第十二話「さよなら、レイ」

碇ユイは、どこか宗教的な、荘厳な音楽が鳴り響く夢から目を覚ました。薄暗い。傍らの夫は相変わらず間抜けな顔をして眠っていた。眼鏡を外すと、ひどく年を取ったように見えだした。白髪も見つけた。
あなただけが頼りよ、彼女はそう思ってみる。そんな風に思って夫の顔を見つめているなんて、新婚当初みたいだ、とユイは思った。
そもそも自分があんなに早く結婚するとは、思ってもみなかったから、結婚生活が不安の連続だった。つきあっている頃から変人だとは思っていたが、いざ一緒に暮らしてみると、やっぱり変人だった。

でも、こんな時、頼りにしてしまう。ユイは思った。一つはシンジを出産する前。高齢出産だったし、初産だったし、風邪をこじらせて肺炎になりかかって、ひどく不安だったとき。子供なんてあきらめていたつもりだが、妊娠してみると、うれしかった。どうしても産みたかった。産院で熱にうなされているとき、この人は、そのでかい身体をかがめて私の手を握っていてくれた。
もう一つは、魔女の資格剥奪。息子に負担をかけたくなかったから、気丈にふるまいたかったのに、あたしったら寝込んだりして。立ち直るのに一週間かかった。そんなとき、べつに何かをしてくれるわけではないが、この人がいるだけで、落ち着くことが出来た。

彼女は、起きあがった。枕元に小さなホムンクルスのいるガラス瓶が置いてあった。レイは眠っていた。
『イアンナ』。悪魔の王子すら恋い焦がれる、地上最古の愛の女神。シンジはどういう決断を下すのだろう。ユイは服を着ながら思う。彼女は、相手が『闇の王子』であろうと、その彼の申し出であろうと、息子が「渡さない」と決めたら、その意志を尊重してやろうと思っていた。
人が聞いたら、たまげるかもしれない。形容するのもばかばかしい力を持つ『魔界の王子』の申し出を、息子が断る事を黙認、いや、応援するだなんて。
しかし、私は応援してやりたい、ユイは思った。あの子が主体的に行動することなんて、初めて見るような気がした。
アスカから、『闇の王子』との「取り引き」の事を聞いた時、ユイは眠れなかった。うれしかったのだ。うれしくて、誇らしくて、眠れなかった。何度も涙がにじんだ。
「あなた、シンジがね」もちろん、寝る前に夫に話してみた。ゲンドウは「あたりまえだろうが、中学生のうちから妙な事をおぼえるとロクなもんにならんからな」とトンチンカンな答えをする。
全然違うわ、あなた。寝室をそっと出ながら、ユイは思った。全然違う。それとも照れくさいのか。息子が男になっていくのを認めたくないのか?
ユイは思い出す。彼女が資格剥奪された翌日も気分がすぐれず、横になっているときに、息子が枕元に来たことを。
何かを言おうとしているのだった。きっとわびるつもりだろう。ユイは、謝らなくてもいいのよ、と言おうとした。しかし、なぜか声が出なかった。息子の真剣な顔を見ていると、黙っていてやろうと思った。
「かあさん……」
息子は小さな声でそう言った。そしてまた黙ってしまった。ユイは、手を伸ばし、息子の手を握りしめた。
それだけだった。それで、充分だった。

ユイは、台所で耳を澄ます。アスカと、シンジの声が聞こえた。台所の窓からそっと庭の方を見た。見ているのがかわいそうになるくらい、お互いを意識していた。しばらく休めばいいのに、と思ったが、魔法の訓練には口を出さないと決めていたから、何も言わなかった。

「ぜったい、こっち見ちゃ駄目よ」アスカはそう言って深呼吸をする。
「うん」シンジは後ろ向きになって、同じように深呼吸をしている。
「……思い出してるんじゃないでしょうね?」アスカは言う。
「思い出してないよ」シンジは答えながら、前屈をしている。
「とくに寝る前に思い出しちゃ駄目よ」アスカはそう言って前屈をする。
「わかってるよ」シンジは上体そらしをする。アスカの赤いリボンが、逆さまになって揺れている。
「寝る前に思い出して、……ひとりで変なことしないでよ」アスカは言った。
「し、してないよ!」
「……してるんじゃない? その声」
「しつこいなっ。してないったら、してない!」
「どーせ、あたしはしつこいわよっ! しつこくなくて、いつもかわいいホムンクルスと練習したらいいんだわ」
「む、むちゃくちゃ言うなよ」シンジは振り向いてアスカを見た。アスカは上半身を反らしていた。着古したトレーナーが持ち上がって、おへそが見えていた。彼女はあわてて、トレーナーをぐっと下ろした。
「見ないでよ、すけべ!」
「自然に見えたんだからしょうがないだろ!」
「ふりかえったわ。わざわざ」
「アスカがむちゃくちゃ言うからだよ!」シンジはまた背を向ける。
「ふん」アスカは体操を続けながら、なぜシンジの声を聞くと腹が立つのだろう、と思った。顔を見るなんてとんでもない。あのぼんやりした顔を見るのは声を聞くより倍悪かった。心の底からむかむかした。今朝、シンジの靴を見ただけで腹を立てている自分に気がついた。
そうよ、あいつは『闇の王子』よりたちが悪い、アスカは思った。

その『闇の王子』は太陽の中にいた。かつてこの世界にいるとき、気が向くと太陽の中にいることにしていたのだ。彼は、自虐的な気分の時には、人間の狭苦しい肉体を捨て、大蛇に変身する事にしている。もちろん、普通の蛇とは全く違う、空間そのものが格子構造になった蛇だった。地球サイズの惑星をいくつも呑(の)み込んでしまうようなプロミネンスに合わせて、死にかけた蛇のように、のたうち回ってみた。
彼は遠い地球に想(おも)いを馳(は)せる。彼にとって人間は、平行して存在する世界と同じように、さまざまな行動をとりうる可能性の束に見えた。あの公園で、あの少年の存在は、受容と拒絶の間でぶるぶると震えていた。あの少女の愛を受け入れる可能性も、うっすらと見えていた。しかしあの少年は、このぼくと取り引きを申し出た。
だから、面白いのだ。人間というやつは。
あの少年は再び拒絶するかもしれない。『イアンナ』を渡すことを拒絶するかもしれない。そして数年後ホムンクルスの肉体は滅び、『イアンナ』はまたあてどなく放浪し、やがて消滅する。
『イアンナ』! きみは消えてしまうんだぞ。
『闇の王子』は煉獄(れんごく)の炎の中で、星々を見た。ウロボロスの蛇となった父が見えた。自分の尾を呑(の)み込んでいる、宇宙と同じ大きさの蛇だった。父よ。なぜ、ぼくに、こんな女々しい心を与えたもうたのですか? ぼくを使って何をさせようというのですか。
答えは無かった。

成田空港に、マンガに出てくる悪の首領のような格好をした男が到着した。魔法管理機構日本支部のお偉方が総出で出迎えて、ご追従をならべたてている。いくつもの晩餐(ばんさん)会。いつくものスピーチ。その男のスケジュールはぎっしりと詰まっていた。しかし、たった一日だけ、スケジュールに穴がある。空白の一日。その一日は、後に世界を変えてしまうきっかけとなった一日だった。しかしその男をはじめてとして、だれもそのことを予見したものはいなかった。

男の名はキール・ローレンツという。ドイツの南部、バイエルン地方の生まれである。「顕現」は九歳の時に起きた。『ウィズ・アインシュタイン』が、まだ健在だったころである。
彼の家族は、教師である父と母と妹と、そして彼の四人であった。父はむやみに厳格な父親だった。しかし感情が一定せず、ある時はほおが腫れ上がるほど幼いキールを殴りつけたかと思うと、ある時は気色悪いほど、彼を甘やかした。
その事件が起きた経緯は、今となっては、はっきりしない。とにかく発端は、父親が目覚めて、犬を散歩させようとした朝、庭に娘の飼っていたウサギの死体があったという出来事だった。父親はその死体を調べてみた。外傷はまったく無かった。何か毒を食べたのかもしれなかった。そう結論を出すと、彼はその死体を埋めて、忘れてしまった。
次は飼い犬が死んだ。突然の死だった。父はウサギの死体のこの犬の死を結びつけた。誰かが生き物たちに毒を盛ってまわっているのだ。彼は獣医に死体を診てもらった。しかし、結果は、どんな毒物の反応も無い、という事だった。

半年後、その父が死んだ。突然の死だった。心不全と診断された。ローレンツが十歳の時だった。少年は、主のいなくなった父の書斎に入り浸った。隠し抽斗(ひきだし)の中に面白いものを見つけたのだ。
それは、下着姿の女性が革ひもで縛られているモノクロームの写真だった。何枚も出てきた。彼はそれを元にあったところに同じように隠し、部屋に入る度に、その写真を見た。
他にも面白いものがあった。本だった。『トゥーレへ還(かえ)れ』という本だった。彼はその本を夢中になって読んだ。金髪碧眼(へきがん)の白人のゲルマン民族が、人類の「元型」であり、その他の人種は退化と混血によって「元型」から堕落した、いわば「亜人間」である、というのがその本の主張だった。
その本によると、人間の「元型」たるゲルマン民族は、北極圏の彼方(かなた)にある地球空洞への入り口の向こう、伝説の「トゥーレ」という島で生まれたという。
『来訪』は、地球にはびこり、正しい血筋の人間を搾取する、汚らしい「亜人間」たちを浄化するために起こったのだが、ユダヤ民族をはじめ、亜人間たちが多すぎて失敗したと書かれていた。『来訪』の悪魔たちは、キリスト教など、邪教の神々への信仰を打ち砕くために、真(しん)なる神『ヴォーダン』があえて使わしたものだった。
しかし人間はやがて立ち上がり、亜人間どもを「魔法(実はヴォーダンの力)」によって殲滅(せんめつ)し、伝説の島「トゥーレ」へ還(かえ)る時が来る、というのがその本の結論だった。
ローレンツは感動した。そうだったのか。彼は思った。彼はその本を同じところに隠した。その夜、ローレンツは、ふと思った。とうさんは、「亜人間」だったのかもしれない。

父の死後何年かたっても、彼は父の書斎に入り浸っていた。平凡な教師だったはずの父の蔵書は、『トゥーレへ還れ』といった刺激的な書物ばかりだったので驚いていた。
ある時、書斎の壁を見た時に、壁に掛かっている何の変哲もない風景画の署名が目に入った。彼は立ち上がり、絵をしげしげと眺めた。
幼い頃から家にあって、ずっと知っていた絵だった。教会だろうか、棕櫚(しゅろ)の木と古風な建物の絵だった。署名をもう一度読む。
なんと『トゥーレへ還れ』の著者と同じ名前だった。もし同じ人物ならば、いったいどんな理由で父がこの絵を持っていたのだろう?

答えはローレンツが十四歳の時に見つけた。父の住所録に同じ名前を発見したのだ。彼は朝一番の汽車に乗って、ミュンヘンまで行った。なんだかわくわくした。あんなすごい本を書けるなんて、どんな人だろう、と思った。
その家は、ミュンヘン郊外にあった。キール・ローレンツは六十を越えた今でも、その家の前に立った十四歳の自分の記憶を、まるで映画を観(み)ているように蘇(よみがえ)らせることが出来る。
彼はまず激しい既視感にとらわれた。ここには前に来たことがある、という感じである。そんなはずはなかった。ミュンヘンに来たのは数えるほどしかなかったし、すべて市街地から出たことがないと断言できるのだ。
家の斜め前に立つと、理由が分かった。あの絵である。あの人はこの家を描いたのだ。ローレンツは、おそるおそる玄関のドアのチャイムを押した。ぼくの人生は変わったしまうのだ、という、理不尽な確信が少年を捕らえていた。
しかし、結果としてそのとおりだった。
「誰だね」しゃがれた声がインターホンから聞こえてきた。
少年は名を名乗り、父の遺品の本と絵に感動して、作者のあなたに会いにきたんです、と言った。すると、明らかに白髪を黒く染めたとわかる髪をポマードでべったりとなでつけた老人が、ドアを開けた。
「君の父上の名は?」老人が居間に少年を案内しながら、言った。
「ヘルムート・ローレンツです」
「ヘルムート! ……ローレンツと聞いて、もしやと思ったが、彼が死んだのか?」
「ええ、何年も前になります」
「ああ! 優れた人間が真っ先に死ぬ! かくてドイツから、またひとり憂国の士が減った!」老人は大げさに嘆いた。
少年はなんと答えてよいかわからなかったので、黙って、立っていた。老人は気を取り直して、少年にソファを勧めた。
「ヘルムートはどうして死んだのだね? まだ死ぬような年ではなかろう?」
「あの、その……心臓麻痺(まひ)だったのです。突然でした」なぜか少年は言いよどんだ。こぶしを握りしめた。
「……そうかね」老人はそう言った。
その家の居間には、たくさんの『世界大戦』のセピア色の写真が掛けられていた。少年は、その中の一枚の写真に目をとめた。
「これは、……この軍人の写真はあなたですか?」
「そうだ。わたしは大戦勃発当時、オーストリアにいたのだが、祖国ドイツが偉大なる戦争を始めたと知って、すぐに志願したのだ。わたしは勇敢に戦ったつもりだ。祖国の勝利を信じて。しかし」老人は吐き捨てるように言った。
「勝利を目前にして、あの魔法使いどもが……よそう、過去の話はどうでもよい、問題はこれからなのだ」
「そうですね」
「わたしの『トゥーレへ還れ』を読んだんだね?」老人は言った。
「ええ! 素晴らしい本でした! ぼくは興奮のあまり眠れませんでした。もやもやしていた事がいっぺんに晴れ渡ったような……ああ、うまく言えません」
老人はほほえみながら「ありがとう、ローレンツくん、君のような若者にこそあの本を読んでほしかったんだよ。学校で教えているざれ言より、ああいった真実に目を向けてほしい」と言った。
「ええ。……それに、絵も大変、お上手ですね!」
「いや、絵は余技だよ。著作に比べれば。あの絵は、ヘルムートがどうしても譲ってほしいと頼むものだから譲ったのだ。これでも、若い頃は画家になる夢を抱いていた事があるのだよ。ウィーンで絵の修行をしていた事もある」
「ウィーンで絵の修行を。……そうだったのですか」ローレンツは感激していた。そして尊敬のまなざしでその老人を見つめた。少年は興奮のあまり、いささか自制心を欠いていた。そして、普段は練習によって押さえている、自分の特異な能力の片りんをのぞかせてしまった。
「……! ローレンツくん!」老人は叫んだ。目に恐怖が浮かんでいる。
「あ、あああ! すみません! つい。そんなつもりは」少年はあわてた。背筋に冷たい感触が走った。
「……きみは、『邪(じや)眼(がん)』を持っているな」老人は言った。
「はい、これが『邪眼』と言うのなら、そうです」深い湖のような、暗く蒼(あお)い瞳を持つ少年は答えた。
「……そうか」老人の目がきらりと光ったように見えた。ある意味でその老人は天才だったのかもしれない。後になって、ローレンツは思うのだ。あるいは若干ながら魔法を使えたのかも。彼はこう言ったのだ。
「……きみは、もしかしてヘルムートを――」
「いえ! わざとじゃないんです! 父は、ぼくが昆虫相手に『練習』しているところを見つけて、『犬を殺したな!』って、ぼくの事を何度も殴って! ぼくは殺されるかと思ったんです! 父に殺される、そう思ったら」
恐ろしさに、膝ががくがくと震えていた。老人は彼の秘密を一瞬で見抜いてしまったのだ。老人はぼくを警察に突き出すかもしれない、と思うと怖くてたまらなかった。
老人は驚いた事に、少年に近づいて、彼を抱きしめた。
「……少年よ、きみは悪くない。きみは生まれつきそんな力を『ヴォーダン』から授かっているのだ。それは不幸な事故だったのだ。気にすることはない」
「では、ぼくを警察に突き出したりはしないでくれますね?」
「当たり前だろう。将来のドイツを背負って立つ若者の芽を、ちょっとした過ちで摘(つ)むなどということが出来るだろうか? ……きみは、なぜ魔法管理機構に行かなかったんだね?」老人は、立ち上がって、少年にコーヒーを入れながら言った。
「『魔法使い』にはなりたくないのです。『呪い』専門の魔法使いとして一生、生きていくなんて」
「もっともだ。世界魔法管理機構は、あの祖国ドイツを裏切ったユダヤ人のアインシュタインが牛耳っているしな! 彼らがアリゾナに建設を予定している要塞を知っているかね? 完成にあと何年かかるかわからんが、うわさによると、世界の任意の地点に魔法による攻撃を加える事が出来るようになるらしい。その背後には、ユダヤの影があるんだ! 彼らは魔法管理機構を使って世界を支配しようともくろんでいる。劣等人種に『魔法』が与えられたのは偶然に過ぎぬのに!」
「……そうなんですか?」
「そうなのだ、ローレンツくん! きみの能力は『魔法』などではない! 世界を浄化する神の力なのだ! これを見たまえ!」老人は大きな図鑑を本棚から取り出して、あるページを開き、少年に見せた。一見してユダヤ人とわかる男性が頭に奇妙な箱をくくりつけている、どこか宗教的な写真。
「わかるかね? 彼らは下劣だが、未来を予見出来るらしい。これは『邪眼』よけのおまじないだ。民族離散当時から、彼らがこれを恐れたのは、やがて彼らがこれに滅ぼされると知っていたんだ」
「……そうだったのか……」ローレンツはぼうぜんとつぶやいた。
「ああ、わたしは運命を感じる。われわれゲルマン民族の巨大な運命のうねりを感じる! きみがこの家に来て、わたしと会う! 考えてみたまえ! 信じられない偶然だ! つまり『偶然』ではないのだ! いいかね、そもそも『来訪』の経緯を思い出してみたまえ。元駐日ドイツ大使であり、ゲルマンの優位性を信じて疑わなかった偉大なる先達(せんだつ)『ハウスホッファー』が、『エジソン』から霊界ラジオを買ったのが、きっかけではないか。……きみがこの家に来たのも、つまりそういうことだ! すなわち、これは『ヴォーダン』のご意志なのだ。きみはすぐに魔法管理機構ドイツ支部に行きたまえ!」
「魔法管理機構にですか?」
「そうだ! そして内部から世界の支配構造を変革するのだ! 『世界大戦』での勝利という果実を、わがドイツの目前からもぎ取ってしまった、あの裏切り者にして、汚らしいコスモポリタン、『ウィズ・アインシュタイン』を追い落とすのだ!」
「……ということは……ぼくが?」
「きみが『ウィザード』になるのだ。『ウィザード』になるためにあらゆる手段を使え。アーリア人こそが真の『ウィザード』になれることを証明したまえ」
老人はそう言って、恐れず少年の瞳を見つめた。ローレンツは今になってもその時の感動を思い出す。ちっぽけな十四歳の少年に過ぎない自分が、人類の歴史に参画しているという、震えるような使命感。
「わかりました。ヒトラーさん」少年は老人の名を呼んだ。
「アドルフと呼びたまえ。若き同志よ、わたしもきみをキールと呼ぶ。我々は立ち上がるのだ。世界のために」老人は言った。

