第十一話「闇の王子(後編)」

日本は平和だった。
意外なほど平和だった。日本からはるか離れたアメリカはアリゾナ州の巨大な要塞のなかで、アメリカ大陸担当の『ウィザード』、『ウィズ・ブリティッシュ』が落胆するほど平和だったと言っていい。彼にしても『闇の王子』が、巨大な、頭が三つある竜に変身して暴れ回ってほしいと思っていたわけではないが、全世界のすべての魔女、魔法使いへの至上命令である『能動的介入命令』まで考慮した自分はいったいなんだったんだろう、と思わずにはいられなかった。
日本上空の魔法衛星は機能停止していた。しかし、日本からの情報が途絶えてしまったわけではない。国際電話はちゃんとかかるし、電波だって届く。そして観光や経済活動を通して、多くの外国人が日本を訪れていたが、なにも変わった様子はないのだった。
赤木博士からのメールも「変わったことはない」という内容だった。『闇の王子』に接触し、警告まで受けた彼女にそれ以上を要求するのは酷だった。
彼らはその方法をあきらめた。
もっとも、『フォート・ローエル』の主任研究員であるウォズニアックは、妙にこの美人科学者に入れ込んでしまい、毎日、山のようにメールを送りつけているらしいのだが。
「ぼくのカンもあてにはならないってことか」金髪を長髪にし、口ひげを生やした、若きウィザードは思った。あの時、ホワイトハウスにやつが現れた瞬間、彼の脳裏に、まるでこの世の終わりを告げるような、まがまがしい巨大な黒い球体の影が浮かんだのだが、あれは、未来のヴィジョンではなく、たんなる錯覚だったのか。彼は椅子に座り込む。

ところが、まったく変化が無かったわけではない。
唐突だが、ここで、「○山商事」に勤める、梶(かじ)山(やま)ダイキチさん(四十一才)を紹介したいと思う。
梶山さんは、『闇の王子』が町に出現する三日前、会社に出社したとき、とんでもないものを見つけた。それは「辞令」と書かれた一枚の紙切れで、社内の掲示板に張られているのだった。
「以下のもの本日付けで東京本社総務部勤務を命ずる」
その下には自分の名。
彼は飛び上がった。大変な栄転なのであった。彼はあわてふためき、課長に確認した。「なんでかはわからんけど、本社から名指しだとよ。……それにしても、お前が俺より先に帰るか?」課長は恨めしげに言う。
そのとおりである。梶山さんは、自他共に認めるうだつの上がらない社員の代表格で、リストラがあればまっさきに対象になるだろうとうわさされていたほどの社員なのだ。
本来なら単身赴任か、遠いが新幹線で通勤するという手もあった。しかし、梶山さんたちは東京に引っ越すことにした。信じられないようないいマンションが信じられないような値段で売りに出ているのを見つけたのだ。おまけに早く契約しないと、すぐにも売れそうだと言う。中学生の一人娘が、どうしても都会に住みたいと言い出したのも手伝って、彼ら一家はさっさと東京に行った。

それだけである。

あと、変化といえば、それから三日後、町でただ一人の錬金術師の家の息子が通う中学校に、転校生が一人やってきた。
その少年は、渚カヲルといった。最初に彼が教室に入ってきた時に、ざわめきが起きた。少女と見間違えるような、小柄で色白な美少年だったからだ。
「渚カヲルといいます。父の仕事の関係で、この町に越してきました」
声もまたよかった。澄み切った風のような、かすかなゆらぎのある、きれいな声だった。
初老の担任教師は、女子たちのひそひそ話で教室がざわめいているのを気にもせず、ちょうど梶山の席が空いてるから、あそこに座れ、と言った。
その席は偶然にも昨日東京の公立中学校に転校した、梶山メグミという女子の座っていた席だった。その中学校では、男子女子と入れ子に並んでいるので、その転校生のところだけは男子が並んで座ることになる。
転校生はすたすたとその席に向かって歩いている。それを、中学生にして上級魔女であるアスカという少女が、にらみつけるように見ている。
碇シンジは、男前だなあ、と、渚という少年の顔を見ていた。一瞬、転校生と目が合った。転校生はほほえんだ。
変なやつ。シンジは思った。
転校生はその席についた。そして隣に座っている男子生徒に声をかける。
「よろしくね」彼はくったくのない笑顔をみせる。
「あ、ああ。こっちこそよろしく」相田ケンスケは言った。

瞬(まばた)く間に一週間が過ぎた。
渚カヲルは、クラスの人気者になっていた。彼は社交的で、話題が豊富で、なにより明るい笑顔が魅力的な少年だった。勉強や運動はそれほどでもないことはすぐにクラス全員にわかったけれど、転校生の人気急上昇の妨げにはならなかった。とくに運動は苦手らしく、体育の授業の時に、もともと鈍いシンジやケンスケと、仲良く並んで取り残されるという光景がしばしば見られた。
「ぼく、すごい運動オンチなんだよ」カヲルは隣に立っている、相田ケンスケに話しかける。
「あーあ、体育の授業なんかなければいいのになあ、そう思わない?」カヲルはケンスケに言う。
「うん。ほんと、気が重いよ」ケンスケは答える。
シンジは二人の会話に加わらず、考え事をしていた。今朝の魔法の「朝練」でおぼえた事を懸命に反すうしていたのだ。

シンジは、変わった。ほんの少し。母親の一件(第一○話参照)いらい、アスカに起こされなくても、ちゃんと着替えて庭で待っているようになった。アスカもアスカで以前より厳しいメニューをシンジに課しているのだが、シンジは、それなりに懸命にこなしていた。
人にものを教えるのは面白い。ことにその生徒が一生懸命で、わずかながらでも伸びているのがわかるようなときは。
アスカもまた、シンジを指導するのが面白く思えてきた。わたしも、小学生のころはこんなふうだったのかな、彼女は思う。だんだんと伸びてゆく感じ。魔法という途方もない力を手にしつつあるという高揚感。

シンジは、起きている時間の大部分をアスカと過ごしていると言ってよかった。朝、河川敷の公園。学校の休み時間は、一緒に魔法の教本を読み、お昼休みもやっぱり並んで弁当を食べながら晩の練習の予習をし、学校が終わると一緒に帰り、夕食のあと河川敷の公園で練習。
ここまでくると、全校生徒の間に、まるで枯れ草に火がついたように「ふたりはデキてる」という、うわさと言うよりたんに事実の確認といったような認識が広まった。
アスカに群がるように想(おも)いを寄せていた男子たちは、だんだんと数が減っていった。そして、アスカという才色兼備の、おまけに上級魔女であるという少女に対する評価が微妙に変化していった。
ワタシはこれをイソップ物語にちなんで、『あのブドウはすっぱいにちがいない法則』と命名しよう。手の届かない果実は「酸っぱいに違いない」と思いこみたがる人間の性(さが)とでもいえようか。
アスカは確かにかわいいけれど、本当はキツイ女で、シンジぐらいボーっとしてる男でないとつきあいきれないんだ、男子の間にそんな定評ができたのである。
面白いことに、あの美少年の転校生が碇シンジに話しかけようとすると、なぜかアスカがすっと二人の少年の間に割って入り、用事があると言ってはどこかへ引っ張って行くのだ。そして話す事と言えば、別に急ぎの用事とは思えないことばかり。けれど彼は師匠たるアスカに絶対服従を誓っていたから、文句も言わずに、うんうんとうなずきながらその話を聞くのだった。
しかし、めざとい思春期の女の子たちがこれに気づかないはずはなく、あるとき、女子の中でもちょっと意地悪で知られた子が、アスカにこう言った。
「いくらカヲルくんが美形だからって、男の子にまでヤキモチやかなくても大丈夫よ、シンジくんの場合」
もちろん言外には『シンジはあんたのもんよ=シンジなんて子にちょっかいを出す子はいない』というイヤミが込められていた。
アスカは真っ赤になって、いや恥ずかしがってではなく、怒りで真っ赤になって、「なんてこというのよ! あんた、ばかぁ」と叫んだ。そのあまりの勢いにその女子はたじろいで、すごすごと引き下がったが、「図星だったからよ」という話が女子にも男子にも広まる結果となった。

しかし、どんな事にも例外はあって、相田ケンスケがそうだった。
彼だけは、あいも変わらずこの少女に想いを寄せていた。日曜日の朝、犬の散歩途中に偶然通りかかったふりをして河川敷の公園へ行き、アスカに話しかけるのは、ほとんど習慣になっていた。おかげで散歩嫌いだった彼の犬、エンタープライズは、足腰の丈夫な犬になってしまった。
去年のクリスマスみたいに、Wデートできないかなあ。ケンスケは思う。
けれど肝心な、トウジとヒカリの二人は、あれ以来ちょくちょく二人っきりで会っているらしく、いまさらWデートという感じでもないように見えた。
もちろん、自分一人で告白したり、デートに誘ったりする勇気はなかった。
いつもシンジと一緒にいる、亜麻色の髪の、美しい少女を、ずうっと遠くから眺めているのが関の山。

けれど最近うれしいことがひとつあった。親友が出来たのだ。あの転校生だった。容姿も、女子生徒の人気もまるで違う二人だが、成績と運動オンチな点、そして隣に座っているという点が、二人を結び付けた。
彼らはちょくちょく一緒に下校し、ゲーセンに行ったり、アニメ映画を見に行ったりした。べつにそれで箔(はく)がつくというわけでもないけれど、この新しい、学校で人気のある親友は彼のプライドをくすぐった。直情型で、人と衝突することの多いトウジより、カヲルと仲良くしているほうが、なんだか自分が一緒に人気者になったような気がして、楽しかった。
ケンスケはカヲルのいろんなことを知った。両親が小さな貿易会社を経営していること。その都合で、家を留守にすることが多いこと。そしてこの町は東京近郊に比べると地価が安かったから、こちらに引っ越すことに決めたこと。前の学校では、ちょっといじめられていて、転校したかったこと。
「ほんと、転校しきてよかったよ。みんな仲良くしてくれるし、それに君と知り合えたもんね」あるときカヲルがそういった。
「そ、そう。……ぼくもよかったよ」ケンスケはほとんど有頂天になりながら思った。

「こんど家に遊びに行ってもいいかな?」そう言ったのはケンスケの方からだった。
「うん。いいけど、よければ君の家に遊びにいきたいな」カヲルは言った。
人のいいケンスケは、カヲルくんは両親が留守がちなので「家庭の雰囲気」に飢えているのだと思った。断る理由なぞどこにもない。
「いいよ。じゃ、今度の金曜日、うちに来る?」ケンスケは言った。
「ありがとう、ケンスケくん。言葉では言えないほど感謝してるよ」カヲルは大げさな礼を言った。
ケンスケは照れた。

ここに教訓がひとつある。大昔のことわざだ。どれくらい古いかは、「もとの文章は粘土板に『楔(くさび)形(がた)文字』で刻まれていた」と言えば、おおよその見当はつくだろう。――それはこうだ。
『悪魔を家に招いてはいけない』
深い意味はない。そのまんまである。

さて、金曜日がやってきた。
カヲルは、真新しいデイパックを抱えていた。
「どうしたの、それ」とケンスケは聞きながら、ひょっとしてウチに泊まるつもりで来るんじゃ? と思った。
「あ。これ。おみやげだよ。中身はあとで渡してあげるから」カヲルは言った。
二人は中学校からあるいて十五分ほどの、ケンスケの家まで歩いていった。それは、市内のややはずれにある造成地で、似たようなプレハブの家が建ち並ぶ一角だった。
「ここだよ」ケンスケはこれといって特徴のない家の前で言った。
「ふーん」カヲルは言った。
ケンスケがドアを開ける。お座敷犬のエンタープライズが出迎えに奥から走ってくる。いつもならケンスケに飛びつき、じゃれるのだが、今日はなぜか様子が違う。
廊下で立ち止まり、見知らぬ少年をにらみつけて、歯をむきだしてうなりだした。足を踏ん張り、いつでも飛びかかってかみつけるような体勢。
「おいおい、お客さんだよ、エンプラ」ケンスケは言った。
「ぼくが嫌いみたいだね」カヲルが笑いながら言う。
「おかしいな、いつもは人見知りなんかしないのに」

カヲルに悪い印象を持ったのは、この犬だけだった。ケンスケの母も、夕暮れに家に帰ってきた父も、なんて礼儀正しいおとなしそうな子だろう、と思った。あの関西弁の、乱暴そうな子より、もっと早くこんな子のほうとつきあってくれればよかったのに。ケンスケとそっくりな顔をした母親がそう思ったほどだった。

二人はケンスケの勉強部屋にいた
「ちらかってるけど」ケンスケは入るときにそう言ったけれど、きちんと片づいていた。六畳ほどの洋室。収納式ベッド。勉強机、本棚。驚くのは天井からぶら下がっている飛行機の模型だった。『世界大戦』当時の複葉機から、最新のジェット機。旅客機、戦闘機、爆撃機。
壁にはテレビアニメのキャラクターのポスター。本棚いっぱいに、中学生にしては多い一般の本が並んでいる。それらの本も、海軍年鑑やら「世界大戦史」といった本が多い。その本棚の上には、巨大な戦艦の模型がでんと鎮座している。
カヲルは、感嘆の声をあげながら、ひとつひとつ面白そうに丹念に見ていった。
「すごいね、ケンスケくん。まさに文化の極みだね」カヲルは真面目に言っているのである。
「そうかい?」文化の極みなんて言われたの初めてだ、ケンスケは思った。
「うん。……ああ。兵器ってなんて美しいんだろう! そう思うよね? より早く、より高く、より強くあるためだけに作られているんだ」
「そうだね。無駄のないデザインだから」
「そして、より多くの人を殺せるように……。ぼくは『世界大戦』のころに生まれてきたかったなあ」それはきっと素晴らしい見物だったにちがいない、といいたげに目を輝かせる友人の顔を見ながら、カヲルくんてきれいな顔をして、ひょっとしてアブナイやつなのかも、とケンスケは思った。

