきゃ。……さっきだって、ぼくが『キャリバン』を使えていれば……」
ブリティッシュは、つかつかと歩み寄り、シンジの両肩に手をかけて揺さぶった。
「『ウィズ・イカリ』! 自分の殻の中で自分を責めてる暇なんて、我々にはないぞ! さっきの事で思う事があったら、いま自分が出来ることをしろ!」
ブリティッシュは、その少年の顔を見下ろした。そうだ。自分の意志で立ち直る事が出来なければ、誰にも出来ない。

「クーデター軍は二手に分かれました。バグダッドを包囲するようです」オペレータは言った。
ブリティッシュは目の前の中東の地図を見た。戦車隊はバグダッドまであと数時間の距離に迫っている。イラク全軍が『インヴォルブド・ピープル』のはずがない。イラク軍の首都防衛部隊との戦闘がもうすぐ始まるだろう。

「来たまえ、『ウィズ・イカリ』、『エアリエル』、『スター・チェンバー』を」
彼らの前に、疑似空間への扉が開かれた。ブリティッシュはシンジを引きずるようにして、その中に入った。

「『ウィズ・ナギーブ』はどうしたのだ」ローレンツは言った。彼以外の『ウィザード』はみなそろっていたのだ。
「連絡がつかないんだ。イラクでの軍のクーデターとの関連は調査中だ」ブリティッシュは答えた。
「あれはクーデターではない。『ウィズ・ブリティッシュ』、『インヴォルブド・ピープル』の組織的蜂起だ。彼らはバグダッドを包囲し、占拠するつもりだ。おそらくは、イラクに彼らの国家を建設するつもりだ。彼らの伝承では、かつてイラクにあったシュメールは、彼らの言う『第一世代』が住んでいた聖なる土地だからだ」
「……そう思うね。彼らは今回の緊張状態を利用して世界的な結束を固めるつもりなのだろう。ロシア支部が『シベリアのサンクチュアリ』への通信を傍受したところによると、全てを捨ててイラクに集結せよ、という命令を出しているらしい」ウクライナに住んでいる『ウィズ・ジャティ』は言った。
「ロシア政府の反応はどうなんだ? 『ウィズ・ジャティ』」ローレンツが言った。
「――精鋭部隊をシベリアに送っている。戦闘が起きるかもしれん」
「問題は『能動的介入命令』だ。諸君! 現在の作戦は、市民同士の衝突に対応したものだ。イラク軍のような機械化兵団には対応出来ない」
「しかし、傍観するわけにはいかない!」ブリティッシュが言った。
「だが、どうするのだ。バグダッドを防衛するのか? 遮蔽魔法で? 『キャリバン』で武器を無効化するのか? しかし『インヴォルブド・ピープル』は、おそらく素手でもバグダッドを占領出来るぞ」ローレンツは言った。
「ならば、あなたの意見は?」ブリティッシュはにらみつける。
「もはや『中立』の放棄しかない。『キャリバン』を使ってイラクの彼らの軍隊を攻撃するのだ」
「あなたは、世界を三つどもえの殲滅戦に巻き込みたいのか? 世界中の『インヴォルブド・ピープル』が黙っちゃないぞ」
「彼らは、我々の魔女を撃った! 我々が中立を表明しているのにだ! 彼らの意志ははっきりしているぞ!」
「それはイラクに住んでいる『インヴォルブド・ピープル』の一部の過激派だけの意志かもしれない!」
「そもそも、イラクの反乱軍の首謀者は誰なんだ」コリンバが言った。
「彼らの通信によると、ABという古くからの指導者らしいのだ。穏健派で知られた人物らしいのだが」ジャティは言った。

シンジは突っ立って、四人の『ウィザード』が話しているのを、黙って聞いていたが、「AB」という単語にぴくんと反応した。
就任式の前日に家に来た老人の事を思いだした。あのひとは、悪い人には見えなかった。文明を滅ぼしたくないと言った。あれはうそだったんだろうか?
脳裏には、バラバラになった箒の木片が落ちていく光景が浮かんでいた。あの赤いものは……。突然、シンジはなぜかアスカの事を連想した。アスカが、ばん、と銃で撃たれて落ちていくのが浮かんだ。アスカの顔が血でそまって……。
だめだ。そんなことは、絶対あってはいけないんだ、と思った。
シンジは考えた。必死で考えていた。

その時、『スター・チェンバー』に『エアリエル』が現れて、『ウィズ・ナギーブ』を発見しました、と言った。壁に映像が映った。どこかの広い部屋に、椅子が一つあって、『ウィズ・ナギーブ』が座っていた。
その回りをイラン兵が小銃を構えて取り囲んでいた。
「な、なんということを……『ウィズ・ナギーブ』大丈夫か?」コリンバがうめくように言った。
「めんぼくない」映像の向こうで、ナギーブが言った。兵士たちがぴくりと反応するのが見えた。
「『ウィザード』のみなさん、この精霊が来ているということは、『見えて』いるのでしょう?」視野の端から、将軍らしい人物が現れた。
「あなたがたは、自分が何をやっているのかわかっているのか!? これは我々に対する挑戦だぞ!」ローレンツが威圧的に叫ぶ。
「――挑戦するつもりはありません。あなたがたの力を持ってすれば、我らイラン全軍の兵器という兵器を無効化することが出来る。そんなことは、我々にとって自殺行為だ。わたしは、あなたがたにしばらくの猶予をいただきたいのです」
「猶予……?」ローレンツはいぶかしげに言う。
「そうです。猶予です。我々イラン軍が、イラクにいる『悪魔の子ら』を殲滅するまでの時間をいただきたい」
その場にいた『ウィザード』はみな息を呑んだ。
「彼ら『リリム』はわれわれ人類の敵です! 彼らはあと数時間でバグダッドを攻略します。我々のつかんだ戦況では、イラク正規軍は壊走を始めているらしい。バグダッドでは早くも難民と敗残兵の流入が起こっている。バグダッドを占領したあと……彼らは国家の樹立を宣言するだろう。そして世界中から『リリム』たちは先進国の資本や技術を持って集結する。中東最強、いや世界最強の国家の誕生です。その国家は我がイラン、レバノン、サウジアラビアを呑み込み、やがてはトルコを併合した大帝国に発展するでしょう。そうなるとヨーロッパとて危うい。残された世界は静かに自壊を始めるだろう。……我らイラン軍は人類の代表として、彼ら『リリム』と闘い、これを討ち滅ぼします。なんぴとたりとも、我らの『聖戦』の遂行を妨害することはできない。たとえあなたがたであっても。あなたがたが何らかの妨害を行った時、『ウィズ・ナギーブ』ならびにイラン国内の魔法使いたちの安全は保障しかねる」
「我々を恫喝(どうかつ)する気か」ローレンツはすごんだ。
「いえ、お願いしているのです」
「ま、待ってくれ、我々が調停に入る」ブリティッシュは言った。
「ブリティッシュ!」ローレンツは思わず敬称を忘れて、かつて教え子だった男を制した。
「この戦いに和平などない、『ウィズ・ブリティッシュ』」イランの将軍は言った。
「なぜならば、これは『種』と『種』の生存をかけた闘争だからだ。国家間の紛争のように、国境はここまで、という手の打ち合いなどない。彼らをたたくのは今しかない! その少年ウィザードが国連でうかつにも口を滑らせた時から、事態は転がりはじめ、もう止められないのです。世界に散らばった『悪魔の子ら』を集結させてはならない! それは人類の滅亡を意味するのです! 結束のシンボルたる国家の建設の前に、彼らの野望を打ち砕けるのは、世界でも我が国しかない! ――もうこの精霊を返してください。とにかく、あなたがたは何もせず、ただ我が軍の勝利するさまを見ていてくれればよろしい。そうすれば『ウィズ・ナギーブ』は解放します」
将軍は『エアリエル』に背を向けた。もう話す事はなにもない、といった態度だった。
「……『エアリエル』を返せ」ローレンツはそう言って、イランの映像が消えるのを見届けてから、他のウィザードたちに向き直った。
「イランの言い分にも一理ある」ローレンツは言った。
「違う、『ウィズ・ローレンツ』、一〇〇年間、ウィザードに押さえつけられてきた『国家』のルサンチマン(鬱積した怨念)が噴き出してきたんだ」ブリティッシュは言った。
「青臭いものの言い方をするな『ウィズ・ブリティッシュ』!」
「あんたの望んだ世界に近づいてきたな、『ウィズ・ローレンツ』」
「なんだと?」
かつて『魔法アカデミー』で教授と学生という立場だった二人の『ウィザード』はにらみあった。
「待て、いがみあっている時間はない。我々の態度を決めよう」コリンバがとりなすように言った。

「会議中すみません。アメリカの軍事衛星が、レバノン、サウジアラビアともに、国境に軍を集結させているのを捉えています」突然『エアリエル』が現れ、そう言って消えた。
「やはりな。『インヴォルブド・ピープル』がバグダッドを占領したとたん、なだれ込むつもりだ」ローレンツは言った。
その時、別の『エアリエル』の分身が現れ、こう告げた。
「たったいまロシア全土に戒厳令が布(し)かれました。ロシア軍が『シベリアのサンクチュアリ』を包囲しつつあります」
これにはぼうぜんと立っているように見えるシンジを除く、全員が目をむいた。
「……次は中国か? インドか?」ジャティが言った。チベットの『サンクチュアリ』の事をさしているのだった。
「もうすぐ、アメリカ大陸が朝になる。ひょっとしたら、アメリカとカナダかもしれんぞ」コリンバがつぶやいた。

その時『スター・チェンバー』の外、『フォート・ローエル』の防衛部局は、砦全体を包む結界に、大きな鳥のようなものが接近してくるのを捉えた。アリゾナは午前四時。まだ暗い砂漠の中を、それは飛んできたのだ。
レーダーを監視していた魔女は、投光器を操作し、結界の真上で静止した飛行物体を照らし出し、「あ」と小さな声を上げた。
「『インヴォルブド・ピープル』飛来! 結界の上空で羽ばたいています」彼女は連絡した。
投光器の光に照らされて、まぶしそうに顔をしかめているそれは、巨大なコウモリの形をしていた。腕がちょうどコウモリのように変形し、皮膚が羽根のように広がっていた。おまけに、その異形のものは『女』だった。長い髪を伸ばし、ぼろぼろのジーンズをはいていた。

「『インヴォルブド・ピープル』がこの砦に飛来したそうです」『エアリエル』がそう告げたとき、ウィザードの誰もが攻撃だと思った。
「いったい何人ぐらいだ?」ローレンツは『エアリエル』に向かって言った。
「いえ、一人です。それも女性のようです。彼女はそこの『ウィズ・イカリ』に会いたいと言っています」
全員の目が一斉にシンジにそそがれた。シンジは顔を上げ、「ぼくに、ですか?」と訊いた。
「そうです。『ウィズ・イカリ』に一人だけで屋上に出てきて欲しい、と繰り返し言っているそうです」電子精霊はそう答えた。

「遮蔽魔法は使えるね?」ブリティッシュはシンジに話しかけた。
「いえ、使えません」シンジは正直に答えた。
「そいつがまとも使えるのは、召喚魔法だけなのだ、『ウィズ・ブリティッシュ』」ローレンツが口を挟んだ。
「あなたは黙っていてくれ」ブリティッシュは振り返らずに言った。
「『ウィズ・イカリ』、テロの可能性もある。『エアリエル』を縮小してきみの襟のところに入れておく。もし何かあれば、ぼくがその座標を中心に、レベルBの遮蔽魔法をかける。わかったね?」
「はい」
「落ち着いて、ゆっくりと話すんだ。何か質問されてもごまかせ。いいね?」
「はい」

シンジはエレベータに乗り、砦のヘリポートになっている広い屋上に出た。夜明け前の砂漠は意外に寒かった。見上げると投光器がその羽ばたいている『インヴォルブド・ピープル』の女を照らし出していた。年齢は全くわからなかった。顔がネズミを思わせるような形に変形していたからだ。
「あかりを消して!」その女は叫んだ。
「……あかりを消してください」シンジは襟に向かってささやいた。
ぱ。あかりは消えた。満天の星が広がった。こんな時でなければ、思わず見とれてしまうような美しい星々だった。
「結界を解除します」ちいさな『エアリエル』はささやいた。
女はコウモリの羽をばたばたさせながら、ゆっくりと舞い降りた。彼のほぼ一○メートル先に着地して、ゆっくりと歩いてくる。足音がしないと思ったら、はだしだった。
「『ウィズ・イカリ』! わたしはメッセージを伝えに来ただけです! 警戒しないでください」その女はそう言いながら近づいて来た。シンジの二、三メートル先で立ち止まる。
星明かりの下で、女の大きな目だけが輝いていた。
「はじめまして、『ウィズ・イカリ』」その女は言った。
「はじめまして」シンジは答えた。
「時間がありません、要点だけ言います。イラクで起きた事は、サダムという、ABの部下が暴走してやったことです。わたしたちがみな、あんな事を望んでいるとは思わないでください! ……サダムはABを『ウルクのサンクチュアリ』で拘束して、尊敬されているABの名をかたってイラクの仲間を操っているんです。戦いは絶対避けなければなりません。あなたの力でウルクに囚(とら)われているABを救出してくれませんか? ABはすぐにバグダッドを包囲している我々の仲間の兵士を止めるでしょう」
「どうしてぼくに?」シンジは言った。
「ABはだいぶ前からバグダッドの、平和を望んでいる仲間に、そう伝えていたんです。『もしABの名をかたってサダムが反乱を起こしたら、ウィズ・イカリを頼れ』と。正直、わたしたちには意外でしたが、きっと何かお考えがあったのでしょう。包囲されたバグダッドから、それが世界を駆けめぐりアメリカに伝わりました。わたしは、フェニックスから三人の仲間たちと一緒に、それを伝えに飛んできたんです」
「他の人たちはどうしたんですか?」
「……来る途中、民間人に銃で撃たれました。それで腕をやられて飛ぶことが出来なくなったんです」
シンジは、その女性が本当の事を言ってるんだと思った。女性のはいているジーンズには細かい裂け目がいっぱい出来ていて、血がにじんでいたからだ。きっと散弾銃で撃たれたんだ、と思った。
「お願いです、『ウィズ・イカリ』。あの軍隊は毒ガス兵器を装備しています。いざとなればバグダッドに毒ガス砲弾を撃ち込むでしょう。そうなればバグダッドは壊滅し、報復が報復を呼び、世界は戦乱に包まれるでしょう」

『第二次世界大戦』だ。シンジは思った。さっきまで『ウィザード』会議に出席していたシンジは、恐ろしい戦いが迫ってくるのを実感していた。ふいに、あの若い魔女の姿が浮かんだ。映像の中で、撃たれて落ちていく魔女の姿が。そして、その顔にアスカの顔を重ねている自分に気がついた。
この女の人も、イラクで撃たれた人のように、命がけでやってきたんだ。シンジは思った。

「……わかりました。出来る限りのことをやります」シンジはそう答えた。その女はいかにも安心したようなため息をついた。
「よかった、わたしは帰ります」その女は飛び去ろうとした。
「――あの!」
「なんですか?」
「気をつけて」シンジは言った。
「はい」女は、冷たい砂漠の夜の空に舞い上がった。

「救出すると言ったって、どうするんだ? 『キャリバン』でどこまで出来る? それに、そのふがいない指導者を救出して、バグダッド包囲軍が命令をきくか?」ローレンツは言った。
「なにもしないよりはましだ。我々はとにかく時間を稼ぐんだ。その包囲軍に毒ガスを使わせてはならない」ブリティッシュは言った。
「もうすぐ、イラン空軍機が攻撃を開始する。彼らは戦況を打開するためか、自暴自棄になって、バグダッドに毒ガス砲弾を撃ち込むかもしれん。イラン空軍を妨害すれば『ウィズ・ナギーブ』は……いったいどうする?」コリンバが言った。
「バグダッド外縁に巨大な遮蔽魔法の壁を作ろう」ブリティッシュは言った。
「馬鹿な! そんなことが可能だと思ってるのか」対消滅爆発のエネルギーを『闇の王子』と協力して防いだ経験を持つ、ローレンツが言った。
「バグダッドにそんな強力な魔力を持つ者はいない!」
「我々『ウィザード』が全員でやれば出来る」
「あんな遠隔地に遮蔽魔法を張るのか? そんなことが……」
「出来る。理論的には可能だ。バグダッドの支部の者に魔法をかけてもらって、我々が『アインシュタイン・インターセクション』経由で魔力を補強するんだ」
「なるほど! その手があったか」ジャティはうなずいた。
「ではそのABとやらを救出するのは誰がやるんだ。最も難しい任務だぞ」ある意味ではその者に世界の命運がかかっているのだ。ローレンツは思った。

「あの……ぼくがやります」シンジはおずおずと言った。その場にいた全員が彼を見た。

「お前がか! 『ウィズ・イカリ』、召喚魔法しかろくに使えないお前がやると言うのか」ローレンツはシンジをにらみ付けた。
「あの、……でも、ぼくがやります。あの女の人はぼくに頼みに来たんです。ぼくがやります……やらせてください」
ブリティッシュは、シンジを見つめていた。じつに不思議な感覚にとらわれていたのだ。彼は若干ながら、予知能力を持っていた。その彼に、奇妙なヴィジョンが浮かんでいたのだ。鳥と蛇と、そして抱き合う男女が見えた。それは予知夢ですらなく、たんなる妄想だったかもしれない。しかし、いまこの少年に、その任務を与えないのは不自然な感じがしたのだ。
「うん……『ウィズ・イカリ』、たのんだぞ」ブリティッシュはそう言って、少年の細い肩にぽんと手を置いた。

かくて、作戦は開始された。
バグダッド支部の魔女と魔法使いは、既にパニック状態に陥りつつある市街地から、市の外縁部までやっとこさたどり着いて、遮蔽魔法を張った。
四人の大人のウィザードたちは、『アインシュタイン・インターセクション』の加速器の入り口、つまり通常は『エアリエル』や『キャリバン』が侵入していく場所に作られた『スター・チェンバー』にいた。その外ではウィリアム・ゲイツが腕を組んで立っていた。
シンジは司令室の中の『スター・チェンバー』の中に一人で立っていた。外では技術主任のスティーブ・ウォズニアックが熊のように歩き回っていた。
「バグダッド市境南一〇キロの地点でイラン空軍が爆撃を始めました!」
「戦車隊は応戦しています」

「……はじめるぞ。まず物理作用のない魔力を思い浮かべよう」ブリティッシュは言った。
疑似空間の中で、四人の『ウィザード』が軽く目を閉じた。物理作用のないニュートラルな魔法、つまり魔力そのもの。それぞれの、頭の中のイメージは、さまざまだった。たとえば、ローレンツは銀色の球体であり、ジャティは円盤だった。そしてブリティッシュとコリンバは細い線で描かれた真円だった。
疑似空間の壁面には狙いを定めやすいように、加速器の一端が映し出されていた。それは一キロもの長さに伸び、膨大な電力で維持されている『時空回廊』に続いているのだ。
「……よし、まずぼくがやってみる」ブリティッシュは自分の魔力を射出した。加速器の中で、その魔力の塊は一瞬だけ物理的実体となって加速された。それは一個の陽子だった。それは光速まで加速され、与えられた座標に転送された。その座標とは、バグダッドを扇型に守る遮蔽フィールドだった。その陽子はそこで消失し、魔力となった。
イラクの魔法使いたちは一様に驚きの声を上げた。確かに遮蔽魔法が補強されているのを感じたのである。
「バグダッドより連絡。成功です!」『エアリエル』が帰ってきた。
「よし、いけるぞ」

一方、シンジは醜い電子精霊と話をしていた。
「お若いマスター、あんた雨の日は好きですかい?」『キャリバン』はそう言った。
シンジは真剣に考えた。「彼と話しするときは正直が一番です」スティーブという『キャリバン』を作った人は、シンジに口早に使い方を説明しているとき、そう言っていった。
「あ、あんまり好きじゃないんだ。……でも運動会が中止になった日はうれしかったな。だから好きな時もあるよ」
「ふうん……そんなもんかねえ」
「時間がないんだ、そろそろ頼むよ」
「あわてなさんな、オイラ仕事はちゃんとやるってば……オイラに魔法をかけてくれマスター」
「うん……いくよ」シンジは、しかめっ面をして、手を振り上げた。
何も起きなかった。
「マスター、精神を集中して。オイラに魔力を乗せる感じでかけるんだ。ほれ、もう一度」精霊は言った。
「うん……」シンジは、精神を集中させる。目の前の電子精霊に、魔力を乗せるんだ。彼はまた手を振り上げる。
いけえ!
「……あんた、器用なほうじゃないね? マスター?」相変わらず電子精霊はシンジの前に立っていた。
「うん、よく言われる」シンジは答えた。
「集中しろってのがいけないのかもしれねえ。――じゃ、好きなようにかけてみれ」