キール・ローレンツはかくて魔法使いになるための修行をはじめた。まさに死にものぐるいの修行であった。
十五歳から十八くらいまでの、キール・ローレンツの修業時代の記録はあまり残っていない。ただ彼がこのころ『邪眼のローレンツ』と呼ばれていたのは事実である。言うまでもなく、これには侮蔑的な意味が込められていた。魔法界には、その能力に応じたヒエラルキーが厳然としてあり、残念ながら『呪い』に関してはいささか不当な偏見があったのである。
そういった偏見への怒りが、彼のがむしゃらな努力の原動力になったことは想像に難くない。物事を知るにつれ、彼の人生を決定づけた『トゥーレに還れ』に、多くの誤謬(ごびゅう)と誤解が含まれていることがわかってきたけれど、あのヒトラーという傑出した人物への尊敬の念は、なくなる事はなかった。
修行を積むにつれ、彼の魔力も強くなり、同時に『邪眼』の制御も大変な努力を要するようになってきた。当時の監督者の薦めもあって、彼は魔法制御の第一人者、マドリード大学のザビエル教授の元を訪れた。十九歳の時である。
ザビエル教授は邪眼制御のもっとも有効な方法、魔力を抑えるサンバイザーを彼に勧めた。
「きみは、四六時中これをつけて生活するのだ。鬱陶しいだろうが、きみのちょっとした油断で人を呪い殺してしまうよりはましだろう」つるつるに頭が禿(は)げ上がった教授はそう言った。
ローレンツはその言葉に従った。最近では、邪眼の制御に気を取られ、呪いから『召喚系』の魔法使いに転身しようとする修行に、支障をきたしていたからだ。
『邪眼のローレンツ』は、バイザーを付けて、マドリード大学で魔法学を学んだ。ドイツに魔法アカデミーが『ウィズ・ローレンツ』によって設立されるまで、ヨーロッパにおける魔法学の先進地はスペインだったのだ。
このころ、彼についたあだ名が『サイクロップス』であった。横一文字にスリットの入ったバイザーを付けた彼の姿が、オデッセイに出てくる一つ目の怪物を思わせたからである。この心ないあだ名に彼は傷ついたけれども、実は、まわりの学生たちは畏怖の念を持って彼をそう呼んでいたのだ。キール・ローレンツは、魔法の俊英として、めきめきと頭角を現していたのである。
そのころ知り合ったのが、中央アフリカから留学していた魔女、オロロであった。嵐を巻き起こす、強力な『エレメンタル系』の魔法を使う彼女は、『ストーム』というあだ名を持っていた。
親しくなったものの、オロロはやがてローレンツに嫌悪感を抱くようになる。彼は白人の優位性を信じる人種差別主義者である事を隠そうとしなかったからだった。この二人が二十数年後、『ソーサラー・ブリンクマン事件』で協力して、この犯罪的魔法使いを追撃する事になったのは、皮肉であるというべきか。
さて、大学を出てドイツに帰って来た頃には、ローレンツは召喚魔法の第一人者になっていた。彼は、彼の恩師とも言うべき、ミュンヘンのヒトラーを訪ねた。
「その調子だ、同志キール。きみは『ウィザード』まで昇りつめるのだ」老人ホームで、点滴を受けている恩師はそう言った。

『ウィズ・ローレンツ』は目を閉じて、回想にふけっていた。バイザーをしているので、彼が目を閉じているとは誰も気が付いていない。
まわりには、日本の管理機構のお偉方が座っている。つまらぬ会食。日本人どもめ。黄色い肌、眼鏡、ぎざぎざの出っ歯。ローレンツは日本人が嫌いだった。自分の過ちが地味なビジネススーツを着て歩き回っているようなものだ。
『ウィザード』はゴールではありませんでした、同志アドルフ。ローレンツははるか昔に亡くなった恩師に呼びかける。『ウィザード』は、あのイギリス生まれの生意気な若造をのぞけば、有色人種ばかりで構成されているのです、同志。わたしは、『ウィザード』には、なれました。あなたのおかげです。あの半分日本人の魔女の助けを借りなければならなかったのは残念ですが。手段を選ぶな、とおっしゃったでしょう。同志アドルフ。
「いかがでしょう、『ウィズ・ローレンツ』」誰かが彼に話しかけていた。
「うむ。大変結構」彼は目を閉じたまま、判で押したように繰り返す。

アスカは、ベッドに横たわっていた。
シンジの事ばかり考えてしまう。最近、考えるといえば、シンジの事か、かあさんの事だった。目を閉じれば、柔らかい唇が、ゆっくりと離れて、彼女を見つめているシンジの顔が浮かんでくるのだった。あんな表情のシンジ、見たことがなかった。苦しそうで、悲しそうで。
冗談じゃない。アスカは思った。冗談じゃないわ。クスリの効果は切れたのだから。目を開ける。天井が見える。今度はかあさんの姿を思い出す。一日中なにもない壁をぼんやりと見ているかあさんを。
また目を閉じる。夢を見る。
部屋の真ん中にあの男が立っていた。ぴかぴか光る馬鹿げたバイザーを付けていた。『これは人類のためなのだ。より優れているものがウィザードとなって人類を指導しなければならない』その男は言う。
うそつき、うそつき。自分がなりたかったのよ。あんたの嫌いな日本人の血が混じる女から魔力を根こそぎ吸い取って。あんた吸血鬼よ。
『ちがう』ぷしゅー。蒸気を吐く。ばか、なんで蒸気なのよ。この時代に。あんたは十九世紀からやってきたのよ! 蒸気機関車や、頭に角の付いた鉄兜(てつかぶと)や、カイゼル髭(ひげ)や、パリの万国博覧会の時代からやってきたのよ! ぷしゅー。うるさいわよ! しゅ、しゅ、しゅ、しゅ。やめなさい! かあさんから、離れて。
目を開けた。夢から覚めた。
誰かがドアのノックしていた。
「ごはんだよ、アスカ」シンジのおどおどしたような声。体中の力が抜けていくような安心感をおぼえる。
「わかったわよ!」だけどわたしはどなり返す。いやな女だ。わたしはいやな女だ。きっと、もう嫌われているんだろうな。もっと嫌われたらいいんだ。アスカは思った。シンジはレイのほうを選ぶのだから、そのほうが、いいのだ。

碇ゲンドウ氏は不満だった。ここ何週間か、自分がのけものにされているような気がしていたのだ。あの『闇の王子』や、わしの馬鹿息子とあの生意気な小娘の騒動の間、わしは何をしていたのだ? と思った。
だいたい、あの『闇の王子』が悪いのだ。あの世間知らずめ。ニンジンは目の前にぶら下げておくべきなのだ。いきなりニンジンをやって、必死で食ってるときに、ぼくを乗せて走ってくれないか、なんて頼むやつがいるだろうか?
ゲンドウもまたアスカと同じで、シンジの平凡な顔を見るとむかむかした。ワシが中学生の時なんぞ、フォークダンスするだけで、どきどきもんだったんだぞ。ああマキコちゃん、元気かなあ。ゲンドウは三つ編みにしたかわいらしい女の子を思い浮かべた。ちょうちんブルマ姿がまぶしかった。色の白い子だった。手も握った事がなかった。なぜなら、その子は小柄で、ゲンドウはでかかったから、その子の順番になる前に曲が終わってしまうのだ。

「あなた、何をぼーっとしてるんですか?」
「いや、うむ。最近金相場も安定しておるなあ、と」
「そう……。郵便来てますよ」ユイは言った。
ゲンドウは、食卓の上で、その手紙を広げてみた。魔法管理機構日本支部内にある錬金術師協会からの手紙だった。
「ふむ……二十五年表彰だと……おや、明日になってるぞ」
「あら、こないだ二十年表彰もらったような気がするけど。えらく急に連絡してくるわね」ユイは言った。
「二十五年もたつのか……。我ながら、飽きずによくやるなあ」
「そうね。……ごくろうさま」ユイはほほえんだ。
「あ、ああ」ゲンドウは柄にもなく照れた。

アスカとシンジは、互いにそっぽを向きながらテレビを観ていた。女の子向けと言いながら、それにつきあって一緒に観るお父さんの方が喜びそうな、アニメ番組が映っている。
「……こんなエッチなアニメ、好きなのね」アスカは聞こえよがしに言う。
「ただ、かかってるだけだよ」シンジはそう答えると、リモコンを取ってチャンネルを変えた。NHKの七時のニュース。
『「ウィズ・ローレンツ」は首相官邸での晩餐(ばんさん)会に出席され――』キャスターが言う。
「こいつ、日本に来てるの!?」アスカが叫んだ。
「あら、知らなかったの? アスカちゃん。昨日か一昨日にやってきたのよ」
『明日は予定をいっさい入れず、ゆっくりと日本の春を満喫される……』
「へー」アスカは、四角いブラウン管の中の奇妙な格好をした男をにらみつけていた。
「アスカは、魔法アカデミーで、この人に会ったことあるの?」シンジは言う。
「あるわ! あたし、お風呂に入る」彼女は突然立ち上がり、居間から出ていった。その時、偶然にも玄関のチャイムが鳴り、アスカは戸を開けた。郵便配達が立っている。
「電報です」
アスカは電報を開けてみる。『上級魔女契約履行調査につき明日出頭せよ』
宛名は「アスカ・ソウリュウ」。世界魔法管理機構ならびにWWWAへのアスカの登録名である。
「おばさま、日本じゃこんな事あるの?」アスカは居間に帰って、ユイに言った。
「さあ、あんまり聞いたことないけど……。ちょうど明日主人が錬金術師協会の表彰なのよ。一緒に行く?」
「う、うん、どうやって行くの?」あの陰気な変人のオヤジと、二人きりでJRで行くのはいやだった。
「車で行こうかと思って。久しぶりに買い物したいから」
「いいわよ」アスカは答えた。

アスカが風呂に入り、ゲンドウが「徳川将軍吉宗が町人に紛れて大活躍する」という、SFファンタジーまがいの時代劇に夢中になっている時、ユイは台所にぼんやりと座っている息子に話しかけた。
「シンジ、あしたは、レイとゆっくり過ごしなさい」
「え? ……かあさん、いいの?」
「ええ、『闇の王子』にどんな返事をするにしろ、あなたがしっかりした気持ちを持たなくちゃね。それに、あなたは成長しているし、眠っていない時には、暴走は起きないでしょう」
「……ありがとう」シンジは答えた。
「お前が人類の未来を左右するなんぞ、ぞっとせん話だな、シンジ」ゲンドウは、テレビを観ながらつぶやいた。
「あなた!」
「プレッシャー、かけてるだけだ。『闇の王子』は怒り狂って、この世界を焼きつくすかもしれんなあ」明日雨が降るかもしれない、といった口調で父親はつぶやいた。
「あなたって人は!」ユイはソファに座っているゲンドウの両肩に後ろから手をかけて、ぎゅっと握った。
「お、そこ、そこ、ついでにもんでくれ……冗談だよ冗談。あのお方は、お前ごときが何をどうしようと腹を立てたりするものか」ゲンドウは言う。
「ばか」ユイはゲンドウの背中を、ぱん、とたたいた。
シンジはそんな両親を見つめていた。あんなふうで、実はとうさんとかあさんはすごく仲がいいんだ、と思った。

アスカは身体の隅々まで丹念に洗っていた。胸が、また大きくなったみたいだった。半年ごとに大きくなるような気がした。腰もくびれてくる。泡をシャワーで流し、湯煙に曇った鏡で、自分の裸身を映してみる。
わたしはきれいなんだろうか? アスカは思った。
唇を閉じて、上目遣いに自分を見つめてみる。せいいっぱい、かわいい表情。
わたしは、かわいいのだろうか? ……男の子にとって、魅力的な女の子なんだろうか?
顔を上向きにして、かすかに唇を開けてみる。せいいっぱい、セクシーな表情。
自信はないのだった。もっと胸が大きい方がいいんだろうか? ……シンジは。
いえ、アイツは、体長十五センチのホムンクルスでもいい、変態野郎なのよ。
アスカは湯船に入る。あたしは、あたしでもっと素敵な魔法使いと……。そう思ってから、なぜ魔法使いでなければならないの? と思った。なぜレーサーや、歌手や、冒険家や、オペラ歌手や、その、公認会計士じゃなくて、「魔法使い」なんだろうか?
考えてみれば不思議だった。アスカが知っている若い魔女たちは、まるで当然のように、若い魔法使いをボーイフレンドにする。魔法使いじゃない男の子が「本命」になるのはまれだった。
『魔法性差』というものがあることを、アスカは知っていた。魔法アカデミーであの男に聞いた事があった。男の魔法使いと魔女の自然な出生率は一:五。魔女の方が多くなる。そして男の魔法使いは数が少ない代わりに、魔力が強い傾向がある。科学的根拠はいっさい存在しない。そもそも魔法が使えるという科学的根拠もないのだから、魔法性差の根拠もないのだ。人間の科学ではわからない。
アスカは湯船の中に顔の下半分まで沈める。
魔女は、男の『ウィザード』を生み出すために存在する。あの男はそう言った。
ちがうわ。ちがう。

春の夜。アスカは髪を拭きながら、居間にいた。シンジがひとりでテレビを観ていた。家の中で二人きりになったのは、久しぶりのような気がした。
「お風呂入らないの?」アスカは、そっと声をかけた。
「いま、とうさんが行ったんだ」ブラウン管の中のにぎやかなタレントを観ながらシンジは答えた。
二人とも黙ってしまった。シンジは、ジャージ姿で床に座っていた。彼は相変わらず居間で寝ていた。もう、そんな心配はないのに、アスカは思った。少し背が大きくなったかも。半年でわたしを追い抜いたかも。
「どうしたの? 黙って」シンジは振り返らずに言った。振り返らずに言ってくれてよかった、と思った。わざとらしく目をそらさなければならないから。
「なんでもないわ。……おばさまは?」アスカは言った。
「庭にいるみたいだよ」
「そう」アスカは立ち上がり、勝手口に行った。ドアノブが不細工に修理されている。おじさまが『シゲル君』と二人で直したのだ。
アスカが庭に出ていく音を聞きながら、シンジはほっとしていた。晩に二人きりになって、声を聞いただけで、「固く」なるなんて、ぼくって最低だ、と思った。ひどく立ち上がりにくかった。