「『西暦七○○○年人類消滅の日』?」カヲルは、今度は本棚から一冊の本を取り出す。その表紙には、十字架に磔(はりつけ)になったキリストが炎に包まれている地球を見下ろしている絵が描かれている。
「あ。それ。西暦七○○○年に人類が悪魔との契約でみんな地獄に堕(お)ちるっていう話」ケンスケは言う。
「小説?」
「いや、『予言』っていうのかな? 十九世紀の悪魔との契約で西暦七○○○年に人類は悪魔に魂をささげなければならないっていうことがね、すでに『ヨハネの黙示録』に予言されてるって」
「ふーん」カヲルはぱらぱらとページをめくる。
「ばかばかしい」カヲルは言った。
「なんで」少し気分を害したケンスケは言う。
「きみは自分の祖先がアダムで、土くれから創造されたって信じてるの?」
「いいや。人間は猿から進化したと思ってるよ」
「この世の始まりは信じていないのに、この世の終わりは信じるの?」
「そ、そういえば、そうだけど」
「それに、いまから五○○○年後にきみは生きていないんだから、こんな予言なんてどうだっていいじゃないか」カヲルはあの明るい笑顔を見せながら言う。
「それはそうだけど……。面白いじゃないか。こういうの。ほら、彗星が地球に激突したり、大洪水が起きたりっていうの」
「そうかい? ……なんだったら、そういう事起こしてやろうか? ……いまのは冗談」カヲルは言って別の本を手に取る。
「『怪物たちの夜』?」カヲルは一冊の本を取る。表紙にはバケモノたちが逃げまどう人間たちを襲っている絵。それも首を引きちぎったり、内臓を引っ張り出したりという残酷な絵。
「これは小説?」
「知らないの? いまものすごいベストセラーになってるやつだ。人類は創造されたときにもともと二種類いて、片方が普通の人間だとすると、片方は変身できる種だという設定なんだ。ところが何十万年もの間に変身種はその能力を忘れてしまった。それが『来訪』によって目覚めて、万物の霊長の座をかけて普通の種と殺し合いを始めるっていう筋だよ」
「へえー。それはすごいね」カヲルは本をパラパラとめくる。
「内容もすごいんだよ。すげー迫力で。それに、ここだけの話だけどさ、この小説の設定てさ、真実なんだって。そんなうわさがあるんだ」

夕暮れのオレンジ色の光が、ケンスケの勉強部屋の天井からぶら下がった無数の飛行機の複雑な影を作った。
二人の少年は間近に立って、人類の恐るべき秘密について話していた。
「だから、本当の事ってうわさがあるのさ。人類の中に人類とは違う種が紛れこんでいるんだ。そいつらがある事件をきっかけに人間を襲いだすっていう話なんだ」ケンスケは言う。
「なかなか楽しい描写があるみたいだね」カヲルはある章を開いてみせた。
それは、獣人類(その小説の造語)との全面的な戦闘が世界中に広まった後、ある国の軍隊が「獣人類が何割か紛れ込んでいる」という情報を受けて、ある小さな村を攻撃する場面だった。軍はまず焼夷(しょうい)弾で村を焼き払い、落下傘部隊が生き残った村人を徹底的に殲滅(せんめつ)する作戦だった。幼い子供を抱いた母親が隠れた瓦礫(がれき)の山に手榴(しゅりゅう)弾を放り込み、焼け残った教会に逃げ込んだ村人を火炎放射器で焼き払い、手を上げて出てくる老人の眉間に弾丸をたたき込む。
「た、楽しいかな……?」ケンスケは戸惑った。
「だって、その情報は『デマ』だった、てここに書いてあるよ。すばらしい皮肉じゃないか?」
「すばらしいかな……?」
「でも、全体として、この小説は『クズ』だね。性格描写は平板、登場人物は紙人形のようだけど、トラウマ(精神的外傷)だけは一人前、科学的考察はデタラメだし文章は拙(つたな)いけど、兵器の雑学的知識と残酷描写だけは念入りだ」
「読んだことあるの?」ケンスケは顔をしかめて言う。
「いまちらっと読んでわかった。……でも面白いよ。情報のあふれかえったこの社会では、何年かにいっぺん、バランスを欠いた人格を持つ人間が、芸術としてバランスを欠いた作品を発表し、バランスを欠いた事それ自体をもてはやされることがある。この血まみれの小説がそうだ」カヲルは笑いながら言う。
「そんなふうに言わなくても」ケンスケは抗議するように言う。あんなパラパラとめくっただけでそこまでわかるもんか!
「ごめん、ごめん。でもこの作者の設定は正しいかもね。おそらくこの作者は何らかの方法で、隠された真実を知ってしまったんだ」
「そう思うだろ! 母さんもそうじゃないか、って言ってるんだ」ケンスケは気を取り直したように言う。
「でも最初から二つの種に別れてたって事はないよ。いや、ないと思う。もともと人間にはそんな要素があるのさ。魔界の力を利用して魔法を使ったり、変身したりする能力は、数万年以上前から持っているといえるんだ」
「ほんと?」
「うん。昔、人間は実在する神と、魔界から来た悪魔とともに暮らしていたんだよ」
「……神? 神様も実在してたの?」
「そうさ、『来訪』以降、さっぱり人気が無くなった神が、人間とともに暮らしていた最後の時代だった。人間がいったん魔法や変身能力を失うとともに神は去った。それ以降に成立した神話は、みんなその時代のグロテスクなパロディに過ぎない。旧約聖書はその最たるものだよ。各氏族の言い伝えを除けば、自分たちの都合のいいようにねじ曲げた、他の民族の神話の寄せ集めと言っていい」
「ふーん、詳しいんだね、カヲルくん」ケンスケは感心した。ぼくは底知れないやつと友達になったのかもしれない。

そのときケンスケの母親が、夕食の準備が出来たと告げに来た。
「よかったらカヲルくんも食べてかえらない?」ケンスケとそっくりの母親は言うのだった。
カヲルは相田家の団らんの話題を独占した。カヲルは明るく礼儀正しい少年として完璧に振る舞った。食事が済むと、まるで小学生の頃のように、両親とケンスケと、そして客の渚カヲルと四人でトランプをした。普段はめったに父親と口をきかないケンスケは別人のように、父親に冗談を言ったり、父親の冗談に笑ったりした。
カヲルは驚くほどたくさんのトランプのゲームを知っており、相田家の人々はそれに夢中になった。
気がつくとなんと一○時を過ぎていた。帰るそぶりを見せたカヲルに、遅いから泊まっていきなさいと声をかけたのは、母親だった。
「そうしなよ」ケンスケは言った。この、変わっているけど魅力的な少年と同じ屋根の下で眠るのかと思うと、修学旅行よりもわくわくするような気持ちがした。

真っ白い敷き布団が二つ置かれただけで、見慣れた部屋が、まるで違った部屋に見えた。カヲルくんはお風呂に入っている。とんとんとん、階段を上る音がする。
「やあ、どう? ぴったりだろ?」ドアを開けて入ってきたカヲルは、ケンスケの夏物のパジャマを着ているのだった。野球のユニフォームを模した淡いブルーの半袖のパジャマだった。ぼくが着ると少年野球チームの補欠って感じだけど、カヲルくんは、なんだか雑誌の表紙みたいだ。ケンスケは思った。カヲルくんは、ほんとうにきれいな顔をしている。風呂上がりで、ほおがピンク色に染まり、髪が濡(ぬ)れていて……。
「なに見てるの?」
「あ、いやなんでもないよ」ケンスケは目をそらす。

あたたかい闇。
カーテンをしていない窓から、月の光がかすかに差し込んでいる。今夜は満月だった。暗がりで見上げると、天井からぶら下がった無数の飛行機は、まるでコウモリたちのようだ。
少年たちは枕をならべて横になっていた。
静かだった。ケンスケはさっきからカヲルの横顔をちらちらと見ている。蛍の放つ淡い光よりもよわよわしい月の光の下で、カヲルの白い横顔が陶器のようにすべすべとして見えた。おとぎ話に出てくる、ずうっと眠っているお姫様のようだった。
「ねえ」突然カヲルは言う。
「なに?」ケンスケは言う。
「兵器や、人類の未来だの破滅だのより、学校のこと、気にならないの?」
「え?」
「ほら、勉強のこととかさ、イヤでたまらない体育の授業のこととか、……女子のこととか」カヲルは言った。
「そんなの。そんなこと考えたって、しょうがないじゃないか」
「そうかな……。そういうものかな」
「だって、女子なんて、あの男子がどうとか、誰かが誰かとキスした、とかそんなのばっかだもん。男子はなんだか話の通じないやつばっかりでさ」
「鈴原くんは?」
「あいつ、カノジョが出来てから、なんかその話ばっかりで」
「ははははは。洞木とつきあってるんだよね」
「うん。ぜーんぜん性格違うのにね」
「きみは好きな女の子いないの?」
「え……。いないよ。ウチの学校にはろくな女子がいないもん」
「あの、アスカって子は? すごくかわいいし、おまけに上級魔女じゃないか」
「アスカ……。かわいいけど、あいつシンジのやつとデキてるから。いや、というか、本人は弟子のつもりだろうけど、はたから見たら姉さん女房と弱気な亭主みたい」ケンスケは皮肉に言う。
「ははははは。じゃ、つきあってるって感じでも、ないんじゃないか」
「そうだけど、同じ家に住んでて、どっちも魔法を使えるというのは大きいよ」

カヲルはしばらく黙ったあと、「きみはやっぱりアスカって子、すきなんだね」と言った。
同じ暗闇を共有している少年たちのあいだには、不思議な共感が生まれる。学校では言えないことも、闇のなかで、並んで天井を見上げていると、口にすることが出来るようになるものだ。
「……うん。……でも、ぼくなんか、眼中にないみたい。魔法と同居を別にすりゃ、ぼくだってシンジとあんまり変わらないような気がするんだけどな」ケンスケはそう答える。
「そうだよ、もっと自分に自信をもたなきゃ……。そうだ、話は変わるけどおみやげ、あげるの忘れるとこだった」カヲルはそう言うと、持ってきたデイパックの中をごそごそとかき回す。
「これこれ」カヲルはケンスケに小さなスプレー缶のようなものを手渡す。
ケンスケは、手を伸ばし、寝る前に枕もとに置いた電気スタンドのスイッチを入れた。部屋の電気をつける気はしなかった。ぜんぶ明るくしてしまうと、大切ななにかが、壊れてしまうような気がした。

「『キス! キス! キス!』?」その缶には俗悪なラベルが貼られている。缶の底には「MADE IN TAIWAN」の文字。
「オヤジの会社から、試供品かっぱらってきたんだ。口臭スプレーなんだけど、キスする前に、こいつを口にシュッと吹くと、口臭が消えるうえに、なんと相手は何度でも同じ相手とキスしたくなるという……」
「あははははは。変なもんあるんだね」ケンスケはその缶の間抜けなデザインと、ばかばかしい効能とで思わず笑ってしまう。
「……おかしいだろ? なんか、『フェロモン』がどーのってオヤジは言ってた。どーせ効かないだろうけどしゃれにいいだろ。もし効いたらもうけもんだし。あげるよ」
やっぱり、カヲルくんは変わってる、ケンスケは思った。でもぼくはそのキスするところまでいきそうにもないから、無用の長物だな。
「それとこれ」カヲルはもう一つ何かを取り出した。
「『ラブラブパワーZ』?」ケンスケは、その紫色の情けない格好をしたプラスチックのおもちゃを手に取る。
「そいつはね、告白代行機。シンガポール製。好きなあの子に渡すと、その液晶のところに歯の浮くようなメッセージを表示してくれるっていう」
「でもこれ、英語だよ」
「だから、そいつは試作品なんだよ」
「あ、ありがとう」ケンスケは言った。
もうおみやげは終わりみたいだったので、ケンスケはスタンドの電気を消した。

ふたたび、沈黙が訪れた。
「さっきの話だけど、カヲルくん……好きな子いるの?」
「いるよ」彼はあっさりと認めた。
「その子とつきあってるの?」
「いいや。いまは別れてる」カヲルは言った。
「まえの学校の子?」
「うーん。そうだな、前世で知り合った子だ」
「なんだよ、それ」
「ぼくが、前世で肉体を失う前に、知り合ったんだ。名前は『イアンナ』。大いなるユーフラテス川のほとりの、ほこりっぽい、月神の都で、ぼくは彼女に出会ったんだ……。彼女は月神ナンナルの娘。ぼくは、彼女を好きになったけど、彼女は、つまらぬ羊飼いの男を選び、肉体をまとって、そして滅びた。それで、ぼくは、この世界を去った。あれから五千年たって、ふとこの世界をみると、彼女は復活を遂げていた。美しい愛の女神を追い求める男たちの想(おも)いが、漂える魂になった彼女を生き延びさせていたんだ。他の神様たちはさっさと消えてしまったのにね。……いい話だろ?」
「なんだよ、それ? ゲームかなんかの設定?」ケンスケは戸惑った。
「ふふふ。そうだね。これは『ゲーム』の話と言ってもいいかもね。冗談だよ。前の学校にいた子だよ」カヲルは言った。
「なんだろって思ったよ! で、その子とつきあってたの?」
「ああ」
「……どこまで行った?」
「なにが?」カヲルは問う。
「だから……ほら、昔よくいってたじゃない、AとかBとか、Cとか」
「ああ、どこまで仲良くなったってことかい? そうだな……あれは、エッチしたっていっていいんだろうか?」
「ええ! ほんとに?」
「うん。でも正確な意味じゃ、エッチじゃないかも。……そういったことは別の子としたな」
「ほんと? 別の……。どんな子と?」これだけ美少年なんだから、そうかもしない、ケンスケは思った。
「ああ、その娘は耳が猫の耳だった。尻尾が生えてきていたし、体毛も生えてきていた。茶色のきれいな毛並みだった。その子、興奮すると変身してしまうんだ」
「また、ゲームの話……。冗談じゃなくて、ホントのこと言ってよ」
「ああ、ごめんごめん。前の学校の、本命じゃない別の子だよ」
「その子とはどうなったの?」
「……もう、何千年も前に死んでるよ。あの小説本で言う『獣人類』だったから、とても長生きしたけどね。シュメール滅亡後、なんと『バビロン』建設の後まで生きて、人さらいになった。山猫の姿に変身して家に忍び込み、子供をさらっていくので、バビロンの親たちは恐怖のどん底にたたき込まれた。たぶん、ぼくの子供が欲しかったんだろう……。ぼくの子供が欲しいという一念が彼女を生きながらえさせていたんだ。……哀れな女だ」