シンジは『キャリバン』に向かった。頭の中にウルク遺跡の写真を思い浮かべる。とにかく行くところは『キャリバン』は正確に知ってるんだから、ぼくは思いっきり「行け」と魔法をかければいいんだ。
ところが頭の中に、いろんなものが去来して、なかなか集中できないのだ。就任式の前の夜に来たABって人。その人がしゅるしゅると指を伸ばしたこと。屋上でコウモリみたいに変身した女の人。
機関銃でずたずたにされた箒の柄。
撃たれた魔女。……ぼくのせいだ。あの人が死んだのはぼくのせいだ。
……アスカ。きみはあんな危険な事をしていたんだ。ぼくのせいできみも撃たれたら。
――そんなことはさせない。
いけえ! そう思うと、シンジは矢も立てもたまらず、魔法をかけた。それも思いっきり。

どどーん。
「な、なんだ?」加速器がぶるぶると震えているように見えたので、ブリティッシュは言った。

「過負荷です。大きすぎる『キャリバン』が加速器を通過しました」
「え、遮蔽魔法に影響は?」スティーブがオペレータに訊いた。
「大丈夫です。保護回路が作動したのは一瞬でした。現在は異常なし」
「とにかく『ウィズ・イカリ』にゃ文句を言わねば」天才肌の技術主任は『スター・チェンバー』への入り口である、宙に浮かんだ薄っぺらなドアをノックした。
「中にはだれもいませんぜ」中性的な顔をした電子精霊は答えた。
「何を言ってる? 『ウィズ・イカリ』だよ。さっき入って行ったところじゃないか」
「だからいないって言ってるんです。『ウィズ・イカリ』は『キャリバン』と一緒に消えてしまったんですよ!」
「は?」

シンジは一瞬目がくらんで何も見えなくなった。太陽が矢のように目をいて、まぶたの中にピンク色の丸い残像を作った。空は真っ白に見えた。
わたしはどこだ。夢の中の声が響いた。わたしはどこだ。
あたりを見渡す。地平線が見える。陽炎(かげろう)で地面が燃えているようだった。燃えている世界の真ん中に立っているような気がした。
ぼくはいったいどうなってるんだろう?
その時、陽がかげった。大きなものが太陽を遮ったのだ。シンジはひゃっと言ってとびのこうとして、砂の上に尻餅をついた。
怪物が立っていた。赤銅色の肌。山のように盛り上がった筋肉。童話に出てくるオーク鬼のような顔。そしてなにより特徴的なのは、その怪物が光沢のある、銀と青紫の甲冑(かっちゅう)をつけている事だった。
シンジが声を上げたので、怪物は顔を横に向け、シンジを見下ろした。黄色い丸い目が小さな太陽のように輝いた。
「……あんた、なんでここにいるんだ? マスター?」その怪物はそう言った。

「『キャリバン』実体化! 身長約五メートル、体重約六トン」
「な、何を言ってるんだ」スティーブはオペレータに詰め寄った。
「ですから、『キャリバン』が実体になりました。場所は座標どおりです。ワルカ(ウルク遺跡のある現在の地名)中心部から約二キロ南西の砂漠地帯」
「『ウィズ・イカリ』は!?」
「は?」
「あの少年のウィザードが一緒に飛んでいってないか?」ウォズニアックは言った。『瞬間移動先』が、もし物体の存在するところ、たとえば地中ならば、理論的にありえないこと、同時に同じ場所に違うものが二つ重なって存在する事になる。原子核と電子の軌道までは、大変な距離がある。その軌道内には、何もない。すなわち、原子はがらんどうである。が、しかし核同士が一瞬重なったとき、満員電車以上に混んだ原子内部から、核力によって、ごちんごちんとはじき出される量子はみな光子に変化するだろう。
簡単に言えば、『ウィズ・イカリ』は運が悪いと、爆発して光になってしまうのだ。

「いえ、固有魔法振動波は検出できません」
「今は魔法を使っていないんだ……そうだ! あの子の肩にとまってる通訳用の『エアリエル』をコールしてくれ」
「はい」
コンソールに砂漠が映った。思った通りだった。
「『ウィズ・イカリ』! 応答してください!」ウォズニアックはモニタに向かって叫んだ。
「は、はい?」あの少年のおどおどした声。やっぱりだ。
「なぜ、イラクに飛んで行ったんですか?」
「わかりません、あの。魔法をかける瞬間に、ここの事を考えたら……」
やはりそうだ。勢いで瞬間移動魔法をかけてしまったのだ。すごい魔力だ。すごいが、まるでブレーキの壊れたダンプカーみたいなものかもしれない。
「なぜすぐに連絡しなかったんです? 『ウィズ・イカリ』! 心配しましたよ」
少年のウィザードは、間をおいて、バツの悪そうな声で言った。
「……すみません。『瞬間移動魔法』って禁止されてるから……」
校則を破って怒られている中学生のように、この『ウィザード』は答えた。

日本、午前八時過ぎ。
碇家で一番早起きのユイは、パトロールの交代をするために服を着て、箒を持っていた。テレビはつけていなかった。なんとなく観たくないのだ。いやでも他の魔女から悪化の一途(いっと)をたどる情勢を聞くことができるだろう。
その時夫のゲンドウがのそのそと起きてきて、パンツ一丁でソファに座り、テレビをつけた。
『――ただいま、番組の予定を変更して、イラクで起きた「インヴォルブド・ピープル」の武装蜂起のニュースをお伝えしています』
「え?」ユイはテレビの前に走ってきた。
アスカもまた洗面所から走ってくる。
『武装集団はおもにイラク陸軍の兵士によって構成されており、現在首都バグダッドの近郊で、飛来したイラン空軍機と激しい戦闘が行われている模様です』
「イラン? なんでイランなのよ」アスカは言った。
「おそらく、予期していたのだ。すぐ隣だからな」ゲンドウが答えた。
『注目される世界魔法管理機構ですが、「現在事実関係の確認を行っている」という発表を繰り返しております。しかし情報筋によると、イラン南部で、能動的介入命令によるパトロール飛行中の魔女が、この武装集団の攻撃を受け死亡した模様で、イラク南部では事実上、魔法管理機構の作戦行動は中断されているとのことです』
「……そんな、信じられない」アスカが言った。
「あり得る事だわ。でも、命令は解除されてはいない。アスカ。わたしたちは出発しましょう」ユイはきっぱりと言った。
「はい」そう答えて、アスカは今更ながら、碇ユイという女性の強さに感嘆するのだった。
「あなた、行って来るわ」ユイは座っている夫を見下ろして言った。
ゲンドウは眼鏡をかけていないギョロ目で、長年連れ添った妻を見上げた。
ほんの一秒ほどの時が流れた。
「ああ。……晩御飯のおかずは何がいい?」彼は言った。
ユイは、おかしそうに笑い、「レイちゃんの出来るものでいいわ。……あと、お願いね」と言って、アスカと一緒に出ていった。
残されたゲンドウは、ぼんやりとテレビを観ていた。出会った時から、あいつはショートカットだったなあ、と思っていた。この件が片づいたら、一緒に旅行でも行こう、と思った。

シンジは、マンガに出てくる怪人のように実体化した『キャリバン』の背中甲冑(かっちゅう)の隙間に潜り込んでいた。
「オイラ、こんな姿は嫌いだ」『キャリバン』は文句を言いながら砂漠をどすどすと走る。
「ごめん」シンジは言った。アニメでやってるような、巨大ロボットを操縦するのとはだいぶ違うと思った。
「どうせこんな姿になったオイラだ。それらしく一気に暴れてやりまさあ」
「あの、けがさしちゃだめだよ」
「んなもん、保証できねえよ。行きますぜ、お若いマスター、頭引っ込めて、あんたを狙って弾が飛んできますよ」
『キャリバン』は地平線にウルク遺跡の柱廊神殿が見えるが早いか、ジャンプした。下から撃たれるのは承知だった。前哨(ぜんしょう)を飛び越え、敵の後方におりて攪乱(かくらん)する作戦だった。
地上で、機関砲と携帯用地対空ミサイルで武装していた兵士たちは、空から巨人が降ってくるのに気がついた。あわてて、手にしたライフルで応戦する。
ばばばばば。シンジは弾丸が甲冑に当たりカンカンと跳ね返る音を聞いた。
がん。『キャリバン』は機関砲の上に着地し、砲身をひん曲げた。兵士が水平に銃を構え直す暇も与えず、彼は兵士を太い腕でなぎ倒した。十数人の兵士が怪物に組み付いたが、『キャリバン』は簡単にはじき飛ばす。
「変身しろ、カシム!」兵士の一人が叫んだ。
『キャリバン』は神殿の中から、一人の男が出てくるのを見た。痩せた普通のイラク人に見えた。
「はっ」その男は空手のように気合いを入れた。
男の身体に変化が起きた。上半身の筋肉という筋肉が風船のように膨れ上がったのだ。それは男の着ていた軍服をばりばりと引き裂いた。それとともに皮膚の色は灰色になり、顔はまるで筋肉質の、『フランケンシュタインの怪物』のようになった。
ばーん。変身しきった男は威嚇するように両腕で胸をたたいた。
「オイラと力比べかね、『ハルク(大男という意味がある)』?」『キャリバン』は言った。

一方同じ、イラク、バグダッド郊外。戦車隊は爆撃によって破壊された車両を道からどける作業を行っていた。
「いそげ、第二波が来る前にバグダッドを制圧するぞ!」指揮官らしき男が叫んでいた。興奮のあまり変身を始めていた。つまり巨大な犬歯がほおを突き破って外に突き出ていたのだ。
「先遣隊から報告! バグダッド市内へ至る道路という道路に透明な壁が張られています!」翼人兵士が飛んできて、報告した。
「魔法使いどもめ! くだらん抵抗をしおって! 同じ悪魔に生み出されたくせに、我々の邪魔をしようと言うのか!」指揮官らしき男は、戦車から飛び降り、天井にパラボラアンテナがついた車両に飛び乗った。
「偉大なる指導者『アンブローズ・ビアス』の名において人類に命令する。お前たち人類よりも早く生まれた我々『リリム』の正当な行為を妨害するものは断固して排除する! 直ちに理不尽な抵抗を止めよ! ことに混乱に乗じてイラクに侵略を開始したイラン、ならびに日和見主義者・世界魔法管理機構に告ぐ! イランよ、我々への卑劣な爆撃を止めよ! 魔法使いどもよ、バグダッドに張った魔法の壁を撤去せよ! ――一時間以内にこの命令に従わぬ時は、バグダッド近郊の村落への『サリン砲弾』による無差別砲撃を開始する!」
「中尉!」
「かまわん、我々はここに立ち往生するわけにはいかない! バグダッドを落とし、我々の国家を建設しないと世界中で虐殺が始まるだろう! 何台か手分けして近隣の村へ進軍しろ」
「は、はい」
「――世界に散らばった我ら『リリム』の同朋に告げる。あなた方が所属する国、民族はかりそめのものだ! 我々は人類よりも古い『リリム』の旗の下、一つになるべきだ! 町を越え、国境を越えイラクに集結せよ! そこにとどまる事は死を意味するぞ! やがて、あなたの国の軍隊に、あなたは殺されるだろう。集結せよ、われら永遠の旅人、『悪魔の子ら』よ。……闇よ、つどえ!」

日本。午前一〇時一〇分。
冬月の店は開店休業状態だった。彼は店の奥の小部屋で、ぼうぜんとテレビを見つめていた。
わたしは、こんな事は望んでいない、冬月は思った。我々が勝者になってどうなるのだ。文明を石器時代に戻すのか? 廃墟の中で我々は何をするんだ?
その時店の戸が開いて、伊吹マヤが入ってきた。
「ここに来てはいけない。この店はもううわさになってるぞ」
「そんなことはかまいません。テレビを観ましたか?」
「ああ、早くも何人かがイラクへ向けて出発するとも聞いたよ」
「え?」
「電話がかかってきた。あなたはどうするのか、と」冬月は言った。
「どうするんですか?」
「わたしはここに残る、と答えた。わたしはこの店を決して離れない」
「そうですか……」
「わたしのことなら心配するな! 自分の事を心配しなさい。あの若者とよく話しあうんだ。不安だろうが、お互いの気持ちを確かめあうんだ。……もう出て行きなさい。ひょっとしたらトラブルに巻き込まれるかもしれない」
「……え?」
「今朝、シャッターの前に焼けこげた跡があった。夜中に火をつけようとしたのかもしれない」
「……!」
「だが、そんなことはどうでもいいんだ。わたしは店の外に引きずり出されて殺されるまで、古本屋『文月堂』の店主でいたい。はやく行きなさい! わたしにかまってどうするんだ? わたしは、沈没する船の船長よろしく、ちっぽけな古本屋という自分の夢に、気持ちよく殉じたいんだ。わたしに罪悪感を覚えさせないでくれ! 出て行け!」
「……」
「出て行け!」冬月は叫んだ。
若く優しいその女性は、何度も振り返りながら店を出ていった。
「すまない……」冬月は心の中で、マヤに謝った。

「『サリン砲弾』! 彼らはイラクを壊滅させる気か?」コリンバはうめいた。
「猶予は一時間しかないぞ。バグダッドの遮蔽魔法を止めるのか?」ジャティは言う。
「……中立を放棄するのだ。これ以上中立を続けていたら、やがて普通人は我々に牙をむくだろう。ウィザード全員の魔力で、あの軍隊を地上から抹殺するのだ」ローレンツは言った。
「……それは世界大戦への道だ。我々が中立を放棄した場合、追いつめられた『インヴォルブド・ピープル』は世界で蜂起を始めるかもしれない。……第二第三のイラクが出現し始めるだろう。そうなれば『世界大戦』だ」ブリティッシュは言った。
「議論をしている暇はないぞ! 決断あるのみだ」ローレンツは言った。
「待ってくれ、『ウィズ・イカリ』のAB救出作戦の正否を待つんだ。……スティーブ、『ウィズ・イカリ』はどこだ」
「その、それが」『スター・チェンバー』の中の太った技術者はひどく困惑していた。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
「『ウィズ・イカリ』もイラクに飛んで行ってしまったんです。すぐに報告しようと思ったんですが、こちらの作戦の邪魔になってはいけないと思いまして」
「なんだって?」

ばしん! 変身した兵士と実体化した『キャリバン』の拳がぶつかった。次の瞬間、鈍い音がして、兵士の腕がねじ曲がった。腕の骨が折れたのだ。『キャリバン』はすかさず間合いをつめ、その男の顎にアッパーカットを見舞った。
男は吹き飛んで、石の円柱をなぎ倒した。
「オイラにかなうやつはいねえ」『キャリバン』は兵士たちが皆倒れているのを確認し、彼らが守っていた階段をだんだんだんと降りた。
ばばばばば、二人の兵士が下からマシンガンを乱射してきた。『キャリバン』は平然とその二人をはり倒した。
目の前に鉄製の扉があった。『キャリバン』は扉に手を添えると、むん、と押した。
重い音を立てて、扉が倒れた。
ばーん。その途端、爆発が起きた。扉のところに手榴弾が仕掛けられていたのだ。『キャリバン』は爆風を包み込むように手を広げた。
「オイラにこんなもんはきかねえ」彼は言った。
「……うん」シンジは『キャリバン』の背中で吐きそうだった。揺れる、なんてもんじゃない。巨大ロボットのパイロットは平衡感覚がどうかしてるんだ。

それは巨大な地下神殿だった。目の前に裸で抱き合う男女の神像があり、数名の男が銃を構えて、一斉に撃ち始めた。『キャリバン』は驚くほど身軽に彼らに向かってジャンプして、兵士たちを投げ飛ばした。シンジの耳にごき、ぼきっという骨が砕ける音がした。彼は思わず目を閉じた。
「けがさせちゃだめだ!」彼はうめくように言う。
「そんな、すっとぼけたこと言ってる場合じゃあんめえ?」『キャリバン』は言った。
「――魔法使いの手下め!」神殿の奥に座っている、口ひげをたくわえた男が言った。
「あんた、えらいさんみたいだな? ABって人はどこだ?」
「負けてたまるか」その男は変身を始めた。満月の晩ではないのに、狼男になっていく。
「人の質問には答えねえと、だめだぞ」『キャリバン』は言った。
狼男は答えず、『キャリバン』に殴りかかってきた。実体を持ってしまった精霊は、相手のストレートをひょい、とかわし、パンチをたたき込む。狙ったのは腹だが、胸にあたった。ごん、と鈍い音がして、狼男は吹き飛んだ。
『キャリバン』は鉄の扉を立てかけて、大きなテーブルでバリケードをこしらえた。
「よし、マスター、出て、この横穴を探すんだ。オイラの身体じゃ入れない」
「うん」シンジはしゃがんだ『キャリバン』から降りて、よろよろと歩き始めた。
「あんた、なにやってんだ?」
「え?」
「横穴やら部屋やらいっぱいありそうだぞ! なんで『エアリエル』を使わねえんだ?」
「あ、そうか……『エアリエル』、ABを探してくれ」
電子精霊はシンジの手のひらの上でいくつもの光に分裂した。そして迷宮のような神殿の中を飛び回った。
「発見しました。マスター」ほとんど一分もたたないうちに『エアリエル』は帰って来て報告した。
「連れていってくれ」シンジは言った。

ABは、遺跡の中の、小部屋の一つに閉じこめられていた。なんと身体をカーボン樹脂で固められていた。鼻のところに空気孔が開いていた。
「そっとね」シンジは言った。
「わかってますよ、マスター」『キャリバン』は答えた。

アンブローズ・ビアスはごほごほとせき込みながら、目の前にあの少年が立っているのに気がついた。
「大丈夫ですか、ビアスさん?」シンジは言った。
「……ごほ、ごほ、大丈夫だ。わたしを捕まえるにはひもで縛るぐらいじゃ駄目だから、サダムめ、こんな事をしやがった……。ありがとう、『ウィズ・イカリ』。わざわざ来てくれた事に感謝するよ。けれど、どうやって?」
「電子精霊を使おうとしたら、なぜだかわからないけど、一緒に飛んできてしまったんです」
「『瞬間移動魔法』か……。そんな魔法を使えるとは……。君はいったい……? そうだ。サダムはどこだ?」

巨大な男女の石像の下で、サダムと呼ばれた男は口から血を吐きながら、倒れていた。ABは、その変身が解けてきた男の顔をのぞきこむ。
「サダム……、お前は、とうとうやってしまったのか……」
聞き慣れた老人の声に、気を失っていた男は目をかすかに開けた。
「……AB、……おれは、おれは、あんたに……」男はようやくそうしゃべったが、しまいにはごぼごぼと血を吐いた。
「わかってる。……サダム。ものを言うな。折れた肋骨(ろっこつ)が肺に刺さってるんだ。用事を済ませたら、昔のように、わたしが手当てしてやろう。……お前が初めてここに運ばれて来た時みたいに……」ABは、まるで幼い子供を寝かしつけるように、男の頭をなでた。男は安堵(あんど)の表情を浮かべ、目を閉じた。
ABはゆっくりと立ち上がった。そして、シンジを見下ろして言った。
「君がここへ瞬間移動したのは、偶然の一致ではない。もはや、偶然とは思えない。さあ、一緒にバグダッドに行こう」
「バグダッドにですか?」シンジは見上げて言った。
「そうだ。サダムの部下の暴走を止めるんだ。一緒に来てくれるね?」
「……は、はい」
「『ウィズ・イカリ』! いったい何がどうなってるんだ!」目の前に『エアリエル』が現れて、『ウィズ・ブリティッシュ』の声で言った。
「ABを救出しました。ぼくはバグダッドへ向かいます」
「なんだって? 勝手な行動を取るな! 『スター・チェンバー』に入って来い。我々の指示に従うんだ」今度はローレンツの声が聞こえた。
空間に浮かび上がった扉に入ろうとしたシンジをABが制した。
「わたしは君自身の意志で、一緒に来て欲しいんだ。責任はわたしが取る」
シンジは迷った。しかし、目の前の老人の目に浮かんだ確信が、シンジを決断させた。
「あ、あのすみません。ぼくはABさんと一緒にバグダッドに行きます」
「な、なにをするつもりだ!?」ローレンツの叫び声が聞こえた。

シンジには何をしていいのか、さっぱりわからなかった。『スター・チェンバー』の中で聞いた話は難しかったが、世界が八方ふさがりの状態になっている事は理解していた。ひとつ間違うと、大きな戦争が起きるということもわかっていた。しかし、ようやくこの少年にも、自分が何かに導かれているのではないか、という気がしてきたのだ。それが何かはわからなかったが、今思えるのは、とにかくバグダッドに向かって行かなければならない、という思いだけだった。

「『ウィズ・イカリ』がイラク北部へ向かって高速で移動しています」一人司令室に戻ったブリティッシュは、モニタの光景に目を見張った。
まるでオーク鬼のような姿に実体化した『キャリバン』に三人の人間がおんぶされていた。一人はイカリ、一人はABと思われる老人、もう一人は青白い肌をした女だった。ABは、腕をぐにゃりと伸ばして、二人を支えていた。そうだ、腕がショックアブゾーバーになっているのだと気がついたのはしばらくたってからだった。そうしなければあとの二人が保たないのだろう。なにせスーパー『キャリバン』は時速一五〇キロ以上のスピードで、どすどすと走っているのだから。
しかし、間に合うかどうかは疑問だった。バグダッド包囲軍が示した時刻まであと数分もないのだった。数分たてば、イラク近郊の村に猛毒物質サリンが詰められた砲弾が撃ち込まれるのだ。
おそらくあの女性は電波を自在に操れるに違いない。移動する『キャリバン』から強烈な電波が発信されているのだ。『わたしはABだ。バグダッドの包囲を止め武装解除せよ』という電文を繰り返し発信している。
そうだ。これは『インヴォルブド・ピープル』内のクーデターだったのだ。しかし首謀者を倒してABが復権しても、バグダッド包囲軍も、ましてイランも、国境を今にも越えそうなレバノンもサウジアラビアも納得しないだろう。
「『ウィズ・イカリ』聞こえるか? あと数分でバグダッドに張った遮蔽魔法を解除し、バグダッド市内の魔女と魔法使いは一斉に支部へと後退する。だがイラン空軍が戦車隊に迫っている。バグダッド近郊で化学兵器が使われるかもしれない」ブリティッシュは言った。
「ぼ、ぼくが止めます。座標を教えてください」
「座標は教えるが無理はするな」
「……もうだれも」シンジが言う。
「なんだ?」
「もうだれも死んではいけないんだ」

その時間がやってきた。シンジは目を閉じた。何か確信があったわけではなかった。ただ心の声に従ったのだ。心の中に、空から降ってくる火花の夢がでん、と居座っていた。なんだろう、これは、なんだろう?