薬草を丹念に育てている菜園に、ユイがしゃがんでいた。暗がりのなか、モン吉を頭に乗せた『シゲル君』はペンライトを持って下を照らしている。
「どうしたの、おばさま?」
「あ、アスカちゃん。……これ、晴れた夜でないと出ないから」ユイはそう言って、ある草を指さす。
「あ……」アスカはしゃがんでそれに見入った。
スズランに似た花の花弁の中で、手足が妙に長い、小さな妖精が踊っていた。アスカは目を凝らす。妖精の顔には口も、鼻もなかった。猫のような黒い目だけが輝いている。
「……かわいい」アスカはつぶやく。
「ええ、……かわいいけどね、この花で三人分の『DeathWish』が作れるわ」
「『DeathWish』って?」なんとなく想像がついたけれど、尋ねてみた。
「飲むとね、無性に死にたくなるクスリ。暗殺とかに使われることがあるわ」ユイは平然と言って、アスカの顔をのぞき込む。
「なんてもの庭に植えてるの、って顔してるわ」ユイはほほえみながら言った。
「い、いいえ、とんでもない」
「いいのよ。『呪い』はね、陰湿で残酷なものだわ。人間の闇の部分そのもの。政敵、恋敵、嫌な上司、ライバル、その遺産が欲しくてたまらない長生きの老人。大昔から暗闇の中で、人間は呪ってきたわ……。『DeathWish』は精神に作用する魔法薬だから、当然、製造は禁止されてる。でも『呪い』専門の魔女だけに特別に、原料になる花の栽培が許可されているの。なぜなら、そのクスリによる呪いを祓うには、同じ花から解毒薬を作らなければならないから」
そう言って、ユイは、その花の根元にそっと手を添えて、土から引っこ抜いた。「あ」アスカは小さな声を上げた。花の中にいた妖精は蝋燭(ろうそく)の炎が消えるように、ふっと虚空にかき消える。
「……誰かがこの事を知っていて、悪用するかもしれない。だから抜かなければならないのよ。本当は資格剥奪日の翌日までにしなきゃならないんだけど、ふんぎりがつかなくて。この花だけ。あまりにきれいだから……」
「おばさま……」アスカはユイの目に涙がたまっているのを見た。やりきれなかった。
「さ、もうこれで最後のあきらめがついたわ! アスカちゃん、わたし完全に普通のおばさんになったわ」ユイは立ち上がり、花を腐葉土入れの中に捨てる。
「おばさま……」アスカも立ち上がった。
「こんな事になるならね、わたしシンジに『グノーシス』の秘儀をすればよかったって思うのよ」ユイは言った。
「……!」
「親ばかよね。そうしたからといって、シンジが『ウィザード』になれる保証なんて、どこにもないのに。きっと、なれないでしょうね。あの子程度の魔力では」
「……だめ!」
「え?」
「それだけはやっちゃだめ! あれは、一切の魔力を失うのよ。おばさまは資格が無くなっただけだから、また復活する可能性があるわ。でも、あれは、あれは何もかも無くしてしまうのよ!」
「アスカちゃん」
「すべてを失うって、どんなに恐ろしいことか……」アスカには、何もない壁を一日中見つめている母親の姿が浮かんだ。
「アスカちゃん、……もしかして?」
「それに親子でそんなことしちゃだめ! あの儀式は、あれは、あれは本当は」
「アスカちゃん、ごめんなさい、……あなたのお母さんって、もしかして」
「絶対だめ、絶対そんなことをしてはだめ!」アスカは叫んでいた。

帝国ホテルのロイヤルスイートの中で、『ウィズ・ローレンツ』は今や身体の一部になったバイザーを外していた。開放感よりもむしろ不安を感じるようになって久しい。彼はそれをベッドの脇のサイドテーブルの上に置き、読みかけの報告書を取り出して読み始めた。
報告書のバインダーの中に、あの手紙の写しが挟みこまれていた。
彼はその文面にざっと目を通す。
なんという、みっともない取り乱しようだ。彼は思った。上級魔女の認定は時期尚早だったのかもしれない。これでは普通の少年に片思いしている普通の少女ではないか。
魔法アカデミーで、厳格な規律、秩序の大切さをたたき込んだつもりだが、やはり駄目だったか。ローレンツは思った。どのみち下等人種との混血なのだ、やむを得なかったのかもしれん。
ローレンツは、バインダーを放り投げる。この娘ではなく、別の娘、もちろん完全なゲルマンの娘の上級魔女を見つけなくてはならない。そして完璧なゲルマンの、ブロンドの髪も美しい若い魔法使いを。
『超ウィザード』。『ウィザード』の中の『ウィザード』。
作れるはずだ。それこそ「超人」である。人間は、(この場合はゲルマン民族だけを指すのだが)「超人に向かって放たれた矢」なのだ。ローレンツはニーチェを引用した。
『超ウィザード』は『ウィザード体制』を超越し、すべての権力を掌握するのである。
『インヴォルブド・ピープル』とは、『来訪』が悪魔によってではなく、背後の大いなるものの意志によって起こされたという証左である。ローレンツは思った。それは陰画なのだ。世界の真の図式の陰画なのである。この世界には真(しん)なる人間と、亜人間がいるという図式の。亜人間たちに支配された世界魔法管理機構と国連は当然ながら『インヴォルブド・ピープル』の存在を隠蔽した。
彼らの世界が崩壊してしまうからだ。あらゆる人種が平等などという茶番を演じている世界が。人種間の能力差が存在しないなどという戯(たわ)言(ごと)への強烈な、真なる神の、皮肉なのだ。『インヴォルブド・ピープル』は。

また、そのうち「秘儀」をやらなくてはならない。電気を消し、目を閉じたローレンツは思った。八年前の、ヴォルフという青年とローザという女の「秘儀」を思い出した。どちらも、当時、もっとも優れた魔法アカデミーの生徒だった。
古い寄宿学校を改造した魔法アカデミーの講堂で、それは行われた。夏至の夜であった。薄暗い講堂に無数の蝋燭の灯りが揺らめいていた。古代ルーン文字の刻まれた巨大な石版の上に、赤い、分厚い絨毯が敷かれていた。
ローレンツは、真なる神、『ヴォーダン』に祈りをささげた。
雄山羊の仮面を付けた青年、ヴォルフが、赤いガウンをまとって現れる。同じく雌山羊(やぎ)の仮面を付けたローザという女も、同じ格好で現れる。
ローレンツは、雄(おん)鶏(どり)と雌(めん)鳥(どり)が交尾しているレリーフを取り出し、美しいブロンドの男女を祝福した。『性によってわれわれは真の自己と出会うのだ』ローレンツは言った。それは祝言であり、言霊だった。
若い二人はガウンを脱いだ。全裸だった。女は絨毯の上にあおむけに寝そべった。青年は彼女におおいかぶさる。

アスカは暗闇で目をさました。恐ろしい蝋燭の揺らめきが、目の奥に残っているようだった。汗をかいていた。罪悪感が潮のように押し寄せてくる。怖かった。『性によってわれわれは真の自己と出会うのだ』、呪文のように、その言葉がこだましていた。
わたしは、ずっとちびだったわたしは、あの男の後ろで震えていた。あの若い男女は何をしているのだろうと思った。誰かが言った。あれは死の儀式で、人は死に、生まれ変わるのだ、と言った。『このデミウルゴスに作られた出来損ないの肉体の牢獄(ろうごく)から、我らを解放せよ』。
アスカは目を閉じた。どうかわたしを眠らせてください。闇は舞い降りてきた。助けて、シンジ。アスカは半ば夢の中で叫んだ。助けてシンジ。わたしはバラバラになりそう。

朝になった。
アスカは、何事も無かったように、パジャマを脱いで服を着た。黒いワンピースである。彼女は一階に下りていった。シンジがいた。
「あれ、今日練習しないの?」彼はジャージ姿だった。
「バカ、今日は魔法管理機構の日本支部に行くのよ」彼女は言った。
「あ、そうだっけ」
「そうだっけ、じゃないわよ、バカ」そう言いながら、まるで南極の氷が溶けるように安心感が広がっていくのを感じていた。
「ご飯食べて行くんだろ?」
「もちろんよ。突っ立ってないで、トースト焼いてよ」アスカはそう言って、食卓の定位置につく。ほおづえをついた。
「うん」シンジは、素直に答えて、トーストを二枚、オーブントースターに入れた。アスカは、赤い光を浴びている食パンを眺めている。二枚、仲良く並んでいた。それを見て、ふいに、あたしたち一緒に住んでるのね、と思った。あたりまえのことだった。
「あれ? デニッシュの食パンの方だった?」
「いいの、普通ので」アスカは答えた。そして一瞬考えて、つけ加える。
「コーヒーもいれて」
「インスタントしか、いれかた知らないよ」シンジはやんわりと抗議するように言う。
「インスタントでいいわ」
「うん」
シンジは、湯沸かしに水を入れ、ガスコンロにかける。食器棚から、アスカがいつも使っている大きなマグカップを取り出して、インスタントコーヒーの顆粒(かりゅう)を入れる。アスカは、その背中をじっと見ていた。
ちん。トーストがキツネ色に焼けている。
「……バター塗って」アスカは言った。
「あ、ああ。いいよ」シンジは冷蔵庫からバターの容器を取り出し、アスカのパンに丁寧に塗っている。まるで小さな子が工作をするようだ。
「塗りすぎ?」シンジは顔を上げる。
「ううん」アスカは答えた。
お湯が沸いている。
「お湯沸いたわよ」アスカは言った。
「うん」シンジは答えて、立ち上がり、カップにお湯を注(そそ)ぐ。やっぱりアスカは、その背中を眺めている。
「はい」シンジは、湯気の立つカップをアスカの前に置く。
アスカはそれを両手で持ち、口へ持っていく。白い湯気の幕の向こうで、シンジは自分のパンにバターを塗っていた。わたしのトーストよりも、乱暴に塗っている。それが、意味もなく、うれしかった。
アスカは、すっかり、落ち着きを取り戻した。とにかく、ここにいれば、なにも怖いことはないのだ、と思った。

碇ゲンドウは妻に起こされた。
「ほら、今日は出かけるんですよ、あなた」
ゲンドウは薄目を開けて、妻の顔を見た。小皺(こじわ)が増えてるぞ、ユイ。ふいにゲンドウは手を伸ばし、妻の首に手をかけて引き寄せ、キスした。舌をそっとユイの口の中に入れてみる。
「……ん。……こら」ユイは困ったように、言った。ゲンドウは、なんとなくエッチな気分になってきた。新婚のころ、よくこんなことやってたなあ、と思った。
「……あなた、シンジが起きてるわよ」そっと離れたユイが、小声で言った。
「うむ」ゲンドウは起きあがった。

「じゃ、出かけてくるわね」ユイはシンジに言った。
それから、一時間後の午前八時、三人は玄関先に立っている。シンジは家の中から見送っていた。留守番を言いつけられた使い魔のサル、モン吉は二階からすねたように大事な主人を見送っていた。
「うん、気を付けてね」シンジはそう言いながら、黒いワンピースを着た、アスカをちらっと見た。目と目がいきなり合った。普段はすぐに彼女の方から目をそらすのに、今日はそらさなかった。長い間、といっても時間にすれば、ほんの一、二秒の間、二人は見つめ合っていた。

碇家の自家用車はなんとガイシャである。名前をローバー一一四という。イギリスの、ちっちゃな車である。小さくて安い割に、本皮のシートとウォールナットのダッシュボードを持つ英国流の車なので、イギリス流のインテリアや小物が好きな碇ユイが、おおかた十年前に選んだ。
碇家においては、他の様々な事と同じように、車に関することも主婦のユイが決定権を持っていたのである。
なにせ、碇ゲンドウは運転免許証を持っていないのだ。そもそも若者の頃から出不精なうえに、『錬金術師』などという、あんまり外に出なくてよい職業に就いたものだから、自動車の必要性を感じなかった――というのが公式の見解である。じつは、ユイすら遠慮して言わないのだが、ゲンドウは免許を取れないのだ。理由は簡単、教官とけんかするのだ。碇ゲンドウほど、「人にものを教わる事が嫌い」な人間はいない。
ユイと結婚してすぐに免許を取りに行った事はある。しかし毎日のように教官と口論になり、あげくのはては怒って帰ってしまうものだから、補習に補習費用がかさんで家計を圧迫した。それで途中で止めてしまったのだ。
「車の運転が出来るぐらいで、なんであんなに偉そうなんだ、アイツらは」ゲンドウはその時毒づいた。まだ初々しい新妻だったユイは、こんなに人にものを教わるのがキライなのに、よくわたしの行ってた大学に合格したわね、と思った。
そんなわけで、碇ユイは小さなイギリス車のハンドルを握り、車を、坂道を利用した半地下の車庫からバックで出していた。
アスカは助手席、ゲンドウは馬鹿でかい身体を畳むようにして、後ろの席に座っている。
車は走り出した。碇家の前の長い坂道を下っていく。アスカは振り返った。むっつりとした顔のゲンドウと目があった。アスカはあわてて前を向く。家を見たかったのに。

シンジは居間にいて、なぜ、ぼくはここにいるんだろう、と思っていた。かあさんは、かまわないと言ったじゃないか。むしろ気持ちを確かめろ、と言ったじゃないか。じゃ、なぜレイのいるとうさんとかあさんの寝室に、すぐに行かない?
アスカの事を考えていたのだ。あの雨の夜の、すべすべしたアスカの肌の事を思い出していたのだ。あのきらきら光る、暗く青い瞳を思い出していたのだ。そうだ。カヲルくん、『闇の王子』の言うとおりだ。現実の女の子は素晴らしい。ぼくは、後悔している、とシンジは思った。情けなかった。あのままじゃだめに決まってるじゃないか、と思った。
少年は立ち上がった。
寝室に行った。
戸が開く音に反応して、インスタントコーヒーの瓶のような、丸いガラス瓶の中の小さな妖精が、ちょこんと顔を上げて、そして入ってきたのがシンジだとわかると、うれしそうに、くるくる瓶の中を回った。
シンジ。シンジ。来てくれたの! シンジ!
「うん……今日は一緒にいていいって、かあさんが言ったんだ。だから一日中一緒にいよう」シンジは心の中で言った。
うれしい、うれしい。シンジ。うれしい。
レイは本当にうれしそうだった。シンジは、じっとそんなレイのかわいらしい仕草を見ていた。ごめんよ、レイ。シンジは思った。同じ部屋に一緒にいるときは、いつもレイの事を考えていたのに。最近、レイの事を忘れている時があるんだ。
「ごめんよ、レイ」
どうして、どうして。シンジ。ホムンクルスは首をかしげる。
「ごめんよ、レイ。あの、……アスカは、ぼくを好きになるクスリを飲まされていたんだよ」
いいのよ。いいのよ……シンジ、いいのよ。ふつうのおんなのこは、きれいでしょ? かわいいでしょ? ……ふれてみたら、きもち、いい? ……キス、どうだった?
「どうだった……って、キスは、その、キスだよ」シンジは、とらえどころのない感情で胸が一杯になるような気がした。レイは、ぼくとキスしたいんだろうか? ぼくに髪をなでてほしいんだろうか?
……シンジ。シンジ、わたしも、シンジにふれてほしい。キスしたい。あめの、さむいよるに、いっしょのベッドでねむりたい。
「ぼくもだよ……レイ」シンジは心の中でレイに答える。
シンジ、シンジ。わたし、ふつうのおんなのこになりたい。
シンジは一瞬、巨大なクリスマスツリーのある広場にいた。レイを、人間にすることは出来ないんだ、という絶望がよみがえる。あれから四ヶ月以上たって、いろんな事があって、ぼくはわかった。あれは『絶望』だったんだ。それまで、生まれてから『絶望』したことがなかったんだ。だから、なぜ自分が泣いているのか、わからなかったのだ。何かが欲しいとねだった事はあるけれど、真剣に何かを望んだ事がなかったから、絶望することはなかったのだ。
「うん……」それだけしか言えなかったのだ。

そのころ、ゲンドウとアスカを乗せた車は高速道路をひた走っていた。
運転するユイが、アスカにしきりと話しかけるものの、アスカはなにか考え事に夢中の様子で、生返事ばかりしている。
ゲンドウはいつものようにむっつりと黙って、怪しげな実験の計画を練っていた。以前書いたように、錬金術師はあまり勤勉に仕事をしてはいけないという、恵まれているのだかいないのだかわからない職業なので、『研究』と称する暇つぶしをしなければならないのだ。別に他の仕事もすればいいようなものだが、「兼業錬金術師」というものをあまり聞いたことがない。
その暇つぶしで、偶然画期的な新発明をしてしまい、億万長者になった錬金術師も、何十年も前にいるにはいるのだが、ゲンドウの思いつくもので、まともに特許のとれそうなものはない。
ついでに、ここで『錬金術師』と『錬金術士』の違いを説明しておこう。変換ミスなどではない。この両者には区別がある。英語ではAlchemistだが、何事も細かく区別したい日本の魔法学者にとっては表記を変えるほどの差がある。
簡単に言うと、『士』の方が『来訪』以前、錬金術研究がキリスト教の圧迫の下で、結果的には科学の発展に寄与すること大であったAlchemistであり、『師』の方が『来訪』以後、科学的探求という側面を失い、投機目的と見られがちなAlchemistなのだ。
われらが碇ゲンドウ氏はもちろん錬金術師である。
「かあさん、どっかでコーヒー飲みたい」そのゲンドウがつぶやいた。
「さっき、家出たばかりのような気がするわ」ユイが言った。
「もう一時間以上たっているような気がするぞ。飲みたい飲みたい」
「もう、うるさいわね……コーヒーぐらいで騒がないの……アスカちゃん、ナイフとフォークの絵付いてる標識見ててね」
「……うん」アスカは答えた。
あなたは、どうみたって息子に恋してるように思えるわ、ユイは隣に座っている少女を見て思った。本当に恋に落ちてしまったのかもしれない。そして、あなたがいま感じているのは、嫉妬なのかもしれない、ユイは思った。