だから、ゲームの話はやめろよ、と言おうとして、ケンスケは思いとどまった。カヲルの声に、かすかな、本物の悲しみの色を感じたからだった。
……いったい、こいつって、どんなやつなんだろう? ケンスケは思った。

ちょうどそのころ、ケンスケの家から何キロか離れた、彼のクラスメートの碇シンジの家で、シンジの母の碇ユイは、何か異様な気配を感じて目がさめた。
身体を起こして、あたりを見回す。
そして、それを見た。
体中にさっと鳥肌が立った。全裸の、色の白い少女が、枕元に背を向けて立っているのだった。
幽霊。
とっさにそう思った。少女は何かを探すようにきょろきょろとしている。
振り返った。
髪はまるで鬼火のように青白く、目は血のように赤い。
そしてその容姿は見覚えがある。
「……あなたは、レイなの?」ユイは声をかける。
それはうなずいた。アストラル体だ、ユイは思った。呪いの訓練は同時に霊魂に対しての感覚を鋭敏にしたのだ。
レイのアストラル体は助けを求めるように、切なげな表情で、ユイを見ていた。ユイは立ち上がった。彼女は恐れることなく、その白い少女に近づいて、肩に手をかけようとした。当然その手はレイの身体を突き抜け、虚空をさまよう。
「……どうしたの? 息子を、シンジを探してるの?」
レイは、こっくりとうなずく。その表情があまりにも素直で、かわいらしく、悲しそうだったので、哀れみが心の奥から押し寄せてくるのを、ユイは感じた。
「……ごめんなさいね、レイ。息子が魔法を制御出来るまで、待って。おねがい」ユイは言った。
レイは、目を落とした。もじもじしている。

「……そういうことだったのね」ユイは、息子の魔法の暴走の原因が、なんとなくわかったような気がした。
かわいそうだった。ユイは、このホムンクルスが心底かわいそうになった。シンジが一人前の魔法使いになるまで、あと何年もかかるだろう。そして晴れてその日が来たとき、このホムンクルスは生きていないかもしれない、と思ったのだ。
そうだ。小さすぎる。ホムンクルスの平均的な寿命は一○年足らず。しかしレイというホムンクルスは、体長二○センチにも満たない。おそらくは普通のホムンクルスより長生きはしないだろう、とユイは思った。もちろん、息子にはそんなことは言えなかったが。

ユイは、さあ、身体に戻りなさい、と、そのアストラル体に言った。
そのとき、あることに気がついた。
それは、単純な疑問だった。
なぜ、ホムンクルスの中でも例外的に小さなレイのアストラル体は、こんなにも大きいのだろう? という疑問である。
もちろん、肉体と同じである必要はない。しかし……。ホムンクルスのサイズではなく、インキュバスでもサキュバス(ともに「夢魔」)の姿でもなく、人間の少女の大きさ。それはかつてレイが、人間だったことを意味してはいないだろうか?
「……レイ、……あなたはいったい誰なの……。いいえ、誰だったの?」

レイは一生懸命首を横に振った。自分でもわからないらしい。

「きみは、そんな経験あるの?」カヲルは突然言った。
ケンスケはふとカヲルの方を見て、どきっとした。
彼は半身を起こして、ケンスケをのぞき込んでいた。月の光が、カヲルの端正な顔を半分照らしている。細くとがった顎。すんなりと高い鼻。薄い唇。闇の中でぼんやりと浮かび上がる赤い瞳。
ふいに、カヲルくんが女の子だったらどんなにいいだろう、と思っている自分に気がついた。ケンスケはあわてて、その思いつきを心の奥にしまい込む。
「ないよ。はっきり言うとキスさえしたことないんだ」ケンスケは言った。
「……キスもしたことがないのかい?」
「何度も言わせるなよ」
カヲルはほほえみを浮かべた。
なんという美しいほほえみなんだろう! ケンスケは見とれていた。そして、カヲルの顔がずんずんと近づくのに気がつかないでいた。
「あ」
カヲルの手がケンスケの手を、そっと握っていた。ケンスケは、上身体を起こし、その白い手を見下ろした。
その、うつむき加減になったケンスケの唇を、なにか冷たいものが塞いだ。
「……!」
目の前に、目を閉じたカヲルの顔があった。鳥が羽を休めるように、長いまつげが目からすっと伸びていた。
口の中に何か入ってくる。何かが、おずおずと、探るように、入ってくる。
ケンスケはカヲルを突き飛ばそうとした。
しかし、自分の左手の上にそっと置かれたカヲルの手が、まるで万力で締め付けているように感じられるのだ。
一秒が一時間ほどの長さに感じられた。
……ぼくは、男の子とキスをしてるんだ! 無理にかき立てたように、不快感がわいてきた。ケンスケはカヲルから離れた。
「な、なにするんだよ! ぼくにはそんな趣味無いぞ!」ケンスケはうわずった声で叫んだ。
カヲルはすぐには答えず、うっすらと笑いを浮かべて彼を見つめていた。
「ごめん、ごめん。冗談だよ。ぼくにもそんな趣味は無い。でも、とにかくキスは経験できたろ?」
「じ、冗談でもこんなことやらないでよ! 今度やったら絶交だぞ」ケンスケは腹を立てていた。いや、怒っているふりをした。怒らないと夜が明けるまで、どんなことになるかわからない、と思ったのだ。
「ごめん、そんなに怒るとは思わなかったよ。二度としない。……そうだ、おわびといっちゃなんだけど、おみやげ、まだ残ってたんだ。忘れるところだった」カヲルはまたデイパックの中をごそごそ探す。
「これ、効かないと思うけど、あげるよ」カヲルは言った。

ケンスケはその瓶を手に取った。なぜかスタンドすらつける気になれないので、月明かりでその小さな、香水か、マニキュア用のような小瓶を調べる。
さきっぽに目薬のようにとがったプラスチックの器具がついている。目を凝らしてようやくラベルの字が読めた。
「アルティメートラブポーションX」と、バカみたいな書体で、女の子が男の子に抱きついているイラストの上に書かれたラベルだった。
「なにこれ?」
「簡単に言うと『惚(ほ)れ薬』、『媚薬(びやく)』だよ。飲み物でも食べ物でもいい、これを一滴垂らして、好きな女の子にあげるんだ。すると最初に目に入った男性に惚(ほ)れてしまうっていう」
「そんな馬鹿な!」
「うん。そんな馬鹿なことはないけどね。魔法薬ならばそんな薬もあるんだけど、精神をコントロールする魔法薬を販売するのは禁じられてるし。こいつはそれのまがいものだよ。おやじは『エンドルフィン』がどうとか、って言ってた」
「ありがと」ぼくは、カヲルくんとはつきあっていけないかもしれない、とケンスケは思った。こいつは変すぎる。

もう寝よう、と言い出したのはケンスケだった。
二人の少年は黙って、目を閉じている。
ケンスケは耳を澄ませていた。カヲルの寝息を聞いていたのだ。
すー、すー、すー。寝息まで女の子みたいだ。もちろんケンスケは女の子と寝たことはないから、想像にすぎないのだが。
ケンスケは眠れない。
あの、感触が、あのキスが、頭の中を占めていた。
ちがう。ぼくはホモじゃない。……ぼくは、カヲルくんを、そんなふうに好きじゃない。ケンスケは思った。
ぼくが好きなのは、アスカなんだ。あのきれいな女の子なんだ。
けれどもケンスケは悩むのだった。当惑し、自分に嫌悪感を抱いていたのだった。なぜならば、あの時、あの永遠のひとときに、まるで忠実な猟犬のように性的刺激を嗅ぎつける、彼の男としての部分が、反応してしまったからだ。

土曜日の朝。カヲルは何事もなかったように快活にふるまった。
ケンスケは、帰り支度をしたカヲルを、玄関で見送った。何事もなければ、一緒に出ていって、寄り道でもしながらカヲルの家まで行ったかもしれない。けれど、ケンスケは、なんとなくカヲルと一緒にいたくなかった。
彼は、玄関で別れることにした。
「ありがとう。楽しかったよ」カヲルは笑いながら言う。
「……ああ、あ。おみやげありがとう」きっと使うこともないだろうけど。
「ううん。ま、話のたねにでもして。……それじゃ」
「あ、そうだ。あの、ほら」
「なんだい?」
「きのうの晩、よく『ゲーム』の話、してたろ? あれってなんて言う名のゲーム?」なんとなく気になったのだ。
カヲルは、ほほえみながら、ゆっくりと答える。
「……そうだね。そのゲームは『人類の歴史』っていう名だよ。それじゃ、あさって学校で。さようなら」
ケンスケはカヲルのほっそりとした後ろ姿を見ている。
『人類の歴史』? そんなゲーム、あったっけか?
三台のテレビゲーム機を持っているケンスケでも、そんなゲームの名前は聞いたことがなかった。

カヲルは、一人で歩いていた。
春なのに、ハエが一匹飛んできて、彼の細い肩にとまった。
『殿下、今日という今日は、ワタクシ、殿下のお考えがわかりませぬ!』
そのハエはぶんぶん羽音をさせながらそう言った。
「なぜわからないんだ? 『ブブちゃん』?」カヲルと名のる、『闇の王子』が答えた。
『なぜ、あのようなつまらぬ人間の少年に近づくのですか? 彼と殿下の、今回の目的と、いったい、なんの関係があるのですぅ?』
「ああ、もう近づくのは終わりだよ。今度はわざと遠ざかる」
『????? ……ええ、ワタクシは愚直な悪魔に過ぎませんので、殿下の深遠なるお考えはわかりませぬ。しかし、あれはなんです? 「キス! キス! キス!」「ラブラブパワーZ」、しまいにゃ「アルティメートラブポーションX」! いったい、どこからあのようなものを思いつかれたのです』
「ははははは。ぼくは、忘れっぽいオヤジと違って、人間たちが電波を発明してからずっとラジオやテレビを観察していたんだ! あれはその研究の成果さ! 毒を盛るには、相手に馬鹿にされるほど安心させなければならないんだ。ハンバーガーだの、コーラだののコマーシャルを見てみろ、ブブちゃん。あれが人間の五千年の進歩の象徴なのさ」
『ですが殿下、あれを与える相手を間違ってやいませんか? なぜ、イアンナさまに――』
カヲルはハエをぱっとつかむと、ぷちっと握りつぶした。
しかし次の瞬間、虚空から別のハエが現れて、やっぱり同じところにとまった。
「きさまは、ぼくに、『イアンナ』に『惚れ薬』を飲ませて操れ、というのか! ぼくを侮辱すると許さんぞ!」
『殿下、どうかご容赦を! 失礼いたしましたっ。しかし、このワタクシめには殿下のご計画がいまだわかりませぬ』
「鈍いやつだなあ……。ほんとに。きみに、兵器と並ぶ人間の文化の極みである『喜劇』のことを長々と説明しようとは思わないけど、『惚(ほ)れ薬』は古代から喜劇の大事な小道具だ。つまり『惚(ほ)れて欲しい相手には惚(ほ)れられず』というやつだ」

『蠅(はえ)の王』はそれから二度ほどひねりつぶされて、ようやく彼が仕える『闇の王子』の計画を理解した。そして、ハエは『闇の王子』の計画なるもののあまりの『セコさ』に、あんぐりと開いた口が塞がらなかった。
ハエの口がどんなふうに出来ているか、ワタシは承知している。だからこれは「比喩的表現」だと思っていただきたい。

日曜日。晴れた朝。ケンスケは、橋の欄干から、河川敷の公園にいる、二人の中学生をぼんやりとながめていた。

「ほら、息を止めないで! 呼吸し続けて。……大きく。そう」アスカはシンジに声をかけた。
シンジはどことなくへっぴり腰で、両手を前に突き出している。自分が発生させている魔法特有の「葉っぱ」の匂いでむせかえりそうだった。コントロールできるだろうか?
心の隅に不安があった。今度、ぼくの魔法が暴走したら、アスカが魔女の資格剥奪という目にあうのだ、シンジは思った。アスカは……暴走を止めるために、ぼくを殺すだろうか?
「不安になってない? 自分に自信を持たなきゃ、魔法なんて出来ないわよ」
その通りだった。少しでも不安があるとうまくいかない。身にしみてわかっていた。浮遊魔法の練習中に、ふと心細くなってしまい、顔から墜落したことがあるのだ。
シンジは意識を集中する。
彼の得意とする『召喚魔法』は、アスカの『エレメント系』魔法と違い、物理的な作用対象は(魔法をかける前には)存在しない。したがって、頭の中で召喚したいものの像を思い浮かべて、それと意識を同期させるのだ。
いま、彼の中には空想上の動物である生き物が、はっきりとした像になっていた。それは、恐ろしげな頭を下げて、低い声でうなっていた。
出るんだ、シンジは念じる。無の中から、有よ、現れよ。素粒子が明滅するエネルギーの『場』から、顕(あらわ)れよ。
シンジの目の前の空間が奇妙にゆがんだ。光が屈折しているようだった。物理世界の虚数としての『魔界』から、エネルギーが、『物質』という言葉で話しかけてくる。
ぼわっ。空気が押しのけられる音。
一瞬にして、その怪物は四肢をつっぱり、その公園の片隅に立った。