「国境から連絡、イラン空軍が再び領空を侵犯しました!」
バグダッドの障壁は取り除かれていた。しかしイランは従わなかったのだ。どのみち何人死んでも非難されるのは我々であって、彼らはあくまで正義の軍隊なのだ。その男は言った。
「よし! サリン砲弾を撃ち込め」
「は、はい」通信兵は別働隊に連絡した。

バグダッド近郊の農村を見下ろせる丘陵地帯に三台の戦車が停まっていた。砲塔を巡らし、砲身を高く上げた。
「発射」戦車長が言った。
「発射」吸血症候群の砲兵は復唱した。

「『アインシュタイン・インターセクション』に『キャリバン』突入!」
「え? 誰が使ったんだ?」ブリティッシュは叫んだ。
「わかりません。非常に大きな魔力です。いまバグダッド上空で実体化しました!」

どーん。一〇五ミリ砲が火を噴いた途端、空から何かが降ってきた。バン。実体化した別の『キャリバン』が砲弾を受け止めた。回転する砲弾はその実体化した精霊の手のひらできゅるきゅると回って止まった。サリン砲弾は、通常の信管ではなく時限信管であった。サリンの気化ガスの効果を高めるため、上空で爆発するようにセットされているのだ。『キャリバン』は、その煙を上げる砲弾を、なんと呑み込んだ。
ばむ。その怪物が着地したと同時に、腹の中で砲弾が爆発した。
「……」怪物はむっつりした顔で戦車をにらんでいる。
「そんな馬鹿な!」戦車長は叫んだ。
だん。もう一匹の怪物が砲塔の上に着地し、砲身をめりめりとひんまげた。

日は傾き、歴史あるバグダッドの瀟洒(しょうしゃ)な町並みは、オレンジ色に染まっていた。その中を先遣隊はたいした抵抗も受けず、バグダッドの一番大きな通りを進んでいた。
その時、彼らの前を実体化した『キャリバン』が夕日に甲冑をきかめかせながら降り立った。

バグダッドを目前にした本隊にも『キャリバン』たちは襲いかかっていた。
いかに『インヴォルブド・ピープル』が特殊能力を持っていたとしても、生命ではない『キャリバン』の敵ではなかった。戦車は全て一瞬にして破壊しつくされた。彼らは素手で抵抗を試みていたが、怪物たちは彼らを殴り、締め上げ、まとめてくくりつけていた。
「馬鹿な! 世界中の同朋が黙ってはいないぞ!」怪物に押さえつけられた包囲軍の指揮官は叫んだ。

そのとおりだった。
「シベリアで戦闘が始まりました! ロシア軍は武装ヘリで『サンクチュアリ』周辺の村落を焼き払っている模様です」
「インド軍がチベットに侵入、中国軍と『サンクチュアリ』を挟撃している模様。数百人の『インヴォルブド・ピープル』が籠城しているとの情報があります」
「アメリカ国防総省が非公式に魔法管理機構に介入しないよう、警告してきました」
オペレータは口々に報告していた。イラクだけではない。まったくイラクだけの問題ではなくなっていた。世界がふつふつと沸騰を始めたのだ。ブリティッシュは天を仰いだ。『ウィズ・イカリ』、君がバグダッド包囲軍を戦闘不能にしても、何にもならないんだ。悪夢は今始まったところなんだ。
「中立を放棄しよう! 『ウィズ・ブリティッシュ』! あの少年がやったことは事実上中立の放棄だ。我々はむしろ各国政府に協力し――」
ローレンツががなりたてていた。ブリティッシュはそれを無視して、モニタに見入っていた。予感がするのだ。なにか、そわそわするような感じがした。
何かが、またもやあの少年を中心にして、何かが起きようとしているんだ。

シンジたちは、戦車の残骸と大勢の負傷者が砂の上でうめいている、バグダッド郊外の荒れ地にやってきた。砂漠地帯ではなかったが、わずかばかりの灌木(かんぼく)の生える、さびしい場所だった。
イラン空軍の爆撃による穴ぼこがいたるところにあった。ほんの目の前にバグダッドがあるなんて信じられなかった。
あとで召喚した『キャリバン』たちが夕日を背に立ち並んでいた。まるで神話に出てくる巨人たちのようだった。
「……ぼくが、これだけの破壊をやったんだ」見渡す限りのスクラップと化した戦車と、殴られ、縛られている兵士たちを見ながら、シンジは思った。

シンジとABとタランテラは乗ってきた『キャリバン』から降りた。その姿を見た兵士たちが口々に「AB、AB」とつぶやいた。
「時間がない。そこでやろう」ABは、潰された戦車を指さした。
「何をするんですか? シンジは言った。
「演技だ。君がいわば悪役の、芝居をするんだ。君の肩のその精霊は映像を君たちの砦に送れるんだろう? わたしと君、『インヴォルブド・ピープル』代表のわたしと、魔法界代表の君が、共同宣言をするんだ。それを『フォート・ローエル』から世界各国に送ってもらう。――これは最後の賭だ」
「……え? ええ?」
「腹をくくれ、シンジくん。早くしないと世界中で犠牲者が増えていくぞ」
二人は、戦車の砲塔の上に並んで立った。
『キャリバン』に縛られた『インヴォルブド・ピープル』の兵士たちが見上げていた。
ABは、ポケットから紙を取り出して、鋼鉄の砲台を下敷きにして何事か書きつけた。
「こんなのでどうかな?」ABは言った。
シンジはその達者な日本語の筆致で書かれた文章を読み、あ、と声を上げた。
「これを読むんですか!?」
「だめか? ……わたしは君しか戦いを止める事は出来ないと思う」
「……でも……」
老人は、少年の目を見つめた。そして、ゆっくりと、こう言った。
「……少年よ。……荒野に独り立つことを恐れるな」

シンジの脳裏には、河原の公園で妻子を殺された事を語る古本屋の店主や、ボロボロになったジーンズをはいて飛んでいる女性や、頭を蹴られている無抵抗の人や、ゆっくりと舞い落ちる、箒のかけらが浮かんでいた。
彼は唇をかんだ。
「……はい」シンジは答えた。

「わたしは世界の『サンクチュアリ』の中でも最古の『ウルクのサンクチュアリ』のAB、アンブローズ・ビアスだ。世界の我が同朋に告げる。蜂起してはならない。武器を取り、あるいは持てる能力を使って、普通の人間を攻撃してはならない。かりに攻撃されたとしてもだ。イラクに集結してはならない。我々は中東の一部地域の神話に過ぎぬ『リリム』ではないのだ! 従って、何千年も住んできたイラク人を追いだして、国を建てる歴史的必然などどこにもない! また我々以外の人々に告げる。――我々は人間だ。――まぎれもない人間だ。ただ意図を理解しがたい悪魔の彗星によって、偶然にも遺伝子を変化させられてしまった被害者なのだ。どうか我々に理解と寛容を。わたしは、我々の存在を明るみに出してくれた『ウィズ・イカリ』とともに共同でこの声明を出す」
『エアリエル』は砲塔の上でしゃべり続けるABの姿を記録していた。
「……『ウィズ・イカリ』、あなたの番だ」
「ぼくは『ウィザード』、イカリ・シンジだ。世界で戦闘中の軍隊、武装した民間人に告げる。いますぐ戦闘をやめよ。この戦いは世界を崩壊させるだろう。二十四時間以内にこの要求が実現されぬ場合、……」
シンジは、いいよどんだ。ABのメモの続きは「ぼくは地球をも破壊しうる魔力を行使する事を検討する」だったのだが、頭に、ある文章が浮かんだのだ。ABが見つめていた。シンジは、自分で続きを作り替えた。
「ぼくは、ただちに――地球の自転を止める! ぼくにはその力がある。いますぐ戦いをやめるんだ!」
ABは息を呑んだ。この少年なら出来るかもしれない、と思ったのだ。

「な、なんて事を言うんだ!」ブリティッシュはモニタの中の少年を見つめて言った。そして少年の顔に変化が起きているのに気がついた。少なくとも国連でおどおどしていた少年とは別人になったみたいだった。しかし、これを全世界に流せというのか?

「……よく言ったよ、『ウィズ・イカリ』」ABは言った。
「イラン空軍機が接近してますわ、AB」タランテラが空を見ながら言った。彼女の『レーダー』に引っかかったのだ。
「よし、魔法管理機構がおじけづかないうちに、君の精霊を逆流させてみなさい。世界の誰もが聞こえるように」
シンジは砲塔の上に立って、『エアリエル』を宙に放った。精神を集中する。『フォート・ローエル』へ。そして世界じゅうへ。
魔法を使えるものがそばにいたら、まるで台風のような強烈な魔法風を感じていただろう。
少年の上空にある精霊に変化が起きていた。青白い精霊は、緑色に輝き始めたのだ。シンジの頭の中で、『フォート・ローエル』がはっきりした形を取った。
「いけ!」シンジは言った。
精霊は光の矢のように天に昇った。

イラクからはるかに離れたアリゾナの要塞が、ほんの少し揺れた。いや、全員が魔女と魔法使いで構成されている職員は、揺れたように感じた。かつてないほどの巨大な精霊が加速器を通過して、『魔界』と『物理世界』との交点である『アインシュタイン・インターセクション』の時空回廊に激突したのだ。
『エアリエル』を制御している部局のモニタが真っ白になった。あまりにも大きな仮想質量が膨大な魔力に置換されたのだ。彼らは、すぐに要塞に警報を流した。
「な、なにが起きたんだ!?」スティーブ・ウォズニアックは叫んだ。足下がぐらっと揺れたように感じたのだ。
「とんでもなくでかい質量が魔力に置き換わったんだ! いまのは、若干の漏れが重力波異常を起こしたに違いない」ウィリアム・ゲイツが言った。
「なんの質量なんだ?」ブリティッシュが訊いた。
「『エアリエル』です。それも月ほどもある仮想質量を持っている『エアリエル』が時空回廊にぶつかってどこかへ飛んでいきました」
「なんだって?」イカリだ。あの少年しか、こんな事は出来ない。ブリティッシュは思った。

イラクの赤い空、実に何億倍もの増幅を受けた『エアリエル』が帰ってきた。それは大気に当たって、太陽光線のスペクトルを分解した。つまり、地上から見れば、ぐにゃぐにゃした虹の塊が空にうねっているように見えたのだ。
「おお……」ABは思わず声を上げた。
その付近に倒れていた兵士たちも同様に声を上げた。
その異様な光はバグダッド市内からも見えた。パニックを起こしていた市民たちは、空を指さしあるものは祈り、あるものは地面にしゃがみこんだ。
イラン空軍機からもそれは見えた。飛行機から見るとそれはのたうつ蛇に見えた。
「――蛇!」そのパイロットはつぶやいた。しかしすぐに気を取り直し、友軍機に連絡した。
「バグダッド上空に異変発生! なんらかの魔法現象の可能性がある。急速旋回し、引き返す」

シンジは空を見上げた。あれが『エアリエル』?
シンジは続いて、その虹色の空の蛇に魔法をかけた。
「世界に伝えてくれ、『エアリエル』」
彼がそうつぶやくと、巨大な『エアリエル』は、ぱっと花火のように散った。おびただしい線がバグダッドの夕暮れの空を中心に、地平線の彼方に広がった。

「なんてこった……」ウィリアムは、『エアリエル』の軌跡を示すディスプレイを見ながら、つぶやいた。世界が網の目のような精霊の軌跡に覆われてしまったのだ。まるでマスクメロンのように。

世界中のありとあらゆるテレビ・ラジオ電波を、精霊はジャックした。軍用無線、警察無線にも、なんとケーブルテレビのケーブル網にまで侵入した。そして、ABとシンジの声明を、丁寧にも各国語の字幕付きで放送しはじめたのだ。ほんの数分もたたずに、『フォート・ローエル』に各国の政府、報道機関から電話が殺到した。
彼らの用件は簡単に言うと、『あの少年は、本当に地球の自転を止める事が出来るのか? あの少年は本気か?』の二点だった。
シンジ抜きで緊急の『ウィザード』会議が開かれ、世界魔法管理機構の公式見解は、「どちらもイエス」ということになった。

アスカはパトロール飛行の最中に、それを聞き、危うく木に激突しそうになるほどたまげた。アイツが、『地球の自転を止める』なんて、気の利いた脅し文句をどこから思いついたのか、明白だったからだ。
「なんてこと言うのよ! ……ばか」
アスカは毒づいたが、すぐにそれが残された唯一の道かもしれない、と思った。シンジが悪者になって世界を脅迫するのが。……まるで世界征服をたくらむマッドサインティストか、UFOに乗ってきた宇宙人のように、「言うことをきけ、さもないと地球の自転を止めるぞ」と。
しかし、なんという男の子だろう! 反物質竜を召喚し地球を壊しかけたかと思うと、『ウィザード』になって口を滑らせ紛争を巻き起こし、しまいには、世界を恫喝(どうかつ)したのだ。
「日本に帰ってきたら、とっちめてやる」アスカはつぶやいた。……でも、シンジは、――帰って来られるんだろうか?

ユイは、雲の上で、はるか南の空を見た。もちろんイラクの空が見えるわけではない。が、イラクから飛んできたであろう精霊の虹色の軌跡が、まるで空を切り分けるように何本も伸びてきていた。
あの線の交わるところに、息子がいるんだ、と思った。
「シンジ……」
自分がいま感じている感情は、いったいなんだろう。不安でも、誇らしさでも、ましてや怒りでもなかった。
それは、強いて名前を付ければ、寂しさだった。そうだ。わたしは寂しさを感じている。ユイは顔を空の一点に向けたまま、ゆっくり旋回を始めた。

賭けの結果が出るのは、数時間もかからなかった。ロシア軍はシベリアから撤退を始めた。中国、インドも同様だった。暴動が起きていた地域もあったが、すぐに鎮圧された。各国ではより徹底するために夜間外出禁止令が出された。
『世界魔法管理機構』は、シンジとABの賭の勝ちが見えてきた頃、それをより確固たるものにするための運動を始めた。非公式ルートを通じて、この少年が記録した途方もない魔力値を公表し始めたのだ。そのデータによると理論的には、シンジは残りの五人の『ウィザード』の魔力を合わせたものより、さらに倍の魔力を持っている事になる。
『ウィズ・イカリ』は、やろうと思えば、地球の自転を止めるどころか、逆回りに同じ速度で回転させることが出来る。それも一瞬で。その時、地表がどんなことになるか、物理学の知識が無くとも、想像力があれば容易に思い浮かべる事が出来るだろう。真っ先に思い浮かべたのは各国首脳だった。次に思い浮かべたのは、ごく普通の市民だった。
怪物のような『インヴォルブド・ピープル』と自転を止めうる『ウィザード』。
彼らは、官邸や、街角や、公園や、パブや、寝室で、自分たちが今、想像を絶する時代の始まりにいることを確認しあうのだった。

バグダッドの南約二〇キロにある寒村。午後八時。
その丘は、村を見渡せるはずれにあった。涼しい夜風の中で、数百ものたいまつの光がゆらゆらと揺れていた。
たいまつはみな、黒い服の上から黒い頭巾のついたマントを羽織った女性たちが掲げ持っているのだった。その女性たちは列をなして、星々の天幕に覆われた丘のてっぺんに向かって歩いているのだった。
丘の頂上には丸太を井げたに組み合わせたものが置いてあった。その木の上に、大きな黒い布の塊が置いてあった。女性たちはそれを取り囲むように大きな輪になった。
一人の若い女性が、輪から進み出て、何事か低い声でつぶやく。すると全員の女性がそれを復唱するのだった。
彼女たちは、めいめい木に火を放った。火はその布の塊を包み込み、めらめらと燃え上がった。
彼女たちは、キャンプファイヤーをしているのではなかった。死んだ仲間を荼毘(だび)にふしているのだ。
輪の外に、二人の人物が立っていた。その二人の背後には何十人もの軍服を着た男たちが控えていた。護衛といいつつ監視しているのだ。
「……あの人の魂はどこへ行くんでしょうか、AB?」少年が言った。
「……魂は不滅ではない。『ウィズ・イカリ』。肉体が滅べば消えるのだ。転生や天国は、人間が、死者への思いやりと、商売のために作った創作物だ。彼女たちもそれをよく知っている。だから祈るのではなく、お別れだけを言っているのだ」老人が言った。
「……まだ、若い人でした」
「死ぬことに、早いも遅いもない。人間は、死ねば、死ぬ。――そして、灰しか残らない」老人は言った。
「じゃ、何のために、あの人は生きてきたんです? ……機関銃でずたずたにされるためですか!」
「大きな声を出すんじゃない。……なぜ、きみは『何のために』と問う? 無惨な死に方をした人には、生きる意味がなかったと言いたいのか?」
「……そんなつもりじゃありません。うまく、いえないです……ぼくには、わかりません」
「じつは、わたしにもわからない。……すまない。きみを困らせるつもりはなかった。……ただ、確信を持って言えることは、……朝、早く目がさめて、朝露にぬれた花壇の中を歩くのは気持ちがいいという事、夕方、陽が沈みかけた遊歩道をそぞろ歩くのは気分がいいという事だけだ。馬鹿みたいだが、それだけなんだ。生きるということに関して、わたしが言える事は、……それだけなんだよ」
その時、魔女たちの葬送の輪から、一人の中年女性がシンジに近づいてきた。
平凡なイラク人の女性に見えた。
「『ウィザード』さま、わざわざ来てくださって感謝します」女はおじぎをした。
シンジもあわてておじぎをする。
「支部の人から、あなたが娘の最期をごらんになったと聞きました。……あの。……娘は、どんな最期だったのでしょう?」
その女は死んだ魔女の母親らしい。畏れと不安な表情で、シンジの顔を見つめていた。
シンジは途方に暮れた。助けを求めるようにABを見た。老人は、黙ったまま、天に向かって燃え上がる炎を見ていた。
少年は考えた。考え抜いた。そしてようやく、こう言った。
「……娘さんは……立派でした」
中年の魔女の顔が、ぱっと明るくなった。彼女は目にたまった涙をハンカチで拭きながら、ほほえんだ。
「ああ……よかった……。立派でしたか……。立派な最期でしたか……『ウィザード』さまに褒めていただけるなんて……ありがとうございました」
女は何度もおじぎをして、輪の中に戻った。
シンジは、丘の上で凍りついていた。体中の感覚が無くなってしまったようだった。かじかんだ手や足の感覚を取り戻すために、丘のまわりを叫びながら走り回りたい気持ちになった。