シンジは、気持ちのいい春の朝の町を歩いている。半袖のポロシャツを出してきて、着てみた。全然肌寒くはない。素肌に当たるガラス瓶がひんやりと感じられた。そうだ。シンジはレイをガラス瓶ごと抱えて歩いているのだった。
すれ違う人がみな、少年の持っている水のような液体の入っている瓶に視線をやる。そして一様に驚きとけげんそうな表情を浮かべるのだった。魔法なぞ珍しくもない街だけど、錬金術師は街に一人しかいないし、ホムンクルスなどというものは、存在を知っていても見るのは初めての人ばかりなのだ。
シンジは、人にジロジロ見られるたびに、「恥ずかしい」と思ってしまう自分を、恥ずかしいと思った。レイに対して恥ずかしいと思った。
だから目をそらさずに歩こうと思った。あのクリスマスイブの日、ぼくはレイをダウンジャケットの中に隠して歩いたのだ。まるで犯罪者が麻薬でも隠すように。
……これがまち?
「そうだよ。ぼくの住んでいる町だよ。この大きな道をずっと歩いていくと電車の駅がある。その電車に乗ったら、あの雪が降っていた夜の、大きな木のある場所に行けるんだ」
あ、あれ、また、みにいきたい!
「あれはもう無いんだよ。冬の間だけなんだ」
ふゆ……?
「寒い季節の事なんだ。一年間、熱かったり寒かったりするんだ」
小さな白いホムンクルスはきょとんとしていた。レイは何も知らないんだ、シンジは思った。瓶の中の培養液に浸(つ)かっていないと死んでしまうのだから。
そして、きっと人間の平均寿命の、十分の一しか生きられないのだ。『闇の王子』の言った事を考えてみた。アイツにレイを渡したら、レイは永遠に生きることが出来るとアイツは言った。
なにか、むずかしいこと、かんがえているの?
「ううん、ごめん。もう少し歩こうか?」

緑色のローバーは、高速道路の上り下り兼用の、小さなサービスエリアに入った。ゲンドウは自動販売機のアイスコーヒーを買った。同行の妻と居候の少女のために何か買ってきたりするような気の利く男ではない。ユイとアスカは、ゲンドウの後ろに並んで、ジュースを買おうとしていた。
「これで首都高速が空(あ)いていたら、一時間も前に着いちゃうわね」ユイは言った。アスカは日本の地理の事は何も知らなかったから、答えなかった。
彼女は、大好きなウーロン茶を買った。紙コップの中に茶色の液体が落ちていく。
ぴー、ぴー、ぴー。アスカは紙コップをつかんで、車の中で飲もうと振り返った。そして巨大な黒いリムジンがバックするのを見た。その車の先っぽに、赤い小さな旗が風にひらひら揺れているのを見た。真紅の旗には、見慣れた古代のルーン文字のシンボルが黒で描かれていた。
ぱちゃ。アスカは紙コップを落とした。
「な、なにをするのだっ。バカモノ」ズボンの裾にウーロン茶がかかったゲンドウが文句を言った。
「……あれ、あいつ、……あの車」アスカは興奮して声が出なかった。
「どうしたの?」ユイが声をかけた。
「あれ、あの車」アスカは走り去る黒い大きなキャデラックのリムジンを指さした。
「あのリムジンがどうしたの?」
「『ウィズ・ローレンツ』! あの車には『ウィズ・ローレンツ』が乗ってるのよ!」
「え?」ユイは視線で車を追った。車は、彼らとは逆方向、東京から離れる車線に入っていく。
「あの旗……あの車に付いていた旗見た?」
「見なかったわ」
「『ウィズ・ローレンツ』の紋章なのよ。十字が鈎(かぎ)のように曲がってて」
「あの、梵字(ぼんじ)でいう『卍(まんじ)』のようなもの?」
ユイはアスカがわからないようだったので、空中にその字を書いた。
「それそれ、でも、えと、渦巻きが逆なのよ。かつてゲルマン民族が大移動する前から使っていたルーン文字の太陽のシンボルの、逆の渦巻き」
「まあサンスクリット文字を作ったのも、同じアーリア人だからな」ゲンドウがつぶやいた。
「でも、あなた、聞いた事がある? 『ウィズ・ブリティッシュ』の向かい獅子(じし)は有名だけど、わたし知らなかったわ」
「ワシもしらんな」
「魔法アカデミーでしか使われないのよ! アイツはめったにドイツから出ないから」アスカの脳裏に、赤い絨毯が浮かんだ。その上に寝そべっている裸の男女の、悪夢のような記憶がちらりと脳裏をよぎった。その絨毯にも大きく描かれていた印。
「でも護衛も付けずに、ああやって走ってるの?」
「『ウィズ・ローレンツ』に護衛なんかいらないわ! 完全武装した歩兵一個師団に攻撃されたって、顔色一つ変えないって言われてるもの。――でもどこへ?」
アスカは、心の奥から不安がシミのように広がって行くのを感じた。シンジと朝御飯を食べた時の、とろけるような安心感の分量はすべて不安に変質してしまったみたいだった。
「おおかた、日本観光だろう。京都とか。わしらも出発しないか」ゲンドウは言った。
三人は車に乗った。
「……今から京都に車で行くなんておかしいわ……。だってそうじゃない。明日帰るってテレビで言ってたのに! 京都観光なら、飛行機で前の晩から行ってるはずよ」
「アスカちゃん、落ち着いて」ユイは言った。
「だって、変じゃない? アイツ、どこへ行くつもりなの?」
ユイは黙ってしまった。
「『コナン・ドイル』って小説家がいてな」ゲンドウは突然、妙な事を言い出した。
「あなた、こんなときに」
「黙って聞け、その人は『来訪』の様子を小説に書いたので有名なんだが、もう一つ『シャーロック・ホームズ』て探偵小説シリーズでも有名なのだ。その中に『赤毛同盟』というのがあって、悪人どもが、ある赤毛の男を『赤毛同盟』という架空の団体をでっち上げてだますという話なのだ。つまり毎週何曜日かに会合があるとな。なぜそんなことをしたのかというと、その男に、定期的に外出して欲しかったのだ。不自然ではなく、な。男の家は銀行かなんか忘れたが、その隣にあって、悪人はその男の家の下にトンネルを掘っておったという話だったかなあ」と、ゲンドウは、珍しく長いセリフをしゃべり終えた。
「それで終わりなの?」アスカは言った。
「うむ」本当にしゃべり終えたらしい。
「だから、なんなの! おじまさま!」
「ちがうわ、アスカちゃん、なんで、あたしたち外出してるの? ――シンジとレイを残して?」
「『魔法管理機構』日本支部! でも、じゃ……。でも、おばさまが運転するとは限らないじゃない。わたしとおじさまが電車で行ったら、おばさまが残るじゃない」
「だが、ユイは今では魔女ではない。魔法を使うと罰せられる」ゲンドウは言った。
「おばさま引き返して! 家へ帰りましょ!」
「アスカちゃん、でも」
「お願い! お願いだから、引き返して!」アスカは必死に叫んでいた。
ユイは、車を発進させ、東京とは逆の方向へと続く進入路へと向かっていた。
「……おばさまの資格剥奪から仕組まれてた……」アスカはつぶやいた。
「それは推測の域を出ないわ、偶然の一致かもしれないし」しかし、もしそうなら、許せない、とユイは思った。
ユイ高速道路の一般車線に合流した。スピードを上げた。八○、九○、一○○。メーターの針は勢いよく右に動く。加速は一五○キロで終わった。それがこの古ぼけたローバーの最高速度なのだ。

「ここが商店街。一○時前だから、あんまりお店は開いていない」
――しょうてんがい、って?
「お店がならんでいるところ」
――おみせって?
「いろんなものを売ってるところだよ」
――いろんなもの、ってどんなもの?
「そうだね……ここは魚屋、魚を売っている。ここは化粧品屋さん、ここは本屋さん、ここはハンバーガーを売ってるところ」ハンバーガーショップは開いていた。カラー舗装した道に、明るい光がこぼれている。
……。
シンジは、レイが全部聞きたそうにしているのに、我慢している、と思った。きりがないのだ。レイは何も知らないのだ。聞かれなくてよかった、と自分が感じているのに気がついて、罪悪感を覚えた。
「よう、センセ」そのハンバーガーショップから、鈴原トウジが出てきた。
「あ、鈴原くん」シンジは、とっさにガラス瓶を隠そうとしたが、やめた。
「おら? なに抱えてるんや」鈴原はガラス瓶の中をのぞき込む。レイは瓶の中いっぱいにひろがる見知らぬ男の子の顔をにらみかえす。
「……裸の女の子の格好しとるぞ……あ、動きよった……なんや、これ」
「ホムンクルスだよ」
「ホムンクルス……? ああ、あの錬金術師が作れる人工生命やな」
「う、うん、ま、そうだけど」シンジは奇妙な不快感を抱いた。
「おやじさんが作ったんか?」
「うん」
「すごいなぁ、オマエんとこのおやじ。おれのおやじが作れるいうたらLSIぐらいや」鈴原の父はこの町のはずれにある半導体工場の技師なのである。
「そのほうがすごいとおもうけど」シンジは父ゲンドウの事を思い浮かべる。うん、絶対LSI設計出来るほうがすごい、と思った。
「あ、碇くん」ハンバーガーショップから洞木ヒカリが出てきた。
「やあ、……なんだ、二人いっしょだったのか」シンジは言った。
「ち、ちゃうって、偶然ここでばったり会っただけや」鈴原は妙にあわてている。シンジはおかしかった。うそつき。デートで待ち合わせていたんだ。
「碇くん……それが『レイ』なの?」ヒカリは言った。
「うん」
「……そう」ヒカリの表情は曇っていた。シンジはそれに気がついた。
「そ、そうだ、ぼく用事があるんだ。思い出した」シンジは別の通りの角の方を見た。
「ああ、明日ガッコでな」鈴原は安心したように言った。
「じゃあね」ヒカリはまだ沈んだ声で言った。
シンジは背を向けて歩き始めていた。振り返ってみた。鈴原と洞木は並んで歩き去っていた。シンジは、ふと洞木ヒカリの髪の留め方が、学校で見るのと違っているのに気がついた。二つに分けずに、ポニーテールにして、白いリボンを付けていたのだ。その洞木に鈴原が話しかける横顔がまた、学校ではあまり見せない、やさしい表情だった。
ふと下を見た。ガラス瓶の中で、レイもまた中学生のカップルを見ているのだった。胸のどこかが、痛んだ。
……あのひとたち、シンジのともだち?
「え? ……そうだな、友だちってほど親しくはないけど。どっちも同じクラスだよ」
……なか、よさそうね。
「うん、つきあってるんだね」
……シンジと、ならんであるきたい。あんなふうに、かみにリボンをつけてみたい。いっしょに、ごはんたべたい。てをにぎってほしい。かたを、だいてほしい。
「レイ」
……にんげんのおんなのこになりたい。シンジといっしょにあそびにいきたい。
「レイ、待って」シンジは歩きながら言った。喉の奥に、バスケットボール大の何かが、つっかえているような気がした。
……シンジ      シンジ。
すき。     すき、   すき。        すき。
すき。         すき。    ……すき。
「レイ、待ってくれ。……ぼくも君が好きだよ。でも、きみが普通の女の子に生まれていたら、ぼくの事を好きになってるだろうか?」
……え?
「ぼくは、成績だってよくないし運動も出来なくて、学校じゃあんまり、その目立たないんだ。ともだち、っていえるともだちもいない。町で一人しかいない錬金術師の息子であるってことと、魔法使いの卵であるってことだけが、とりえ、というか特徴なんだ……きみが普通の女の子だとして、そんなやつ、好きになるだろうか?」
……ちがう、シンジ。そんなのどうでもいい。わたしはシンジがすき。
君は体長十五センチのホムンクルスで、ガラス瓶の中から出られなくて、ぼくがただ一人話ができるから、ぼくを好きなんだ。ぼくの事が嫌いだったら、外界に背を向けなければならないから。とてつもなく好きになるか、嫌いになるかどっちかしかないんだ。普通の女の子みたいに、ちょっと好き、とか、なんとなく虫が好かない、なんてありえないんだ。
シンジは家に向かって歩いた。苦しかった。
そのシンジのあとを、暗い影のようなチョウチョがひらひらと舞ってついて行く。道行く人はだれもそれに気がつかなかった。チョウチョはふるふると震えると、二つに分かれ、片方がひゅん、とはじけるように消えた。

『ウィズ・ローレンツ』はリムジンの後部座席に座っていた。耳元に、小さなバッタのようなものが虚空からしゅぽっと現れた。
『あの少年は家へ向かっているようです、マスター』その精霊はささやいた。
「ご苦労」ウィザードは言った。精霊は揺らめいて消えた。
ともかく、家へ行けばよい。彼は黒いガラスで仕切られた運転手に通じるインタホンに向かって言った。
「カール、予定どおり家へ行ってくれ」
「わかりました! ……『ウィズ』」
「なんだね?」
「この車は追跡されていますっ」インタホンから運転手の若い声が響く。
「敵対性追跡者か?」
「お待ちください」カールという運転手は、ダッシュボードについている小さな鏡をちらりと見た。鏡の中に、ぼんやりとした鬼のような顔が現れた。
『……敵対傾向オレンジ。妨害を進言します、マスター』
「わかった」正しい金髪碧(へき)眼(がん)の運転手は答えた。
「『鏡』に妨害を勧められました。『ウィズ』?」彼は後部座席に通じるインタホンに向かって言った。
「やれ」

ローバー一一四は、いまにも分解するかのように上下左右に揺れていた。
「エンジンが焼き付いちゃいそう!」ユイは叫んだ。
「お願い、なんとか家までもって!」アスカは叫んだ。そのとき、遥か彼方(かなた)に黒い車が見えた。
「見えたわ! あれ」アスカは叫んだ。
「到底追いつけないわね」ユイはつぶやいた。しかし車の床が抜けるほどアクセルを踏みつけている。
上空から見れば、大きく長い黒のキャデラックエルドラドリムジンと豆粒のようなローバー一一四の奇妙な追っかけっこに見えるだろう。派手なカーチェイスのある刑事もんみたいだ、後ろの席で丸くなっているゲンドウは思った。ひょっとして女ども、心のどっかで楽しんでないか、と思った。もちろんそんなことをユイの前で口にするはずがない。
次の瞬間、信じられない事が起きた。前方五○○メートル先の中央分離帯のヘッドライト遮蔽版をべきべきなぎ倒しながら、正面から巨大なトラックが近づいてくるのだ。
「な、なによー、あれ!」アスカは叫んだ。
高速道路で正面衝突という悪夢が迫ってきた。トラックのライトやラジエターグリルがまるで巨大なオーク鬼のように見えた。
「アスカ! 『遮蔽魔法』! 『慣性質量中和』!」碇ユイは有能な指揮官だった。
アスカもまた魔法アカデミーで軍事訓練を受けた優秀な兵士だった。彼女は一瞬にして『レベルE(物体遮蔽のみ)』の『遮蔽魔法』で、小さな車を包みこんだ。小型のローバーを、ドーム状の目に見えない壁が覆った。同時にユイはフルブレーキをかける。ききききききーっ。タイヤから白煙が上がった。
一秒後、大型トラックがその壁に激突した。一瞬、車の中の全員が思わず目を閉じた。
ぐわーん。遮蔽フィールドの中で、空気がぶるぶると振動した。耳がつーんと痛くなる。トラックの下の方がひしゃげる。
ゲンドウは、地面のアスファルトがめきめきと裂けていくの目にして肝を冷やした。球体の遮蔽フィールドごと押されているのだ。中和しきれなかった巨大な慣性質量が、わしらの車をフィールドごとはじき飛ばそうとしているのだ。
小さなローバーは斜めになり、左のガードレールにぶちあたった。
「きゃ」アスカは小さな悲鳴をあげた。
ユイは冷静だった。バックミラーで後続車との距離を確かめている。
「アスカ! 『遅延魔法』! 早く! 追突されるわよ」
「はいっ」アスカは傾く車の中でほとんど真横になりながら、後ろに遅延フィールドを張った。
後続の車の運転手はもちろんブレーキを踏んでいたが、自分の車が突然亀のようにのろくなるのを感じた。いーーたっーーーい、なーーーにーーーがーーーーおーーーきーーーたーーーんーーーだ。脳神経の電気パルスまで遅延しているのである。
「あなた、車から出て、三角板を出して!」
「うむ」ゲンドウは傾いた車の窓からよいしょっとはい出して、開いた後ろのハッチドアから、高速道路上での停止車がいることを示す三角板を出して、遅延したままの後続車の後ろに置いた。
帰ってくると、アスカとユイも車からはい出していた。
アスカは、フロントがひしゃげたトラックの運転主席によじのぼった。
「う、うーん……何が起きたんだ?」中年の運転手はアスカに向かって言った。けがはないようすだった。慣性を中和していなければ、大けがをしていたかもしれなかった。
「あんたっ! 居眠り運転してたの?」アスカは怒鳴った。
「ちがう、……ちがう。運転してたら正面に……その」
「その、何よ!」
「馬鹿でかい『馬ふん』の山が現れたんだ。そして、上の方に『逆走』って大きな赤い文字が」
魔法だ……。アスカは思った。
彼女はトラックから、ガードレールにめり込むように横転した車に戻った。
ユイが、車の脇に立っていた。
「魔法よ、おばさま!」
「でしょうね」
「私たちを殺す気だったんだわ!」
「それは違うわ。殺す気ならば、直接攻撃魔法でくるでしょう? ……おそらく魔法を使えるものが乗っている事は承知していたんでしょうね。ただ目的地に着くのを妨害したかった」
ユイは横転した古いローバーの熱いタイヤに、そっと触れた。
「その目的は達成したみたいね……」
「いえ! まだだわ! この程度であきらめてたまるもんですか!」アスカは叫んだ。
彼女は再びトラックに走っていって、運転手に向かって言った。
「あんた箒、持ってない?」
「へ?」
「木で出来た棒のようなものなら何でもいいわ! 持ってないの?」
「あ……、バットなら持ってるが」
「なんでバットなんか持って運転してるのよ?」
「そんなもん俺の勝手だろ」そう言って中年の運転手はアスカに、手あかまみれの古いバットを手渡した。真ん中に黒のマジックで『根性』と書かれていた。
「子供が書いたんだ。やるよ。……でも、まさかそれで俺を殴る気じゃ?」
「あ、あんたばかぁ? そんなことしないわよっ」
アスカはバットを持って走ってきた。
「アスカ! それで飛ぶ気じゃ?」ユイは叫んだ。
「これで飛ぶ気よ! 先に行ってるわ」アスカは古いバットにまたがった。精神を集中している。風よ……大気の精霊たちよ、我をして鳥のごとく飛翔(ひしょう)せしめよ!
「アスカ!」
「なに!?」
「わたしたちは幸いけが一つしてないわ! ……だから『ウィズ・ローレンツ』に手をだしちゃだめよ!」
「……わかってるわ」たぶん、アスカは思った。
ぶんっ。アスカは五メートルほど浮き上がった。ふらふらしていた。普段の箒では無い上に、裸ではなかったので、調子が出ないようだった。
「行けぇ!」しかし彼女は、新緑の香りがする魔法風を、身体を中心にした釣り鐘状に噴出しながら発進した。十数台停止していた後続車から、驚きの声があがった。
確かにあの娘はすごい、ユイは思った。それでも、五○キロ以上のスピードが出ている。
警察と道路公団に電話をかけた終えたゲンドウがぶらぶら歩きながら、飛び去って行く少女を眺めていた。黒いスカートがひらひらして、面白かった。
「……なあ、ユイ」ゲンドウは妻に声をかける。
「なに?」
「なにも、あの娘が、あんなに必死にならんでもいいのじゃないか?」
「え?」
「『ウィズ・ローレンツ』はたぶん、わしらの息子を脅したり、すかしたりして、あのホムンクルスを『闇の王子』に渡せと説得するつもりなのだろう、それならば、それでいいのではないか? なにもあの娘がそれを邪魔する理由は」
「それくらい、あの子にもわかってるわ!」ユイは、アスカが消えた西の空を見上げながら言った。そして、悲しげな声でつけ加えた。
「……きっと、自分でも、どうしようもないのよ」