「わわわわ」ケンスケは思わず声を上げる。消しゴムほども小さく見える眼下のシンジの目の前に、いきなり変わった動物が現れたのだ。

「『グリフォン』……」シンジはつぶやいた。
「そうね、グリフォンね」アスカは、興奮を抑えて答えた。獅子の身体に鷲(わし)の頭を持つ怪物が、羽をばたばたさせながら、頭を突き出し、きょろきょろとあたりを見渡している。
「小さいな」シンジは言った。日曜日の練習の度にやってくる相田の連れている小さな犬より、一回り大きいだけだった。
「……近づいて、頭でもなでてやれば?」アスカは平然と言った。
「え?」シンジはとぼけてみせる。
「早く。飛び去ってしまったらどうするの」
「わかったよ」シンジは、ゆっくりと怪物に歩み寄る。
アスカは、シンジに意識を集中させていた。もし怪物がシンジに危害を加えるそぶりを見せたら、シンジの方をはじき飛ばすためだった。
シンジもそれは承知していた。もしかしたら手の一本くらい無くす可能性もあると思った。
シンジは、怪物の前に立ち、怪物の丸い小さな目をじっと見つめた。
シンジは左手を伸ばす。利き腕を失いたくなかったからだ。ゆっくりと腰をかがめる。グリフォンはじっとしている。
一瞬、躊(ちゆう)躇(ちよ)したあと、シンジは怪物の固い羽毛に覆われた頭に触れた。怪物はなんと心地よさそうに目を閉じた。
シンジは安心し、頭をなでてやる。しまいには両手で怪物の首を抱えるようにして愛撫(あいぶ)していた。
「……アスカ、この子、案外かわいいよ!」シンジは顔中に笑みを浮かべてアスカに言った。
少年らしい、無邪気な、すばらしい笑顔だった。アスカは思わずほほえんでしまう。
「よかったわね」
二人の目があった。まるで初めて会ったみたいに、しばらくお互いを見ていた。
「……ありがとう、アスカ。魔法を使えるって、すごいことなんだ!」シンジはアスカを見つめて、そう言った。そんなシンジを見ていると、なぜか、暖かいような、もどかしいようなものが心の奥からあふれてくるような気がして、彼女は、あわてて「ほら、もう実験済んだんだから、消す練習もしなくちゃ」と、そっけなく言った。
「消してしまうのかい?」シンジは、怪物の頭をなでながら言う。
「殺すわけじゃないわ。そいつの魂を一時的に解放するだけよ。召喚すればいつでも会えるわ」
「わかった。『グリフォン』、またな」シンジは立ち上がり、何度も練習したとおりに召喚魔法を中和した。
怪物はふっと虚空にかき消えた。しゅぽ。怪物が占めていた空間が、一瞬真空になったので、大気が真空を埋める音がする。

二人は、たのしそうだ。ケンスケは思った。自分たちがどれだけ仲がいいか、本人たちだけが知らないんだ。
ケンスケはアスカに話しかける気になれなかった。心の中の底の、暗闇に、カヲルくんがじっと息をひそめて横になっている気がした。
ちがう。そうじゃない。ぼくはアスカが好きなんだ。

月曜日。アスカとシンジは相変わらずくっついていた。カヲルの様子はどこか違ってよそよそしく感じた。いや、それはぼくが距離を置きだしたのかもしれない。ケンスケは隣の席のカヲルの方の手でほおづえをつき、おもしろくもない授業を聞いているふりをする。
火曜日。机の上に、三つのカヲルのおみやげが並んでいた。
ばかみたいだ。なんてもの人にくれるんだろう。
水曜日。カヲルが女子たちと楽しそうに話している。気がつくと女子ではなくカヲルを見ている。ばかやろう。ぼくの、ばかやろう。
木曜日。ぼくはアスカが好きなんだ。
金曜日。ぼくはアスカが好きなんだ。異常なんかじゃない。その証拠に女の子が好きじゃないか。もうプラモデルだのゲームだのアニメだの卒業する年なんだ。
土曜日。一日中考える。一週間というもの、カヲルくんとろくに口もきいていない。これでいいんだ。

日曜日。ケンスケは早く起き、コンビニに行った。考えて、アメリカンドッグを買った。三本。ぼくとシンジと、アスカの分。そして缶コーヒー三本。
誰かがそのアメリカンドッグに、何か薬のようなものを垂らしている。それはぼくだった。ぼくだ。そうだ。こんなものは効かないんだ。冗談だよ、冗談。効けばもうけもんじゃないか。ぼくはちゃっかりしている。もうだまされやすい子供ではないからだ。
「やあ、せいがでるね」ぼくはまるでオトナみたいな挨拶をした。
「ほら、これ差し入れ」ぼくは注意深く、その一本をアスカが取るようにしむける。
アスカは、ありがと、と言いながら、髪を耳の後ろにかきあげて、それにかぶりつく。ぼくは正面に立っている。顔を上げてごらん、アスカ。そのまま顔を上げるんだ。

その時、季節はずれのハエが、なんとアスカの鼻の頭にとまった。
「もーっ! なによ。今時ハエなんて!」彼女はあわてて顔を振り、横でのんびりと缶コーヒーをすすっている碇シンジと目があった。
碇シンジは、さっきまで機嫌の良かったアスカが、なぜぼくをしかめっつらでにらんでいるんだろうと思った。なにか失敗をしたのかな? いや、最近すごく上達したって、ついさっき誉(ほ)めてくれたばかりじゃないか。

アスカは変わった。
いや、シンジの父と母への態度は変わらない。シンジへの態度が変わった。怒っているみたいだった。シンジが話しかけても、目をそらして生返事。
ユイはさっそく、シンジに「あんた、練習で何か、しでかしたの?」と小声で尋ねた。
「ぜんぜん身に覚えがないんだよ。かあさん」シンジは答えた。けんとうもつかないのだった。アスカが自分に恋に落ちているなどと途方もない推測ができるほど、この少年は鋭くない。

月曜日。アスカはシンジによそよそしい。話しかけても返事はしてくれるのだが、決して視線を合わせない。練習も、初めて「グリフォン」を呼び出した時みたいな気持ちが通い会う感じは失(う)せて、なんだか初めて会った時のよう。
授業中でも、視線を感じてふりかえると、アスカがにらんでいるのだった。掃除の時間でも、体育の時間でもそう。アスカの怒ったような視線がいつもシンジを突き刺していて。

火曜日。昼休み。そんな態度のくせに、シンジの隣で、いつもと同じように弁当を食べているアスカに話しかけてみる。
「ねえ……。アスカ。……ぼく、何か、いけない事した?」
シンジにとって、アスカが家に来たばかりのころには、決して口出来なかった率直な言葉かもしれない。半年という時間がそうさせたのかもしれなかった。
「な、なにも」アスカは妙にあわてている。
「卵焼き、落としたよ」
「あ。ああ、もったいない。練習も順調だし、なにも悪いことないわよ」
「ウィンナー、落としたよ」
「あ、うん」
しかしアスカはあさっての方向を向いている。そのまま、平然としたそぶりで弁当を食べようとするものだから、ぽろぽろいろんなものを落とすのだ。
「ねえ、もしぼくに悪いところがあったら、言ってよ。がんばってなおすから」シンジは真面目な声で言う。
「だから、あんたのせいじゃないってば! ばかっ」アスカは叫んだ。しかし普段のアスカの悪態と違うところは、すぐさま(横を向いたまま)、小さな声で「ごめんなさい」と言ったことだった。

シンジはアスカの横顔を見つめている。風邪でもひいたのだろうか、と思う。ほおがさくら色に上気しているのだ。
「熱あるの?」
「ないわよ!」
「でも、なんだかへんだよ」
「なんでもないわよ」
「……ちょっと、ごめん」シンジは片手で自分の額を押さえ、もう一方の手でアスカの額の熱を測ろうとした。
「な、なにすんのよ!」アスカの反応は劇的だった。ぱっと立ち上がって、五メートルも後ろにとびのいたのだ。膝に乗せていた弁当箱が、校庭の地面に落ちてしまった。
「ごめん、……つい」
「『つい』って、気安く人に触らないでよ! 熱なんか無いわよ!」そういうアスカの顔は四○度も熱を出してうんうんうなっている人みたいだったので、シンジはますます心配になる。
「ほんとに、大丈夫?」
「大丈夫よ!」そう言って、アスカはすたすたと教室へ歩いていく。
シンジはひっくり返ったアスカの弁当を片づけながら、じゃ、いったいなんだろう? と思っている。

「碇くんとなにかあったの?」一番の親友のヒカリがきいた。
「なにもないわよ」アスカは答える。
じゃ、なんでいつも見つめてるのよ、あんたは。とヒカリは思ったのだけれど、口に出しては言わない。アスカの性格をよく知っているからだ。

「なあ、センセ、おまえ、アスカのやつに『夜(よ)這(ば)い』でもかけたんやないやろな?」鈴原トウジが大声で言う。ケンスケもその場にいて、なぜか下を向いている。
「『よばい』って?」シンジはきょとんとしている。
「あかんなあ、センセ。もっと日本の伝統っちゅうもん勉強せなあかんで。『夜這い』ちゅうのはな、女の寝とるとこに忍び込んで、エッチしてまうことや。同居して半年。お前もとうとう春に目覚めたか」
「そ、そんなことしてないよ! あ、鈴原うしろ!」シンジは叫んだ。
「ひでぶっ」ふりかえったトウジの顔面に、床掃除用のモップの先がたたき込まれた。
アスカがモップの柄をもって仁王立ちしている。
「なにが『夜這い』よ! このバカ!」
「な、なにすんねん! この乱暴モン!」トウジは叫ぶ。
「勝手なこといわないで! バカ!」アスカは、モップを放り出し、大股で教室から出ていく。廊下に、渚カヲルが立っている。アスカは、険しい顔をして、この少年を無視して歩いていった。
「センセ、あななオナゴに、はやまったまねしたらあかんで。後悔すうで」トウジは相田からハンカチを借りて顔を拭いている。

アスカは碇家に帰る。この家の主、碇ゲンドウ氏の実験室の前を通り、どんどんどん、と音を立てて二階へ上がっていく。
「足音だけでもあれだけやかましい小娘も珍しい」ゲンドウは独り言を言う。

ベッドを上に、制服のまま横になる。
目を閉じる。
暗い夜。坂道の下から、水で出来た少女たちが足並みをそろえて登ってくる。
どん、どん、どん。不安だった。きりがない。魔法が効かない。
『かあさんと、逃げるんだ』あのひとが、スローモンションで視界の端から走ってくる。
『かあさんと、逃げるんだ!』あたしの前に立って両手を広げる。どうするのよバカ、ろくに魔法も使えないくせに! でも、かあさんと一緒に逃げるんだ、ぼくは君を、命をかけて守るよ。現実にはそんなことは言っていないのだが、この仮の記憶の中では、いつもこうなのだ。
『ぼくが君を守ってやる! だいじょうぶだよ。ぼくは他の男とはちがう』
ほんと? ほんとに。
『そうだよ。女の子にいやらしい事をすることしか考えないやつとか、利用することしか考えないやつとは違うよ、アスカ。ぼくは君を守るために生まれてきたんだ』あのひとは言った。
次の瞬間。あのひとは、かわいい、子供のような笑みを浮かべている。なんて素敵な笑顔なんだろう! ドイツにある魔法アカデミーの、人を見下した気取ったすましやの、そのくせ気の小さい年上の男どもとはまるっきり違う。
『かあさんと、逃げるんだ……アスカ、晩御飯だよ』
え?
「アスカ、晩御飯だよ」ドアの向こうから、あのひとの声がした。

消えてなくなりたい、アスカは思った。あのひとはあたしのことを、偉そうで、乱暴な女だと思っているに違いない。針のむしろに座っているようだった。あのひとは、ロールキャベツを食べている。目が合った。恥ずかしい。あたしなんか、消えてなくなってしまえばいいのに!