老人は、なにも言わず、少年の肩に手を乗せて、ぽん、とたたいた。
「さて……お別れだ。『ウィズ・イカリ』……きみとこうやって、ここに来られてよかった」
「……これから、どうするんですか? AB?」
「……わたしは、裁きをうける。今回の紛争はわたしの責任だ」
「なぜです!? あなたはちっとも悪くない!」
「いや、わたしの責任だ。わたしはサダムを押さえ込むべきだった。もっと早くね。ところが、わたしはイラク国籍を持っていないし、アメリカでは死んだ事になっている。おそらく、オランダにある国際軍事法廷で裁かれる事になるだろう」
「あなたが悪いんだったら、ぼくはもっと悪いです!」
「そうではない。きみは正しい事を言ったんだ。人間の心を持つものは人間だ。きみの言うとおりだ。間違っていたのは世界の方なんだ。一〇〇年間の間違いを、きみが正そうとしてるんだ。今この時も、ね」

二人は歩いて丘をおりた。背後で何百人もの魔女が、たいまつを高く差し上げた。
車の前で、二人は別れた。別々の車に乗るようにと言われたのだ。
「『ウィズ・イカリ』、きみと出会えてよかったよ」老人は言った。
「ぼくもです、AB」少年は言った。
老人は少年の正面に立ち、ゆっくりと言った。
「『ウィズ・イカリ』、年寄りの繰り言だと思って聞いてくれ。……『人間は、真の自分の像とはズレれた像を自分の中に抱いている』、わたしは一〇〇年前にそう書いた。今でもその考えは変わっていない。詐欺師が聖者の像を抱き、人殺しが英雄の像を抱き、善をなすつもりで本性の通りの事を行う。……きみは、これからいろんな壁にぶち当たるだろう。……そんなとき、真の自分はどこなのか、自分がいったい何が出来て何が出来ないのか、そもそも自分とはなんなのか、見つめなおしてほしいのだ。……道はそこから開けるだろう。……さらばだ、若き『ウィザード』」
老人は手をあげて、別れの挨拶をした。
「はい。……お元気で」少年は言った。

老人は車に乗り込んだ。中に青白い肌の女性が待っていた。
「……なぜ身を隠さなかった?」ABはタランテラに言った。
「わたしは、あなたについて行きます。……たとえ地獄の底へでも」
「地獄なんてものは、この宇宙に存在せんよ」ABがそう答えるのと同時に、車は走り出した。
もう二度とあの少年と会うことはないだろう、老人は確信していた。
ふりあげた矛をおさめるためには、生贄(いけにえ)が必要なのだ。
わたしは、危険過ぎる存在なのだ。むしろ地球を破壊出来るあの少年よりも。
わたしは、ある種の人間にとっては、自分の自我と同じ重みを持つ『国家』という枠組みを、容易に崩壊させうる象徴になったのだ。地球の自転を止めるという彼らの乏しい想像力を超えた可能性よりも、国家や政治体制の崩壊の方が、真実味があるというものだ。
いま興味があるのは、わたしを裁判にかける勇気が、彼らにあるか、ということだ。わたしに死刑を宣告する勇気が。
わたしはオランダへ向かう途中『不慮の事故』に遭うかもしれない、老人は思った。『病死』という線もあり得る。とにかくタランテラを逃がさなければならない。が、チャンスはいくらでもあるだろう。
老人は元来楽天的な人物であった。自分の死によって、さらに安定を増した遠い未来が見えるような気がした。人間はこの事態を克服できるだろう。異教徒よりも恐ろしい我々との共存という事態を。なぜなら、あの少年が保証してくれたように、人間の心を持つものは人間なのだから。

シンジはバグダッドの魔法管理機構支部で眠り、翌朝、軍用機でヨーロッパに旅立った。夜を徹してヨーロッパから迎えに飛んできた、『クイック・シルヴァー』の魔女たち数十人が護衛のために軍用機の回りを取り囲んで飛んだ。
彼は、給油のためにドイツに立ち寄り、何とも言えない渋い表情をした『ウィズ・ローレンツ』と会い、また、すぐさまアメリカへと飛んだ。
フェニックスでヘリに乗り換えてアリゾナの『フォート・ローエル』へ着いた時には、シンジはへとへとになっていた。彼は「ぼくは、なんて距離を瞬間移動したんだろう」と思った。

こうして、世界を震撼(しんかん)させた三日間は終わった。

だが、嵐は吹きやむどころか、ますます激しさをましていた。いや、戦争の事ではなく、マスコミの事である。
『ウィザード、シンジ・イカリ』の評価は、おおしけの中の小舟のようにもまれていた。『毀誉褒貶(きよほうへん)』などという生やさしいものではなかった。それは世界の言論界の大嵐だった。
シンジとABが行った『共同声明』の翌朝の新聞は、『ウィザード』のこの恐るべき恫喝(どうかつ)について、ほとんど全ての面をさいて報道した。
このころ、一躍有名になった見出しの文句が『ニューヨークタイムス』の「A day world stood still」(世界が静止した日)であった。内容は地球の自転が突然止められた時に起きる災厄を、アスカの説明よりも具体的な数字を挙げて検証していた。そして社説において、『ウィズ・イカリ』は、自分の失言で世界を破滅に導きかけ、それの尻拭いをするために恐怖をふりまいたと断定した。
フランスの『フィガロ』、ドイツの『シュピーゲル』も同様であった。
雑誌において舌鋒(ぜっぽう)鋭く『ウィズ・イカリ』を非難したのは、『ニューズウィーク』誌であった。その雑誌は緊急特集を行い、シンジを世界に破壊と緊張と混乱をもたらした張本人と決めつけた。表紙からして、国連演説をするシンジの大きなアップ写真の下に、太く赤いフォントで『WARZARD?』と書かれているというものだった(注)。『今やこの年端もいかぬ少年に世界の命運は握られているのだ。かれの魔法は世界の上で細い糸で揺れているダモクレスの剣なのである』うんぬん。
(注:WAR=戦争とWIZARDをかけたゴロ合わせ)
また、十四歳の少年を、自分たちの保身のために『ウィザード』に任命したとして、『世界魔法管理機構』を非難したのは『ロンドン・タイムス』であった。

しかし一週間が経過した頃、『能動的介入命令』を解除した後、奇妙な沈黙を保っていた『世界魔法管理機構』が猛然と反論を開始した。『ウィズ・イカリ』の弁護を始めたのである。実はその間、『ウィザード』の間でも、そしてその下の組織の中でも意見がまっぷたつに分かれていたのだが、『ウィズ・ブリティッシュ』がまさに身体を張ってシンジの弁護に回り、反対派を説き伏せたのだ。『ウィズ・イカリ』を孤立させるとロクな事をやりかねない、というオトナの判断ももちろんあったろうが、とにかく魔法界はシンジを支持した。
まず、彼らは「イラク紛争」(一部で例の戦いを「リリム戦役」と呼ぶ向きがあったが、誤解を招きやすいということで否定された)は、シンジが国連で口を滑らさなくても、遠からず高い確率で起きたと指摘した。
彼らは長年の戦略シミュレーションの改訂版を作成し、マスコミに公表した。それによると五年以内にそれは起き、当然の事ながらバグダッドは陥落し、イラク国軍内の『インヴォルブド・ピープル』は国家の樹立を宣言する。イランはやはりバグダッドを攻撃する。数百万人単位の難民はレバノン、サウジ、イランに押し寄せるが、混乱と恐怖の中、虐殺事件が多発する。同時に世界各地の『サンクチュアリ』での紛争はやはり起きる。
「もしウィズ・イカリがいなければ、あるいは彼がこのように非難されることを承知で戦いを止めさせなければ、現在でも世界は戦乱の最中にあり、それはさらに拡大の一途(いつと)をたどっていただろう」
この暗うつなシナリオと、あるジャーナリストがスクープしたアメリカ国防総省の極秘シナリオとがぴったりと一致したことは、『魔法管理機構』に有利に働いた。その内容とは、『インヴォルブド・ピープル』との全面的な戦闘が起きた場合の民間人を含む死傷者は、全世界で十五億人にのぼる、というもので、アメリカ政府はその戦闘の発生時期を『五年以内』と見ていたというものである。
これは全世界に報道され、大変な衝撃を与えた。一〇〇年間、平和を享受していた人類は、実は、薄氷の上を歩いていたことになるのだ。

しかし、雑誌『TIME』がこれに反論した。いや、シンジを非難する方ではなく、そのシナリオは楽天的過ぎると反論したのだ。要約すればこうである。
「戦闘は拡大し続け、おそらくは五大陸全部に波及するだろう。問題なのは、この戦争の場合、通常の戦争と違い、休戦ないし終戦の『条件』が見いだせないということである。かつて我が国に住んでいた、AB、『アンブローズ・ビアス』はその著書『悪魔の辞典』の中の『大砲(Cannon)』という項目を『国境を改訂するために用いられる道具』という皮肉で定義したが、『インヴォルブド・ピープル』と我々の間には国境が存在しないのだ。引き直すべき国境なき戦争の終了条件は、敵の殲滅しかありえない。『インヴォルブド・ピープル』が勝利すれば、廃墟に彼ら二億人だけが残るだろう。一方、我々の勝利は確認可能だろうか? 『特殊能力』を使わなければ見分けのつかない『インヴォルブド・ピープル』を殲滅したという確証は得られるのか? 考えられる最悪のシナリオは、我々は『勝利の確証』が得られるまで、すなわち、地球上に人類最後の一人が生き残るまで殺し合う、というものである」

この雑誌の論調が一つのターニングポイントになった。各マスコミがシンジの評価をいったん棚上げして『インヴォルブド・ピープル』そのものについて報道し始めたのである。
彼らは実際のところ普通の人間とどう違うのか、見分け方があるのか、イラク紛争を起こしたのは、彼らの総意か、特殊能力にはどんなものがあるのか、報道する事はいくらでもあった。
明らかになったことで、一躍有名になったのは、一〇〇年にわたる『吸血症候群』との戦いであった。これを治療するために多くの医師が命を落とした事、公に出来ないなか研究を続け、完成度の高い抑制血清を作った日本の『カツラギ博士』の業績などが報道された。
『被害者』、『寛容』という言葉を使ったABの声明の効果が、じわじわと現れてきたのかもしれない。『インヴォルブド・ピープル』に対する論調が目に見えて変化してきたのもこのころである。
普通の人間に対して意地悪な見方をすれば、こうかもしれない。
彼らとの戦いが無益なのは明白であり、彼らとは共存しなければならない。となれば、魔法界のように明らかに優位にあるものではなく、被害者として彼らを捉えた方がいい。

動機はさておき、世界は変わり始めていた。

八月に入って、世界各地で、「わたしは『インヴォルブド・ピープル』である」と名乗り出る人が続々と現れ始めた。彼らは拍手をもって迎えられた。そこまで情勢は変化していたのだ。
各国政府が『インヴォルブド・ピープル』の公式な調査に乗りだし、吸血症候群、狼男症候群にたいして医療機関のバックアップを行うと明言しだしたのも、このころである。
さらに劇的な変化が起きたのは、若者からであった。アメリカのある有名なハードロックグループが、なんとコンサートの最中に「おれたちは狼男だ」と告白し、変身までしてみせたのだ。意外というべきか、会場を埋め尽くした若者たちは熱狂でこれを迎えた。後にそのリーダーがMTVのインタビューに答えて語ったところによると、「月夜の晩に変身してほえると、素晴らしい曲のインスピレーションが湧いてくるんだ」そうである。
これを契機に、実に不思議な事に、若者の間で『狼男』がはやった。狼の尻尾のおもちゃをジーンズのお尻につけて歩く若者を見て、年寄りたちは眉をひそめた。

碇シンジが公衆の面前に姿を現したのはこのころだった。ようやく身の安全が確保出来るようになったというべきか。
彼の評価は一八○度転換していた。将来起こり得た普通の人間と『インヴォルブド・ピープル』との全面的衝突を最小限にくいとめた、偉大なる『スーパー・ウィザード』というのが、大多数のマスコミの評価であった。
バグダッドを目前にして行った彼の声明は、『ウィズ・アインシュタイン』が行った『世界大戦』を終結させた『ドォーモン宣言』にちなんで、『第二のドォーモン宣言』と呼ばれるようになった。

そんなとき、ホワイトウォーター合衆国大統領は、表敬訪問と称して『フォート・ローエル』を訪れ、シンジと要塞の屋上のヘリポートで握手したがった。大統領選が来年に迫っていたからだった。
「いったい、何が起きたんでしょうか?」シンジは『ウィズ・ブリティッシュ』に言った。
「ま、こんなものさ」『ウィズ・ブリティッシュ』は笑って答えた。

シンジが日本に帰る日は唐突にやってきた。日本政府からの強い要請、というのが理由だった。「要塞にいるよりも確実に『ウィズ・イカリ』の身の安全は保障できます」。アメリカを訪れて『フォート・ローエル』にやってきた日本の外務大臣はそう言って胸を張った。
たしかにシンジが『砦』にとどまる理由はなくなった。極東地域の『ウィザード』に任命されたからには、極東地域にいなければならない。シンジは日本に帰る事になった。
すぐに帰ってくるよ、とレイに答えて家の玄関を出てから、実に二ヶ月が経過していた。

「……寂しがってるよ。彼女」ブリティッシュは、宙に浮く丸い球体を指さして言った。イラクから帰ってきてしばらくして、紹介されたホムンクルスのミランダが、その球体の中にいるのだった。
レイを思い出すな。シンジはいつもそう思った。
「さよなら、ミランダ。また来るよ」シンジはやさしく言った。
「あの、『ウィズ・イカリ』」ウォズニアックが声をかける。
「なんでしょうか?」
「日本へ着いて、もしお時間がとれたら、これをですね、あなたの町の、そのアカギ・リツコって人に渡して欲しいんですが」ひげ面の大男は、まるで中学生のようにもじもじしながら言った。小さな包みであった。
「は、はい。渡せばいいんですね」シンジは言った。
「そうです」
「――たく、あんたもしつこいな……。お元気で『ウィズ』」ウィリアム・ゲイツが手を差し出す。シンジは握手した。

シンジは『ウィズ・ブリティッシュ』の方を向いた。
「いろいろありがとうございました、『ウィズ・ブリティッシュ』」シンジはそう言って頭を下げた。
「いいんだよ、ぼくの方こそ、きみのおかげでいろいろ勉強になった。ほんとうだよ。――ぼくは……、いや、よそう。ぼくは、きみに手紙を書いた。飛行機の中でも、汽車の中でもいい。一人になれる時にこれを読んでくれないか? 決して他の人に読まれてはいけない」
そう言って、彼はシンジに分厚い封筒を手渡した。
「なんですか?」
「――内容は言えない。読んでみて、きみ自身の言葉で考えてみてくれないか? ……それを書くのに徹夜してしまったよ。元気でな、『ウィズ・イカリ』。ぼくたちは、いつでも『スター・チェンバー』で会える。困った事があったら、いや特に困ってなくても、遠慮なく相談してくれ」
「はい」

シンジは、報道陣と、この『スーパー・ウィザード』を一目見ようと集まった群衆でごった返す空港で、まるで壁のように彼を取り囲むSPの中心にいた。
もうすぐ日本に、あの家に帰れるんだ。シンジは、一家全員の顔を順々に思い浮かべた。なつかしいような、照れくさいような感じがした。
その時、奇妙な事が起こった。彼の右隣にいた屈強なSPの男の人が、耳を押さえてうずくまったのだ。他のSPたちは、背広の胸に手を入れて、シンジを守るように、パッと位置を変えた。
「――大丈夫ですか?」シンジはその人に声をかけた。
「ええ、大丈夫です。すみません、『ウィズ・イカリ』」
「どうした?」
「いえ、これの調子が悪くて」その人は耳にはめているイヤホンを指さした。
シンジは、ほっとして、顔を上げた。
おびただしい群衆の人垣の一〇メートル程向こうに、サングラスをかけた女が立っていた。白いというより、青白い肌。髪をひっつめて後ろに垂らしている若い女だった。
女は、シンジに向かって、軽く手を振った。
シンジは思わず振り返した。
「……タランテラ?」そう思った時には、女は消えていた。

AB、『アンブローズ・ビアス』の訃報を聞いたのは、飛行機の中だった。
そろそろ『ウィズ・ブリティッシュ』の手紙を読もうと、ブリーフケースの中をごそごそやっていたときに、目の前のでかいテレビスクリーンに映っていたCNNでやっていたのだ。
「……え?」シンジは、思わず大きなシートに座りこんでしまった。
二ヶ月もアメリカで暮らしていれば、ニュースの英語くらい、なんとかわかるようになっていた。ABは今朝、オランダの病院で心臓の病気で急死したのだ。
シンジは、そのニュースが終わると、座り込んで目を閉じた。
しばらくして、立ち上がり、窓の外を眺めた。
窓の下には太平洋が広がっていた。まるで、泡のような雲が、ぽつんぽつんと浮かんでいた。あの雲は、死んだ人の魂だったりして、と思った。
でも、あの人は、魂は不滅ではないと言った。
……一五〇年以上も生きてきたんだ、いつかは死ぬんだ。シンジは思った。どんな人でも。ただ、いつそれが訪れるか、誰にもわからないんだ。
あのイラクの小さな丘の夜を、思いだした。
『なぜ、きみは「なんのために」と問う?』
老人の言葉が頭の中に響いた。
けれど、AB。……ぼくは問わずにはいられないんです、AB。なんのために? ぼくたちは、なんのために生きているんでしょうか?

シンジは夢も見ずに眠った。
飛行機の中で目を覚ますと、SPの人がもうすぐ日本です、と言った。口の中に残る食べ物の味のように、頭の中に「わたしはどこだ」という言葉が残っていた。すると、また夢を見たんだ。たぶん、おぼえていないだけだろう。
東京国際空港に着いて、シンジはそのまま首相官邸に引っぱっていかれた。
やっぱり、沿道で大勢の人が旗を振っているのだった。
シンジは、総理大臣と会った。
「お目にかかれて光栄です、『ウィズ・イカリ』」総理大臣は、おおげさな身振りでシンジと握手した。もちろんカメラ目線は忘れなかった。

「……あのひと、頭ピカピカしてる」レイはテレビを観ながら、そう言った。シンジと握手しているひと、まるで頭が鏡で出来ているみたい。
「あんな事やってないで、早く家に帰ってくればいいのに」レイはふくれっ面で文句を言う。
「そうね」ユイはおかしそうに笑った。まるで実の親子のようによく似ている二人は、夏の暑い午後、一緒に庭で水をまいた後、居間の床の上にぺたりと座って麦茶を飲んでいるのだった。
麦茶の入った盆の脇に、小学六年生の教科書が置いてあった。レイは本当に呑み込みがはやい。すぐに、シンジに追いつけるだろう。もう修士課程を修了している天才少女アスカに追いつくのは、無理かもしれないけれど。
ユイは、レイを高校に行かせようと思っていた。レイはあまり興味が無いようだが、大勢の中で生活させなければ、とユイは思っていた。
シンジがアメリカにいる間、碇家には穏やかな日々が戻ってきていた。
シンジの評価が両極端に行ったり来たりしている間も、日本政府とマスコミは、優柔不断ぶりを発揮し、曖昧な態度に終始した。弁護するわけでもなく非難するわけでもなかった。まるで腫れ物に触るような扱いをしていたのだ。一時、黒山の人だかりといった風にいた碇家の前の報道陣は、さーっとどこかへ行ってしまった。
魔女の資格を回復したユイの元に、外国の魔女から、通算何メガバイトもの電子メールが届いた。文面はだいたい同じ。
「わたしは『ウィズ・イカリ』を支持します。どうか頑張ってください。――ところで、なぜ日本政府は、この『ウィズ・アインシュタイン』以来、もっとも偉大な『ウィザード』を弁護しないんですか?」
ユイは返事を書く。「ありがとうございます。おそらく、幸運にも天秤(てんびん)が息子に有利に傾き、揺れ返さない事がはっきりしたとき、熱烈に弁護を開始するのではないでしょうか? わたしは、日本という美しい国を愛していますが、政治家やマスコミ人全部まで愛しているわけではありません」

ユイの予言のとおりになった。
日本はいまや国を挙げてシンジを持ち上げているのだった。
「実は、『ウィズ・イカリ』、あなたの『ノーベル平和賞』の件は日本政府として強力にプッシュしておりますから。どうかご安心を」総理は会見の席で、そうささやくのだった。
「は?」シンジはなんのことだか、さっぱりわからない。
「『ノーベル平和賞』です。『ウィザード』で受賞したのは『ウィズ・アインシュタイン』だけです。私たちは、ぜひあなたに受賞していただきたい。ですから現在せっとロビー活動をやっておりますので――」
「は、はあ……」
別れ際にも、総理はシンジの手を両手で握り、こう言うのだった。
「とにかく、『国民栄誉賞』は確定したものと思ってください!」