「ほんとうに『イアンナ』って言葉聞いたことないかい?」シンジは自分の勉強部屋の机の上にレイのいるガラス瓶を置いて、話しかけていた。ずいぶん久しぶりだった。
……ないわ、シンジ。ないわ。わたしは、めをあけたら、わたしだったの。あなたのおとうさんがのぞきこんでて……。
「ふうん」シンジは、椅子に座り込んだ。
……シンジ、シンジ。
「なんだい?」
……いっしょにベッドにはいりたい。……だめ?
「いいよ」シンジは、ガラス瓶を抱きかかえて、マットレスしか残っていないベッドの上に横たわった。
目を閉じた。レイの想いが、瓶を通して胸に伝わってきた。
シンジ、シンジ。シンジ。おねがいだから、いっしょにいて。わたしがしぬまで、そばにいて。……おねがい。
せつなかった。ぎゅっと目を閉じても涙がにじんでくるのだった。いったい、なにをどうしろって言うんだ。ぼくに何が出来るっていうんだ!

シンジ。       すき。        シンジ。
シンジ。      すき。
シンジ。    すき。  すき。      シンジ。   シンジ。
シン、ジ。
ぼくは、ウルクのほこりっぽい都に立っていた。都のそばには麦畑があった。川沿いにそってある狭隘(きょうあい)な平野いちめんに麦が植わっているのだ。もうすぐ収穫だ。麦からはパンが作られる。ビールが造られる。ぬるいビールだ。ぼくは都の門をくぐり、中央にあるジグラットに向かう。石段を登る。とくべつ、暑い日だ。汗が滴り落ちる。突然、ぼくは神官の一人に呼び止められる。貴様のような身分のものは、ここに来てはいけない。そうだ。ぼくのような身分のものはここに来てはいけない。その日のビールすらありつけない日があるのだ。神官はぼくを羊臭い、と言った。そうぼくは羊飼い。

シンジ。      シンジ。

夜がやってくる。神々しい月が昇る。丘の上からぼくは月を見ていた。はるか向こうには都の城壁がまるで、うずくまったライオンのように見える。ぼくは、眠るために家がわりの洞窟へと歩いていく。その時、信じられないものを目にしてしまう。女神が舞っているのだ。一糸まとわぬ姿で。その舞の下の灌木(かんぼく)に、まるで音楽のような軽やかな衣があった。美しい衣だった。ぼくは思わずその衣を手に取った。水のようになめらかな布だった。それからぼくは衣を手にして、しばらく女神の舞を見ていた。女神はふとぼくに気が付いて、地上に降りてきた。「あの……衣を返してくれませんか?」アラバスターの肌と、水晶の髪と、ルビーの瞳の女神は、困ったように、そう言った。まだ少女のように見えた。「ああ、ほら、返します」ぼくは返した。「……なぜ、返すのですか?」女神は首をかしげた。「返せって言ったからです」ぼくは答えた。「……なぜ、『返すかわりに言うことをきけ』と言わないのですか? あなたは、そうしていたら、あらゆる富、あらゆる美女を手にしていたのかもしれないのに」「だって、返してくれって言ったから。困ってるみたいに見えましたよ」驚いた事に女神はぼくの首に、両腕を巻き付けた。大きな真珠のような乳房がぼくの胸にあたった。

シ    ン    ジ。

「あなたには、妻がいないの?」
「ええ、ぼくは妻をめとる事も出来ないほど貧しいのです」「あなたの住まいは?」「あの、洞窟です」「そこへ連れていって……」ぼくは、力を抜いてぼくにしなだれかかってきた女神を抱き上げて、洞窟へと連れていった。そして、ぼくはそこで女神を抱いたのだ。はじめてだった。ぼくは三日三晩、むさぼるように女神を抱いたのだ。月の神、ナンナルの娘だったのだ。イアンナ。イアンナ、ぼくの女。ぼくだけの女。ぼくはまるで幼子のようにイアンナの丸い乳房にすがりつく。イアンナ。「あなたの名前は」ぼくの腕の中で女神が言った。

「ぼくは『ドゥムジ』、貧しい羊飼いです」

ぼくは、ドゥムジ。ぼくは、……ドゥムジ?

玄関のチャイムで目をさました。口の周りによだれがついている。だらしなく口を開けて眠っていたのだ。瓶の中のレイはまだ眠っていた。何かの夢を見たような気がする。とてつもなく鮮明な夢だった事だけ、おぼえていた。暴走が起きなくてよかった。
誰かが来ている。シンジは、レイをベッドに残したまま、そっと部屋を出た。
玄関の戸を開けた。ぼくは、まだ夢の中にいるんだろうか、と思った。だって目の前に、テレビのニュースで観た、『ウィズ・ローレンツ』が立っているのだ。
「碇シンジくんだね?」
おまけに、ドイツ人であるはずの『ウィズ・ローレンツ』は流ちょうな日本語で話しかけてきたのだ。シンジは答えることも出来ず、ぼうぜんと立っていた。
なんと凡庸そうな、だらしのない顔をした少年だ、ローレンツは思った。おそらく甘やかされて育ったのだ。もしドイツ人の少年ならば、いやというほど鉄の規律をたたき込んでやるところだ。
「君に話がある。中に入れてくれないか?」
「……は、はい。どうぞ……」夢ではないみたいだった。シンジは、このテレビに出てくるような有名人を居間に案内した。
薬品くさい、狭苦しい家だ。こんなウサギ小屋のような家で育った少年が人類の命運を握っているなどというのは笑止千万だった。ローレンツは、すすめられるまま、安物のソファに腰掛けた。
「あ、あの。お茶でも入れましょうか?」
「男子たるもの、そんなことに気をつかわんでよい。わたしの正面に座りなさい」
「は……はい」シンジは奇妙なバイザーを目に付けた男の前に座った。瞳が見えないので、わけもなく不安を感じた。
「わたしには時間が無い、いきなり本題に入ろう。君は、『プリンス』にある申し出を受けているね?」
「『プリンス』?」
「『闇の王子』だ。君の父上が作ったホムンクルスを譲ってくれと言われたんだろう?」
「はい」『ウィザード』ともなると、そんなことまで知っておられるんだ、シンジは、感心より畏怖に近い感情を抱いた。
「そして君は答えを留保した。日本の時間にして明後日(みょうごにち)返事をしなければならない、そうだね?」
「はい」
「さて、君はどう答えるつもりなのだ?」
「……いえ、あの……その」
「君の答えは、ひょっとしたら人類の命運に影響を与えるかもしれないのだ。なぜならば、君に断られた『プリンス』はご機嫌を損ねて、『契約』の一方的破棄を人類に通告してくるかもしれない。そうなれば『ウィザード体制』の崩壊だ。それがどんな混乱を招くか、君にも想像できるだろう? イエスなのかノーなのか、はっきりしたまえ」
「……」
「早く答えなさい。君はそれでも男か?」
「……いまは、断るつもりでいます」シンジは小さな声で答える。
「なぜだ? ホムンクルスなんぞ、錬金術師ならば、誰でも作れる、ありふれた人工生命体だ。かわりはいくらでもいる。なぜあのホムンクルスでなければならない?」
「……レイのそばにいてやりたいんです」
「『レイ』とはそのホムンクルスの名前かね?」
「そうです」
「なぜ、そばにいてやりたいんだね?」
「……」
「答えるのだ。碇シンジ。わたしは君と会うために、わざわざドイツからやってきた。それもこれも世界の秩序と安定を思えばこそだ。君には人類の一員として答える義務がある!」『ウィズ・ローレンツ』は低く威厳のある声で言った。魔法アカデミーの生徒ならば、この時点で平(ひれ)伏せんばかりになるところだ。
「……レイはぼくの事を好きなんです。ぼくもレイのことを……好きなのです」
「好きだの、嫌いだのと、ホムンクルスごときに、そう思っているのかね」
「……はい」
馬鹿め。この馬鹿め、『ウィズ・ローレンツ』は思った。十四歳の少年というやつは、これほどにも馬鹿なのか? それとも日本人だから馬鹿なのか? しかしここで怒ってはいけない。
「君が断ったら『闇の王子』はどうすると思うかね?」
「……わかりません、でも、カヲルくんは、いえ、『闇の王子』は怒ったりしないと思うんです」
「なぜそんなことが言えるんだね?」
「わかりません、そんな感じがするんです」
少年はそう言って、ローレンツを見返した。馬鹿めが、悪魔の仮の姿が貴様のクラスメートだとして、貴様と同じ尺度で悪魔を計れると思っているのか?

アスカは超低空をジグザグに飛んでいた。はっきり言えば、それ以上制御出来ないのだ。アスカのむき出しの足は擦り傷だらけだった。数え切れないほど木の中に突っ込んだのだ。
問題は市街地の中を飛ぶときだ、アスカは思った。
市境まであと数キロ。まだ遠い。
彼女は思い切って国道を飛ぶことにした。狭い道ほどかえって危険が多かったのである。中央分離帯に沿って飛んだ。正直怖かった。超低空で中央分離帯の並木をかすめながら飛んでいると、トラックとすれ違う時に風圧で吹き飛ばされそうになるのだ。
ドライバーたちもたまげていた。魔女がこんな低空を飛んでいるのを見たことがなかったのだ。
アスカはシンジの家まで、あと数キロの地点まで迫っていた。

相田ケンスケは、国道沿いにあるなじみのプラモデル屋で、ぼんやりと飛行機の模型を見上げていた。以前ほど興味が持てなくなってきていた。カヲルくん、きみはぼくの事を変えてしまったみたいだ、ケンスケは思った。
あの、カヲルからもらった馬鹿馬鹿しいグッズを、家の庭で燃やしながら、心の中の何かが一緒に燃えているような気がした。
燃えると言えば、カヲルからもらったものは実に不思議な色の炎を出して、ぱっと燃え尽きていった。まるでマグネシウムが燃えるように。みると燃えカスも残っていなかった。この世から消えてしまったみたいだった。
渚カヲルは、あの、ケンスケがアスカに殴られた次の日から学校を休んでいた。気がつくとケンスケは、隣のカヲルの席を眺めていた。あわてて顔をそらすと、今度は斜め前に座っているアスカの、きれいな長い髪が目に入った。
一部の男子や女子たちが、シンジとアスカの事をうわさしているのを聞くたびに、胸に針のようなものを、差し込まれるような気がした。
ぼくは、なぜ生きているんだろう? ケンスケは、狭いプラモデル屋の店内で、木製の飛行機模型を見上げながら思った。とにかく、片思いの女の子に、ネクラなまねをするために生まれてきたんじゃ、ないんだ、きっと。
ケンスケは、店を出た。陽光が彼の黄色い自転車を明るく照らしている。その妙な明るさが、彼の気を重くした。
自転車のチェーンロックを外そうと鍵を差し込んでいる時、ばーん、という何かがぶつかるような、大きな音がした。
「なんだ、なんだ」プラモデル屋の隣にあった花屋から、中年のおじさんが走り出ていた。その隣がつぶれた電気屋で、『貸店舗』とと書かれた紙が張り付けてあるシャッターが下ろされていた。音はそこからしたのだ。見ると誰かが倒れていた。黒い服を着た女のひとみたいだった。くすんだような淡い茶色の長い髪、赤いリボン。
ケンスケは、ふらふらと二三歩前に歩き出した。……まさか、……アスカ! 走り出した。一台の宅配便のトラックが歩道の脇に停車していて、見たことのある制服を着た男が、倒れた女の子を見下ろしていた。
「アスカ!」
アスカだった。目をぎゅっと閉じて、ぶるぶる震えていた。見ると、閉じられた電気屋のシャッターが、大きく湾曲していた。
「きみ、この子知ってるのか」制服を着た男はケンスケに言った。
「クラスメートなんです!」アスカの黒いスカートがまくれ上がって、なぜか細かいひっかき傷でいっぱいの白い太ももと、下着が、むき出しになっていた。ケンスケはほんの一瞬ためらっていたが、「ごめん」とつぶやくようにアスカに声をかけて、スカートを引き下ろしてやった。アスカはまだ目を閉じて震えていた。
「俺が走ってると、この子がいきなり正面に飛んできたんだ。ぶつかるって思った瞬間、フロントガラスのところを蹴って上昇して、トラックを避けようとしたんだ。でも間に合わなかった。この子、魔女なんだろ?」
「はい」
「なんて、むちゃな飛び方するんだ。俺は救急車を呼ぶから、きみ見ててくれ」
「はい」ケンスケが答えると、その男は、花屋に走り込んで、電話を貸してください、と叫んだ。
「アスカ……大丈夫?」ケンスケは声をかけてみた。
「う……」アスカはうめいた。
「お嬢ちゃん、頭を上げちゃだめだ! じっとしてろ、いまあの若い衆が救急車呼んでるから」花屋から出てきた中年男は言った。
「……そうだよ、じっとして」
「……起こして。……お願い」アスカは、手をついて起きあがろうとした。
「だめだよ、動いちゃだめだ」ケンスケはアスカに言った。
「……大丈夫、おもに背中を打っただけ……お願い、起こして」アスカは目を開けた。目の前に、眼鏡をかけた少年がいた。顔をのぞき込んでいる。見覚えがあるが、頭がぼーっとして、思い出せない。
「……お願い、立たせて」アスカは立ち上がろうとしていた。
「じっとして、脳しんとうを起こしてるみたいだ。横になって」さっきの制服の男がやってきてそう言った。
「……お願い。肩をかして」アスカは、しゃがみ込んでいるケンスケの肩に両手をかけて立ち上がった。そして右足を引きずりながら歩こうとする。
「何するんだよ、じっとしてなきゃ」ケンスケはアスカの肩に手をかけた。
「急いでるのよ。大丈夫だから」アスカは振り返って言った。その額に、一筋の血が、すーっと落ちた。
「だめだよ、そんな身体でどこへ行こうっての!」ケンスケは叫ぶように言う。
「シンジくんの家に帰らなきゃ! わたし急いで行かないと! 大変なのよ、急がないと!」アスカは、制服の男や、中年の男の手を振り払いながら、歩道の脇に落ちている汚れたバットにまたがった。魔女の飛ぶための精神集中。しかしなにも起きなかった。
「だめ、飛べない……頭が痛くって」アスカはケンスケの方を見た。
「飛べない。シンジの家にいかなきゃ……、すぐに行かなきゃ!」ケンスケは胸の奥が震えた。何に震えたのか、ずいぶん後になってもわからなかった。アスカは目に涙をためていた。彼を見つめていた。
「お願い……相田、くん? ……家へ連れていって……一生のお願い」
その時、相田ケンスケの身体を、何かが、時と場所によったら笑い話になるような、ばかばかしい何かが突き動かした。彼は、アスカを抱き上げると、自分の自転車まで連れていって、それに乗せたのだ。
「何するんだ、きみ!? もうすぐ救急車が来るんだぞ!」制服の男は叫んだ。
「ぼくは○○市立第一中学校の相田ケンスケです! ぼくが責任をとります。この子を家に送るんです」
「家に送るってったって、おい! 待てよ!」
ケンスケはアスカに「しがみついてて」と声をかけると、必死で自転車をこぎ出したのだ。