モン吉は、主人の異常に気がついていた。それがどういうものかも理解していた最初の人物(猿だが)であった。それは、春先に雌の猿に起きる変化のようなものではないか、彼はそう思っていた。しかし人間にはそんなサイクルはないはずなのに。それになんでいまごろ、あの少年を好きにならねばいかんのだ。
「な、なにするんだよ! モン吉」
腹立たしいので、ロールキャベツを一個、少年から取ってやったのだ。
「モン吉! 返しなさい!」アスカは怒った。
「い、いや返さなくてもいいんだよ」シンジは言った。
既にほおぶくろの中に入れていたのだ。

アスカはベッドに横たわっている。
目を閉じると、シンジがスローモーションで走ってくる。『かあさんと逃げるんだ!』……男らしく怪物と私の間に立つ。
目を開けた。どうかなりそうだった。別の事を考えよう。

まどろみの中で、アスカは、薄暗い部屋にいるのだった。分厚い赤いじゅうたん。大きな机。かび臭い本の匂い。壁に中世の頃の絵が掛かっている。パースペクティブがバラバラの塔から男が空を見ている。空からもう一人の男が墜落している。男のまわりには醜悪な悪魔たちが浮かんでいる。
「我々の先達(せんだつ)、『シモン・マグス』墜落の絵だ。そして中世の暗黒がやってきた。おかげで我々は魔法という果実を手に入れるまで数百年、まったく無駄な回り道をしたのだ」
部屋の奥にいる男が言った。とつぜんそいつは蒸気をぷしゅーっとはいた。蒸気人間だった。アスカは顔をゆがめる。あんたの事なんか考えたくないわよ!
「――我々は歴史の中に封殺されたのだ。我々の真の姿は、キリスト教の坊主どもの、ごてごてした衣装の下に隠されてしまったのだ」
「なにをどう言ったって、あんたは偽物よ! 蒸気で動く機械人形みたいなもんよ!」アスカは叫んだ。

アスカは、白い部屋に居た。目の前に、白いシーツの敷かれたベッドがあった。不快感がわいてくる。ベッドの脇には小さなテーブルが置いてある。その上に小さな楕円(だえん)形の石のようなものがあった。
アスカは手に取ってみる。小さな小さな石の彫刻だった。雄(おん)鶏(どり)と雌鳥(めんどり)が交尾している姿が彫られている。
「性を通して我々は真の自己と出会うのだ」振り向くとやつが立っている。身体の節々から蒸気が立ち上っている。偽物だ。デウス・エクス・マキナ。機械仕掛けの神。アスカは、自分がベッドを背後に立っているのに気がついた。後ろのベッドに押し倒されるのではないかという、理不尽な恐怖を感じた。
やめて。やめて。やめて。

目を開けた。天井の豆電球のオレンジ色の光。
なんどか大きくまばたきをする。碇家の子供部屋だった。何時だろう? アスカはベッドの脇の時計を見る。十二時。
モン吉はアスカのベッドの横に置かれた、かつてシンジが使っていたベビーベッドに寝ていた。
あのひとが、赤ん坊のときにここで寝ていたんだ。アスカは思う。
だしぬけに、シンジがそばで寝てくれたら、と自分が考えている事に気がついた。シンジが一緒に寝てくれたら、もう怖い夢は見ないのだ、アスカは思った。

雨が降り出した。春の細かい雨だった。
シンジはベッドに横たわり、雨の音を聞いていた。
眠れなかった。レイの事を考えていたのだった。いまごろ両親の寝室でさみしく眠っているのだろうか? シンジは、ガラス瓶の中の小さなホムンクルスを思い浮かべる。
魔法の修行を積むにつれ、シンジはおきてを破ることがどんなに恐ろしいことか、ようやくわかってきたのだった。魔法は事実上、なんでも出来る力だった。魔法使いたちが自分の欲望の赴くままに魔法を使いだしたら、世界はあっと言う間に崩壊するだろう。以前、アスカの言った言葉が、魔法をある程度制御出来るようになった今、ようやく理解できた。
だから、ぼくはレイを人間にしてはいけないんだ。
シンジは思った。レイは、あのまま、そんなに長くない人生のすべてを、ガラス瓶の中で過ごさなければならないのかもしれない。
ぼくが就職するころ、「別れ」がやってくるのかもしれないな、シンジは思った。涙がにじんできた。けれど、心のどこかでそれを冷静に見ている自分をシンジは嫌悪した。
ぼくは、いやなやつだ、シンジは思った。さみしげなレイの姿の代わりに、なぜかアスカの、さらさらとしたきれいな長い髪が浮かんできたからだ。

ばたむ。間。ばたむ。がちゃ。
雨音を背景に、小さなドアを開け閉めする音がした。最後にしたのは鍵をかける音だろうか? 誰かが部屋の中に入ってきた気配がした。だれだろう? かあさんかな? シンジはベッドの中で上半身を起こした。

薄暗がりの中に、アスカが立っていた。真っ赤にテディベアのプリント柄のかわいいパジャマを着て、なぜか白い枕を胸に抱えている。おそろしく真剣な表情で、口をへの字に結んでいる。
「ど、どうしたんだよ!」シンジは言った。
アスカは答えず、すたすたとシンジに向かって歩いてきた。ほおがぼおっと赤く染まっている。ベッドの脇までやってくるまで無言だった。
シンジは思わずベッドの中で身をこわばらせる。
「端に寄って」アスカは、小さな、かすれた声で言った。
シンジは反射的に言われるままに、狭い子供用ベッドの端に寄った。身体の三分の一が壁にぴったりとくっついてしまう。
アスカは、春秋用の薄い布団を、ほっそりした自分の身体がちょうど潜り込めるだけまくった。そして、すっとすべり込む。かすかな雨音の中で、布団とアスカのパジャマがたてる布ずれの音だけが大きく響く。
ベッドは狭いので、シンジの腕に、アスカの太もものあたりが触れている。シンジはその柔らかい感触にたじろいだ。
アスカは自分の身体に布団をかけた。

沈黙の時間が流れた。シンジの心臓はまるで暴れ馬のようにはね回っていた。ふれあっている腕と腕の間が暖かい。動く事が出来なかった。ぴくりとも動けなかった。
「……出ていけ、……て言わない?」アスカは言った。普段とは全く違う声だった。まるで幼い子供が甘えるような声だった。
「え……?」どう答えればいいんだろう? シンジは思った。ゲームみたいにせめて選択枝が出てくればいいのに!

モン吉はドアの音で目を覚ました。ばたむ。ばたむ。がちゃ。
主人のアスカがお手洗いにでも行ったのだろう、この魔女の「使い魔」の猿は思った。
「ばたむ。ばたむ。がちゃ」? ドアを閉める音が続けて二回。間をおかずに二回。モン吉は身体を起こして、アスカの寝ているはずのベッドを見てみる。からっぽだった。
(一)ドアが閉まる音が間をおかずに二回
(二)アスカはいない。
おかしい! モン吉は推理した。まず部屋から出て(開けるのほとんど音は出ない)ドアを閉め(一回)、間をおかずに閉める音(二回目)。だが部屋の中の人物はいない。モン吉は不安を感じた。すぐ向かいに、あの凡庸な顔をした少年の部屋がある。アスカはドアを開け、出ていってドアを閉め、あの少年のドアを開け、閉めて。
モン吉は飛び起きた。踊り場に出て、少年の部屋のドアを開けようとした。鍵がかかっている。モン吉は、少年が寝るときには部屋の鍵をかけないのを知っている。朝、寝坊したら起こしてもらうためだ。モン吉は爪をドアの隙間に入れて、こじ開けようとした。
だめだった。耳を澄ます。部屋の中から、低い少年と少女の話し声が聞こえてきた! モン吉は賢いサルだ。どうすれば大事なご主人の貞操を守ればいいか? 一瞬にして作戦を立てた。彼は、だだだだだ、と階段を下りていく。

「……ど、どうしたの?」シンジは身体をくっつかせて横たわる少女に話しかけてみた。自分の声が、いったいどこから発せられているのか、見当もつかなかった。
「……聞かないで。……朝までここにいさせて」アスカはか細い声で嘆願する。
「……お願い。……あの……なにをしても」後は声が消えてしまった。
「え?」シンジは頭だけ横を向いて聞き返す。
暗がりに、アスカの端正な横顔が浮かび上がっている。目がきらきらと光っているように思えた。
「……なにをしてもいいから、ここにいさせて」アスカは言った。
な、なななななにをしてもいいから! シンジの頭の中を、二頭立ての馬車が走り出した。ぱからんぱからんぱからんぱからん。どどどどどどど。パシ。パシ。ぱからんぱからん。どどどどどど。ひひーん。

モン吉は、台所の勝手口のドアの下にある、四角い小さなモン吉専用のドアから外に出ていく。春の霧雨が降っていた。彼は走る。だだだだだ。

「い、いったいどうしたの?」シンジは言った。アスカはわずかにシンジに身を寄せているような気がした。シンジの手先に触れているのは、アスカのお尻だろうか。誰かがスーハー言っている。スーハースーハー。それはなんと自分の鼻息だった。
一分経過。
ぱからんぱからんぱからんぱからん。どどどどどどど。パシ。パシ。ぱからんぱからん。どどどどどど(口に出して五回繰り返してください)。二○秒経過。

モン吉は目的の場所に着いた。
「ウキキキッ(発進準備)!」
彼は『シゲル君』の頭の上に飛び乗った。
「キキキ(拘束具除去)! ウキウキウキキ(全速力で発進せよ)!」
『シゲル君』は、立てって眠るために小屋と自分を固定している拘束具を、がちゃんとはずして、ドアを丁寧に開けた。
そして春雨の中、のっしのっしと歩き出した。

レイは、暗闇で目がさめた。なにか胸騒ぎがした。
雨の音がする。足音がした。何かが庭を走っているのだ。

いっぽう、少年と少女は同じベッドのなかで身じろぎもせずに横たわっている。静かな部屋の中で、ささやくような、やさしい雨の音がする。
時間が流れた。
ふいにアスカが腰をよじった。シンジの手が、少女の腰に触れた。
それが合図だった。二人は、がばっと勢いよく抱き合った。かちん。シンジとアスカの前歯が当たって音を立てた。鼻と鼻がぶつかった。痛がっている余裕などなかった。まるで餌を求める雛鳥(ひなどり)のように、お互いの口を求め合った。衣(きぬ)擦れの音だけがした。
「ああ」唇と唇が離れたとき、少女は小さな声をあげた。シンジはわけがわからなくなった。頭の中の馬車が走っている。いまや馬車は四頭立てになっていた。車輪の音、馬のいななき。
アスカはシンジの背中に手を回して、シンジと身体をぴったりとくっつけた。「わわわ」シンジは、恥ずかしさのあまり、あわてて腰を引いたので、まるでへっぴり腰で女に抱きついている格好になった。
「……いいのよ。そうなるの知ってるから」アスカは、はにかみながら言った。
「え……? うん」どうして知ってるんだ?
「脱がせて」アスカは言った。

「ウキキキキ(目標、勝手口のドアノブ)。キキキ(攻撃目標ロックオン)」モン吉は言った。
『シゲル君』はドアノブに手をかける。
「キキッ(目標破壊せよ)」
『シゲル君』は、そのドアノブをひょいとひねった。べきべき。勝手口のドアの一部ごと、ドアノブが取れた。『シゲル君』はその残骸をぽいっと庭に放り投げた。

「……あなた、起きて。……起きてったら」
「……うん、……おつとめか?」ゲンドウは妻の手をつかみ、自分の布団に引っぱり
込もうとする。
「ちがうわよ、台所の方で物音がしたのよ……起きて!」

シンジは、アスカのパジャマの上着のボタンと格闘していた。まるで自分の指じゃないみたいだった。指先に神経を集中しようとするたびに、なんだか柔らかな膨らみに触れてしまうのだ。すると、彼の指はとつぜん彼の意志を離れて、阿波(あわ)踊りを始めるのだ。
それでも、ようやくすべてのボタンを外し終えた。アスカはじれったそうに、自分で上着を脱ぎ捨てた。ブラジャーはしていなかった。胸元にかわいらしい花の刺しゅうがある肌着を、横になったまま脱いでいるのだった。
ごくん。シンジは唾を呑(の)む。一瞬、暗がりのなかで、アスカの中学生にしては大きな裸の胸が見えたからだった。
「……脱がないの?」
「……う、うん」自分の声が頭のてっぺんから出てきているような気がした。
彼は不器用なので、横になったままパジャマを脱ぐことが出来なかった。上半身を起こして、ベッドの上に座ろうとした。
布団がまくれた。その時とんでもないものが見えた。アスカが全裸になって横たわっている! いつの間にズボンと下着を脱いじゃったんだろう。
「そんなに見ないで。……恥ずかしい」
「あ、ごめん」シンジは横になって、布団を掛ける。パジャマを脱ごうとじたばたする度に、アスカの柔らかい素肌の、いったいどこだかわからない部分に少しずつ触れた。彼の心臓は、ばっこんばっこんと品の無い音を立てていた。

「なんだお前は、人間に対する反乱か?」ゲンドウはわけのわからない恐怖にとらわれる。『カレル・チャペック』の戯曲のように、人造人間が一斉に蜂起したのかと思った。
夫婦の寝室の戸は開かれていて、『シゲル君』が突っ立っていた。背後の廊下に電気がともされていて、暗い寝室からだと、人造人間は不気味なシルエットに見えた。
安手のホラー映画のようである。
「ウキキキキ! キキッキ、キキキキ(あんたのバカ息子が、ワシの大事なご主人の貞操を奪おうとしてるんだ!)」
「どうしたの、モン吉?」ユイが、『シゲル君』の頭に乗っているモン吉に声をかける。
「キキキキキ、キキキキキ(お宅の、生殖本能だけで生きてるイロガキをなんとかしろ!)」
「まさか、シンジになにか起きたの?」
「キキキキ、ウキキ(そのアホンダラが起こそうとしてるんだよ!)」
「あなた一緒に来て! ただごとじゃないわ、こんなに興奮しているモン吉、初めてみたわ!」
「あ、ああ」めんどくせーな。

素っ裸で布団の中にいるのは気持ちがいい。ましてや春の、雨の夜。
シンジはアスカを見下ろしている。アスカの顔は耳まで真っ赤だった。細い首筋から、胸元にかけて、その顔の上気が伝染したのか、ほんのりと赤みがさしている。
アスカは、ぬれて、きらきらと光る目で、シンジを見つめている。
きれいだった! 女の子が、いつもガミガミ言っているアスカという女の子が、こんなにきれいに見えるとは思わなかった。
「……どうしたの?」
「いや、あの」こんなとき、きれいだよ、なんてささやけるほどシンジはオトナではない。
「あの……こんなことするの、いやだった?」アスカは不安げに言う。
「ううん」シンジは即座に否定する。
「……ねえ、シンジ」
「え?」
「……痛くしないでね」
どんどんどんどん、彼の心臓は家が揺れほどの音を立てていた。
「……うん、……い、いくよ」
「……うん」アスカは目を閉じた。

どんどんどん。家が揺れていた。
どっかーん。
シンジがゆっくりとアスカにおおいかぶさろうとした瞬間、シンジの子供部屋の木製のドアが粉々に砕け散って、人造人間とサル一匹、大人二人とガラス瓶の中のホムンクルスが部屋の中に転がり込んできた。
素っ裸の少年と少女は、わ、きゃっと悲鳴をあげ、ベッドのそばの壁にへばりついて布団をかぶった。
ユイは、その直前、息子と居候の少女が全裸であることに気がついて叫んだ。
「あんたたち、なにやってるのーっ!」