ユイとレイは、テレビ中継が終わると、勉強を始めた。ところが、レイはシンジの姿を見て、おまけにもうすぐそこまで帰って来ている事に興奮して、なかなか集中出来ないのだった。
「ほら! レイちゃん、またよそ見してる。そこ字間違っているわよ」ユイは言った。
レイは黙って消しゴムで今さっき書いた字を消す。夏の前に縫ってやった黄色いサマードレスからのぞく背中が、とてもかわいらしかった。しかし、甘やかすわけにはいかない。「超法規的措置」なんかで高校に入学しても、本人のためにはならないのだ。
高校はもちろんシンジと同じく、市内で一番近い公立高校へ行かそうと思っていた。シンジも帰ってきたら勉強させなくちゃ。『スーパー・ウィザード高校受験失敗!』なんてスポーツ新聞の見出しになりそうだ。
「ほら……もう一度」
「やだ」レイはすねた。
「レイちゃん!」
「もう……やだ」
「レイちゃん、勉強しなきゃ……。ね。高校行けないわよ」
「……学校なんか行かない!」
「どうして……? あなたは外に出て、いろんな人に会って、いろんな事を勉強しなきゃだめ。……ね。わかるでしょ?」
「いろんな人に会わなくてもいいもの。あたしシンジと結婚するもの。アスカに聞いたもん。十六になったら結婚できるんでしょ? だから学校なんか行かなくてもいいもの」
「……!」ユイは思わず言葉に詰まった。犬猿の仲なのに、いったいどうやってそんなことを訊いたのだろう、と思った。
「だから、勉強しない」
「シンジがそう思うかどうか、わからないわよ」ユイはそう言ってから、しまった、と思った。
「思わせるもん。いっぱい、キスして、いっぱいエッチなことして。……そんなことすればいいんでしょ?」
子供を育てるには、怒っていなくても、怒ったふりをしなければならないときがある。少なくともユイはそう思っていた。その時、ユイは目の前の赤い瞳で得意げに自分をにらみかえす少女が、いじらしく、いとおしくてならなかった。しかし、彼女は手を振り上げて、その少女のほおを、ぱん、とたたいた。
レイはきょとんとした目で、ユイを見つめていた。全然痛くはなかったが、いつも優しいユイかあさんが怒ったのを初めて見て、びっくりしたのだ。
「なにを言ってるの、レイ! そんなんで結婚なんてしちゃだめよ!」
レイは下唇をかんだ。大きな目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれだした。
「わーっ」
レイは、ユイにしがみついた。泣きじゃくりながら言った。
「……ユイかあさん! ……ユイかあさんだって、アスカとシンジが結婚してほしいって思ってるんでしょ!」
「……そんなこと、ないわよ」
「そんなことあるもの! アスカは頭がいいし、魔女だし、ちょっとだけかわいいときもないことはないし! ……それにテレビでアスカとシンジが結婚するって言ってたもの」
最近の芸能ニュースの夏枯れは、皇室の話題か、碇家のシンジの『いいなずけ』、『アスカさん』の話題で決まりなのである。ユイは、やれやれと思った。なんで誰も彼も、ほんの中学生の子供同士を結婚させたがるのだ? 自分の中学生の頃を思い出してみればいいのだ。クラスメートと今すぐ一生暮らしたいなんて、普通考えるだろうか?
「……レイ、聞きなさい……」
「やだ」
「聞きなさい!」ユイはレイの両肩に手を添えて、顔をのぞき込む。涙にぬれてくしゃくしゃになっている。
「……あなたは、生まれたばかり……、そうでしょ? あなたは、もっといろんな事を知らなければならないわ」
ユイは、言葉を区切って、芝居がかった調子でこう言った。
「――『この美しい人たちのいる、素晴らしい新世界!』のことを」
「……???」
「シェイクスピアという昔の人が書いた『あらし』というお芝居の中のセリフよ。その中のミランダという、魔法使いプロスペローの娘が、ちょうどあなたを思わせるの。寂しい離れ小島で、外の世界を知らずに育ったの。そんな娘が最初に外の世界の人々を見て言ったセリフよ。……レイちゃん。あなたはもっと本を読んで、いろんな人に会って、いろんな事を学ばなければだめ。つらいことや、むごい事や、理不尽な事があるけど、世界は、素晴らしい場所なんだから……、高校へ行きなさい。そこで学んでみて、行きたければ大学にだって行かせてあげる! ……その上で、もし、お互いが望むなら、どうか、息子の花嫁になってちょうだい」
「……ユイかあさん!」レイはユイに抱きついた。
ユイは、レイの短い髪をなでてやった。少女は震えていた。胸元に押しつけられた少女の顔から暖かみが流れ込んでくるような気がした。わたしは、碇ユイでよかった、ユイは思った。息子が飛び立った後に、娘が出来たんだもの。

シンジの帰ってくる時刻が近づいた。駅から家に続く道には早くも交通規制がしかれていた。市と県の肝いりでパレードが行われる事になっていた。市民たちは朝早くから、この町が生んだ世界的な有名人を一目見ようと沿道に並んでいた。
駅の正面、市役所、商店街の入り口には『お帰りなさい、ウィザード』という横断幕が張られていた。
いくつもの屋台まで出ていた。誰が作ったのか、色とりどりの風船が売られていた。その風船にはこう書かれていた。『WE LOVE WIZARD』。まったく同じロゴのTシャツを着た女の子たちもいっぱい歩いていた。いわゆる『追っかけ』まで生まれていたのだ。『ウィザード』になる前の碇シンジには考えられないことではあった。
町中がお祭り気分だった。なにしろ、『国民栄誉賞』はほぼ確定、『ノーベル平和賞』ももらえるかもしれない、(文字通り)世界を動かす『スーパー・ウィザード』、おまけに中学生、が町から誕生したのだ。
市外から観光バスを連ねて見物客が大勢やってきたものだから、商店街も活気があった。「ウィザード記念セール! 四割引き!」などという赤札も目にした。

「なんで一時間も前から駅で待ってなきゃいけないのよ!」アスカは怒鳴った。
「ままままま。『アスカさま』、段取りというものがありますので」県知事は言った。
「そうです。民放何社かで生中継されますので、やはり、この」市長はご機嫌をとった。
アスカは、何もない新幹線のホームに一時間も前から立たされているのだ。 ホームには一般の乗客よりも、テレビカメラの列と、民放のレポーターたちの方が多かった。
ホームに電柱のように突っ立ている『シゲル君』の背中に、しがみついたモン吉は「ひかり号」が通過する度にうなり声を上げて威嚇している。
「……その『アスカさま』っての止めてくれない?」
「いえ、やはりあの偉大なる『ウィズ・イカリ』と将来を約束された方ですから」
「そんなもの、約束してないってば!」アスカはそう言ったが、それほど怒っているように見えなかった。おそらくアレは照れておられるのだ、ということになって、誰も彼もアスカの事を『アスカさま』と呼び続ける。

そもそも、アスカがシンジの『いいなずけ』であるという定説は、マスコミから生まれたものだった。
一○○メートル先の腐肉の臭いをかぎつけるハイエナのように、嗅覚の鋭いマスコミは、「アスカの出生の秘密」を知っていた。いや、秘密というほどのものでもなかった。『ウィズ・ローレンツ』キール・ローレンツとアスカの母は、法律上、いまだに夫婦だった。これはドイツで調べればすぐにわかる事である。アスカはヨーロッパ地域担当の『ウィザード』の娘。そして彼女は、若き『スーパー・ウィザード』の家にホームステイしている。べつに芸能レポーターのような想像力が無くとも、裏に何か意図があるのではないか、と勘ぐれるだろう。これを単なる偶然の一致であると書いたら、読者にバカにされるのが落ちだ。
しかし、この「アスカの出生の秘密」は、マスコミの間では周知の事実ではあったが、けっして報道されることはなかった。自粛していたのだ。むろんローレンツの意向を受けた魔法管理機構日本支部の、「強い要請」に従った結果なのだが。

「――たく、早く帰ってきなさいよ、バカ」アスカは、ばかでかい花束を持ったまま、毒づいた。

シンジは新幹線のグリーン車の中で所在なげに座っていた。その車両は全員黒い背広を着たSPに占められていた。そういえば、ぼくは首相官邸から誰とも、一言も口をきいてないな、と思った。
そうだ、手紙を読まなきゃ、シンジは思った。飛行機で読もうと思ったけど、ABの事があったから……。
彼はひょいと立ち上がった。車両の全席を占めていたSPたちも、一斉に立ち上がる。
「い、いえ、あの、ブリーフケース取りたいんですけど」シンジは言った。
「は、『ウィズ・イカリ』!」
「……ありがとうございます。……あの」
「なんでしょうか!?」
「あの、……今から大事な手紙を読みたいので……」
「……は、はい、失礼しました! お前、外を向け」
シンジの窓際に座っていた男は、ぱっと首だけ窓の外に向けた。
「あの、首、痛くないですか?」
「大丈夫であります! 訓練しておりますから」その男はそう言った。そしてシンジが降りる駅まで、ずっとそうしていた。

シンジはケースの中から、封筒を取り出した。赤いロウにおなじみの向かい獅子の封印が押してある。『ウィズ・ブリティッシュ』、いやロード・ブリティッシュの紋章だった。
シンジはその封筒を開けて、便せんを取り出した。
便せんはクリーム色のきれいな紙で、真ん中に大きな目玉が二つ、彼をにらんでいた。それ以外は何も書いていない。
「あれ……」なんで落書きみたいな目玉の絵だけなんだろう、と思った途端、白紙の便せんに、文字が現れた。
『わたしは便せんにかけられた認証魔法アイボール。失礼ながら今からあなたがウィズ・イカリであるかどうか調べます』こんな文章になった。
「……!」見ていると、目玉がくるくると動き出した。
再び文字が現れた。
『認証完了! では本文を表示します』
一瞬で便せんいっぱいにびっしりと日本語の文章が現れた。
シンジはそれを読み始めた。

* * * * * * * * *

親愛なるウィズ・イカリ、いや、堅苦しい敬称は抜きにして、この手紙の中だけでも、シンジくんと呼ばせてくれないだろうか?
帰りの旅が順調であれば、きみは、この手紙を飛行機の中か、新幹線の中で読んでいることだろう。いったい何が書いてあるんだろう、なんて思いながら、封筒を開けたところに違いない。
きみが砦にいる間、きみが『ウィザード』になるハメになった経緯を詳しく聞かせてもらったおかげで、随分いろんな事がわかったんだ。いや「わかった」というのは正確じゃない。何一つ実証する事は出来ないのだから。
それは単なる妄想かもしれない。ぼくは心の一部で、それが妄想であることを願っているのかもしれない。
いや、どちらともいえないな。これが妄想ならば、途方もない世界にぼくたちは生きている事になる。しかしぼくの妄想が現実であっても、同じように途方もない世界にぼくたちは生きている事になる。
なんのことかって?
世界の事なんだ。この宇宙の事なんだ。
――ぼくは、暖炉の前を歩き回る名探偵よろしく、こう書いてみる。
「手がかりはすべてそろった。では説明しましょう」。
こんな風に探偵小説のまねをしてみたけど、ぼくが指摘した犯人が、毒をあおいで終わりというわけにはいかない。この世界に生きる我々人類にとって、切実な問題なんだ。
ぼくが、少しばかり予知能力を持っているのは、話した事があると思う。
遠未来の、それも漠としたヴィジョンが浮かぶだけの「予知能力」だから、明日の株価を予知するのには全く役に立たないけどね。
もちろん、そのヴィジョンが単なる白昼夢の可能性もある。しかし、ウォズに頼んで、そのヴィジョンで得られた傾向に沿って『プロスペロー』にシミュレートさせてみる、そしてその結果を、現在のデータに基づいて、その未来が訪れる確度を計算させてみると、非常に高い可能性をはじき出すことがあるんだ。
それに、話した事があると思うが、『黒い球体』のヴィジョン、あれはまさに的中した予知夢だった。余談だが、魔法使いばかりの、砦の職員の内、何人かが同じ予知夢を見たらしい。まさに世界の命運をかけた事件だったから、影響が大きかったのかもしれない。

……ぼくは、きみが『イアンナ=レイ』と出会う直前から、あるヴィジョンをよく見ていたんだ。それはこんなものだ。
遠い未来の地球だ。世界は緑に覆われている。高速道路や鉄道は放棄されていて、クフのピラミッドのように単に巨大な歴史の遺物になっている。かつてアスファルトで覆われていた大地に、巨大な樹木が生えている。それもおびただしく。――世界は一つの森のようなのだ。人間はどこにいるのだろう? 文明は?
鬱蒼と茂る森の中に、コロニーがある。魔女のコロニーだ。『魔法性差』によって、新生児は魔女の方が多い。彼女たちは強力で安定した母系社会を形成しているんだ。
これは、ある程度納得のいく未来像だった。ぼくは、遠い未来に人類はすべて魔法が使えるようになると思っていた。箒に乗って空を飛べるのに、地下鉄に乗る必要がどこにあるだろうか?
ぼくたちは『来訪』が起きなかった世界の研究を、ずっと続けてきた。来訪が起きなかった世界と我々の世界とでは、現在でもエネルギー消費総量に一〇パーセント以上の差が出るという試算がある。時間が進んでいって、こっちの世界の魔法が使える人の比率が大きくなるにつれ、その差は広がるだろう。
おまけに、来訪の無かった世界は、大きな世界大戦が少なくとも一回、局地戦が数十回以上起きていると予測される。そうなんだ。『来訪』は地球資源からみれば、大変な節約をもたらしたんだ。今から一〇〇年後、我々はまだまだ十分埋蔵量が残っている石油をタンパク質として食っているかもしれないが、来訪の無かった世界は、二世紀にわたって燃やし続けた結果、枯渇しているだろう。
しかし、この未来像には『インヴォルブド・ピープル』の要素は入っていなかった。ぼくのヴィジョンにも彼らは森の外の、どこか荒野に棲んでいるような感じがあったんだ。

きみが「地球の自転を止める」と世界を恫喝したあと、ぼくが時たま見る、この未来のヴィジョンは、徐々に変化していった。このヴィジョンが、だんだん揺らいで変質していったんだ。
きみの評価が揺れに揺れて、しまいに我々に有利に傾いた時、ヴィジョンがはっきりとした像をとったんだ。
――ぼくが、こんなおおげさに手紙を書いたのも、このヴィジョンの事を誰にも知られたくなかったらだ。砦のだれにも。いや、きみ以外のウィザードにも。とくに、ローレンツには知られたくない。彼はこの予知が的中するのを防ぐために何らかの行動を起こす可能性のある人物だ。
きみの家族にも話さないでほしいんだ。理由は後で述べる、
ぼくの見たヴィジョンというのは、こうだ。

世界は、やはり森に覆われている……。そこまでは同じだ。ところが、太陽が異様に大きく赤いのだ。森もぼくたちの知っている木々ではない。ちょっとしたビルほどもある巨大な木が、空を覆うほど大きな枝をはっているんだ。
森の中は薄暗く、赤い木漏れ日が時たま地面に不思議な模様を作っている。
何かが歩いている。
二本足で歩いているけれど、人間には見えない。何か別のものだ。毛のない山羊(やぎ)のように見える、痩せた気味の悪い生き物だ。
もう一匹、別の生き物が森の奥から出てくる。全く違う形をしているんだ。上半身が魚のようになっていて、きれいな白い鱗(うろこ)に覆われているんだ。
二人は奇妙な言葉を交わす。いったい何語かもわからない。
突然、片方が手のひらを広げると、中に金色の果実がある。さっきまで何も持っていなかったのに。明らかに魔法で出したのだ。
二匹は意気投合したのか、もともと知り合いだったのか、突然何もなかった背中から、大きなコウモリのような翼をばさっと広げて、森の奥へと、そんな生き物の大勢いる気配がする奥へと、羽ばたいて飛んで行ってしまったのだ。

ぼくは、そのヴィジョンを観た後、ぼうぜんと座っていた。声も出なかった。すべての事がパタパタパタと、はめ絵のように、納まるのを感じた。
もう一度検証しよう。太陽の見かけ上の大きさか推測するに、数十億年後だろうか? ぼくの、変化する前のヴィジョンは、太陽は普通だったから数千年てとこだろう。つまり、二つのヴィジョンは、排他的な別の可能性と言うわけではなく、ある流れの上流と下流かもしれないのだ。一つめのヴィジョンのさらに先。というわけだ。
ぼくの予知範囲。予知能力の及ぶ範囲はどうも支離滅裂らしい。『黒い球体』はほんの数週間先の予知だったが、その次のは遠未来どころか超未来なのだ。
次に、その二匹(?)は、我々人類の子孫としよう。
彼らは変身可能かつ魔法を使えるのだ。

わかったろうか? きみの評価とこのヴィジョンが連動していたわけが。きみは『インヴォルブド・ピープル』の存在を明るみに出し、そして後になってみれば、最善の方法で彼らの存在を認知させた。
それは『融合』への道なのだ。我々魔法界と『インヴォルブド・ピープル』との。イラク紛争の時に、普通の人間(こういう言い方はローレンツみたいで嫌いだが)があれほどの反応を示したのも無理はない。つまり、こういう事が無意識にでも予見出来るのさ。適者生存という言葉は使いたくない。それは環境の激変ではなく、それこそ目に見えないほどのゆったりとしたペースで進んでいくだろうから。
だからどうだって?
そうだ。人類は変貌してきた。骨格、脳のサイズ、平均身長、食物の嗜好(しこう)。そして、人間の属性たる社会や経済。よくマンガであるじゃないか、頭でっかちで歩行も困難な未来人ってやつ。

そうだ。『融合』したからといって、なんだというんだ?
だが、ぼくがぼうぜんとしたのは、そんな理性的な事ではないんだ。

ぼくは、そのヴィジョンを観た後、一枚の絵を連想した。
――『ヒエロニムス・ボッシュ』という画家を知っているだろうか? 十六世紀のオランダの画家だ。
その超未来像は、その人の描いた絵を連想させたんだ。そっくりと言ってもいい。
そして、その絵の題名は、『地獄』と言う……。

シンジくん、なぜ、人間は太古から、このありもしない『地獄』という世界の事を気にかけていたんだろうか?
なぜ、多くの場合、退屈な天国の絵より、残酷な地獄の絵の方が生き生きと描けているんだろう? ――そうじゃないか? なぜ人間は、地獄の悪魔の絵を好んで描いて、鑑賞してきたんだろう? それを恐れつつも惹(ひ)かれてきたんだろう?
きみの国でもそうだろう? ありがたい仏さまの絵より、地獄の悪鬼の絵の方が面白く、数も多いと思うよ。
現在までの人類の歴史においては、天使よりも悪魔の方が人気があった。それは、表向きは嫌悪の表情を浮かべていても、結局何度も見てしまう、そんな『負の人気』だったのだけど。
ぼくには予知能力があると言った。きみから聞いた『闇の王子』の話によると、彼らはかつて人間に魔力を与えたと言う。人類の黎明(れいめい)期の『神』はそんな人間の召喚魔法で生み出されたという。
では? 悪魔は? 地獄は?