「君の『愛』はまやかしだ。碇シンジくん」『ウィズ・ローレンツ』は言った。
「え……?」
「だってそうではないか? 君の話を聞いていてわかったよ。君は外に出て、ガールフレンドと遊ぶなりなんなり、好きな事が出来る。しかし、あのホムンクルスは短いその命を、ガラス瓶の中で終えるのだ。君はそれでもあのホムンクルスを愛しているという……。これがまやかしでなくて、なんなのだ?」
「……そんなつもりはありません!」
「意識の上ではそのつもりでも、誰が見たってそうだ。君は偽善者だ。ホムンクルスは君を愛していると思いこんでいるだろうし、死ぬときも君に抱かれて喜んで死ねるだろう。が、誰が見たってそれは不当なものだ。わたしは君よりも日本語を知っているぞ、それを『飼い殺し』と言うのだ」
「ちがいます! ……ちがいます!」シンジは目に涙をためてうつむいた。
もう少しだ。わたしに議論で勝とうというのが間違いなのだ。ローレンツは学長室で、規律を乱した生徒を詰問するときの要領を思い出していた。あと一押し。
「……わたしは残念だよ、碇くん。君は魔法使いの修行をしているそうじゃない
か。……『ウィザード』のわたしが自らこうして膝を屈して理を説いているのに、わかってもらえないとはな。君の監督者について若干考慮しなければならないかもしれん」
少年は顔を上げて、初老の『ウィザード』を見ていた。そうだ。自分の母親を連想するがいい。そして、監督者責任というものを思い出せ。
「もしかして……。アスカはなんの関係も無いです! ……これはぼくが」
「わたしは君とこうして話をしたから、それは信じる。しかし、魔法管理機構日本支部の官僚どもはどう思うだろうか? ……ん? ……わたしは各支部の資格剥奪には口はだせんぞ。わかるだろう、碇くん。わたしは君を脅しているわけではない。わたしにはそんな権限はないのだから。わたしは、可能性の話をしているのだ。どうだ? ……そうなる可能性はあるだろう?」
シンジは、母のユイが魔女の資格剥奪の後、どれほど落ち込んだか、身にしみてわかっていた。おそらく、アスカはもっとひどいだろう。魔女である、ということは、アスカという少女の生きる支えになっているのだから。半年近く同じ屋根の下で生活したシンジにはわかっていた。
悲しむ、などという生やさしいものではないだろう。それは直ちにアスカの死を意味する。シンジにはわかっていた。
数秒の間、少年は沈黙していた。そして、目の前の、バイザーを付けた世界的な魔法使いに言った。
「わかりました……、レイをカヲルくんに渡します」

ケンスケの心臓は今にも口から飛び出しそうだった。ケンスケはもともと運動は得意な方ではない。持久力もあまりない。少し走っただけで、心臓がすぐにどきどきいってしまう。走り出して五分もたたないうちに、しんどくなった。
シンジの家は街の高台にある。まだまだ先だった。彼は自分にとっては信じられないようなスピードで自転車をこいでいた。
「大丈夫?」ケンスケは黙って彼にしがみついているアスカに向かって叫んだ。
「大丈夫」
アスカの声が、声の振動が、かれの腹の上に回された両腕を通してつたわってくる。アスカはとにかく生きている。

レイはまだ眠っていた。マットレスの上に置かれたガラス瓶の中で横たわっていた。シンジは瓶をつかむと、そっと勉強机の上に置いた。初めてレイと出会った時にように、机の上のガラス瓶を眺めた。
小さなホムンクルスはまぶたを開いた。豆粒よりも小さな赤い瞳が、彼を見つめ返していた。
「起こしちゃった?」
……うん。……シンジ、わたし、ゆめをみていたの。
「どんなゆめ?」
……はずかしい。
「……どんなゆめ?」
……シンジと『けっこん』するゆめ。きれいなよるのおかで、あなたにだっこされて、ほらあなのなかで、『けっこん』するゆめ。
シンジは、どうしてレイが『結婚』という単語を知っているのだろうかと思った。ぼくが教えたのだろうか?
ふと、ひらめいて、机の一番上の抽斗(ひきだし)を開けてみた。二~三歳児用の、ひらがなと絵が大きく描いてあるカードがあった。「さ、し、す、せ、そ、か、き、く、け」シンジはカードをめくっていた。「け」。「けっこん」とひらがなで大きく書かれたカードには、教会を背にした新郎と新婦が立っている絵。タキシードとウェディングドレス。花嫁はブーケの花束を持っている。
「……これだね」シンジはガラス瓶の前にカードをかざして、レイに見せてやった。
……うん、これこれ! ……シンジ、シンジ、わたし、……シンジのおよめさんになりたい。
レイは久しぶりにカードを見せてもらって、うれしそうに瓶の中をくるくる回った。わたしがうまれたてのころみたい。シンジがまいにちことばをおしえてくれていたころみたい。
気がつくと、ウェディングドレス姿の花嫁がふるえていた。いや、カード全体がぶるぶると、ふるえているのだった。
……シンジ、どうしたの? ……シンジ?
レイは懸命にシンジの心の中の言葉を探した。なにもなかった。ただ、いままで感じたことのないような暗闇が、そこにあった。
……シンジ? ……こたえて! ……シンジ、どうしたの?
「な、なんでもないよ」そう答えるシンジの声の調子がおかしかった。彼は声に出して言っているのだ。それは狭い、液体のつまった瓶の中に、ゆがんで響きわたった。
……シンジ、こたえて! ……どうしたの、レイは瓶の内側をこぶしでたたきはじめた。

あと数分のところで、ケンスケの足がつった。彼は思わず自転車を停め、歯を食いしばった。心臓よりも先に足にきてしまったみたいだった。
「いたたたたた」ケンスケはうめいた。
「……ありがとう、……後は歩いていけるから」
「そ、そんな身体で」ケンスケはまだ行けると言おうとしたのだが、声がでなかった。
アスカは自転車を降りて、振り返らずに歩き始めていた。足を引きずっていた。走ろうとするのだが、足が上がらないのだ。
「ま、まって」ケンスケはアスカを追いかけて、再び自転車に乗せようとしたが、足がもつれて歩道に自転車ごと倒れこんでしまった。
情けない……、ケンスケは遠ざかる少女の後ろ姿を見ながら思った。なんて、情けない男なんだ、おれってやつは。
汗が噴き出した。心臓が呼吸の邪魔をしているみたいだった。アスカをしまいまで乗せて行く事が出来なかった。完璧な馬鹿だった。おれは馬鹿で、情けない男だ。ケンスケは思った。それで罪のつぐないをするつもりなのか、馬鹿。
それさえ、やりとおせなかったのだ。
ケンスケはぜえぜえと息をつぎながら、歩道にあおむけになって寝そべった。
目のすぐ上に、空が広がっている。小さな雲が、風に、ちぎれてゆく。
……ぼくは、空より小さいんだ。
ケンスケは思った。

シンジの家へと続く長い坂道の登り口の車道に、あの黒のリムジンが停まっていた。ドアが開き、黒の詰め襟の服を着た運転手が出てきて、薄笑いを浮かべ、よろよろと歩いてくるアスカを眺めていた。
「お久しぶりです。フロイライン」男はドイツ語でそう言った。
「番犬の臭いがすると思ったら、あんただったの、カール」アスカはドイツ語で答えた。
「あなただけは、ここを通すな、と命令されています、フロイライン」カールと呼ばれた男は顔色一つ変えずに言った。
「それは、よかったわね。棒をくわえて走ってこい、て言われたのね、カール」
「ええ。少し噛みすぎるかもしれません」
二人は対峙した。
このお嬢様は、馬鹿の一つ覚えのように、先手を、『反撥(はんぱつ)魔法』でくる。カールは確信していた。わずかでも魔法風を感じたら、飛び上がり、弾道をよければいいだけの事だった。彼女が第二波を撃つ前に俺の勝利がくる。
問題は、カールは思った、この娘を「どの程度まで傷つけていいか」という事なのだ。
アスカは精神を集中した。頭と背中がずきずきと痛んだ。最低の気分だった。
早く攻撃してこい、お嬢様、カールは思った。
瞬間、アスカは右手の人差し指を男に向けた。カールは、ぱっと跳んだ。
突然、アスカが猛スピードで視界から消えて行くのが見えた。まーーーーーて。なーーーーーーんーーーーーーだ、こーーーーーれーーーーは。
アスカは走り出したのではない。相変わらず足を引きずりながら歩いていた。カールという男の全感覚が遅延しているのだ。
ばん。カールはリムジンのボンネットの上に大きな音を立てて落ちた。引力を「遅延」させることは出来ないのだ。しかし、カールは痛がるどころか、相変わらず、なーーーーーーにーーーーが、おーーーーーきーーーーーーーーーたーーーーーんーーーーーーだ? と考えている。通常の時間で言えば、五分は続く、長く引き延ばされた痛みを感じ始めるのは、三○分後ぐらいだろう。
予想通り飛び上がったわ、あの馬鹿、アスカは思った。人差し指は、フェイントだった。彼女は、あの瞬間、カールという男の周囲数メートルに、遅延フィールドを張りめぐらせたのだ。そして、クモの巣にひっかかった男に対して、さらに最大級の『遅延魔法』をかけたのだ。

レイは身体が瓶ごとひょい、と持ち上げられるのを感じた。瓶の片面に、シンジの着ていた服の模様がべったりとくっつく。シンジはガラス瓶を抱きかかえているのだ。
「うっ……うっ……」何か、動物の鳴き声のようなものが、上の方から響いていた。
……どうしたの!? シンジ? ……なにがあったの?
シンジの心の中には何もない。ただ暗闇があるだけ。
……だして! ここからだして! シンジになにかあったの! ……おねがい、だれか、ここからだして!
レイは瓶の内側を手でたたき、足で蹴った。しばらくすると、規則的に瓶が揺れだした。階段を下りているのだ。どうしたのだろう? どこへ向かっているのだろう。
「レイ、仕方ないんだ。ごめん、『闇の王子』といれば、……君は永遠に生きることが出来るんだ。そのほうが君は幸せなんだ」
……なんのことをいってるの? シンジ、なんのことを?
「……ぼくがいけなかったんだ。ぼくのことはわすれて、……しあわせに」
……だから、なに!? どうしようというの!? おねがい、はっきりいって!
シンジの思考は闇に包まれていた。強い悲しみだけがそこにあった。
……おねがい、おねがい、なんとかいって!
「……レイ、お別れなんだ」
……なぜおわかれなの!? あなたとはなれて、しあわせなわけないじゃない! シンジ! なにをいってるの! シンジ!
振動は突然止まった。瓶の反対側、シンジにくっついていない方の面に、ぼんやりとした暗い人影が見えた。シンジの父親ではないようだった。
……どうしたの? シンジ、どうしたの? あのひとはだれ!?
レイはこぶしで、がんがんと瓶をたたいていた。
その時、まるで闇のベールが剥がれるように、シンジの心の中に、ある言葉が浮かんできた。後から後から、同じ言葉が浮かんできた。
さよなら、レイ。
さよなら、レイ。
さよなら、レイ。
さよなら、レイ。
さよなら、レイ。
さよなら、レイ。
さよなら、レイ。
さよなら、レイ。
さよなら、レイ。
……いやああああああああああああああああ! シンジ! シンジ!!! シンジ!! なにがあったの!? シンジ!!! ……ごめんなさい、ごめんなさい! もう、わがままいいません! にんげんになりたいなんていいません、シンジ! おねがいです! いっしょにいさせて、へやのすみにおいて、わすれてくれてもいいから、シンジ! さよならいわないで! シンジ! ごめんなさい、シンジ!

「別れはすんだか?」『ウィズ・ローレンツ』は言った。
「……」シンジは黙ったまま、ガラス瓶をバイザーを付けた最高位の魔法使いに差し出した。
なんという、ぶざまな、ローレンツは思った。たかがホムンクルスと別れるくらいで、口もきけぬほど、涙をぼろぼろ流しおって。女々しい少年だ。
「よろしい、君は人類の一員として正しい決断をしたのだ。わたしは君に感謝する」彼はそう言って、ガラス瓶を片手で抱えたまま、玄関の戸を開けた。
シンジは、よろよろと後について、外に出た。
その時、碇家の玄関の前の生け垣の前の空間が、ぐにゃりとゆがんで、中から、『闇の王子』渚カヲルが現れた。
『ウィズ・ローレンツ』は、黙って頭を垂れる。
「……ぼくはこんな事を貴様に頼んだおぼえはないぞ、ローレンツ!」『闇の王子』は怒気を含んだ声で言った。
「申し訳ございませぬ、殿下! 差し出がましいことをいたしました。……しかし、強要はしておりませぬ。この少年は自らの意志で別れを告げたのです」彼はそういって、ガラス瓶を『闇の王子』にささげ奉った。瓶の中では小さなホムンクルスが、狂ったように暴れている。
「本当なのか! シンジくん」
シンジは、涙を袖で拭いた。真っ青な顔をしていた。
「早くお答え申し上げろ、碇!」ローレンツは叫んだ。
「……はい……」シンジは答えた。
「本当にいいんだな?」カヲルは念を押す。
「はい」
「取り消しは出来ないぞ、シンジくん」
「はい」
『闇の王子』、渚カヲルは、ローレンツのささげ持つガラス瓶を手に取った。
瓶の中で暴れているレイの心の中に得体のしれない何かが忍び込んでくる。
カヲルは、片手で瓶を持ち、もう一方の片手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「シンジくん、約束だからな……『惚れ薬』だよ。交換条件だろ? おぼえてるかい?」彼は、小さな香水のような小瓶を取り出し、シンジに渡した。シンジは、何の興味もなさそうに、無造作に、その小瓶を受け取った。
「シンジくん、……ぼくは自分が、馬鹿に見えてきたよ」カヲルは真剣な表情で言った。
「ぼくの目の前で割らないのか? ……その方が、ぼくがより馬鹿に見えるよ」『闇の王子』は言った。
「あ……うん」シンジは、その小瓶を玄関先の飛び石にたたきつけた。ぱん。小瓶は割れて、液体が飛び散った。カヲルはシンジをじっと見ていた。
「……シンジくん。……ぼくがもし、人間の男の子だったら、きみと友だちになりたかったと思うよ」カヲルは言った。
「……」シンジは答えなかった。ただ真っ青な顔をして、下を向いていた。
「シンジくん。君があと百年生きるとしても、君の生きている間は、ぼくは、この世界に来ることはないだろう……。だから、これで、お別れだ」
おそらくホムンクルスとしての記憶が残っている間は、けっして『イアンナ』はぼくに心を許さないだろうな、『闇の王子』はそう思った。しかし、時間はたっぷりとあるのだ。愛を育むには充分すぎるほど。
「さようなら、シンジくん。ぼくは、君という人間を忘れないだろう」
カヲルはきびすを返した。ローレンツが、まるで従者のように後にかしずいた。カヲル、『闇の王子』の身体は、まるで羽根が風に舞うように、空へと昇っていく。シンジは、ようやく、それを見上げた。シンジにゆっくりと別れを告げさせるためだろうか、『闇の王子』はひどくゆっくりと上昇を続けていた。
上昇を続ける『闇の王子』の心にレイの思考が侵入している。
……あなたはだれ!  わたしをかえして!
「イアンナ、ぼくをおぼえていないのかい?」
……わたしはイアンナじゃない! シンジのもとへかえして! おねがい!
「だめだ。イアンナ。シンジくんは自分の意志できみに別れをつげたのだ」
……いや、いや、シンジといっしょにいたい! かえして、はなして! わたしをシンジのも とへかえして!
「イアンナ、魔界でゆっくりと話そう、ほらシンジくんに別れをつげるんだ」
……いや! ぜったいにいや! かえして!
まるで矢のようにその小さなホムンクルスから、思考が送られてくるのだった。