雨はやんでいた。
碇家の居間。ソファにシンジとアスカが座らされている。もちろんどっちも今はパジャマを着ていた。シンジは神妙な顔をして下をうつむき、アスカは両手で顔を押さえている。
食卓の上に、ガラス瓶か置かれていた。その中のホムンクルスのレイは、瓶の中に写る、にくたらしい女の子のゆがんだ像に一生懸命キックをくらわせている。『シゲル君』は、キッチンシンクのそばでホットココアを飲んでいる。モン吉はアスカの足下に座って、彼女を心配そうに見上げている。
「もう、泣くのはおよしなさい、アスカちゃん」二人の正面に座っているユイが言う。
「……だいたい、お前たちはいくつだと思っておる。中学生の分際でけしからぬことをしおって。このバカモノども」二十二才まで童貞だった碇ゲンドウが言った。
「そうよ、アスカちゃん、人を好きになってはいけないとは言わないけど、もっと分別を持ちなさい」初体験の相手と結婚するはめになった碇ユイが言った。

とにかく夜はふけていた。シンジは居間に寝ることになった。居間から二階に上がるとき、ゲンドウとユイの寝室の前を通らなければならないからである。
シンジは居間の暗い天井を見つめていた。痛いくらいどこかが腫れ上がっていた。
アスカは、怖い夢をみた。シンジ、シンジ、わたしのそばにいて。わたしを守って。

翌朝は学校である。二人は背後の突き刺すようなユイの視線を感じながら、並んで登校した。
アスカは一変していた。熱っぽい目でシンジを見つめていたかと思うと、突然つっかかったように話しかけてきて、しばらくすると、目に涙をためて、甘えるような口のききかたをする。
昼休み。アスカは、ふれ合った腕が汗ばむほどぴったりとシンジにくっついて、お弁当を食べている。そんな様子をクラスの何人かの男子が教室から面白そうに見ている。
「なあなあ、ケンスケ、あいつら公然といちゃいちゃしだしたで! 見てみい」鈴原トウジがうれしそうに声をかける。
「ああ」ケンスケはそう答えたが、校庭の窓とは反対側の自分の席からは動かなかった。

「……きょうも、シンジ、居間で寝かされるのかな」アスカが言う。
「きっと、そうだろうな」
「……かわいそう、シンジ。ごめんなさい」
「な、泣くなよ」シンジは言った。アスカは、びっくりするくらい涙もろくなっているのだった。
「……ねえ、キスして」アスカはつぶやくように言う。
「み、みんなが見てるよ!」シンジは頭上の教室からの視線に気がついていた。
「……お願い、キスして」アスカは目を閉じて、シンジの腕に手を乗せる。
「でも」
「お願い」
シンジは、自分の唇をアスカの唇に急いで重ねた。ハンバーグの味がした。
頭の上で、おおおーっとという歓声が上がるのが聞こえる。
教室に帰りたくないな……シンジは思った。

「キ、キスしおったでぇ!」トウジが真っ先に声を上げる。
男子たちは口々に、すげえな、すげえぜ、と言い合う。なんにんかの女子も窓にへばりついて、やあねえ、などとささやき合っているのだった。
「あんたたち、悪趣味なことやめなさいよ!」学食から帰ってきて、そんな光景を見たヒカリはそう言った。
「でも、委員長、弁当食べてる最中にキスするのも悪趣味だと思いまーす」一
人の男子がふざけて言う。
「口移し、してたりして」一人の女子が言う。
うわーっとクラスのほとんど全員がどっと歓声をあげ、ぎゃははははは、と笑うのだった。
アスカ、アスカ、いったいどうしちゃったの? ヒカリは親友の身を案じた。

「見ないのかい」一人離れて座っていたケンスケは顔を上げた。渚カヲルが笑いかけている。
「――この!」ケンスケは反射的に立ち上がり、カヲルの胸倉をつかんだ。
「どうしたの? ケンスケくん」カヲルは眉一つ動かさずに言った。
カヲルを罵ろうとしたケンスケは思いとどまった。あの薬は自分が自分の意志で飲ませた事を思い出したのだ。ぼくが、アスカに「毒」を盛ったんだ。ケンスケはカヲルを離し、ごめん、とつぶやいた。

「なんやねん、あらたまって」鈴原トウジが言った。放課後、ひとけのない校庭だった。目の前のケンスケは、何か思い詰めたような表情で下を向いている。
ケンスケは、カヲルと過ごした一夜以外の事を、ありのままに話した。
「『惚(ほ)れ薬』なんて、そんなアホな」
「ほんとだよ! あの子が、あんなに急に変わるわけがない。効いてしまったんだ! 効くわけがないと思ってたのに……」ケンスケは言った。
「……お前も、ネクラなことしたな。いくら好きやからいうて」
「どうかしてたんだよ! ぼくはどうかしてたんだ!」
トウジが驚いた事に、ケンスケは顔をくしゃくしゃにして、泣き出すのをこらえていた。こいつマジや。鈴原トウジは思った。
「な、ケンスケ。……お前、正直にアスカに言え。そして謝れ。謝って、謝りたおせ。あの女、シンジの事を好きなん、あの女にとってはシヤワセなことかもしれんけど、クスリなんかでそうなるのん、ようないことやと思う」
「……うん。……でも、たぶん、嫌われるね」
「せや。お前も、いまは、嫌われたいんやろ。このまま黙っとって、ウジウジするより、すぱっと嫌われてこい……」トウジは言った。

ケンスケはその日のうちに碇の家に電話して、アスカを呼び出した。
午後六時半だった。夕日が、広い川を金色に染めていた。何人かジョギングしているのが見える河川敷の公園。
亜麻色の髪の、美しい少女は、そわそわしたそぶりで、彼の前に立っている。早く帰ってシンジと一緒にいたいんだ、ケンスケはそう思った。そう思うと、胸のどこかが、針で刺されたようにきりきりと痛んだ。
「用ってなに? 手短にたのむわよ」アスカは言った。
「……ごめん!」ケンスケは頭を下げて、正直にすべてを話した。
「……」話し終えても、アスカは黙っている。許してくれるのか? クスリを飲ませてくれてありがとう、とでも言われるのか? 彼は顔を上げる。
「このぉ!」
ばしん。向こう岸に聞こえるほど大きな音だった。ケンスケの眼鏡が、二メートルも吹っ飛んだ。顔の感覚が一瞬途絶えた。
「この、バカ! 『闇の王子』にもらったものをあたしに! このバカ!」ばしん。アスカはケンスケの顔の同じところを、もう一度平手で殴った。
「あんたは、あたしだけじゃなく、人間ぜんぶを裏切ったのよ!」
アスカはそう言うと、家とは逆の方向へ走り出した。
ケンスケは、その後ろ姿を見ていた。顔がじんじんした。気がつくと、鼻血が出てきた。彼はハンカチで鼻を押さえて歩き出した。

ケンスケは町を歩いている。店のショーウィンドウに映る自分の顔にはくっきりとアスカの手形がついていた。しばらく腫れがひきそうになかった。
気がつくと電車に乗っている。ハンカチでほおを押さえて吊革(つりかわ)にぶら下がっている小柄な中学生に、目をくれるひとは誰もいない。
ぼくは、ちっぽけな、ウジ虫以下の人間だ。ケンスケは思った。
その広場についた頃には、もう暗くなっていた。
もちろん、あの巨大なクリスマスツリーは、もうなかった。
ケンスケは誰もいない彼のすぐ横を、頭をめぐらせて見た。寒さにほおを赤く染めて聖歌隊の歌に聴き入っている、きれいな少女の姿が見えるような気がした。
もともと手の届かない女の子だったんだ。これで、永遠に手が届かなくなった。ケンスケは思った。涙がこぼれてきた。ぼくは、最低の男だ。好きになってもらうような努力をちっともせずに、あんな怪しげなクスリでなんとかしようと思うなんて!

碇家の電話が鳴った。たまたまそばにいたシンジが受話器を取った。
「もしもし……相田? どうしたんだい? ……アスカ? ……ああ、まだ帰ってきてないよ」
シンジは、しばらくのあいだ、ひどく遠くで聞こえるようなケンスケの声に相づちも打たずに聞き入っていた。
「……わかったよ……じゃ」シンジは言った。
がちゃん。電話を切った。
電話台の前に置いている時計を見た。夜の八時二○分。
「ちょっと出てくるよ」
「どこへ行くんだ? まさか、おまえら、ラブホテルで」
「あなた!」とんでもない事を口走ろうとした夫をユイが制して、どうしたの? と息子に話しかけた。
「詳しくは帰ってきて話すよ、アスカの態度が変わったのは、『惚れ薬』のせいなんだ」
「『惚れ薬』って、そんなもの、製造すら禁止されてるのに! だれがそんなもの飲ませたの?」
「直接ではないんだけど、カヲルって転校生らしいんだ。なぜか知らないけど、アスカは、たしか『闇の王子』って言ってたらしい」
「『闇の王子』!」ユイとゲンドウは声をそろえて叫んだ。
「知ってるの?」
「いえ、なんでもないわ、……シンジ、アスカを探してあげなさい。きっと精神状態が不安定になってるわ」
「うん。……かあさん、その、もとに戻すことって出来るの?」
ユイは静かに頭を横に振る。
「『惚れ薬』が禁止されてるのはね、精神の深い層に強力な『刷り込み』をしてしまうからなの。アスカはたぶん……」
「わかった」シンジは答えると外に飛び出した。

ゲンドウは、醜くひきつった手のひらのやけどを見ていた。『闇の王子』。あいつ握手したときに、「面白いもん見つけた」とかなんとか、言ってなかったか……? まさか、やつの狙いは……。
ゲンドウは珍しく不安になった。

シンジは真っ先に河川敷の公園に行ってみる。アスカがいるとすれば、ここじゃないか、と思ったのだった。しかし、細長い公園の端から端まで走っても、アスカはいなかった。
学校へ向かって歩く。アスカが転校してきて半年。そんなに行動半径は広くないはず。学校の正門はもちろん閉まっていた。学校に着いてはじめて、あることを思い出した。
シンジは中学校のそばの電話ボックスに入って、電話帳を開く。珍しい姓だから、なんとかなるだろう。案の定、市内に三軒しかない。とりあえず一番上の家に電話をかける。
「はい、洞木ですが」女の人の声がする。
シンジは学校名と名を名乗り、ヒカリさんのお宅はそちらですか? と尋ねた。たまたまそこはヒカリの家と親戚で、正しい電話番号を教えてくれた。シンジは丁寧に礼を言い、ヒカリの家に電話をかける。
「はい、洞木です」別の女の人の声。シンジは、名を名乗り、ヒカリさんいますか? と尋ねる。
「あ、碇くん。どうしたの?」
「あの、アスカ、そっちに行ってない?」
「来てるわよ」ヒカリはあっさりと答えた。シンジは、心の中に、なんともいえない安堵(あんど)感が広がるのを感じた。
「かわりましょうか? あ。だめって。いま話したくないってアスカが言ってるわ」ヒカリは言った。
「……そう」電話の向こうで、女の子たちが、ひそひそと話している声が聞こえた。不思議な感じだった。
「あのね、一時間たったら、迎えに来てほしいんだって。わかった? ……私の家はね、○○町一丁目四五号三番、近くに児童公園があって、その南の角を左にまがった、青い屋根の家。大きい表札がかかってるから、すぐわかるから」
「ありがとう」
「……あの、アスカちゃんのこと、……大切にしてあげてね」ヒカリは突然言い出した。
「え……」
「あなたを一生好きでいなきゃならないのよ……。だから、大切にしてあげてね」
シンジは胸が詰まった。ヒカリの声には、友達への思いやりがあふれているような気がした。
「うん」シンジは答えた。

シンジは、ゆっくりと歩き出した。ヒカリの言った場所へは歩いて一○分ほどで着いてしまう。アスカは一時間後に迎えに来て欲しいと言っていたから、時間を持て余すことになると思ったからだ。
ぼくたちはどうなるんだろう……。シンジは考える。『惚れ薬』の効果が消えなければ、たしかに洞木の言うとおりなのだ。アスカは一生ぼくのことを……。
それでもいいな、と心の隅で思っているのだった。そのうち、結婚することになるのだろうか? そう考えると思わず、かぁーと顔が熱くなる。雨の夜の事を思い出してしまう。
ふいに、ガラス瓶の中で、一日中外をながめている小さな妖精、レイの事が頭に浮かんだ。ぼくは、なにを考えているんだろう?