……それは「予知」なのではないだろうか?
地獄の絵を描いた画家は、実は人類の未来像を描いていたのかもしれない。

いや、仮にそれが「予知」だとして、人類の未来ではなく『来訪』の悪魔を予知したのだ。きみはそう言うかもしれない。
では、そもそも我々の世界に『来訪』した悪魔とはなんだろうか?
実はこれは後で述べる『魔界』とも関連するんだが、悪魔が悪魔の形態を取る生物学的な理由は全くない。『魔界』から来た悪魔は、すべて『召喚魔法』を使って、この世界に実体化するのだ。
つまり、悪魔はどのような形態をとろうが、かまわないのだ。たとえば、悪魔は、美しい天使の格好をしていてもよかったし、実際のところ「天使」だと名のってもよかったのだ(その方が人類の混乱は少なかったろうな)。

『フォート・ローエル』が建っている場所で、来訪した悪魔と接見したパーシヴァル・ローエルは、『目の前で見る悪魔は恐ろしかったが、同時に懐かしい感じがした』と書き残している。それだけ古典的な悪魔像だったんだ。だから、中世の悪魔を描いた銅版画はすべて予知か、過去のあった来訪の伝承であるというのが、来訪後に出来た魔法学会の定説なんだ。
しかし、ぼくはそうは思わない。『魔界』から来た『悪魔』は、彼ら独特のひねくれたユーモア感覚から、「訪れる先の世界の住人の未来像を模倣したのではないか」と思うのだ。「我々の来訪を受け、貴様らはこのように変化するのだ」という皮肉。
昔フェッセンデンという科学者が、まるで間違った方法で『魔界』に接近しようとしたとき、悪魔はこの人の悪い(?)ユーモア感覚を発揮して、「特異点」である『魔界』を極小宇宙に見せかけたりしたことがある。

……さて、ぼくがこの手紙の内容を秘密にしてくれ、と頼んだ理由がわかったろうか?
この事が明るみにでると、きみは「人類の未来を地獄絵図に変えた」として非難されるかもしれない。『来訪』は既存宗教に壊滅的打撃を与えた。しかし、それから一○○年以上たった今でも、数千年にわたって宗教が信者勧誘の道具に使ってきた『地獄』というものへの拭いがたい恐怖・嫌悪感は消えていない。
ぼくは、宗教の歴史を考えると、宗教界は、あらゆる手段を使って、この未来が訪れるのを避けてきたように思えるんだ。
例を挙げれば、『創世記』における『知恵の実』、『蛇』、『楽園』の役割だ。『闇の王子』は、「キリスト教がなければ五○○年早く『来訪』が起こせた」と言ったそうだね。ぼくも彼に賛成だ。きっとそうだろう。
宗教界からみれば、キリスト教の最大の価値とは、ひょっとして「『来訪』を五○○年遅らせた」事にあるのではないだろうか?
それもまた、予知能力がさせた事かもしれない。彼らから見れば、人間が怪物のように変貌するような不快な未来は絶対に訪れてはならなかった。
きみは歴史に名を残すかもしれない。『人類に地獄の未来を訪れさせたウィザード』という。

だが、ぼくは、きみを支持する。徹底的に支持する。仮に未来の我々の姿が悪魔のようであっても、それだけの事じゃないか。きみ自身、それを予見するかのように言った。『人間の心を持つ者は人間だ』と。
未来がどうであれ、いま目の前にある「偏見・恐怖・不和・不寛容」は、やはり、取り除かれるべきだと思うんだ。

……シンジくん。
実は、ぼくはこの手紙をここで終わりにしようと思っていた。
以下は、もしきみに忍耐力が残っていたら、読んでくれ。読みたくなければ紙に向かって「読んだよ」と言えば、この手紙は消滅するから。

シンジくん、そもそも『悪魔』とはなんだろうか? 『魔界』とはなんだろうか? 『魔法』とはなんだろうか? われわれの未来がああなるとして、なぜ悪魔は『来訪』を起こしたんだろう? 何か意味があるのだろうか? われわれの未来、いや、人類の存在意義とはなんだろう?
『悪魔』は『悪魔』である必要はない。これは述べたとおりだ。彼らは『魔界』から召喚魔法によって自分の肉体を顕在化させる。その形態も模倣ではないか、という疑いがある。
『魔界』は、一切の物理法則の適用を受けない『特異点』だ。我々の物理世界へ漏出しているそのサイズは、ほぼ陽子大と考えられる。ただ、観測のために光子をぶつけようとしても、魔力に変換されてしまうので、具体的な大きさ、質量を計測する事は出来ないんだ。
『魔法』は『魔界の力を借りること』だ。これは通常、「てこの原理」というたとえを使って説明される。
『魔界』の入り口が梃子(てこ)の支点だとすると、特異点である魔界の向こうに棒が伸びてるのさ。アインシュタインならば、その棒は作用点にかかる負荷を質量で表したものに光速度の自乗をかけた長さがあるとおっしゃるだろうね。
ある人の魔力とは、この特異点の「中」に伸びた棒の先、力点にかかる力の強さであるという表現が出来る。
魔法を使える人間は、意志の力でこの魔界の梃子(てこ)を魔界のどこかで押すことが出来る人間なんだ。
『魔界』は、しかし、不思議の国アリスの、チェシャ猫のようなものだ。宇宙のどこにでも存在するとも言えるし(だって魔女は世界中のどこにいようが魔法を使える)、どこにも存在しないとも言える(ところが科学的に存在を証明出来ないという意味では)。
『アインシュタイン・インターセクション』とは、この『魔界』を固定して(いやしたつもりになって)、質量をもったものをぶつけてやることによって、より大きな魔力を強制的に得ようという仕組みだ。

しかし、その魔力の発生する原理はまったくわかっていないんだ。どの程度の魔力がどの程度の物理作用を起こすか、というのは相対的にわかっている。
が魔法をかけている瞬間の人間の身体を、どんなに調べてみても、なにも発見出来なかった。
よく「魔法は匂いがする」「魔法風」が吹くという言い方をするけど、あれは魔法を使っている人間の精神状態に感応して、別の感覚を呼び覚ます「連想」のようなものだと考えられている。

魔力を、物理学がいまだ発見していない『隠れた力』であるする理論は、『来訪』直後に唱(とな)えられ始めた歴史のあるものだ。
物理学が確認している「力」とは現在のところ四種類しかない。すなわち、重力、電磁力、強弱二つの核力の四つだ。そして『魔力』とは、『来訪』によって現れるまで隠れていた『第五の力』というわけだ。
きみの父上は、錬金術師をなさっているそうだね。だったら、これは聞いた事があるかもしれない。
中世、この世のあらゆる物質は四つの元素で出来ていると考えられていた。ところが錬金術士たちは、いまだに発見されない『隠れた元素』、すなわち『フィフス・エレメント(第五元素)』があり、それを有効に利用することが出来れば、残りの四つの元素で出来た物質を自在に変える事ができると信じていた。
だから、彼らの研究は、この第五元素を探すこと、すなわち『賢者の石』を探すことに費やされたんだ。この隠れた要素を探し出すことで、鉛の塊を金に変える事ができると信じて。
さっき書いた『フィフス・フォース(第五の力)理論』は、この錬金術の歴史を多くの人に連想させ、大変有力な魔法理論だと思わせた。
だが、その理論には弱点があった。つまり、何か得体の知れない魔力という力がある。それは隠れた第五の力だ。以上終わり。つまり名前を付けただけにすぎないんだ。
その理論は究極の問いには答えてくれないんだ。「では、なぜ?」という。
『悪魔・魔界・来訪・魔法』、これらの「なぜ?」に。

そしてもう一点。下級魔女がよく使っている『占い』だ。たとえば反撥(はんぱつ)魔法や遮蔽魔法についてはこの理論で、一応現象面の説明は出来るかもしれない。
しかし、『占い』は説明するのが難しい。また『召喚魔法』についても実に無理をしなければならないんだ。
いまだに魔法は、いろんな種類が発見され続けている。『魔法管理機構』には魔法の分類をしている部局があるが、細かな違いしかない魔法には、もう命名をやめてしまった。ロールプレイングゲームのように「ファイヤーボール」や「コールドブレス」なんて、悠長に名前を付ける暇はないほどだそうだ。
そうだ。魔法は基本的には「なんでもできる力」なんだ。
これら全部を説明するためには、第五の力どころではなく、第六、第七の力を想定しなければならない。
これが理論といえるのか? 単なる分類学ではないか?
そんなわけで、この理論は今はすたれているんだ。

ところが、最近、注目すべき魔法理論が出てきた。
きみも見ただろう、『フォート・ローエル』の魔法研究部門を。
あそこの連中が、だいだい一〇年前くらいから唱えだした理論がある。その理論はかなり突拍子がないので、まだ公表されていないんだが、まるで巧妙な詐欺みたいに、魔界と魔法と物理世界の事を説明出来るんだ。
その理論は、仮に『魔術的ホログラフィー理論(M・H・T)』と呼ばれている(もし発表される時には、こんな、ださい名前ではなく、もっとかっこいい名前を付けるようにって言ってるんだけどね)。
説明しよう。
魔法研究部門は、脳の研究も行っていた。その研究の中で、ある魔法使い兼医学者が、面白い脳の特性に気がついたんだ。
われわれの脳の記憶をためている部分の、ある箇所の脳細胞がけがかなにかで損傷したとしよう。しかし、損傷によってその人の記憶の、特定の一部分が失われたりしない。
簡単にいえば、われわれの記憶は、脳細胞のどこそこといった決められた場所にしまって置かれるのではなく、全体にしまわれている。どんなささいな記憶にしても。
脳においては一部が全体であり、全体が一部なんだ。

一方、脳とはまったく関係のない写真の世界で、『ホログラフィー』という技術がある。これはある物体を特殊な方法で撮影して、そのフィルムにレーザー光線を当てると、その物体が立体的に見えるというものなんだ。
それと、脳となんの関係があるのかって?
そのフィルムに焼き付けられた像は、まさしく脳の記憶と同じく、一部が全体に、全体が一部にあるんだ。ためしにフィルムに傷をつけてみる。そして光を当ててみる。すると立体像(ホログラム)はやっぱり再生されるんだ。傷を増やせば、像はぼやけてはくるけど。フィルムの一部分を切り取っても同じだ。光をあてると立体像はどの部分も欠ける事なく再生される。

研究者たちは、この二つのまったく分野の違う事実を結びつけた。脳はまるでホログラムのフィルムのようだ。脳はそれを取り囲んでいる物理世界の情報を、一つのまとまった像に再構成するものだ。脳がホログラフィーと似ているとすれば、それをとりまく情報源、すなわち現実もホログラフィーに似ているのではないだろうか? 彼らはそう考えた。

この手紙の最初から、ぼくは、僕たちの物理世界が確かに存在していて、『魔界』が存在の不確かなものという書き方をしてきた。
……真実は、それが逆だったとしたら?

いま、『魔界』をホログラフィーのフィルムのようなものと考えてみよう。
『魔界』の向こうから、光のようなものがあたって、立体を映し出す。
それが、その像が、この宇宙なのではないだろうか? 宇宙、物理世界は、真(しん)に実在しているといえる『魔界』の「影」のようなもので、われわれの脳は、その映し出された情報を、確固として存在する物理宇宙に見せかけて再構築しているだけじゃないだろうか?
それがこの理論の基礎なんだ。
ぼくは、前の方で魔法を説明するのに、「てこの原理」というたとえを使った。この理論にあうようにそのたとえを置き換えてみよう。
『魔界』に向かって棒が伸びてるんじゃなくて、『魔界』の向こうから、光のようなものが当たっているとしよう。魔法とは、その光のようなものの、波長か、角度を変える事なんだ。すると立体像である物理世界において、物理法則を無視したような事が起きる。たとえば、普通の女の子が箒に乗って空を飛べたり、きみみたいに、ごく普通の少年に見える男の子が、反物質の竜を何もないところからポンと取り出したりできる。
なぜなら、それは、影にすぎない世界の中の法則にしたがうんじゃなくて、その世界を映し出している元の光のようなものを操作したからだ。
そして、その像は、時とともに変化している。それがこの物理世界の時間だとしよう。『魔界』の向こう側の、光のようなものが、魔界のホログラフィーのフィルムにあたって、像が映るまでの間に、タイミングのずれがあるとする。脳が先回りして、その情報を得る。これが魔女の『占い』の原理だ。

どうだい? 突拍子もないだろう?
これがもし正しいとすると、この世に実在と呼べるものは、『魔界』だけになってしまう。

ぼくは、この理論は、話としては面白いけど、あんまり真面目には受け取っていなかった。哲学としても、ギリシャ哲学のプラトンの観念論に後戻りしてしまった観があって、もうひとつだったんだ。
しかし、ぼくは、きみという少年と知り合い、あの未来のヴィジョンを見るようになってから、徐々に、ある考えが浮かんできたんだ。

言っておくが、これは予知でもなんでもない、ぼくの妄想だと思ってくれ。
なぜ『来訪』が起きたのか? 人類の存在理由とは何か?
きみはABに、この宇宙は悪魔の『カードゲーム』のために存在する、という話を聞いたって言ったね?
それは、本当だ。いや、その『カードゲーム』うんぬんじゃなくて、『契約書』には、そう書かれているし、実際『フォート・ローエル』で厳重に保管されているのは本当だ。
ABがどういう経路でその情報を知ったのかは知らないが、人類が悪魔の『来訪』を受けたときに、そういう契約がなされたのは事実だ。
だが、その事実を知るもので、それを本気にしているものはほとんどいない。
せいぜい、ローレンツぐらいじゃないかな(彼にしても、それを自分の思想に都合のいいように解釈してるみたいだが)。
なぜかというと、それが、ばかばかしいからだ。もし、より強い種を作りたいのなら、『召喚魔法』を使えばいいじゃないか? 六〇〇万年もかける必要がどこにある?
ぼくは、あの契約内容は、真の意図を隠すための、冗談交じりのうそだと思っている。

では、『来訪』の真の意図とは、何か?

もう一度、ぼくの『融合』のヴィジョンに戻ろう。
『来訪』からたった一〇〇年で、地球の自転を止める事が出来るほど強い魔力をもった、きみという、超ウィザードが誕生した(偶然にもイアンナという神性から『メー』を授かったという事情はあるにしても)。
おそらく、きみの登場は、人類の魔法のレベルが一段階上がる事の、まえぶれなんじゃないかな?
きみの子孫が、きみより強い魔力を持っているのは確定的だと思える(きみがどっちの女の子と結ばれるのかは、わからないけどね)。
さほど遠くない未来、メイジ級の魔法使いは、きみを除くいまのウィザード程の魔力を持っているだろうし、いまの上級魔女は、未来では初級魔女クラスでしかなくなっているだろう。
そしてそのころ、非常にゆっくりしたペースで『融合』が起きる。
知ってのとおり、魔法で変身する事は、大変危険だ。いにしえの物語に、よくあるだろう。竜にも変身できる魔法使いが、ネズミに変身したばかりにひどい目にあうってのが。
それは、過去からの警告なのかもしれない。魔法で変身するな、という。
『インヴォルブド・ピープル』との『融合』は、魔法を使える人間の『補完』となるんだ。

いま、安易に『補完』という言葉を使ったけど、補完とは完全な理想像があって、それに欠けたものを補うという意味だ。つまり、そこに完全な理想像がなければならない。
何でも出来る力である「魔法」と変幻自在の「肉体」。そんな種があるとして、それは宇宙最強の種だろう。
『融合』後の人類の生存を脅かすものは、地球上に存在しないだろう。どんなに環境が変わろうとも、彼らは生き延びる事ができる。
彼らの生存を脅かすものがあるとしたら、おそらく宇宙的な事象だけだ。ぼくのヴィジョンでは、太陽は膨張を始めていた。恒星の寿命が尽きるとき、惑星の生命は終わる。が、そうだろうか? 融合後の人類は、それでも生き延びるのではないだろうか?
またもや、きみの行動にヒントがあった。『瞬間移動魔法』だ。
彼らは、太陽がまだ若い恒星系の、適当な惑星(理論的にはどんな惑星でもいいのだが、景観がきれいな惑星を選ぶんじゃないかな?)へ『瞬間移動』すればいい。ぶっちゃけた話、大気組成なんてどうでもいい。それにあわせて遺伝子を変化させればいいのだから。
よくSF小説なんかで、遠い宇宙の惑星を、人類が居住可能なように改造する話(温度を下げたり上げたり酸素を生産したりエトセトラ)が出てくるけど、融合後の人類にはそんな必要はない。
住むことに決めた惑星にあわせて、身体の方を変化させればいいのだから。生活に必要なものは、みんな魔法でチョイチョイと出してしまえばいい。
でも、融合しなくても、魔法が強力になるにつれ、『惑星改造魔法』なんてのが生まれて、他の星に移住出来るようになるんじゃないか。きみはそう言うかもしれない。しかし、それは相手の惑星の生態系を、完全に破壊する事なんだ。わかるだろう? ある惑星の生命を皆殺しにして、我々人類が、瞬間移動してくる。ぞっとしない話だろう?

人類は、星の海を越え、銀河を越えて方々の惑星に住み始めるのかもしれない。そう、宇宙最強の種。どこかで恒星が超新星になろうが、ブラックホールにのみこまれようが、人類の生存を脅かすことはない。

時間を、もっともっと先に進めよう。本当に人類の生存を脅かすものはないのだろうか?
ある。もっと大きな、宇宙的な変異がその脅威になるだろう。というより、いつか宇宙には終末が訪れるはずなのだ。宇宙はビッグバンという爆発で生まれ、膨張し続けている、これは中学校でも習うだろう? 宇宙空間の曲率から言えば、やがて宇宙は、膨張しきったあと、収縮を始めると考えられている。
収縮する宇宙の中で、巨大な島宇宙同士、銀河同士が激突し、混じり合って、解け合っていく。たかだか惑星の地表にすがりついている生命に生き残る可能性はない。
だが、人類は生き残るんじゃないだろうか? ぼくは、そんな奇怪な考えにとりつかれているんだ。
考えてみてごらん。ぼくは『魔術的ホログラフィー理論』というものをきみに紹介した。もし、物理宇宙が『ホログラム』のようなものだとしよう。そのホログラムの中の影が、ひょい、とホログラムの外に出てしまったとしたら?

その存在は物理宇宙の法則の影響を受けなくなってしまう。宇宙が収縮し、ビッグバン直前のただ一点の状態になってしまっても、関係無いのだ。
宇宙が収縮後、消滅してもかまわない。すでに人類(そういう『存在』を人類と呼べるならね)は物理宇宙の外にいるのだから。

その『存在』は、宇宙というホログラムの映写が終わった何もない無のなかに、ぽつんと残っている。もはや、時間は存在しない。空間と物質の無いところに時間は流れない。
それに『意識』というものが残っているとして、どんなものなんだろう? 時間と空間の概念のない意識なんて、想像することも出来ない。
それはかつて人類だったころの事を覚えているのだろうか? 個別の意識とは個別の肉体を持っているからこそ存在すると思う。それは、すべての人類が混じり合って、解け合った意識を持っているかもしれない。
その『存在』は考えるかもしれない。わたしは誰だ。わたしはなんだ。ここはどこだ? 自分のいる場所、大きさすらわからない。それらは比較するものがあって初めて生まれるものだから。

ある時(?)その『存在』は、自分の対立物を欲する。比較するために。自分がなんであるか、思い出すために。空間と物質を取り戻すのだ。
『光あれ』
その存在が、こう言うかどうかは知らない。とにかく光は現れ、『ホログラム』の投影は始まる。物理宇宙の誕生だ。
その存在に名前を与えよう。『創世記』のようにね。
それを『大いなる闇』と呼ぼう。彼は虚無の中の虚無だからだ。生まれたばかりの物理宇宙を受け入れた真空を、生命を生み出す母胎として、『母なる夜』と呼ぼう。

どこかで聞いた事があるって? そうだよ、シンジくん。『魔界』だ。
ぼくたちは『悪魔』に変貌するばかりではなく、『魔界』そのものになるのかもしれない。
そして宇宙の終わりと宇宙の始まりを結びあわせる。大きな輪のように。
「始まりは終わり、終わりは始まり」「我はアルパにしてオメガ」なんだ。
きみの父上は、ここを読んで、こうおっしゃるかもしれない。
「宇宙は『ウロボロスの蛇』だ」と。それは『尻尾をくわえた蛇』という、錬金術ではおなじみのシンボルなんだ。

われわれは『神』になるっていうのか?
ところが、これは伝統的な宗教が抱いてる「全知全能」の神の概念とはひどく違う。
なぜなら、間抜けだからだ。『人間的』と言ってもいい。
ホログラムとしての物理宇宙を生み出した時に、一緒に、無数のバリエーションを作っちゃったんだ。物に光を当てれば影が出来る。しかし、光源が複数あるとき、壁に複雑な、少しずつずれた影ができる。そんな感じを思い浮かべてみてごらん。
アインシュタインは、ぼくたちがいま生きている宇宙と、少しずつ違った『平行宇宙』の存在を予言した。たとえば、『来訪』の起きなかった宇宙、恐竜が滅びずに独自の進化を遂げた宇宙、いや、そもそもの始まりからして、正物質と反物質がまったく等量だったために、星がいっさい存在しない、対消滅の光だけが存在する宇宙。
そんな星の数ほどもある平行宇宙の中で、いったい、どれが「自分を生み出した宇宙」なのか、わかんなくなってしまったように思えるんだ。
ぼくが『カードゲーム』の契約書を本気にしていないのは、悪魔に奇妙な「切実さ」を感じるからだった。じつは、人類の歴史上、彼らは何度も『来訪』している。『闇の王子』の話にあった、沈んだ大陸の話をおぼえているだろう?
そもそも、『闇の王子』は、人類を猿から人間に進化させた恩人なんだ。ゲームのためにしては、じつに一生懸命じゃないか?
そして、たぶん無数にある平行宇宙でも同じようにタイミングをずらしたり、規模を変えたりして、人類に魔法と、変身能力を与えてまわってるに違いない。
この異様な熱心さはなんだ?
それは、もし仮に『融合』を起こせなければ、自分自身の存在が消えてしまう、円環構造の宇宙のサイクルが途絶えてしまう、蛇が自分の尻尾をくわえるのをやめてしまう、背景にはそんな恐怖があるんじゃないだろうか?