その時だった。坂道を、足を引きずるようにして少女が駆け上がってくるのが見えた。『闇の王子』もその姿を捉えた。
「『ウィズ・ローレンツ』! ――この卑怯(ひきょう)者!」アスカは叫んだ。
「殿下の前で無礼な。『ウィザード』を侮辱するとゆるさんぞ」『ウィズ・ローレンツ』は声をひそめて言った。
「アスカ……」シンジはアスカを見た。黒いワンピースは泥だらけで、ところどころ破けていた。そして足は擦り傷だらけ、額に一筋乾いた血の後があった。
「どうしたんだ? アスカ」アスカは、坂道を駆け登り、『ウィズ・ローレンツ』を押しのけるようにして、シンジにすがりついた。
「どうしてレイを『闇の王子』に渡したの! ……あんた、ばか? ……なんでよ。あいつに脅されたの? あの汚らしいバケモノに脅されたの!?」アスカはシンジの肩をつかんで揺さぶった。
「アスカ! 貴様何を言っている! 無礼にもほどがあるぞ! 控えろ! それにシンジくんは自分の意志で」
「あんたのやりくちはわかってるわ、ローレンツ! あんたは、もっともらしいことを言う振りをして、人を恫喝(どうかつ)するのよ。そうせざるを得ないようにしむけるんだわ! それも全部、自分のためなんだわ」
「それがこの『わたし』に向かって言う言葉か? 誰が魔法アカデミーを飛び級で入学させてやったと思ってる? 誰が上級魔女に認定してやったと思ってる?」『ウィズ・ローレンツ』も怒鳴りだした。興奮のためか日本語の発音がおかしくなってきていた。

モン吉は外から主人の声がしたので、二階の窓を開けて、顔をひょい、と出してみた。アスカとあのど阿呆(あほう)の少年が、初老の大人と向かい合って立っていた。その男の声に聞き覚えがあった。あのぼろっちい校舎(「魔法アカデミー」は古い寄宿学校を改装している)の、古ぼけたスピーカーから流れる声だ、猿は思った。そのスピーカーは調子が悪く、何かを話すたびにハウリングの「ぴぎゃー」という音が入るのだった。
「それは全部わたしの実力で勝ち取ったものだわ! あんたの『ウィザード』に比べれば、人に後ろ指さされるような事は何もないわ!」アスカは自分の悪夢に向かって叫んでいた。耳障りな雑音を立ててしゃべる『蒸気人間』に。この天才少女には、そのばかばかしいバケモノが、心の中の暗黒のメタファである事がわかっていた。それが余計、腹立たしく感じた。
「な、なんだと! なんという侮辱だ。魔女のくせに『ウィザード』を罵倒するとは。貴様、気は確かか?」

『闇の王子』は上空に静止して、突然怒鳴りあいを始めた、少女と初老の『ウィザード』を眺めていた。やはり人間は理解できない、彼は思った。なぜあの少女はあんなに興奮しなければならないのだ? むしろ『イアンナ』は彼女の恋敵ではないか? 喜ぶ事はないにしろ、妨害する必要があるのか?
「ねえ、シンジ考え直すのよ。どうしてレイと別れを告げるの、なんと言ってあいつに脅されたの?」
「アスカ、いいんだ。いいんだよ」シンジは蒼白(そうはく)な顔のままそう言った。
「よくないわよ! ……あなたは、レイを渡す事を拒むって決めたでしょう? なんでちょっと脅されただけでくじけちゃうの?」
「いいんだ、やめろよ、アスカ。……『ウィズ・ローレンツ』に謝るんだ」
そのシンジの様子で、アスカはあることに思いいたった。もしかして、シンジは。
「……もしかして、レイを渡さなければ、あたしの魔女の資格を剥奪するって……シンジ、そうなの? そうなんでしょ?」
「ちがうよ」
「うそだわ、あなたうそつくの、すごくヘタだもん、うそね。あたしの資格を取り上げるぞって脅されたのね」
「……そうなのか、『ウィザード・ローレンツ』」一○メートルほど上空の虚空に浮いている『闇の王子』は、耳が凍り付くような冷たい声で言った。
「違います。殿下、何に誓っても違います。この小娘は、頭がどうかしているのであります!」
「違わないわ! そう言って、あなたは脅したのよ」
「ローレンツ、わたしは君に中学生の少年を脅してもらって、イアンナを手に入れたのか?」『闇の王子』は言った。
『ウィズ・ローレンツ』の身体に冷たいものが走った。彼は必死になった。
「とんでもありません。殿下。こやつは自分の良心の呵責(かしゃく)から、わたしを悪者にしたいのです」
「ど、どういう意味よ!」
「……シンジくん、日本では『闇の王子』の存在すら秘密にされているのに、ドイツにいたわたしが、なぜ、君のホムンクルスの事を知っていたと思うかね?」
「なぜです?」シンジもそれは疑問に思っていた。
「だめ、言っちゃだめ!」アスカはシンジとローレンツの間に割って入った。
「この魔女が逐一報告してきたからだ。殿下の来訪の目的、君とあのホムンクルスの事、そして殿下と君との『取り引き』の事。すべて、をだ。それで、わたしが来て公明正大に君を説得しただけなのに、後ろめたいものだから、そんな言いがかりをつけているのだ。碇くん、この少女と『ウィザード』であるわたしと、どちらを信じるね」彼は立ちふさがるアスカの身体ごしにシンジに問いかけた。
「ほんとうなのかい?」シンジは小声で言った。
「……ええ」アスカは答えた。「ほんとうよ。……でも信じて、シンジ。アイツが命令するから仕方なく手紙に書いただけ」
「たしかに、お前は義務を果たしただけだ。この少年も、ホムンクルスを失いまともな少年になるだろう。そして、やがてお前に恋するようになるだろう。思惑どおりではないかアスカ、もう、下がっておれ! ……わたしに暴言を吐いた件は不問にしてやる」
アスカの中で、何かがはじけてとんだ。いろいろな光景が、まるでノートに連続して描いた絵のようにパラパラのめくれていく感じがした。
「何を偉そうに! かあさんを見捨てたくせに、なにを偉そうに!」アスカは叫んだ。そんなに興奮しているアスカを、シンジは見たことがなかった。
「そんな話をしているのではない、愚かな」
「どーせ、愚かよ! あたしは、あんたの言う退化した混血だし、おまけに女よ! でも獣だって自分のつれあいを廃人にして見捨てたりしないわ!」
「そんな話を、いましているのではない! 黙れ!」
「かあさんをずたずたにして、おまけに女しか産めなかったから捨てたのよ、このケダモノ!」
「このわたしをケダモノ呼ばわりするのか!? アスカ・ローレンツ!」

アスカはまったく躊躇(ちゅうちょ)しなかった。腰を低く落とし、両手を組み合わせて正面の男に強烈な反撥(はんぱつ)魔法を見舞ったのだ。
『ウィズ・ローレンツ』の身体は、シンジの視界から一瞬消えた。気がつくと宙に浮いている『闇の王子』よりも高く、空に吹き飛ばされていた。
キール・ローレンツが『ウィザード』でなければ、つまり普通の人間ならば、おそらく成層圏を越え、宇宙空間まではじき飛ばされていただろう。それほど強力な魔法だった。
しかし彼は『ウィザード』だった。空中で魔法によって減速し、素早く体勢を立て直していた。はるか下地上では、彼とあの女との間に生まれた魔女が見上げていた。間違いだったのだ。あの女の存在自体、間違いだったのだ。正しいゲルマンの魔女と結婚するはずが、よりによってアジア人の、それも下級の魔女と。すべて俺の気の迷いだったのだ。俺を『ウィザード』にするグノーシスの秘儀が無ければ、そしてひょっとしたら俺の血を多くひいた息子が生まれ、『超ウィザード』になるという馬鹿げた空想がなければ。
間違いは正さねばならん。
「大気の精霊よ、無から有を生じせしめよ。この世でもっとも恐ろしく美しい生き物を」
「ローレンツ!」『闇の王子』が叫んでいた。
「お許しください、殿下、しかしこれは人間同士の問題であります!」

「わ」シンジは思わず目を閉じた。『ウィズ・ローレンツ』が浮かんでいるあたりから、強い魔法風が吹いてきたのだ。
「空がゆがんでいる」シンジはつぶやいた。
「――シンジ、ごめんなさい! ごめんなさい。逃げて。『ウィズ・ローレンツ』の得意中の得意の魔法よ」アスカは振り返らずに言った。
シンジはアスカの細い背中を見た。なにがなんだかわからなかったが、アスカが苦しんでいるのはわかった。
「いや、アスカひとりにはできないよ」シンジはそう答えた。
「シンジ!」アスカは、もう、何もかも投げ捨ててシンジを抱きしめたかった。しかし彼女は魔女だった。それもエレメンタル系の攻撃魔法を得意とする魔女だった。彼女はいつでも『遮蔽魔法』をかけられるよう意識を集中しはじめていた。
何もない青空の一部が一瞬かげったかと思うと、巨大な黒い影が現れた。
「……え?」シンジは、思わず声を上げて、上空を見上げた。目の前にいても信じることが出来なかった。意識ははっきりとその物の形を捉えているのに、認識することを拒否している、そんな感じだった。
竜。ドラゴン。中世の銅版画に描かれたような巨大な竜が、たった十数メートルの上空にいるのだ。おまけにそれは生きていた。
ばさ。まるで大きな天幕を広げるように、その生き物はコウモリの羽のような、まがまがしい翼を広げた。碇家が立っている高台全体が暗くなるほどおおきな翼だった。
「アスカ・ローレンツ! ……魔法管理規則第十二条、『ウィザード』に対する殺意を持った魔力の行使禁止の違反により、わたしはお前を処罰する事ができる。わたしには、すべての魔法使いにたいする逮捕権・裁判権・処罰権があるのだ。今すぐわたしに許しを請え、アスカ」
「いやよ。あなたには『ウィザード』の資格なんてないわ。あなたの『ウィザードリィ(ウィザードが使う魔法、しかしここでは魔法使い最高の英知のこと)』はにせものだわ!」
「魔法管理規則第三十五条、根拠無く、公式に認定された資格への疑義を申し立ててはならない。――貴様は資格を剥奪されたいのか?」
「やってごらんなさい、ローレンツ、そしたら、あたしはアンタが本当はどんな人間か、言いふらして回ってやるわ! あなたはかあさんを軽蔑しながら、かあさんに惹(ひ)かれ、頼って、利用して、用が済んだら捨てたのよ。――あの、おぞましい儀式で自分が生まれたなんて、考えただけでも死にたいわ!」
「この小娘!」
ドラゴンは火を噴いた。その青白い炎は、正確にアスカを狙ってすっと伸びた。アスカはそれを待っていた。ローレンツに向かってある魔法をかけるが早いか、シンジを中心に、大きな遮蔽フィールドを張った。「レベルB(電磁波遮蔽)」の『遮蔽魔法』だった。
炎はアスカの頭上の遮蔽フィールドに当たって広がった。思った通りだった。シンジにも炎は届いていた。あわよくばシンジも殺そうと思っていたに違いないとアスカは思った。アスカはそれを見たわけではない。魔法のフィールドを通して感じたのだ。電磁波遮蔽によって、二人は暗闇に包まれていたのだから。
ローレンツもまた同時に目の前が真っ暗になっていた。バイザーがぐにゃりとゆがんで、自分の顔を包み込んでいるのだ。それはまるで生き物のように彼の顔を締め付けていた。『物活魔法』と呼ばれる、高度なアスカの魔法攻撃だった。
「やめろ、アスカ、魔法を解除しろ! さもなくばこのあたり一体を火の海にしてやるぞ! お前の遮蔽魔法力がつきるまで」そう叫んだ後、その声はアスカに届かないと気がついて、ドラゴンに火炎噴射を止めさせた。

いっぽう『闇の王子』の手の中のレイは、はるか下にいるシンジがいるあたりが炎に包まれるのを見てしまった。
……シンジー! シンジー!
「大丈夫だ、イアンナ、あの魔女が防いだ。落ち着くんだ」
……シンジ、しんじゃいやあああ!
その小さな身体よりはるかに大きな悲しみが、レイの心を引き裂いた。まるで深い傷のようにばっくりと心が開いた。
そして、太古の記憶が、そこから吹き出してきた。煉獄(れんごく)の炎に包まれて消える愛(いと)しい男と、もう一人の女。その光景が、記憶に絡み合った。
「ああ、『エレシュキガル』、『エレシュキガル』、どうしてそんないじわるをするの! わたしの愛しい人を生き返らせて! お願い、どうしてわたしの愛しい人を冥界に連れていくの!!」
「イアンナ!」『闇の王子』が驚いた。こんなに早く記憶がよみがえるとは!
「『ドゥムジ』! わたしの『ドゥムジ』! ……死なないで。……わたしの命をかわりにあげるから」
「落ち着けイアンナ! あれはシンジくんとアスカという魔女なんだ! きみの妹『エレシュキガル』も『冥界』も、もうこの世界にはないんだ。信じる者がいなくなった『神性』は消滅するのだから! 『ドゥムジ』はもう五千年も前に死んだ。『大洪水』の前だ。きみはその頃から生き残っている唯一の『神性』なんだ」
「うそよ! 『エンキ』、わたしにはうそをつかないで。『ドゥムジ』が五千年も前に死んだなんてうそをついたって、わたしは、あなたのものにはならないわ!」
「ぼくはかつて『エンキ』だったし、シュメールからはるか離れた地では『ケツァルコアトル』だった。でもそれは何千年も前の事だ!」
「違う、『エンキ』、わたしは絶対にあなたのものにはならない!」
信じられない事が起きた。ガラス瓶から、白く透き通った人間の腕が、にょきっと出てきたのだ。続いて頭、胸、胴体。『イアンナ』が半実体化しているのだ。

皮肉な事にローレンツ、アスカ、そしてなによりシンジはその光景を見ることが出来なかった。ローレンツは生き物のようにくねくねと動くバイザーと、空中で格闘していたし、アスカとシンジは電磁波まで遮蔽する黒いお椀状の魔法の中にいたからだ。それを目にしたのは、碇家の二階の窓から外を見ているモン吉と、何事かと家の窓から顔を出している近所の人々だけだったといっていい。彼らは一様にその女神よりもドラゴンに驚き、あわてて窓を閉めてふるえていた。
ことにモン吉は、自分を責めていた。ワシはあの少女を助けにいかずに何をしてるんだ、猿は思った。しかしドラゴンの姿は心底怖かった。彼の頭の中の一部(古代小哺乳類の脳)に刷り込まれた『竜』の記憶が、彼をふるえあがらせているのかもしれなかった。それは原初的な、根元的な恐怖なのだった。
『闇の王子』は飛び去ろうとする、その半透明の女神のアストラル体を必死で押さえつけようとしていた。しかし、『闇の王子』のまとっている少年の肉体の、女神の身体に触れている部分は、ジュジュジュ……と焼けこげて嫌な臭いを上げた。

偶然は、重なると偶然ではないのかもしれない。ドラゴンの炎がやんだ事を感じて、アスカが遮蔽魔法のレベルを下げたのは、まさにその瞬間であった。
同じ一瞬、イアンナは飛び去ろうとするのではなく、『闇の王子』の首を両手でつかんだ。『闇の王子』は激痛にうめいた。アスカはローレンツの攻撃だけを警戒しており、ローレンツは目が見えなくなっていた。
それらはみな同じ時間に起きた。その瞬間こそ、ほぼ五千年前から、その瞬間まで積み重ねられてきた、数え切れない多くの『偶然』の収束すべき一点であった。
そして、シンジの立っている位置から見れば『闇の王子』が、手に持ったガラス瓶を「投げ捨て」たように見えたのも『偶然』であった。『闇の王子』にはもちろんそんな意図は無かった。彼はシンジという人間を好きになっていたからだ。しかし渚カヲルという少年の肉体をまとっているがゆえに、発動しつつある女神の力との接触による激痛に耐えかねて、瓶を落としてしまったのだ。
それは、宙に浮かぶ巨大なドラゴンの翼の隙間から漏れる春の陽光を浴びて、きらきらと輝きながら落ちていった。
光る物をカヲルくんが「投げ捨て」た事と、レイの事を結びつけるのに、シンジはコンマ何秒ほどの時間がかかった。信じられなかったのだ。
だが、彼はよろよろと足を踏み出し、やがて走り出した。

シンジは、走り出した。走った。なりふりかまわず走った。空から落ちてくる瓶だけを見ながら、必死で走った。
遠く感じた。おそろしく遠く感じた。しかし絶望など感じる暇はどこにもなかった。
足がもつれた。ぼくは転ぼうとしている、シンジは思った。普通なら手をつこうとする瞬間、シンジは瓶をキャッチ出来るように、両手をめいっぱい前に伸ばし、思いっきり飛んだ。
ガラス瓶は縦に回転していた。その中にレイがいるのもはっきり見えた。
飛べ! もっと飛べ! シンジは思った。しかしもう胸がアスファルトの道に激突し、身体がずずずずと滑り始めた。彼は手を伸ばした。