ヒカリの言っていた公園が見えてきた。水銀灯が一つしかない児童公園は、まるで夜の廃墟のように薄気味悪く見えた。小さな滑り台が一つ。ブランコが二つ。ジャングルジムが……。
シンジは立ち止まった。ジャングルジムのてっぺんに人が立っているのだ。いや立っているというより浮いているのかもしれない。なぜなら、その人物はつま先立ちしているのだが、つま先とジャングルジムの間に、かすかに水銀灯の光が差し込んでいるからだ。
少年だった。白い小柄な少年だった。赤い瞳がシンジを見下ろしている。
「やあ、シンジくん」その少年は言った。
「渚くん……」
二人の少年は黙ったまま対峙(たいじ)した。静かだった。
「なぜ、『惚れ薬』をアスカに飲ませた?」沈黙を破ったのはシンジのほうだった。
「心外だな。あれは相田くんがやったことだよ。ぼくは彼に、ぼくの父の会社の試供品をプレゼントしただけだよ」
「でも、きみがケンスケをそそのかしたんだ」
「そそのかしたつもりはないよ。彼は自分の意志でああしたんだ。……人間が破滅するときは、大概は自分の意志によるものなんだ。なんでもぼくのせいにされては困る」
「でも、きみはそれを仕組んだ。……なぜ? アスカがぼくのことを好きになって、きみに何の得があるんだ?」
「得だって? はは。損得の問題じゃないんだ。これは運命なんだよ。きみはアスカという少女に愛される。これは運命だと思いたまえ。そしてあの少女とともに生きろ。あの娘は、とても美しい女になるだろう。そして、きみのことを心底から愛し続けてくれる。きみがどんなひどい事をしても許すだろう。たとえきみが裏切っても、彼女はきみを愛さずにはいられない。あの子はみんなの憧れの的だった。よかったじゃないか、シンジくん。男できみを羨ましがらないやつはいないだろう」
「だから、なぜ? どうして? どうしてなんだ、『闇の王子』?」
「言葉の意味も知らないのに使うのは、やめたまえ。現実の、生身の、等身大の女の子はいいだろう、シンジくん。あの雨の夜は残念だったな」
「な、なにを」
「赤くなるなよ。シンジくん。まあ、いくらでもチャンスはあるさ。先は長いんだから、あせるなよ。それにちょっと障害があったほうがよけい燃えるってものさ……。しかし、あそこまでの行動に出るとは思っていなかったよ。君たちはよほど惹(ひ)かれあっていたんだな」
「え……?」
「ぼくがこんなことをしなくても、君たちはいずれ恋に落ちたかもね。ぼくはそれを早めただけかもしれない。それと、あの娘は心に大きな葛藤を抱えていたから、すがるものが欲しかったんだ」
「心に大きな葛藤?」
「自分で聞いてみるんだな、シンジくん。そして彼女の支えになってやれ。それが出来るのはきみしかいない。そのかわり――」
「そのかわり……なんだ?」
「『イアンナ』をぼくに返すんだ、碇シンジ。彼女はきみの手には負えない」

シンジは、その時、まばたきした。次に目を開けると、渚カヲルと名のる少年は、シンジの目の前に立っていた。シンジは思わず後ずさる。
「あの、ガラス瓶中の、小さなホムンクルスに閉じこめられた魂を、ぼくに返してくれ」
「レイのこと?」シンジは言った。
「そんな名前で呼ぶな。彼女の名は『イアンナ』。シュメールの月神の娘だ。彼女は『神性』なんだ、シンジくん。人間のきみが彼女と交わると大変な事が起きるだろう」
「なんだよ、そのシュメールって、イアンナって、神性って!」

渚カヲル=『闇の王子』はすぐには答えず、前髪をかきあげた。
「やれやれ、……人類の始まりから説明して欲しいのかい?」渚カヲルは説明しはじめた。それは学校では習った歴史とは全く違う物語だった。

……原初の暗闇があった。『闇の王子』の父、『大いなる闇』である。それが大気も海もない超太古の地球を覆っていた。やがて、『母なる夜』がやってきた。原始の海である。二人は睦(むつ)み合い、夜の大海の中で、生命の基礎となる「有機化合物」が生まれた。
「ここに来たばっかりのうちは、退屈だったよ。僕たち一家は、毎日トランプをして暇をつぶしていた」カヲルは冗談めかして言う。
やがて海そのものと微生物たちが協力し、恒常性を持つ大気システムが完成した。こうして生まれた不自然な物質「酸素」は生命層を激変させ、進化を促進する。
「長いこと待って、ようやく面白くなってきたんだ。じっさい、『カンブリア紀』は面白かったよ。ぼくは今まで見たこともないような生物を思いついては、淘汰(とうた)に介入してその生物を出現させていた。まるで粘土をこねまわすようなもんさ」
生物はますます複雑になっていった。まるで庭に蒔(ま)いた野いちごの種が成長するのを楽しみにするように、『闇の王子』の父と母は地球の生命の進化を見守っていた。恐竜時代、小哺乳類時代が過ぎていった。
「母は恐竜をかわいがっていたけど、ぼくは嫌いだった。やつらはバカだったからだ」
人間は、類人猿から作られた。
「君たちは産後の肥立ちの悪い子供のようだったよ。サルの胚(はい)を操作したり、幼形成熟させたり、いろんな試行錯誤のすえにやっと満足のいくものが出来た。しかし、大きい脳を詰め込むために、生物としては奇形だった。きみたちの脳はでかすぎるので、母体を守るために異常に早く出産しなければならなくなったんだ」
身体に比して巨大な脳のために、人間は歩行できるまでに出産から一年以上も必要とする異様な生物になった。そのうえにサルの幼形成熟体であるがゆえ、成人するまでに十年以上もかかる、例外的な生物になってしまった。
「そいつが、きみたちの精神をゆがめてしまったんだ。きみたちは健康な本能の変わりに、いつもしかってくれる恐ろしい神様や、絶対的な君主を必要とするようになったんだ」
人類誕生後、何百万年かのち、ようやく文明らしきものが、ある大陸で芽生えた。
「その時、ぼくの父と母は、ちょっと旅行にいっちまったんだ。週末旅行みたいなものさ。別の宇宙に子作りにでも行ったんだろう。あと植木に水をやっとけ、てなもんさ。ぼくは毎日退屈な超古代人の生活をながめていた。そいつらが、毎晩のように生きた人間の腹を切り裂き、湯気の立つ内臓をぼくにささげるのを、ああ、あほらしいとながめていた」
「ある時、ぼくは退屈のあまり、オヤジの計画を早めてやることにした。魔法と、君たちが『インヴォルブド・ピープル』と呼んでいる変身種の能力をそいつらに授けてみたんだ」
恐ろしい結果となった。その大陸に戦乱の嵐が吹き荒れた。大陸の北方に強大な魔力をもつ『ソーサラー』が現れ、大陸を支配しようとした。それに抵抗する魔法使いたちや獣人たちが入り乱れ、血で血を洗う戦いになった。やがて、その『ソーサラー』は現在の『アインシュタイン・インターセクション』に似た仕組みを使った最終兵器を発明した。
「兵器があれば、必ず使われる。そいつは、その兵器を使いやがった。ぼくが止める間もなかった」

「それで、どうなったの?」話に引き込まれていたシンジは言う。

「その兵器は大陸ごと敵を吹き飛ばしたんだよ。馬鹿なことに、そのソーサラーも死んだ。大地は裂け、海が大陸を飲み込んだ。ぼくは、少しの魔女、魔法使いと獣人を連れて、別の未開の大陸に避難させてやった」
「あとで、オヤジにどやされたよ。実際、ぼくは人類の文明を数千年退化させてしまったんだからな。だが、個々の能力はたいしたことないのに、集団になると、まるで雑草のようにたくましいきみたちは、再び文明を築き上げた。それが世界最古の文明『シュメール』だ。彼らのうちには、沈んだ大陸の人種が持っていた魔法と変身能力を持つものがわずかながら残っていた」
「ぼくはオヤジの罰で、肉体をまとって、そのほこりっぽい土地を歩き回っているときに、偶然にも君たちが『神性』を生み出しているのに気がついたんだ」
『神性』とはわずかでも魔力を使える人間の集合的無意識が召喚した精霊のことである。集団による魔法とでもいえようか。
「甘えん坊のきみたちが、もっとも幸せだった時代だったかもしれない。『神』が具体的な存在だった時代だからな。そんなとき、ぼくは『イアンナ』に出会った。彼女は愛の女神だった。きみのような」カヲルはシンジを指さした。
「きみのような少年たちが、枕を抱いて眠る前のちょっとした夢想が集まった『神性』、それが『イアンナ』だ。拡散によって人間が魔法を使えなくなると同時に、ほとんどの『神性』は消滅したが、『イアンナ』だけはさまよう魂となって細々と生き残った。他の『神』は民族の特性に密着しているがゆえに、文明の進歩によってそれをささえる魔力は希薄になるにつれ、生き残ることはできなかったのとは対照的に」

「神様は人間がかけた魔法なの?」シンジは言った。
「そうだよ、シンジくん。少なくとも五千年前までは、集合的な召喚魔法による神が実在してたんだ。自分の無意識の作ったものだから、厳しいようで、自分の自我の都合のいいことしか言わないだろ? 人間は叱ってもらうために子羊や収穫物を神にささげる。人間は、そうやることが神の召喚魔法を強化することをうすうす気がついていた。神の存在に疑いを持ってきたら、簡単な奇跡を起こさせる。それは『ポルターガイスト』と同じで、自分が起こしているんだけどね……シュメール人が滅んだ後、人間の魔法を使える力はますます希薄になっていった。それとともに神の存在も希薄になっていったんだ。『楽園追放』だよ、はははは」
「でも、キリスト教が生まれたのは、予想外だったな。ユダヤ人たちは、多くのものを、シュメール、バビロニアから得た。神様だって例外じゃない。古代シュメールの血をひく何人かのユダヤが召喚した、田舎の小さな山の『神性』があんなにメジャーになるなんて思いもよらなかったなあ。キリスト教にとって幸運だったのは、ローマ帝国の存在だ。あの国がユダヤ民族自決運動であった原キリスト教(ユダヤ教の単なる一宗派)を、統治のためにねじ曲げてくれたおかげで、とんでもないもんができちまった。キリスト教がなければ『来訪』は数百年早く起こせていただろう。オヤジにグチをいわれたよ。でも、そのかわり、『十字軍』の馬鹿騒ぎや『聖バーソロミューの虐殺』や『スペインの宗教裁判』といった血まみれの面白い見物が増えたんだけどね」

カヲルは、残忍そうなほほえみを浮かべて、その物語を語り終えた。
「わかるかい? シンジくん。『イアンナ』がなんであるか。彼女は何千何万という男たちの微弱な魔力の集合体なんだ。綿々と持ち続けてきた、存在しない永遠の処女への憧れの固まりなんだ。シュメールの王たちは、競って彼女と交わりたがった。彼女はいみじくも『天の聖娼(せいしよう)』と呼ばれていた」
「『てんのせいしょう』……?」
「聖女にして娼婦(しょうふ)なんだよ、『イアンナ』は。同じ魂の中に、処女と淫乱女が同居しているんだ。彼女は、生まれ変わるたびに愛した男一人のためだけに股(また)を開くが、何度も生まれ変わって、別の男を愛するのさ。そして、『イアンナ』に愛された男は『世界の王』となって、常人の何倍も生きて世界を支配することができると言い伝えられている」
「……」
「きみは、『世界の王』なりたいのか? 碇シンジ? 『ウィザード体制』を打ち砕き、きみの足下に世界をひざまずかせたいのか?」
「そんなことわからないよ! 急にそんなことを言われたって信じられるものか!」
「じゃ、信じなくてもいい。……とにかく、あのホムンクルスをぼくに渡せ。それが誰にとっても一番幸せなんだ。いまのままでは、きみの言う『レイ』をも不幸にするぞ! なぜなら、あのホムンクルスが死んで『イアンナ』が解放されたら、いつ消滅するかわからないんだ。あれは奇跡だよ。きみの父上は偶然奇跡を起こしたんだ」
「……別れるなんてできないよ。ぼくとレイは――」
「愛し合ってるのか? しかし、きみたちは絶対に結ばれないぞ。人間であるきみは人間を魔法で造ることはできない。もし、ホムンクルスのままでいると、器にたいして魂が大きすぎるために、身体を抜け出してきみと交わろうとし、結果、きみに魔法の暴走をおこさせるぞ」
「もう、やめてくれ……。なぜきみは女神に……」
「悪魔が女神に恋したらいけないのか? シンジくん。ぼくは五千年前、きみと同じように、彼女と心と心を溶け合わせた。……すばらしい体験だった。……どうだろう、シンジくん。その方が彼女のためでもあるんだよ。『イアンナ』はぼくと『魔界』で永遠に生きることができる。きみはアスカと幸せにくらせばいい」

シンジは黙ってしまった。言葉にならないような思いが頭の中を駆けめぐっているような気がした。
『おい、そこの人間の少年!』突然、鼻先で大きな声がしたから、シンジはびっくりした。目の前にハエが一匹飛んでいて、そいつがしゃべったのだ。
『畏れ多くも殿下がこうして礼を尽くして頼んでおられるのだっ! 貴様のような塵芥(ちりあくた)に等しい人間の分際で』
「やめないか、ブブちゃん」カヲルはうるさそうに言う。
『いーえ、殿下。こんな下らぬ少年なんぞに、殿下のお時間をさくのはもったいのうございます! ワタクシめにご命令を! 一瞬でイアンナ様をここに』
カヲルはさっと手を伸ばすと、そのぶんぶんいうハエを握りつぶした。
「いったい何年仕えたら、ぼくの性格がわかるんだ! しばらく出てくるな!」
「そのハエの言うとおり、ぼくからレイを奪うのは簡単だろ。なんでこんな回りくどいことをしなければならないんだ」シンジは尋ねた。
「きみはたしかに『イアンナ』である、あのホムンクルスと愛し合っているんだろう。ぼくはそれを疑わない。だから、きみは自分の意志で、彼女に別れを告げなければならないんだ。ちょうどメソポタミアの英雄、『ギルガメッシュ』が『イシュタル(イアンナのバビロニア名)』の誘いを拒絶したように」

シンジは、自分がレイに、さようなら、と言っている光景を想像してみる。レイは悲しむだろう。レイは、もんどりうって悲しむだろう。ガラス瓶を必死でたたいて、悲しむだろう。
シンジは黙った。静かな児童公園の水銀灯にガたちがぶちあたる耳障りな音だけが響いている。