ぼくは、再三きみの父上の、錬金術のたとえを使った。なぜなら、この悪魔の切実な探索は、中世の錬金術士たちが、とぼしい化学知識をたよりに、「賢者の石」を探し求めて、毎日フラスコを振っている光景を連想させるからだ。
もし、第五元素、賢者の石を発見できれば、この鉛の塊は、価値のある金の塊に変質するのだ。
そう。『魔界』は、ずらりと並んでいる平行宇宙を見下ろしながら、宇宙的な錬金術をやっているんだ。
まるで、大きな波紋が無数の小さな波紋を生むように、この宇宙的な錬金術は、小さな、錬金術的な過程を次々と生み出す。……きみが『反竜』を召喚したあの日、きみや、きみの周りの人々、あのローレンツまでもが、隠されたシナリオの言いなりになるように、ばたばたと連鎖反応的な行動を起こし、結果として、きみは地球を破壊するほどの魔力を発揮した。
その結果、何が起きたのか? きみは、フラスコの中の化学物質のように、化学反応を起こし、『ウィザード』になったんだ。
『ウィザード』になったきみは何をやったか? 最終的にきみは世界を恫喝して『インヴォルブド・ピープル』を無理やり、認知させた。つまり世界を変質させたんだ。
そう。これは錬金術なんだ。はるかな未来、宇宙が消滅し再び誕生するまで、はてしなく続く錬金術なんだ。

きみは言うかもしれない。
未来が、ぼくの行動が、役割が、宇宙的な錬金術の中で決められているんなら、努力なんてしなくてもいいんじゃないだろうか?
ちがうよ。全然ちがう。そうじゃない。この宇宙が『正解』だなんて、だれにわかる? この宇宙にシナリオがあって、やがて『予定調和』的なハッピーエンドを迎えるなんて、だれが保証できる? (いや、ハッピー「エンド」じゃないな。終わりは始まりなんだから)
当たりだろうがハズレだろうが、ぼくたちは努力しなければならない。あたりまえの事だと思う。『予定調和』的な未来がやってくるから、そこに至るまでの過程で、無抵抗な人が寄ってたかって蹴られたり、背中を向けて逃げている魔女が撃たれたりしていい、なんてバカな理屈はない。平行宇宙はあっても、天国なんてものは無いんだから。

『悪魔』が『悪魔』の姿を『模倣』して現れたのは、人間に対する試練だと思うんだ。いや、試練というより、錬金術の反応過程で、どうしても必要な事だったように思う。
これを克服できなければ、『融合』が起きるはずがない。その世界はわれわれを生み出す事はない。つまりはこういう事だと思うんだ。『インヴォルブド・ピープル』の変身した姿が、普通の人間に恐怖と不快感を呼び起こすのも、悪魔の意図に基づいた作為的なものかもしれない。

『悪魔』はわざと『悪魔』らしく振る舞っている。それは、偏狭な宗教や偏見を捨て、悪魔に魂を売った世界でも強く生きろ、という試練なんだ。そして悪魔の背後にいるものは、必死で自分を探し求めている。自分自身になるために苦悩しているんだ。

……シンジくん。この長々しい手紙で言いたかったのは、これなんだ。
宇宙の背後にいるものが苦悩しているのに、あまたある宇宙の中の塵(ちり)にも等しい、ちっぽけなぼくたちが、生きる上で苦悩しないでいいわけはないだろう?
そして、宇宙の背後にいるものが、自分自身を探しているんだ。ぼくたちも、そうじゃないだろうか?

ぼくたちの生きる意味は、この世に生まれてきた目的は、自分自身を探すことなんじゃないだろうか?
ぼくたちは、「自分自身になる」ために生まれてくるんだ。
誰のためでもなく。……ぼくたちは、どっかの神様にひざまずくためでもなく、独裁者の靴をなめるためでもなく、国家のために死ぬためでもなく、ただ「自分自身になる」ために生まれてきたんじゃないだろうか?

……シンジくん。ぼくは、きみより年上だが、きみに偉そうに説教をする資格は無い。ぼくは、まだ自分自身を見つけていないような気がするからだ。自分が何者で、どこへ行こうとしているのか、まだわからないんだ。
それがいつ見つかるのかもわからない。死ぬまでわからないかもしれない。
ただ、わかっている事は、ぼくは、いまいる場所で、いま出来ることを、せいいっぱいしなければならない、それだけなんだ。

……シンジくん。長旅で疲れているのに、こんな長い手紙につきあってくれて、ありがとう。
きみの探索の旅が、実り多き事を祈ってるよ。

わが若き友人へ、尊敬と信頼をこめて。

* * * * * * * * *

「……ふえぇぇぇぇぇー……」シンジはため息とも、悲鳴ともつかぬ声を上げた。
まわりにいたSPたちが、いっせいに立ち上がった。
「……あ、いえ、なんでもないです。どうか、その、座ってください」
シンジは紙の束をばさばさと畳んだ。
わからないところがいっぱいあったけど、読み返す時間はないみたいだった。車両の前に、電光掲示板があって、○○駅まであと五分で到着という文字を表示していたからだ。
家に持って帰ってゆっくり読みたかったけど、他の誰にも見られてはいけない、という言葉に従う事にした。
「読んだよ」シンジは紙に向かって言った。
手のひらの中で、手紙の束は、パッと光を放って消滅した。
「わ!」シンジは思わず声を上げた。
またSPたちが全員立ち上がった。
「すみません、すみません」『スーパー・ウィザード』はぺこぺこ頭を下げる。

新幹線はホームに入った。普段は殺風景なプラットホームは、横断幕や花や紙テープで、ごてごてと飾り付けられていた。
とにかく、帰ってきたんだ。シンジは思った。
SPたちが壁のように取り囲んでいるホームを、彼は歩いた。
県知事や市長やら、偉い人たちが順にやってきては彼に握手を求め、カメラ目線で笑うのだった。
ぱんぱんぱん。どこかで音だけの花火があがっている。運動会の始まりみたいな気がして、シンジはちょっといやな気分になった。
突然、彼を取り囲んでいる人垣が、さーっと開いて、その向こうに、女の子が立っているのに気がついた。
アスカだった。一瞬だれだか、わからなかった。シンジはなぜだろう、と思って、気がついた。
いつも着ている黒いワンピースではないのだ。
アスカは、ノースリーブの、青い木綿のワンピースを着ていたのだ。胸元の白いボタンがかわいらしい服だった。しかし肩のところから、しっかり小さな猿の手が見えるのが、おかしかった。モン吉を連れてきたんだ。
彼女はまじめくさった顔をして、大きな花束を持ち、シンジを見つめていた。
「……」
「あんたから、なんか、言いなさいよ!」アスカは小声で言う。
「あ……ただいま」シンジは言った。
「おかえりなさい、ウィザード」
アスカはシンジに花束を渡した。ぱしゃぱしゃぱしゃ。なんだか慣れてきてしまったフラッシュの集中砲火。
「……なんで、ぼーっとしてるのよ?」アスカは言う。
「え?、いや、あの……それ」シンジはアスカの胸元を見た。
「この服? なんかさあ、黒だとテレビで映えないから、明るい色の服着ろって言われて。そんなの持ってないって言ったら、おばさまが急いで縫ってくださったのよ」アスカは言った。
「……びっくりした」
「な、なによ」
「普通の……女の子に見えた」シンジは言った。
「普通のじゃなくて、『普通よりかわいい女の子に見えた』でしょ」アスカはそう言ったが、なぜか、胸がどきどきしはじめた。

「お帰りなさいませ。『ウィズ・イカリ』」突然、その大男は話しかけた。
シンジは振り返り、ぎょっとなった。
なんと目の前に『シゲル君』が立っているのだ。それもアスカから借りたサムソナイトのスーツケースを持って。
「え??。 ……あの『シゲル君』?」
「そうです。『ウィズ・イカリ』、いろいろとお世話になりました」『シゲル君』は言った。ほおの縫い目がほころんでいる。
「あの、『シゲル君』しゃべれたの?」
「ええ。造られた時からしゃべれますけど」人造人間はしれっとした顔で答えた。
「そう……そうだったんだ」
「今日は、お別れを言うついでに、最後の奉公として、あなたの荷物を家まで運ぼうと来たのです」
「『シゲル君』たら、そう言ってきかないのよ」アスカは言った。
「お別れって、どこか行っちゃうの?」シンジは言った。
「ええ、ここへ行くのです」『シゲル君』は懐から紙を取り出してシンジに渡した。
それは新聞折り込みのチラシみたいなもので、何度も読んだのか、ぼろぼろになっていた。それにはこう書かれていた。

『二ヶ月間の研修で人造人間の君も「人間の心」をゲット!!
スーパーウィザード・イカリも保証した「人間の心」をゲットして君も人間になろう! いまなら無料特典付き! さあ、いますぐゴー!』

「それに行くのです」『シゲル君』は言った。
「そ、そう……がんばってね」シンジは言った。
スーツケースを持ってすたすたと歩いていく『シゲル君』の後ろで、アスカはシンジにささやいた。
「ね……。ちょっと怪しいって感じでしょ? ……あんた、政府の偉いさんに会った時でも、この会社調べてもらってくれない?」
「うん、そうする」シンジは答えた。

地上から高い位置にある新幹線の駅の階段を下りると、数千人はいようかという見物客が、歓声をあげながら手を振っていた。
「あんたもふりかえしなさいよ」アスカは言った。
「うん」シンジは手を挙げた。
群衆はわーっとどよめきを上げた。
「アスカさまー!」ほとんどが、そう叫んでいるのだった。シンジの名前を呼ぶ声をかき消していた。
シンジは驚き、隣に立っているアスカを見た。彼女が手を振っているのだ。
「人気あるんだね」シンジは言った。
「そう?」
目の前に巨大なオープンカーがあった。優勝した力士が乗るような。
「どうぞ、『ウィズ・イカリ』お乗りください」どこかから人がやってきてそう言った。
「こ、これに乗るんですか?」
「それに乗るのよ。そして、わたしが隣に乗るんだってさ」アスカは言った。
二人は、後部座席に乗り込んだ。
これで後ろに缶でも引きずっていたら、ハネムーンみたいだ。シンジは思った。ちらりとアスカの方を見る。
「ん?」アスカは砦にこもっていたシンジとちがって、マスコミ慣れしているみたいだった。
「なんでもないよ……、『シゲル君』は?」
「後ろの車に乗ってるみたいよ」アスカは答えた。
二人は、ほんの一瞬、見つめ合った。
「……背、伸びたのね」アスカは言った。

二人を乗せたオープンカーは、白バイの先導で走り出した。国道の沿線にも大勢の人が立って旗を振っていた。シンジは、お祭り気分に浮かれる街の中心部へ向かっていた。
街にはブラスバンドが待機していた。シンジたちの車が通りすぎた後、パレードが始まるのだ。大勢の人々が道の脇に立って、この超有名なカップルが通るのを待ちかまえていた。午前中に雲があったけど、午後から吹き始めた風で吹き飛ばされて、夏の青空が広がっている。アイスクリームの屋台は大繁盛だった。

しかし、その店は、お祭り騒ぎとは関係ないように見えた。
古本屋だった。客は一人もいなかった。店の中で、痩せた、白髪の初老の男が、小型のテレビをぼんやりと見ていた。
AB、なぜ亡くなられたのです? ようやく、あなたの望んでいた方向に世界が変わり始めている矢先だったのに!
男は、はるばるイラクからやってきた、偉大な男の事を考えていた。ご覧ください、AB。あの世界を変えた少年は、わたしの店の常連客の息子さんなんです。冬月は小さなテレビの中で、神妙な顔をして車に乗っている少年を見ている。
その時、店の戸が開いた。
冬月は、忍び足で店内に入り後ろ手で戸を閉めている女を見つめていた。
あの時に比べて、だいぶ痩せているようだ。
女は、夏だというのに、黒いスラックスと黒い長袖のTシャツを着て、黒のサングラスをかけていた。身につけているもので黒でないものと言えば、胸から下げた大きな銀のロザリオ(十字架)だけだった。
冬月は、なぜか自分が安心している事に気がついた。会いたかったのだ。いや、何かを言いたいわけではない。気がかりだったのだ。
「おめでとう、と言うべきかしら?」女は低い声で言った。
「……なぜだね?」冬月は答えた。
「なぜ!? 新聞読んでいないの? 『吸血症候群』の公的な研究機関が出来るのよ! 抑制血清を作るんですって。変われば変わるものね。あんたは、大手を振って外を歩けるんだわ!」
「いや、昼間は、とくに紫外線の強い今日なんかは外を歩けない。気分が悪くなるんだ」
「そんな事知ってるわ!」
「それは、失礼」
「あんたちが世の中に認められる日が来たのよ。狂気の沙汰だわ!」
「いや、わたしたちが完全に社会に認知されるまで、後一○○年かかると思ってるよ。作用があれば反作用がある。そのうち反動が来るのかもしれない。ま、あの少年がいれば大きな紛争にはならないだろうがね……」
「ふん」女は腕を組んで、店の中をきょろきょろと見渡している。
冬月は女をよく観察してみた。落ち着きがない。なぜだろうか? 緊張のせいか? かたき討ちとはいえ、今からわたしを殺さねばならないから、緊張しているのか?
女は手に持っている黒いハンドバッグから、タバコを取り出した。一本引き抜き、口に持っていく手が、ぶるぶると震えているのだ。クスリか、アルコールか、あるいはその両方か? どちらにしろ、あまり健康にいい生活はしていないのだろう。
「すまないが、店内は禁煙なんだ。本が傷むので勘弁してくれないか」
女は反射的にタバコをしまってから、ひどく腹立たしげに言った。
「……どうせ、あんたは死ぬのに、本の事なんか心配したって、しょうがないじゃない」女は言った。
「……本は、わたしの命より大切なものなんだ」冬月は言った。そういって狭い店内を見回す。
「なんで命より大切なのよ?」女は言った。
「――それは長い昔話だ。そんな話を聞きに来たんじゃなかろう? 奥に部屋がある。なんだったら手伝ってあげるから、やるべき事をやりなさい」
「質問に答えて!」女は怒鳴った。
冬月は、ぽつりぽつりとしゃべり始めた。
「わたしはしゃべる事より、字の方を先に覚えたんだ。幼い頃に捨てられたし、話し相手もいなかったから。わたしは昼間は山のきこり小屋や、洞窟の中で眠り、夜になると野ネズミやイタチを捕まえて、血を吸っていた。自分の事を奇妙な育ち方をした獣だと思っていた。昼間の人間の世界は、ただもう怖かった。けれど、すごく気になった。とくに気になったのは、学校なんだ。当時は尋常小学校といったのだが、よく真夜中になると、小学校にしのびこんだ。そして鉄棒や、跳び箱で遊んだ。教室の中に入って、絵や、工作を手にとって見たりした。わたしと同じような格好をした昼間の子供たちが、ここでなにか楽しげな事をしてるんだと、思ったんだ」
「ある時、壁に貼ってある鳥や子供の絵のとなりに書いてある記号が、規則性を持っていることに気がついた。――それは文字だったんだ。それらは絵と対応していて、組み合わせるといろんな事を表せるらしい。わたしは夢中になった。毎晩のように学校に忍び込んだ。文字と文字で単語になり、単語はくっつきあって意味になる。すごい、と思ったんだ。わたしは絵本を読めるようになった。いったい何年そんな生活を続けていたかわからない。が、わたしは漢字まで理解できるようになっていたんだ。書く練習もした。面白かった。わたしは月の光でもよく見える目を持っていた。夜中に、本を読んだり字を書いたりするのになんの苦労もなかった」
黙って話を聞いている女の脳裏に、暗い教室の中で、懸命に本を読んでいる獣のような男の姿が浮かんだ。
「小学校の本を全部読み終えると、わたしは本が大好きになっていた。何度も何度も読み返した。でももっと別の本を読みたくなった。わたしは夜のうちに山から山へと移動して、中学校を探した。忍び込みやすい学校を。今でもおぼえているよ。わたしはその木造の校舎を前にして、わくわくしながら月の出を待っていた。わたしは、校舎に忍び込んだ。――しかし、その時はいつもと様子が違った。何かの気配がするんだ。自分とよく似た生き物が、息をひそめてわたしの様子をうかがっていたんだ。わたしは、その正体を突き止めようと、わざとある教室の中に入って、天井に張り付いた。教室にそれが入ってきた。ぼろぼろの服をまとった女だった。その娘はわたしに気がついて、おりてこい、と言った。言葉がしゃべれるのだ。その娘もわたしと同じ体質だった。目を見たらわかった」
「奇跡だった。わたしは仲間と巡り会えたんだ。わたしたちは、空の色が変わるまで話し合った。というより、その娘に言葉の発音を教わっていたんだ。声に出して読むと、ある文章は美しい韻律で書かれている事がわかった。素晴らしかった。わたしはその娘のすみかに行った」
「美人というんじゃなかった。年もだいぶ上だったし。だが、気だてのいい、優しい女だった。わたしたちが、男女の関係になるのは、そんなに時間はかからなかった。何年かたって子供が生まれた」
「その二人を、殺されたのね」女は言った。
「……ああ、そうだ。息子が生まれて七、八年たった頃だろうか……。熱を出したのだ。……何日も下がらなかった。わたしは考えた末に薬を手に入れる事にした。普通の人間の薬が我々に効くかどうかわからなかったが、とにかく何もしないよりはましだと思ったのだ。わたしは少し大きな町に行っていた」
冬月の顔から表情が消えていた。彼は目を細めていた。
「……帰ってみると、棲み家にはいなかった。わたしは探し回った。谷川の石ころだらけの河原で、見つけた」
「死体を?」
「いや、……やつらは、骨までも打ち砕いていたんだ。燃えのこりの中に、二人の衣類の布きれが残っていた」
冬月はそう言って、黙ってしまった。
「あんたは、復讐(ふくしゅう)しようとは思わなかったの?」
「もちろん、思った。胸をかきむしったり、たたいたり、泣き叫んだ後、わたしは、やったやつらを皆殺しにしてやろうと思った。やったのはわかってる。すぐ近くの村落の連中なんだ。わたしは一晩その村落の近くで息をひそめて、真夜中になるまで待った。四、五○軒足らずの集落だ。騒がれなければ朝までに皆殺しに出来るだろうと思った。わたしは、手始めにはずれの一軒の庭に侵入した。クーラーなど無い昔の事で、戸は開け放たれていて、蚊帳がつられていた。蚊帳の向こうに親子が寝ているのが見えた。父親らしい男と、二、三歳ほどの男の子と母親だった。わたしは一気にけりをつけようと、部屋の中に入ろうとした」
「どうなったの?」
「焦っていたんだろう。小枝を踏んだんだ。パキ、という音で、母親が目を覚ましたのだ。わたしは、あわてて地面に伏せた。蚊帳の向こうで、母親は、上半身を起こし、子供の汗を拭いてやり、布団を直してやるのが見えた。わたしには気がついていなかった。母親は、また横になったのだから」
「それで?」
「……わたしは、気が萎えてしまった事に気がついた。そのまま山に帰ったんだ。あの村の連中はいつでも殺(や)れる。急ぐ事はない。チャンスはいつでもあるんだ。そう自分を納得させた。わたしは山の中で久しぶりに一人で眠った。寂しかった。やりきれないほど、寂しかった。おれの妻と息子は、いったい、なんのために生まれてきたんだろう、と思った。なにひとつしてやれなかった。守ってもやれなかったんだ。わたしは何も口にせず、何日もじっと山にこもっていた。いっそ一緒に殺されていればよかったんだ、と思った。……わたしは久しぶりに真夜中に大きな町に行ってみた。気がつくと、町に一つしかない木造の粗末な図書館の前に立っていた。わたしは中に入った。……むさぼるように本を読んだ。夜が白み始めるまで読んだ。わたしたちが生きている理由が書いてあるのではないかと思ったんだ。こんなに苦しく、寂しいのに、なぜ我々は次々と生まれてくるんだろう? 何か意味があるのだろうか? 本にはその答えが書いてあるのではないだろうか?」
「わたしがその小さな図書館の本を全部読み終えるのには、一月とかからなかった。わたしは別の町へ行った。図書館を探すために。復讐はいつでも出来る。とにかく生の意味を見つけるのが先だ。そう思ったんだ。普通の人に交じって働ける仕事を探した。町には野生動物はいなかったからだ。わたしは夜警などをしながら本を読み続けた。町から町、町の図書館の本を読破しては別の町へ移った。妻子を殺されてから十年たったある日、わたしはあの村落の場所を忘れているのに気がついた。いや、記憶をたどって調べれば、すぐにわかっただろうが、もはやその気がなかったのだ」
冬月は、目の前に立つ、サングラスをかけた女を見つめた。女の口は横一文字に閉じられていた。
「……長話をしてすまないな。……だから、わたしにとって本は命より大切なものなんだ。そのおかげで、気がつくと昼の世界で古本屋をやっていたという次第だ。……答えになったろうか? さあ、奥の部屋でやるといい、来なさい」
「あんたは復讐するのが怖くなったんだわ!」女は言った。
「……そうかもしれない。……わたしは弱虫かもしれない。弱いので、憎悪を長い間、心の中にとどめて置くことが出来ないのだ。わたしが心の中に置いておけるのは、妻の優しい笑顔と、息子の元気な顔だけなんだ。弱いから、そんな甘い記憶しか置いておけないんだ」
「……」
「復讐には強い意志が必要だ。やろうと思っている時にやらなければ、わたしのようになってしまう。だから、今やりなさい」冬月は言った。
女は黙ったまま突っ立っていた。
背後で吹奏楽団の景気のいいマーチの演奏が始まった、と思ったらすぐにやんだ。どうやら、最後のリハーサルをしているらしい。
間。
再びマーチの演奏が始まる。やむ。指揮者らしき男の声がかすかに聞こえる。
「……また来るわ」女は言った。
「……わたしはいつでもここにいる。……いつでも来なさい」
冬月は言った。
女は店の外へ出ていった。