ぱぁん。

割れる音がした。瓶が割れる音がした。ガラス瓶が割れる音がした。案外小さな音だった。中に入っている液体が、ぱっと道に広がるのが見えた。
シンジは膝をついたままにじり寄った。
レイは、砕け散ったガラス瓶の破片の真ん中に横たわっていた。目を閉じて眠っているみたいだった。シンジは、指先でレイの身体に触れた。手のひらにそっと載せた。レイは、小さなレイは、手のひらの中で、ぐったりと横たわっていた。
「あ」シンジは、間の抜けた声を上げた。
「ああああああ……」シンジは地べたに座り込んで、けもののような声をあげた。
「シンジくん!」頭上で『闇の王子』の声がした。

「うあああああああああああああああああああああぁ!!! あああああああ」シンジは途方に暮れたように、横たわる小さな小さなホムンクルスを見ながら、大きな声を上げ続けた。
「シンジくん、イアンナは死んではいない! 肉体が滅びただけだ! 上を見ろ! 頼むから、上を見ろ! イアンナはここにいる! ぼくはいつでも復活させることができるんだ!」
「ああああああああああああああ」シンジは泣きじゃくりながら叫び続けた。

「シンジ!」アスカが駆け寄って来て、シンジの背中に手をかけた。
「なんで殺した! ……なんでレイを殺したんだ!!」シンジは顔を上げ、『闇の王子』に向かって叫んだ。
「なんで殺したんだ! レイが何をしたっ。こんな小さなレイに、何の罪があるんだ……レイは、レイは、ぼくのことを好きだっただけじゃないか! ぼくのことを大好きだっただけじゃないか! なんでそれで、死ななければならないんだ!」
「ちがう! シンジくん。ぼくにはそんなつもりはなかった。イアンナはここにいる」『闇の王子』は飛び去ってシンジの元へ降りようとするアストラル体を懸命に取り押さえようとしていた。しかしそのアストラル体はシンジのところからは見えなかった。
シンジの心をどす黒い絶望が支配していた。憎しみよりもはるかに強い、真っ黒な絶望だった。この世界のすべてを消し去ってしまいたいという、暗黒の絶望が彼を支配した。
シンジは立ち上がった。すぐ上にはドラゴンが浮かんでいた。
「消えてしまえ!」
シンジは叫んだ。すぐ後ろに立っていたアスカは、思わず後ずさった。シンジを中心に発生した魔法風に吹き飛ばされそうになったのだ。なんという魔力だろうか、アスカは思った。足ががくがくとふるえた。シンジのどこにこんな魔力があるのだろうか。むせかえるような強烈な葉っぱの匂いで息が出来なかった。
それは『闇の王子』にも『ウィズ・ローレンツ』にも感じとれた。
「なにが起きているのです! 殿下」一時的に目が見えなくなった『ウィザード』は言った。
「ぼくにもわからん! 人間にこんな魔力を持つ者は存在しないと思ってた」
しかしシンジはそこに存在して魔法をかけようとしていた。
ふと、アスカは胸騒ぎがして、背後、つまり碇家の方、上空のドラゴンの頭が向いている方角を見た。
空がゆがんでいた。『召喚魔法』なのだ。ゆがみはみるみる大きくなって、ある形をゆっくりと取り始めていた。
「シンジ、やめなさい! シンジ! だめ、このあたりが大変な事になっちゃう」
それはドラゴンの形だったのだ。しかし不思議なことに、そのドラゴンは奇妙な鈍い光の繭のようなものに包まれていた。召喚魔法でこんなものは初めてみたわ、彼女は思った。
『闇の王子』は、そのドラゴンの恐るべき秘密に気がついた。あれは『ライデンフロスト現象(高温の反応層が物質同士の接触を妨げること)』なのだ。
彼はあばれるイアンナを抱きかかえたまま、ローレンツにかけなれた魔法を中和してやった。まるでクモのように変形したバイザーは砕け散って落ちた。その下から、青い目が現れた。アスカと同じ瞳の色だった。
「ドラゴン!」『ウィズ・ローレンツ』は叫んだ。
「ただのドラゴンではない! あれは『反竜』だ。『反物質』で出来たドラゴンが実体化しようとしてるんだ! はやくお前のドラゴンを引っ込めろ!」
「なんですと!」ローレンツは意識を集中し始めた。
遅かった。その時『反竜』は実体化を終えぬ間に、世界を消し去るため、もう一方のドラゴンとぶつかり合おうと、半透明の翼を広げて飛んできたのだ。
『闇の王子』はとっさにイアンナを離し、両手を広げて、二匹のドラゴンを包み込んでしまうほどの大きな球体の遮蔽フィールドを張った。「レベルA(重力波遮蔽)」の『遮蔽魔法』だった。それは電磁波も遮蔽する。だからそれは完全な黒い球体だった。春の陽光を反射して、途方もなく大きな翡翠(ひすい)の玉のように見えた。
「ローレンツ、手伝え! お前も遮蔽魔法をかけろ!」
『ウィズ・ローレンツ』はあわてて、意識を集中した。
「光子一つ、もらすな! ローレンツ!」『闇の王子』は下を見た。イアンナが、崩れるように倒れている少年を、むなしく支えようとしているのが見えた。シンジは気を失っているのに、球体の遮蔽フィールドの中で『反竜』と竜がお互いの身体を『対消滅』よって失いながら戦っている!
この肉体を廃棄する時間があるだろうか? 『闇の王子』は考えた。肉体を捨てて本来の巨大な魔力を使えないか? だめだ。たとえ一秒でも遮蔽が破れたら、シンジに致死量の放射線を浴びせてしまう!
「アスカ! これをフィールドごと宇宙空間にはじき飛ばせ! 大気圏内で遮蔽フィールドが破れたら、地球の半分は消し飛ぶぞ!」『闇の王子』は叫んだ。
ちくしょう、『ブブ』ちゃんを連れてくるんだった、彼は後悔した。
シンジを助け起こそうとしていたアスカは、急いで両手を天に伸ばし、頭上の空間の大部分を占める巨大な球体に向かって、最大級の反撥魔法をかけた。
しかし通常の物体と違い、魔法による結界は、それ自身の『魔界における慣性質量』を持つので、なかなか動かなかった。アスカは、力をふりしぼった。
球体は太陽を遮り、あたりは夕方よりも暗くなっていた。倒れているシンジの背中に、白い亡霊のようなものがすがっていた。
碇家の近所、いや、それを中心とした半径二キロほどの住人たちは突然外が真っ暗になったのに気がついて、めいめい窓を開けて空を見た。空は無かった。途方もなく大きな円が空を占めていた。彼方の円の切れ目から、まるで雲の間から日が射(さ)すように、陽光が地上を照らしていた。
その円はよく見ると、球であり、おまけにぶるぶると震えているのだった。公園で遊んでいる子供たちは、大きな大きなアドバルーンだ、と言って騒いでいた。街に大渋滞が起きていた。みな車を停め、空を見上げている。
徐々に球体は小さくなっているのだった。まっすぐ太陽に向かって上昇しているようだった。それにつれ、暗闇が覆っている面積が広くなっていく。

「……あれ? 急に曇りになったんですかね?」日向マコトはブラインドの隙間の明かりが消えたので、ブラインドを開けた。外は夜みたいだった。
「あれ?」
「どうしたの、日向くん」赤木リツコは言った。
「……今日が皆既日食だなんて、聞いた事ないですよね?」日向は言った。
リツコは日向と一緒に研究所の窓から頭を出して、空を見た。
「なによ! あれ?」
皆既日食であるはずがなかった。太陽を遮っているそれは明らかに大気圏内、というよりほんの数十メートル上空にあり、震えているのだ。
「あんな事が出来るのは……魔法?」リツコは『闇の王子』の一件を思い出した。やつは、あの美しい顔をした少年は、この世界を終わらせる気なの……?

その逆だった。『闇の王子』は地球を救おうとしていた。いや地球そのものには興味は無かったが、地上で倒れているシンジと、彼のそばにいるイアンナを守ろうとしているのだった。
いかに『闇の王子』といえど、それは大変な事だった。「レベルA」の遮蔽魔法を張るには、遮蔽しているエルグで表したエネルギーを、光速度の自乗で割っただけの値の魔力が必要なのである。
おそらく『ウィザード』五人全員で張っても成層圏に達するはるか前に遮蔽フィールドは破れてしまっただろう。そして地上を何度も焼き付くせるほどのガンマ線をまき散らしていたに違いない。
重力までも遮蔽している球体は、アスカの渾身(こんしん)の魔法によって、ぐんぐん上昇を続けていた。地上ではまさに皆既日食のように見えだした。すなわち黒い円を太陽の光が縁取りし始めたのだ。

その光景は、高速道路脇に立って、抱き合って手を握りあっているゲンドウとユイにも見えた。小刻みに震えているのユイの肩をゲンドウは強く抱いた。

またその球体はレーダーに捉えられ、気象衛星にも捉えられた。報告を受けた日本政府は魔法管理機構日本支部に問い合わせ、魔法管理機構日本支部は、世界魔法管理機構本部、すなわち、通称『フォート・ローエル』に連絡した。
「遮蔽魔法だ! ――こんな大きなものは見たことがない」何週間もわたって砦(とりで)に泊まっていた『ウィズ・ブリティッシュ』はつぶやいた。
「『闇の王子』でしょうか?」ウォズニアックは、若き『ウィザード』を見上げた。
「たぶんな……しかし何を包み込んでいるんだ! ウォズ。日本上空の魔法衛星の機能を回復するんだ」
「しかし、マイ・ロード!」
「かまわん。これは世界の終末かもしれんのだぞ! ぼくが全責任を取る。やってくれ」『ウィズ・ブリティッシュ』は、ここ何週間かの「黒い月」の夢が、これの予知夢であることを確信していた。あれは絶対に、地球の存亡に関わる、恐るべき物体なのだ!
「イエス、マイ・ロード」ひげづらの太った技術主任は、魔法衛星「LP十六」の機能回復信号を発信する。とたんに衛星から悲鳴のようなデータが帰ってきた。
「――だめです。計測不能! こんな魔法値は理論上あり得ません!」
「固有魔法振動数をサーチ出来るか?」
「やってます……。……は? 『ウィズ・ローレンツ』? ……上級魔女アスカ・ソウリュウ、そしてもっとも強い魔法の固有振動数が登録されていません!」
「『闇の王子』がホワイトハウスで使った『召喚魔法』のと照合してみるんだ」
「はい……九十八パーセント一致しました」
「なぜだ!? いったい彼らは何をやってる? ローレンツと上級魔女、そして『闇の王子』三人で協力しあって、何をやってるんだ!?」

彼らは、正物質と反物質の『対消滅』による爆発から、世界を救おうとしているのだった。いまや球体は空の小さな一点に過ぎなくなっていた。ここまで上昇すると、球体は黒ではなく、あらゆる電磁波を反射する輝く球体になっていた。まるで『イアンナ』を象徴する星、金星のように、天にひときわ明るく輝く星となった。だが、いまは白昼なのだ。日本の関東一円でその光点は観測されていた。人々はその点を指さして口々に叫んでいた。
いっぽう、球体を宇宙にはじき飛ばそうとしているアスカは、目に涙をにじませ、ぶるぶると震えだした。限界だった。魔力が尽きかけているのだった。意識が途切れそうになるほど疲れていた。
「負けるなアスカ! それでも俺の子か! もう少しで大気圏を脱出する。任務を遂行しろ!」アスカが思わずよろめいた時、キール・ローレンツは彼女に向かって、そう叫んだ。
アスカの白濁しつつある意識のなかに、幼い自分に厳しい魔法の修行をさせている、いつもバイザーを付けた男の姿が、ふっと浮かんだ。
「このぉーーーーー!」アスカは最後の力を振り絞った。今までやった中で最大のパワーをはるか上空の、輝く球体にぶつけた。そして、崩れるように座り込んでいた。冷たい嫌な汗が噴き出した。わたし、やったわよ、アスカは心の中にそびえ立つ、バイザーを付けた男を幼い少女の姿になって、見上げていた。そして気を失った。
「よし、大気圏外に出た。ローレンツ、一秒でいいから、遮蔽フィールドを一人で支えてくれ!」『闇の王子』は叫んだ。
「わかりましたっ」ローレンツは叫んだ。
「いくぞ!」『闇の王子』は焼けただれた肉体を捨てた。
「ぐ……っ」『ウィズ・ローレンツ』に、すべての膨大なエネルギー負荷がかかった。それは彼の全魔力をはるかに上回っていた。彼は浮遊魔法に回している分も含めて、全身全霊で『遮蔽魔法』をかけた。
エネルギー体となった『闇の王子』は、宇宙空間で待ち受けて、空間の曲率を変え、フィールド内の全物質をいずこともしれぬ宇宙の彼方にたたき込んだ。
その間、一秒半。ローレンツは地上に向かって落下していた。彼は漠然と、わたしは死ぬのだ、と考えていた。アスファルトが眼前に迫って来たとき、彼は宙に静止し、つま先からゆっくり降りた。
足が他人の足のようだった。彼もまたアスカのようにしゃがみ込んでしまった。
「よくやった。ローレンツ」目の前に、傷一つない渚カヲルの肉体をまとった『闇の王子』が立っていた。

『闇の王子』は、倒れたままの碇シンジに向かって歩き出した。イアンナのアストラル体は、彼が近づいてくるのを見て、あわてたように、シンジの身体におおいかぶさった。
「かばっているつもりか、イアンナ!」『闇の王子』は叫んだ。どんなものでもやすやすと半透明の彼女の身体を突き抜けて、少年に危害を加える事が出来るというのに。
「わたしはイアンナじゃない……わたしはレイ、ここでしんでいるホムンクルスよ……あれ???」
イアンナは不思議そうに、シンジが手のひらに載せているホムンクルスの亡きがらを見ていた。自分の死体を見ている自分は、いったい誰だろう? などと、考えているようだった。シンジの身体に触れることによって、覚醒した『イアンナ』は再び『レイ』というホムンクルスの魂に戻ったのだ。
『闇の王子』の心に、ばかばかしさと、怒りと、悲しみが同時にこみ上げてきた。まさにお笑いぐさ、上出来のギャグだ、彼はそう思うことにした。
「はははははは」彼はうつろな笑い声を上げた。笑わなければ、泣き出していたかもしれなかった。彼は天を仰いだ。
「父よ! 父よ! お恨みいたします! ぼくもまた、やはりあなたの『駒(こま)』だったんだ。人間たちと同じように」彼は嘆くように言った。
そして、彼はかつて女神だった魂をにらみつける。
「イアンナ、きみは『メー』(シュメール神話でいう宇宙を律するおきて、ここでは宇宙的な英知の意)をシンジくんに与えたね?」
「『メー』?」
「そうだ。きみは何らかの方法で、何か大切なものを彼にあげたはずだ。おぼえていないのか?」
レイ=イアンナは首を振った。ぜんぜんおぼえていないらしい。
読者諸兄はおぼえておられるだろうか。あのクリスマスツリーの前に立って、泣いたシンジの見た、不思議な『まぼろし』を。グラビアの少女と同じ格好をした『イアンナ』が、赤い石のようなものをシンジに授けたのを。
「まあいい。とにかくきみは、そうしたんだ。でなければ、『反竜』を召喚するなどという、ものすごい魔法を人間が使えるわけがない」
『反竜』は、正物質が主流を占めるこの宇宙では、存在する事自体が恐るべき兵器である。当然の事ながら『来訪』以来、最高位の『ウィザード』といえども、そんな魔法を使える者はいない。
「……イアンナ、それはいい。ぼくから『メー』を盗んだのは『神話』の一部なのだから。いいから、ぼくと一緒に行こう」
「いや、シンジといる」
「きみは、この世界では消えてしまうんだぞ! ……月に向かって美しい女神に思いをはせる人間など、もうごくわずかしかいないんだ! みんな、夜は電話かゲームかビデオを観てるのさ。ぼくと『魔界』へ行こう! 永遠にきみを生かす事ができるのは、このぼくだけだ」
「いや、……シンジのそばにいる」
「きみは消えかかっているじゃないか。……これが最後だ。イアンナ。ぼくと一緒に来い」
「……いや」確かに肉体を失ったイアンナ=レイは消えかかっていた。しかしその拒絶の言葉は、『闇の王子』にしっかりと届いた。
『闇の王子』の顔が、みるみる険しくなっていった。赤い瞳に憎悪の炎が燃えているようだった。
「……五千年前から、ぼくの敗北は決まっていたんだ……。よろしい、たかだか五千年にわたる『神話』を、ぼくの手で完結させてやる!」
『闇の王子』の身体は青白い鬼火のようなものに包まれ始めた。一時的に足が立たなくなった『ウィズ・ローレンツ』は、声もかけることが出来ず、ぼうぜんとなりゆきを見つめていた。……いったい殿下は、なにをなさるおつもりなのだ?

「『イアンナ』! ……ぼくの申し出を断るとは! ……きさまに、おぞましさに身の毛もよだつような、最高にして最大の『罰』を与える!」
『闇の王子』は左手を、大いなる闇、『ウロボロスの蛇』がまします天へと高く差し上げ、そしてゆっくりと『イアンナ』にむかって突き出した。