「さあ、考えるんだ。シンジくん。何日か時間をやってもいい、よく考えろ」渚カヲルと名のる、その超自然的な存在は言うのだった。
シンジは、拳を握りしめて立っていた。その時、遠くで女の子の声がした。複数の女の子だ。
碇くんたら、時間通り来ないなんてどういうつもりかしら。その声に聞き覚えがあった。洞木ヒカリの声だった。ぼくが遅いので探しに出たんだ、とシンジは思った。その声に、小さな、もっとなじみのある声が答えた。
「きっと道に迷ったのよ」
アスカの声だった。とても心配そうな声だった。……どうして、ぼくが遅いって怒らないんだ、シンジは思った。どうして。
「アスカたちが君を捜しにきてるようだ。今日のところはかえるから、考えておいてくれ」カヲルは立ち去るそぶりを見せた。
「まって」シンジはカヲルを呼び止めた。
「もう決心できたのかい?」
シンジは考えていた。猛烈な速度で考えた。目の前の光景がぱきぱきと音を立てて、はじけるほど考えた。
「きみは馬鹿な取り引きをしているよ、カヲルくん」足が震えていたけれど、精一杯、不敵にみえるような笑みを浮かべようと努力した。
「き、きみは、ばかだ。カヲルくん」シンジは言った。だれか声のふるえを止めてくれ、と思った。
「なんだと……?」カヲルの端正な顔からほほえみが消えた。
シンジは体中の気力をふりしぼった。
「そうじゃないか? ぼくが、アスカを手に入れた代わりに、レイを渡す保証がどこにある? ……きみは、ぼくがうんと言わない限りレイを連れていけないんだろ? ……ぼくはこのままレイを渡さなかったら、アスカとレイと両方ぼくのものに出来るんじゃないか」
「……やれるもんなら、やってみろよ」
「で、できるよ。そしたら、……ぼくを殺したらいい。でも、きみは後悔するにちがいない。きみの言う『イアンナ』は、きみを許さないと思うから」
カヲル=『闇の王子』は指先ひとつで、ぼくを消し去ることができるんだろうな、シンジは思った。
「……何を狙ってる? ――取り引きか? 悪魔と取り引きしようというのかい?」
「そうだよ。でも、きみにとって、損な話じゃない。これは取り引きだ。取り引きを公平にしよう。たぶんきみだったら、アスカをもとにもどせるんだろう? 『惚れ薬』の解毒剤みたいな」
「ああ」
「じゃ、それをくれよ。そして、アスカをもとに戻して、もしぼくがレイをきみに渡すって決心したとき、そのひきかえに『惚れ薬』をくれればいいじゃないか。――この方が取り引きらしいよ」
シンジは、そう言い終わると、目の前に立つ、色の白い少年を黙ってにらみつけた。
「……ぷっ。あはははははははは、こいつは傑作だ!」
カヲルは突然笑い出す。ひどくおかしそうにシンジに向かってこう言った。
「うん。その通りだ。ぼくはサービスのしすぎなんだな。いいよ、シンジくん。ぼくはきみが気に入った。きみが好きになりそうだよ」

「シンジ!」その時背後でアスカが叫ぶ声がした。シンジは振り返らず、カヲルを凝視したまま、「さがってて!」とアスカに叫んだ。
カヲルはポケットから、でかい茶色の瓶を取り出した。どうみてもさっきまでポケットに入っていたとは思えないような大きさだった。きっと虚空から現れたんだろう、シンジは思った。
「これは『惚れ薬』の効果を全く無効にする薬だ。一滴でも飲めばすぐに効く。ほら、あげるよ」カヲルは瓶をひょい、とシンジに手渡した。
「あ、ありがとう」シンジは拍子抜けしていた。
「これを飲ます飲ませないはきみに任せる。きみがあのかわいい女の子の愛情を欲しくないって言うなら、飲ませればいい。そして、あのホムンクルスを死ぬまでこんな瓶の中に閉じこめておくんだ、って決めても、ぼくはかまわない。でも、ほんとうにあのホムンクルスを愛しているのなら、ぼくの申し出をよく考えてみるんだな……。時間をあげよう」
カヲルはシンジにそう言うと、今度はシンジの背後にいる二人の女の子に声をかけた。
「委員長! ぼくは明日から一週間病気で学校を休むよ。先生にそう言っておいてくれ」
突然話しかけられた洞木ヒカリはびっくりして声も出なかった。
「じゃ、一週間後に返事をもらいにくるよ、シンジくん」
そのとき、児童公園中のガがわっと飛んできて、渚カヲルの身体を包み込んだ。何千何百というおびただしい数のガだった。シンジは思わず吐き気を催した。ガたちの群は次の瞬間、小さくなって、バスケットボールほどの大きさになった。
ぱ。ガの群は四散した。カヲルの姿は消えていた。

「……なによ、あれ」ヒカリのおびえたような声が、静まりかえった小さな公園に響いた。
「このことは、誰にも言わない方がいいと思うよ。アイツの言ったとおり、明日から病気で休むって先生に言えばいい」シンジはヒカリに言った。
「シンジ!」その少年の背中に、長い髪の少女がしがみつくように抱きついた。
シンジは危うく解毒剤の瓶を落としそうになった。
背中に、二つの乳房の、暖かく柔らかい感触があった。その感触の中に、少女のすべての重みがこもっているような気がした。少女は小刻みに震えていた。
「だ、だいじょうぶだよ。だいじょうぶ」けれど自分の声もまた震えているのだった。

「じゃ、気を付けてかえってね」しばらくしたあと、ヒカリは二人に向かって言った。アスカはシンジにもたれかかっていた。不思議だった。二人の身長は同じ、いやアスカの方がやや高かったはずなのに、いまはシンジの方が大きく見えた。
「うん。ありがとう」シンジが言った。
「ヒカリちゃん、ありがとう」アスカが言った。
二人はゆっくりと立ち去った。洞木ヒカリは、その寄り添う影が角を曲がって見えなくなるまで、道ばたに立っていた。

二人は並んで、暗い夜道を歩いていた。
「……だから、あいつはレイを狙っていたんだ」シンジはカヲルとの会話をアスカに話していた。
「そう。……シンジじゃなかったのね」アスカは安心したように言った。
そのとき、シンジの頭にひらめくものがあった。
「アスカ、ひょっとして、『闇の王子』の事を知ってたの?」シンジは言った。
「……なぜ?」
「カヲルくんが転校してから、ぼくと彼が話をしようとするたび、割り込んできてたろ? ……もしかして……それって」
「……そうよ。まっさきに、アイツはあなたを目当てに来たって思った。あの暴走が起きた後だったじゃない。アイツの目的がレイだったとしても、魔女のわたしがいつも一緒にいるから、シンジに近づけなかった。だから相田に近づいて……ずるがしこいやつ!」
「どうして、カヲルくんが『闇の王子』だと知ってたの?」
「そ、それは……言いたくないわ」アスカは答えた。絶対に秘密にしたい、そんな感じだった。『アスカは心に大きな葛藤を抱えている』。カヲルの言葉が頭をよぎった。尋ねれば答えてくれるかもしれなかったが、シンジは聞かなかった。
「それで、どうするの? アイツにレイを渡すの?」
「……ん? ……ぼくは……いやだ」シンジはぽつりと言った。
アスカは黙った。シンジはその横顔を見つめていた。不安と悲しみの色があった。けれども、「……シンジがそう決めたのなら……」と少女は答えた。

きっとぼくが、いますぐここで服を脱げ、と命令しても、シンジがそう決めたのなら、と言って、従うんだろうな、とシンジは思った。ぼくがレイと一緒に布団に入ろうと、他の女の子とキスしようと、アスカを捨ててどこかへ行ってしまおうと「シンジがそう決めたのなら」って言うんだろう。
心細げな少女の表情を見ながら、シンジは、自分がさっきまで、誰と誰を天秤(てんびん)にかけていたかを悟った。
クスリによってぼくのことを愛するしかない少女と、ぼくを通してしか世界に触れることのできない瓶の中のホムンクルスと。
「……アスカ。これ飲んでみてよ」彼は、アスカに見えるようにカヲルがくれた瓶をかざしながら言った。
「でも、『惚れ薬』の効果は打ち消せないのは常識よ。そんなの、偽物か、ひょっとしたら毒かもしれないじゃない!」
シンジは、歩道の真ん中に立ち止まり、瓶の栓を取ると、アスカに止められる前にひとくち、口にふくむと、ごくんと飲み下した。
「これ、にがいや」シンジは言った。
「な、なんてことするの、吐き出して!」アスカはシンジの両手に手をかけて必死に言った。
「だいじょうぶだ、なんともないよ」シンジは答えた。
アスカは無理に笑顔を浮かべてみせるシンジをぼうぜんと見つめていた。
「ばかっ。なにかあったらどうするのっ。あなたにもしものことがあったら!」
「カヲルくんは、ぼくだけにはうそをついてない、って感じがするんだ。なんだか、ぼくに好意をもってるみたいな。だからこれも本物って気がするんだ」
「……あなたって人は!」アスカの瞳に映る少年の姿がにじんでぼやける。胸がどきどきしてくる。全身全霊が、「この人が好き」、と叫んでいるような気がした。
「飲んでみてくれる……?」シンジは言った。
「……わたしがシンジのこと好きなの、じゃま? ……うっとおしい?」
「そうじゃないんだ。……ちっともそうじゃない」シンジは再びあの雨の夜のことを思い出しているのだった。彼の下になって、潤んだ瞳で見上げている美しい女の子の姿を思い出したのだ。
「うまく言えないけど、このままだと、ぼくは駄目になってしまう気がするんだ。自分が、とんでもないろくでなしになるような気がするんだ。絶対、アスカを不幸にするような気がするんだ」
「……わたしは、不幸じゃないわ。そばにいてくれたら。どんなに変わっても……」
「だめだよ、それじゃ、だめなんだ……飲んでみてくれないかな?」
アスカは、立ち止まって、通り過ぎて行く車をながめるふりをした。涙がこぼれるのをこらえているようだった。彼女は人差し指で目の下をそっと押さえて涙を拭って、顔だけシンジの方を向き、「どうしても、飲まなきゃ……だめ?」と聞いた。
その仕草があまりにもかわいらしく、女らしかったので、シンジは思わず、飲まなくていいよ、と言いそうになった。
「たのむ。ぼくのために」
「……キスして」アスカは言った。
シンジはアスカの肩を抱いて、キスした。何人かの通行人が歩道で抱き合う彼らをしげしげと見ていった。
ふたつの唇がそっと離れて、それらをつないでいた銀色に輝く糸のようなものがふっと切れた。
「……好き。だれよりも大好き」アスカは言った。

アスカは薬を飲んだ。とたんに顔をしかめた。そしてシンジに茶色の瓶を突き出した。
「なによこれ! 苦いじゃない。――ほんとにもう。あたし、もう帰るわ!」
「気分はどうなの?」
アスカはシンジに背を向けて叫んだ。
「いいわけないじゃない! さっきまであんたなんかとキスしてたと思ったら、気持ちわるくなったわよ! 帰って、うがいしよ!」
そう言って家とは反対の方向へ歩き出した。
「家は反対だよ。そこを左に曲がるんだ」
「わかってんなら、さっさと言いなさい! あんた、トロイわよ」アスカは回れ右をして大股で歩きだす。
「ごめん」
「ふん」

シンジの五メートルも先を、すたすたと歩いていくアスカのあとをとぼとぼ歩きながら、碇シンジは、これでよかったんだ……よな? と思った。

アスカは先に家に着き、心配して家の外で待っているユイに報告した。
「そう、レイは『イアンナ』だったのね!」ユイは言った。
「知ってるの」
「ええ、シュメールの月神の娘。のちにバビロニアへ、イシュタル(金星)信仰として受け継がれた神……。あの水の怪物たちの行進の意味がわかるような気がするわ」
「え?」
「旧約聖書のノアの方(はこ)舟(ぶね)の元になった洪水伝説を生んだ、ユーフラテス川のほとりで生まれた神なのよ。そして神とは、意識されない魔力の集合体……」

シンジがそこに、ようやく帰って来た。彼はわざとゆっくりと歩いて帰ってきたのだった。アスカは、ぷいっと横を向き、さっさと子供部屋に上がって行った。

その真夜中、アスカは長い長い手紙を書き終えた。ペンを置くと、便せんに魔法をかけた。文字たちは変形し、留学生が本校に宛てた、何の変哲もないドイツ語の文章になる。
「とにかく義務は果たしたわ」彼女はつぶやいた。

アスカはうなされていた。薄暗い白い部屋。
アスカは幼女の姿になって、一日中椅子に座り何もない壁の一点を見つめている母親の手を握っていた。
部屋の真ん中に大きな男が立っていた。
『性によってわれわれは真の自己と出会うのだ』その男は言った。
「ばかぁ! ばかぁ! あんた、ばかぁ!」アスカは叫んだ。
『今は理解しなくてもよい、アスカ。これは世界のためなのだ』
「うそ、うそ、うそ、じぶんのためでしょ! このにせもの!」
その男は身体の節々から蒸気をプシューと吹き出しながら、アスカのほおを、ぱちんとたたいた。
そのとき視界のすみから、シンジがスローモーションで走ってくる。男とアスカの間に立ちはだかって、「逃げるんだ。ぼくが守ってあげる」と言った。
ばか。『惚れ薬』の効果は切れたのよ。あんたはレイを選んだんだわ。

目がさめた。夜が明けていた。顔がむずむずした。指で顔に触れてみる。ぬれていた。なぜ、泣いているんだろう、と思った。

手紙は三日後に宛先に届くことになる。
男はそれに魔法をかけて読み、しばらく考えていた。やがて秘書を呼び、日本行きの飛行機を予約しろ、と命令した。
その男はお忍びで日本へやって来ることになる。濃い緑色の神父のような服を着て、目にはメカニカルなサンバイザーを付けたその男は、どうみても秘密結社の首領のような怪しげな雰囲気を漂わせている。
空港で、機内で、人々が彼をじろじろ見るのだった。格好が怪しいせいもあるが、世界的な有名人でもあるからだ。
ヨーロッパ地域の『ウィザード』にして、ドイツにある魔法学の最高学府『魔法アカデミー』の学長である『ウィズ・ローレンツ』その人であった。