女は、歩く。
街を分断するように流れる大きな川の橋まで歩いていた。よろよろとした足取りだった。ちょうどその時、『ウィズ・イカリといいなずけのアスカさま』の乗ったオープンカーが市街地にさしかかったのである。
車両通行止めになっている二車線の橋の上を歩いていた人々は、いっせいにセレモニーが行われる市役所の噴水公園前に向かって、移動しはじめた。
女は、その人々の流れとは逆に歩いていた。
橋を埋め尽くした群衆の中を逆に向かって、よろよろと歩いているのである。何人かが彼女にぶつかる。そのたびに女は大きくよろけるのだった。
橋の中央の欄干にもたれかかった。
ほとんど涸(か)れかかった川の水を見下ろしているように見えた。
花火の音がパンパンパンと鳴り響く。セレモニーが始まったのだ。
だが、女は相変わらず橋の欄干から下を見下ろしていた。
突然、女は胸を押さえた。何かをむしり取ろうとしているようだった。
女は、何かを川に向かって投げ捨てた。
それは、夏の日差しをキラキラと反射しながら回転して、川に落ちた。水音
は聞こえなかった。ちょうどその時、群衆の歓声が上がったからだ。
女は再び歩き始めた。
女とは逆の方向を向いてあふれ出てきた人の波が、彼女を包み込んで、女は見えなくなった。

アスカとシンジは、市役所の前に突っ立って、お偉方の挨拶が終わるのを待っていた。
「暑いね」
「そんなマント着てるからよ」アスカは言った。
「だって、これ着てくれって頼まれたから」
「――あんたねえ、頼まれてなんでもハイハイって聞いてあげてたら、身体いくつあっても足りないわよ! 日本中の人が、あんたに願い事をかなえて欲しいって思ってるんだから!」
「アスカ!」
「なによ? あたし、間違った事言ってる?」
「間違ってない、でも」シンジは正面を指さす。シンジの方を向いて話していた少女は前を向いてぎょっとなった。
静まり返った一万人以上の群衆が、にやにや笑いながら彼らを見ていたのだ。
『……えー、さっそく、しっかり屋の奥様ぶりを発揮されておられますね。アスカさま』イベントの司会者がそう言った。
居並ぶ人々はどっと笑いだし、アスカは耳まで真っ赤になった。

『続きまして、かわいい魔女のアイドルグループ「魔法使い隊」が、日本の誇るウィザードに空中パフォーマンスを繰り広げます!』
司会者はそう言った。
アスカとシンジと、群衆は空を見上げた。
雲一つない夏の空に、東から三人の魔女たちが箒にまたがって飛んできた。
彼女たちはそれぞれ黒のミニのワンピースに、赤、黄、緑のストッキングをはいていた。
彼女たちは、曲芸飛行を披露した。きれいなターンを決めるたびに群衆は拍手する。
やがて一人一人発煙筒を背中から出し、空に文字を書き始めた。
それはこんな文字だった。

WE     (赤)
LOVE    (黄)
WIZARD   (緑)

割れんばかりの拍手と歓声のなか、文字を書き終えたかわいい魔女たちは手を振りながら、西の空に飛び去った。

赤木リツコは、飛び去っていく魔女たちを眺めていた。ここは『日本時空研究所』の屋上である。
街を見渡すと、建物の窓という窓、屋上という屋上にたくさんの人々がいて、空を眺めているのだった。
「……今日は風が強いから、すぐに流されちゃうわね」彼女は言った。その通りだった。風がリツコの染めた金髪をなびかせている。
「そうですね、博士」日向マコトは言った。白衣のポケットに両手を突っ込んでいる。
「……あーあ。……あたしも魔女だったら、よかったのに」リツコはつぶやいた。魔女に生まれていれば、あの人が独身の頃に、知り合う事が出来たかもしれないのに。
「ははは」マコトは笑った。
「何がおかしいの?」
「すみません、いえ、変われば変わるもんだな、って思って」赤木博士の忠実な部下、マコトは、髪を染めてミニスカートを穿きだす前の、地味でカチコチの科学至上主義者の赤木博士の事を思い出していたのだ。
「……そうね」
リツコは、あの偉大な少年ウィザードを育てた、渋い中年男の事を考えた。やっぱり、私の見込んだ人だけのことはあるわ、リツコは思った。あんなすごい息子さんの父親なんだもの。
リツコは空をぼんやりと見上げている。でも……けっきょく、空の彼方の人なんだ。
「あの、……博士。ぼく、結婚しようと思うんです」マコトは言った。
「あら! とうとう決心したのね! 式を挙げるんでしょ?」
「はい、これも『ウィズ・イカリ』のおかげですよ。あの人がいなければ、ぼくの両親は許してくれなかったでしょう」
「……そうね」もし私があの人と結婚していれば、『ウィズ・イカリ』は生まれなかったかもしれない、と思った。
「……がんばってね、日向くん。でも『男だから彼女を幸せにする』て、なにもかも自分で引き受けるのは、非科学的よ。……偏見と戦うのに男も女もない。助け合うのよ。そのために一緒になるんだから」
「はい、博士」
リツコは、ほほえんだ。さびしげなほほえみに見えた。

シンジとアスカを乗せた車は、見慣れた街路樹のある道を家へと向かっていた。シンジは、かつて母の運転する車に乗って、ここを走った時の事を思い出していた。
あれはぼくが魔法使いだってわかった日だった。あのときから、感覚が変わってしまったんだ。うまく言えないけど、木々が話しているような気がするようになったんだ。
彼は、『ウィズ・ブリティッシュ』の手紙の事を考えた。新幹線を降りてからその時まで、ゆっくりと考える間が無かったのだ。
あの人が最後の方に書いていた理論が正しいとすると、この夏の日の、この道や、その空や、この車が、『魔界』の影だって事になるのかなあ。シンジは思った。
シンジは隣に座っている少女の横顔を見た。でも、アスカは生きている。ちゃんと生きている。
不思議な事に、『ウィザード』に就任する前後に抱いていた非現実感が、いまはすっかりうせてしまっていることに気がついた。

車は見慣れた坂道の手前の交差点までやってきた。
「もうすぐね……疲れたわ」手を振り、笑顔を振りまいていたアスカは言った。
「……あの、アスカ」
「なに?」
「よかったら、歩かないか?」
「……え?」

「なんで家の前まで乗り付けてもらわないのよ!」アスカは文句を言った。それでも碇家の家の前の坂道を、シンジについて登っているのだった。
坂道から家に至るまで、等間隔に警官が並んでいた。道幅が狭いので、見物人はいなかった。
「……ごめん、なんとなく歩いて帰りたかったんだ」シンジは言った。
シンジは変わったわ、アスカは思った。どこがどうとははっきり言えなかったが、アメリカに行く前とは全然ちがう男の子になったみたいな気がした。以前の彼ならば、「歩いて帰ろう」なんて絶対言わない気がした。
『シゲル君』は律儀にも同じように車を降りて、ばかでかいスーツケースをかついで歩いてついてくる。しかし気を利かしているつもりなのか、五メートル程離れていた。
その時、モン吉はアスカの背中から地面に飛び降りて、歩き始めた。
「あら、あんたも歩くの?」アスカはおかしそうに言う。

冷静に見れば、それは、おかしな一行だった。
夏だというのにマントを羽織った少年と、青いワンピースの少女と、スーツケースを抱えた人造人間と猿。
「……ねえ、シンジ。……わたしたち、なんだか『オズの魔法使い』みたいね」
「え?」
「ほら、童話にあるでしょ? カンサスの女の子が風で飛ばされて不思議な国に行くっての。――ブリキの木こりとか、ライオンとか」
「あ。……ああ。あと、カカシとか出てくるやつ?」
「そう。わたしが、『ドロシー』って女の子で、モン吉が犬の『トト』」
「ウキキ」モン吉はワシの悪口をいっているのではないかと思い、いけ好かない少年の顔をにらむ。
「『シゲル君』がブリキの木こり。……だって『心』を求めてるから。シンジは……」そこまで言ってから、配役が一人余ってしまうことに気がついた。
「ぼくは、『ライオン』かな。『カカシ』かな?」シンジは言った。
「……そうねえ、『ライオン』は臆病だから勇気を求めていたし、『カカシ』は頭にワラが詰まっているから、知恵を求めていたわ」

知恵と勇気。ぼくは、そのどっちも持っていないような気がする。シンジは思った。亡くなったABが、最後に言った言葉を思い出す。

『そんなとき、真の自分はどこなのか、自分がいったい何が出来て何が出来ないのか、そもそも自分とはなんなのか、見つめなおしてほしいのだ』。

「……アスカ」
「なに?」
「……ぼく、高校を卒業したら、『魔法アカデミー』に入ろうと思うんだ」シンジは言った。
アスカは、『ウィズ・ローレンツ』と同じ青い目を、大きく見開いた。
「……あんた、本気で言ってるの!? ……キール・ローレンツにイビリ倒されるわよ!」
「……う、うん」
「あいつ、あんたを締め上げて、自分の子分にしようとするわよ!」
「そうかも、ね」
「だったら、なんで!?」
シンジは黙った。何かを懸命に説明しようとしているみたいだった。
「……ぼくは」彼はようやくしゃべり始めた。「ぼくは、いまのままじゃだめなんだ。……いまの自分じゃ、いけないって、思うんだ」
「……でも、なんで?」
「『ウィズ・ブリティッシュ』も『魔法アカデミー』を卒業したんだろ?」
「ええ、そうよ」
「『ウィズ・ローレンツ』の教え子だったんだろ?」
「ええ、でも『犬猿の仲』なんてもんじゃなかったそうよ。心底憎みあってたらしいわ。……いまでもアカデミーの伝説になってるほど。でも『ウィズ・ブリティッシュ』は首席で卒業したそうよ」アスカは言った。
シンジが黙っていたので、アスカは付け加えた。
「……ま、その意味じゃ、ローレンツも、度量が広かったかもね。ともかく首席で卒業させたんだから……」
しかし、それならばなぜ『高校卒業後』なのだろう? とアスカは思った。いますぐ入学したいとシンジが言えば、試験なしですぐに入学出来るだろう。なぜ、と尋ねようとして、アスカは言い出せなかった。
三年間、わたしと日本で過ごしたいから? それともレイと過ごしたいから? そんな疑問がわいてきたのだ。だが、アスカは、その疑問の答えを聞きたくない、と感じていた。怖かった。シンジの答えが怖かった。

「あ」その時、シンジは素っ頓狂な声を上げて、斜め後ろの空を指さした。 青い空に、『LOVE』という黄色い文字だけが残っていたのだ。『WE』も『WIZARD』も、赤と緑色の、かすかな雲になっていたのに。
「……不思議だね……」
そうつぶやきながら、空を見上げる少年の、見開いた目、細い顎、母親のユイよく似た耳のかたちを目で追いながら、アスカは、雷に打たれるように、自分の気持ちに気がついた。
わたしはシンジが好き。シンジのことが好き。だれよりもシンジのことが大好き。
その気持ちは、理論上の兵器、『核爆弾』のように心の中にデンと居座ってしまった。いままで見えなかったくせに、実体化するやいなや偉そうに人に命令するのだ。
「……わたしも高校出たら、『魔法アカデミー』に入学する!」アスカは宣言した。
「え? だって、もう卒業してるのに」
「ちがう学部に入るのよ。……うん。前から、何となく思ってた。……わたし『呪い』の勉強をしたい。……おばさまみたいに」
「……へえ」
それだけなの? この唐変木! と、アスカは怒鳴りたかった。しかし、心の中に鎮座する、でかい何かがそれを止めた。そのかわり、アスカはこう言った。
「だって……、シンジには……わたしがついてなきゃ、だめでしょ?」
彼女はそう言って、少年の顔を見上げた。なぜかほおがすごく熱かった。日射病になっちゃったかもしれない、とアスカは思った。
「……ありがとう」シンジは答えた。
アスカは、それでもいい、と思った。いまは、その返事で我慢してやるわ、と思った。

碇家が目の前だった。
生まれて育った家なのに、中に入るのが照れくさかった。
「なに、感慨にひたってんのよ。真夏に坂道のぼったから、汗かいちゃったわ。早く冷たいものでも飲みましょーよ」
アスカはそう言って、玄関の戸を開ける。
ユイとレイが、本当の親子のように並んで立って、シンジを迎えた。
「ただいま」シンジは言った。
レイが、彼を見つめていた。黄色いサマードレスが、すごく似合っていた。
シンジは、レイの事だから、抱きついてくるんじゃないかと思って身構えた。
「おかえりなさい、シンジ。ごくろうさま。暑かったでしょう。早く上がって。飲み物はなにがいい?」
レイはそう言って、赤い瞳でシンジを見つめるのだった。
シンジは一瞬、あっけにとられていた。
「あ……、うん。麦茶がいい」麦茶なんて飲むの、半年ぶりのような気がしていたのだ。
「はい。……お風呂はいるなら、言ってね。わかすから」レイはそう言って、台所へ歩いていく。ずいぶん変わってしまったけど、相変わらず靴下とスリッパは嫌いらしく、はだしでぺたぺた歩いている。しかし、それが無ければ別人と思ったかもしれない。
アスカは、シンジがレイの後ろ姿をぼうぜんと見とれている様子をにらみながら、「あの女、いったい何をたくらんでやがる」などと、はしたない事を考えている。

「おかえりなさい」ユイは息子に言った。この子、背が伸びてるわ。
「ただいま……かあさん、……とうさんは?」
「実験室よ。たく、普段ろくに仕事しないのに、こんな日に限って、仕事するって言って」

シンジは実験室に入った。
「ただいま」彼は父親に声をかけた。
「おう……ちょっと待っておれ」ゲンドウは顔も上げずに答えた。
ゲンドウはいま本業である錬金術の最終工程にさしかかっているのだった。小学生の頃から父親の手伝いをやらされていた少年には、それがわかった。
シンジは実験室の入り口で、待った。
碇ゲンドウ氏は、突然心を入れ替えて勤勉になったわけではない。実は、すねていたのである。
そのわけはこうだ。
ここ何週間というもの、碇ゲンドウは、『ウィザードの父』ということと、その特異なキャラクターで、マスコミに奇妙な人気を博していたのである。さながら天才的なプロ野球選手の父のごとくに、インタビューやら、育児論の執筆の依頼やら、講演の依頼やらが連日のように舞い込んできていたのだ。
元来面倒くさがりやなので、講演や原稿を書くのは断っていたが、インタビューは大好きだった。
そしてついに一週間前、お昼十二時のバラエティ番組の、ある曜日のレギュラーになっていただけませんか、という依頼がやってきたのだ。それも人生相談のコメンテイターという依頼。
「ワシは錬金術ひとすじ二十五年の、つまらない人間ですが」ゲンドウにしては大変珍しく謙遜までしてみせたが、内心わくわくしていたのである。
ところが昨日、そのテレビ局から、あの話は無かった事にしてください、と言ってきたのだ。どうも昼間っから「濃すぎる」ということで敬遠されたらしいのだが、ゲンドウはショックだった。
だから、こんな日に金を造っているのである。
アメリカにいたシンジはそんなことを知る由もない。彼は久しぶりに父親の仕事ぶりを見ていた。
あれは、きっと『賢者の石』と鉛とを接触させる瞬間なんだ。シンジは思った。
その通りだった。ゲンドウは鉛入りガラスの向こうで、精製された『賢者の石』を、マニピュレータを使って、鉛にふれ合わせているところだった。
これが、まあまあ神経を使うところなのだ。
ゲンドウは腰をかがめて反応炉の中をのぞき込んでいる。シンジは、それこそ、よちよち歩きをしているころから、父のそんな姿を見ていた。
小学生も低学年の頃は、父が、この宇宙の秘密を知っている、すごい人だと思っていた。なんたって、物質を全然別の物質に変えてしまうことが出来るのだ。いつか母から聞いたが、小学校でよく父親の自慢をしていたそうだ。
「よ……し」ゲンドウはつぶやく。
ガラスの向こうで、鉛が光を放つ。原子が一瞬にして変化するとき、隣同士の原子からあぶれた量子が光子に変化して、外に飛び出すのだ。それは身体に有害な放射線となる。
錬金術師の死因のナンバーワンは、ガンである。統計でその傾向がはっきりとわかる。ごくわずかでも、放射線を浴びている可能性があるのが原因かもしれない。
だからとうさんは、ガンの検診を欠かしたことがないって、かあさんが言ってた。それでも、とうさんは、ぼくやかあさんのために錬金術を続けてきたんだ。

「ふう……暑い」ゲンドウは額の汗を、いつも仕事の時に来ている黒い上っ張りの袖で拭きながら言った。
「……終わったの?」
「見りゃわかるだろ……かあさん! 麦茶持ってきてくれ」
ゲンドウは、実験室の入り口に立つ息子の顔を見た。なんだか背が伸びたな、ゲンドウは思った。
「で、なんだ?」
「帰ってきたよ」シンジは言った。
「そうか。……『フォート・ローエル』はどうだった?」
「すごいよ。すごい要塞だ」
「そうか……」
その時、母がやってきて、ゲンドウにコップを渡す。
「シンジのは台所に置いてるからね」
「うん」
ゲンドウは、麦茶を一気に飲み干す。でかい喉仏がごくごくと動く。
「あの……」シンジは目の前の父と母を見ながら口を開いた。
「なんだ?」ゲンドウは言った。

「……ありがとう」
シンジは言った。そして照れくさいのか、あわてて台所に向かって走って行く。
残されたゲンドウは混乱していた。
……なぜワシがこんな目に遭わなければならん? と思った。痩せても枯れても、このワシは、息子に礼なんぞ言われる覚えはないぞ、と思った。
「……なにか、言ったら?」ユイがいたずらっぽく笑って言う。
「何を言えというのだ? あいつは、いったいどうしたんだ? 『ありがとう』だと? なんだ、それは?」
「『ありがとう』は日本語。感謝の言葉よ」ユイは言う。
「ほう。――ワシはまた英語かと思ったぞ。アメリカなんぞにいたものだから、『ありがとう』の次は『ダディ』なんて、抱きつかれるのかと――」
「あはははははは」ユイは、おかしそうに笑いだした。ゲンドウはそんな妻を見つめていた。
「何を笑っておる、ば、バカモノ」ゲンドウは妙にあわてている。そんなに受けるとは思っていなかったのだ。
「……くくくくく……晩御飯、何が食べたい?」ユイが笑いをこらえながら言う。
「どうせ、シンジのやつに合わせて、ハンバーグかなにかするんだろう?」
「そうそう、レイちゃんが作るのよ。忘れてたわ」
「うむ……」がんばれ、レイ。あのくそ生意気な『いいなずけ』とやらに負けるな。ゲンドウは思った。
「もう、すんだんでしょ? 居間に行きましょ。みんな待ってるわ」あなたの家族が。
「うむ」
ユイは、先に行くわ、と言って出ていった。

ゲンドウは、さっきまで息子が立っていたあたりを、ぼんやりと見ていた。
オムツがとれたのが、三歳のときだろうか? 彼は思った。それまではワシがケツを拭いてやることもあったのだ。

いったい、いつの間に、大きくなったのだ?
まるで、錬金術のようだ。
「……『鉛』の塊が、『金』になっちまったのかな……」
錬金術師ゲンドウは、つぶやいた。